表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

らはさわやなかまたあ

 マンションのある部屋に住む男が、虚ろな目で壁にもたれかかっていた。痩せこけた頬や生え散らかした髭が実年齢よりも幾分か老けた印象を与えるが、実際には二十歳そこそこの青年である。

(地元の国立大学を出た青年は、県内の中企業に就職するや否や大きな失敗を幾つも犯してしまい、時には解雇寸前になることさえあった。それで、先程までは募りに募った負の感情を泣き喚いたりソファを蹴ったり赤子の如く爆発させていたが、やがてそれも虚しくなり、いまは自室の壁にもたれ掛かり放心している、というわけであった。)

 青年は、手前のテーブルの上に置かれたペン入れからカッターナイフがはみ出しているのを見て、思った。

 ――このまま死んでしまえば、楽かもしれない。まさかこんな所に助けが来るわけでもあるまいし、ここで思い切って頸動脈を切ってしまえば、そう待たない間に死んでしまえるだろう。何も成し遂げないままこの世を去るのはいささか寂しい気もするが、実際、今の自分は小指の先程の幸運すら望めない状況なのだ。それに、死ぬときには、生きている間に経験した「幸」と「不幸」の比率のうち、「幸」の占める割合が多い方が幸せだ。自分がこれから経験するのは「不幸」ばかりであろうから、このまま生きていると、どんどん「不幸」の占める割合が増えてしまう。論理的に考えても、やはり今のうちに死んでしまうのが良いだろう。

 一度そう思うと、青年にはそれがもっともらしい考えであるような気がしてきて、(こんなときだけは行動が早いようで、)青年はそのまま躊躇いもせず手前のカッターナイフに手を伸ばし、それをおもむろに自らの首にあてた。それから、深呼吸をし、目を閉じ、過去の幸福な思い出を可能な限り想起し、カッターナイフに力を込め、頸動脈を切り、青年は死んだ。

 ……いや、死ななかった。死にそびれたと言った方が的確かも知れない。頸動脈を切ろうとしたとき、ある邪魔が入ったために、死にそびれたのであった。


「死ぬ前に、少しだけお話しませんか?」


 青年は、その声に虚をつかれ、身震いした。

 自分のすぐ正面から、女の声が聴こえたのだった。この部屋には自分以外誰もいないはずなのに。

「なにか嫌なことでもあったんですか?」

  青年があれこれ考える間もなく、また声がした。そしてほとんど間を置かず、

「なにか嫌なことでもあったんですか?」

  と同じ言葉が繰り返された。

「なにか嫌なことでもあったんですか?……って、無視しないで下さい、聴こえてるのは分かってますから。とりあえずなにか反応して下さい、お願いですから」

 青年はしばらく地面を見つめ静止していたが、このまま無視をし続けるのは流石に無理があると思い、肝を潰すような覚悟で顔を上げた。

「……あ、聴こえてたんですね」

 そこには一人の少女が立っていた。



 その後、少し落ち着いた青年は、少女に自己紹介をされた。

「わたし、幽霊なんです」

 どうやら、少女は幽霊らしい。

 青年は少し考えてから、言った。

「……いったい、なんの冗談だ?」

「え?あ、冗談じゃなく、そのままの意味でわたしは幽霊です」

「幽霊って、あの?」

「はい、あの」

 勿論、そんな突飛なことを言われたところで、信じるわけがなかった。青年はそれを単純に、面白くない言い訳だと思った。

「……まあいいや。それより君は、住居不法侵入って言葉を知らないの?」

「もちろん知ってますけど、幽霊のわたしにはもう関係ありませんからね」

「もういいよそれは」

「……わたし、本当に幽霊ですよ?」

 これでは埒が明かないと思い、青年は、「じゃあ、仮に君が幽霊だとして、何故ぼくは君の姿が視えるんだ?」と訊いた。

 少女はきっと、口篭るか、またつまらない冗談を言うだろうと思った。

 ――しかしそこで少女が口にしたのは、意外な答えだった。

「あなたの心が病んでいるからです」

 当然その理屈を飲み込めなかった青年は、

「……どうして心を病んでいると君の姿が視えるんだ?」

 とまた訊いた。

「そんなことまでわたしに分かるわけないじゃないですか、科学者でもないのに。……あ、そうだ、わたしは死んでいて、あなたの精神も死んでいて、ってことで、『死んでる同士』だからとか?まぁでたらめですけど」

