セカイ系への降服
私にセカイ系は書けない。断言する。諦めた、降参だ!
この結論に至った理由を話す前に、ここで私が使う「セカイ系」という言葉の意味について規定させてもらう。ここでは、セカイ系とは「"オトナ"が介在せず、小数の人物のみで展開される作品」とする。異論はあるだろうが、これが私のセカイ系に対する認識である。
ここで私はあえて“大人”ではなく“オトナ”という表記を用いたが、その理由については後述する。なお、断じてえっちぃ意味ではない。
セカイ系を論じる上で必ずと言っていいほど取り上げられるのが庵野秀明氏の「新世紀エヴァンゲリオン(以下:エヴァ)」である。私も中学一年生のときに再放送を視聴して熱狂したことを覚えている。この作品は色々な場所でセカイ系の始祖とされている。
確かに、エヴァには心理学的要素や受け身の主人公など、後のセカイ系作品群に共通する特徴を持っている。しかし、エヴァにはセカイ系作品にはない要素がある。それがオトナである。エヴァには葛城ミサトを始め、主人公の父碇ゲンドウ、ネルフやゼーレ、国連軍などの組織に所属するオトナが多数登場する。
もちろん、私がセカイ系に含める作品の中にも大人、すなわち成人や年上のキャラクターは登場する。だが彼らはエヴァに登場するオトナたちとは異なる。
私の妹が病的にハマっていたあるアニメには、主人公たちの所属する部活の顧問である女性教員が登場する。彼女は主人公たちの奇行に振り回されながらも、温かく見守っていた。また、妹がハマった別のアニメでは、異能力を持った主人公たちを監禁し、命の危険に晒す組織の構成員が登場した。
彼らの共通点は「一面的」であるという点である。前者の女性教員は主人公たちを全面的に肯定する存在としての役割しか与えられていない。よって彼女がそれ以外の目的を持って行動することはない。同様に、後者も主人公たちの障害という役目のみを与えられ、組織に所属している経緯や職業に対する意識などは全く描写されなかった。
つまり彼らには人格が認められていないのだ。もちろん、その全てを描写するのは脚本等様々な理由から不可能である。
一方、エヴァでは主人公たちを肯定するにしろ、その障害になるにしろ、人格を持ったオトナが数多く登場した。この人格を持っているということが、私が彼らを“オトナ”と呼ぶ理由である。彼らは主人公たちを全面的に肯定することはない。また、彼らに人間としての模範を示すこともなかった。皆人間として完成されておらず、幼稚で危うさを秘めており、リアルな人間味があった。それ故に大きな人とは表記せず、オトナと片仮名で表記するのだ。私個人としてはこの完成されていないというのがエヴァの重要なポイントなのだが、それは最後の方に述べることにする。
もう一つ、エヴァには他のセカイ系に存在しない点がある。それは主人公に課せられた社会的責任である。
エヴァでは主人公である碇シンジはエヴァンゲリオンに搭乗し使徒を殲滅するという社会的責任を与えられ、責任と欲求の間で葛藤する。しかし、セカイ系の作品群の登場人物、特に主人公は社会的責任からは解放された立場にあり、常にヒロインもしくは自身の欲求のために行動している。私の兄がハマったあるアニメでは、主人公たちが学校で教育を受けるという社会的責任を果たすと消滅してしまうという設定まで存在した。
セカイ系に対する考察の中でよく「セカイ系は社会を描写しない」と言われているが、社会が描かれる作品もある。私の意見からすると、描かれていないのは社会ではなく、主人公たちに課せられる社会的責任である。
以上の点から、エヴァは私の規定するセカイ系とは言えない。ではエヴァはどのような作品なのだろうか?この点についても最後に述べよう。
なぜセカイ系の作品群では人格を持ったオトナが登場せず、主人公に社会的責任が与えられていないのか?それは物語の主軸が人間関係にあるからだと私は考えている。
「ボクとキミとセカイ」と形容されるように、セカイ系作品では主人公とヒロインの恋愛が主題となっている。恋愛以外にも、周囲の人物との交流や談笑がテーマとなっていることも多い。その際に障害となるのがオトナと社会的責任である。
オトナたちの過去や内面を描くことにより、脚本などの面で主人公たちの恋愛や交友の描写が圧迫されてしまう。また、主人公たちが社会的責任を与えられていたら、恋愛や交友関係に支障が生じてしまう。碇シンジが責任と欲求の間で葛藤することは前述したが、セカイ系の登場人物は葛藤すらせず、責任を与えられていないため欲求が実現しないことについて憤るのである。
セカイ系が限られた人物のみで物語が展開し、その他の人物に人格が与えられていないのも、主人公たちの人間関係を描写するために社会を徹底的に単純化しているためである。
ここで再びセカイ系を再規定してみると、セカイ系とは「少数の人物の人間関係を主題とした作品」と言えるのかもしれない。しかも、その人間関係とは、ヒューマンドラマのようなリアリティを持ったものではなく、ふわふわとした曖昧なもので、何処か現実味に欠けている。そして、ヒロインとの恋愛や友人たちとの幸福な日常など、ある種理想的な人間関係がそこにはあるのである。
恐らく、このような作品が受け入れられているのも、現実世界での人間関係に対してマイナスな感情を抱いている人が多いからであろう。別に、私はそれを糾弾したい訳ではない。そのような世界観に浸ることが精神的な救いになることは事実である。
しかし、この「現実を忘れるために作品を鑑賞する」という態度が常に適切であるとは限らない。セカイ系や日常系とは違う趣旨で制作された作品を鑑賞する場合、読者もしくは視聴者はこの態度を改める必要がある。
少し話はそれるかもしれないが、近年のロボットを扱った作品に登場するロボットのデザインは、あまり私の好みには合わない。みな典型的なロボットとは一線を画す「独創的な」フォルムをしている。女性を無機質にしたようなものから、どう見てもバランスが悪いデザインのものなどさまざまであるが、イマイチ私はカッコいいとは思えない。これは、ロボットを登場させてはいるものの、重視されているのはロボットの戦闘ではなく、パイロットたちの人間関係だからと私は考えている。
一方、私がロボットのデザインがカッコいいと思った作品に「アルドノア・ゼロ」と「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」がある。しかし、この二つはストーリーの面であまり評価されていない。その理由が、視聴者が登場人物たちの人間関係に着目していたからだからと私は考えている。確かに、どちらの作品も、あまり理想的な人間関係が描かれていたとは言えない。それはこれらの作品の主題はあくまで「戦争の終結」や「権力への抵抗」であり、人間関係には重きが置かれていないからだ。むしろ、政治的駆け引きや、緻密な戦闘シーンが強調されていたとも思える。
これらの作品を鑑賞するには理想的な人間関係が重視されているわけではないということを念頭において、戦闘シーンや政治的な駆け引きなど他の要素を楽しむことをお勧めする。
では、何故エヴァには不完全なオトナが登場するのか?セカイ系でないとしたら何なのか?ようやくそれを述べることにしよう。
一言で言うと、エヴァが描こうとしていたのは人間関係ではなく、人間の「弱さ」であると私は考えている。そして恐らく、庵野氏はこれらの要素を富野由悠季氏の「機動戦士ガンダム」と「伝説巨人イデオン」から引き継いでいると思われる。
エヴァに登場するオトナたちは弱くて不完全な個人として描かれていた。それはシンジのような子供たちも同じで、登場人物全員が欠けた要素を持っている。それを補うために人類補完計画が用意され、結果シンジとアスカを残す全ての人類が死滅するという衝撃的な結末を迎える。心理学的な要素や、登場人物のモノローグなどが導入されたのも、登場人物の内包する弱さを表現するためだったのだ。
ガンダムでもイデオンでも、人間は不完全で弱い存在として描かれていた。それはガンダムの最終回でセイラ・マスが放った「人間がそんなに便利になれる訳ない」という言葉によく表れている。庵野氏はそのテーマを独自のスタイルでより強調して描こうとしたのだ。
だから、エヴァはセカイ系ではない。弱くて不完全な人間をリアルに描写し、それをSF的な要素と絡めて物語を作ろうとした「SFヒューマンドラマ」なのである。
では、なぜエヴァはセカイ系の始祖と言われているのか?
それは、セカイ系を生み出したクリエイターたちが注目したのが、シンジと綾波やアスカの人間関係だったからだ。世界の危機に直面した少年少女が恋愛をするという部分のみを抽出したのである。つまり、セカイ系は「エヴァを簡略化したもの」と言うことできるのである。
最後に、以上を踏まえて私がセカイ系を書けない理由を述べよう。それは主に二つある。
一つ目は、どうしてもオトナを登場させないと落ち着かないからである。私は常々自分が甘えん坊であることを自覚している。不完全ではあるが、自分よりも人生経験を積んでおり、社会的責任が与えられている人物に対して安心を覚えるのである。それは彼らが「不自由」だからだと考えている。彼らは社会的責任を与えられているため、自由に動けない。すなわち、ある程度行動の予測がつくのである。一方、同年代の若者は、社会的責任が軽いため何をするか解らない。それが不安を感じさせるのである。その為、主人公たちだけで物語が展開するよりは、曲がりなりにも模範を示そうとするぶきっちょなオトナが登場した方が安心して物語を進めることができるのである。
二つ目は、人間関係よりも政治的な駆け引きを描く方が楽しく感じられるからである。私は小学生のころから沖縄の基地問題など、政治的な話題に興味をもっていた。私は自らの作品にそういった政治的なメッセージを込めることが多い。そんなとき、人間関係の描写よりも、社会情勢の描写を重視するのである。
以上の二つをふまえて、セカイ系のようなものを最後に書こうと思う。そこには社会的責任を帯びた不完全なオトナが登場し、ぶきっちょながらも子供たちに模範をしめそうとします。ではどうぞ・・・
主人公「ボクはキミを救いたい!世界なんてどうだっていい!」
おっさんA「そうだ、行け主人公!好きな女なんだろ!?抱き方なら俺が教えてやるからさ!」
おっさんB「嫁に逃げられたお前に教えられるのか?」
おっさんA「うるせぇなぁB!だまって支援しろ!」
おっさんB「りょーかい!」
友人「主人公くん、君はヒロインを救うんだ!ここは僕たちに任せて!」
おっさんA・B・友人「行けええぇ、主人公おぉっ!」
ほら、おっさんたちが世界をほっぽりだした主人公を全力で支援して、主人公はヒロインを、おっさんたちは世界を救うという展開になってしまった。
だから私には、セカイ系は書けない。