「……そう」

「なんか反応悪いですね、せめて『なるほど』くらい言って欲しいです」

「なるほど」

「おお、その調子その調子」

 どうせすぐに死ぬのだ。青年は、ひとまず現実的なことを忘れ、最期の余興でこの少女の相手をするのも悪くないと思った。

「なにか、君が幽霊であることを証明する方法はないの?」

「それなら簡単です。ほら、わたしの腕、ちょっと透けてるでしょう?」

 青年の目の前に差し出された少女の細腕は、確かに、よく見ると、ほんの少しだけ透けていた。そしてそんな非現実的な光景を目にした青年は、そのとき心の中で、たぶん夢だな、と呟いた。

 ……どうせ夢なら、そう肩肘張る必要はない。気楽に行こう、と思った。

「これで信じてくれますか?」

「まぁ、一応信じようかな」

「いえーい」

 少女は両腕をだるんと上げることで喜びを表現し、それから、思い出したように言った。

「そう言えば、あなた自殺しようとしてましたけど、なにか嫌なことでもあったんですか?」

「……しつこいね、それもう四回目だよ。まぁ、最近は嫌なことしかない」

「例えばどんな嫌なことが?」

  少女はそう言ったあと、青年が少し黙り込んだのをみて、慌てたように「いや、言いたくないならわざわざ言わなくても良いですけどね。何か話題を、と思っただけで、実際そこまで興味ありませんし」と付け加えた。

「いや、別に言ってもいいんだけどさ。ただ、嫌なことの例を挙げようにも、どこから説明すればいいのか分からなくて」

「なら、嫌だった部分だけ言ってくれればいいです。誰々に何々って言われたから殺してやりたいと思った、とか」

「そんなんでいいの?」

「はい」

「……じゃあ、仕事で大失敗をやらかした自分にむかついて、死ねばいいと思った」

「……なんか面白くないですね」

「ほら……」

 結局青年は、これまでの経緯を小学生時代にまで遡って語り始めたが、少女はほとんど話を聞き流しており、それに気付いた青年は一旦語るのを止め、「聞いてるの?」と少女に確認した。少女は「聞いてますよ」と素っ気なく返したが、ぼんやりとした視線はあからさまに聞いていない様子だった。

「……あ、失礼致しました。いつの間にか、あなたと会話していることを忘れていましたよ。そう言えば、あなたにはわたしの姿が視えるんでしたね。わたし、ここ十五年くらいは一人でしたから、人と関わらないことが当たり前になっていて……すみません」

「いや謝ることはない」

「……それにしても十五年ぶりかあ。そう思うと、改めて出会えたことが嬉しいです」

  少女がそう言って微笑んだのを見て、思わず青年まで「こんなに話したのは自分も久しぶりだな」と微笑んでいた。

「あ、いま初めて笑いましたね。ちょっと、もう一度笑ってみてください。笑ってるときの顔が一番かっこいいですよ!」

 しばらくの間青年は必死で済まし顔を装ったが、内心、幾年ぶりに人に褒められたことが思いのほか嬉しく、ついには堪えきれず笑い出してしまった。

「……ふふ、うはははははっ!」

「そうそう、それですそれです!」



 ……実はこのときから、青年は少女の姿が視えなくなった。辛うじて声を聴くことが出来るのみだった。

青年は、少女との会話のせいで、(所詮そんなものは、青年の一時的な錯覚に過ぎないのだが、)病んだ心をほとんど癒してしまったというわけだ。

 青年は思い出した。

 少女は幽霊で、「心を病んだ人間」にしか視えないことを。

 人生の「幸」と「不幸」の比率のうち、「幸」が多いうちに死ぬべきであると考えたことを。

 そして、これは夢であるかも知れないことを。


 しばらく他愛のない会話を続けていると、やがて、少女の声は聴こえなくなってしまった。

それから少しして、青年は宙に向かって語りかけた。

「唯一の夢だったんだ、幸せな最期を迎えることが。終わり良ければ全てよしってね。幸せな今のうちに死んでしまえば、全てよしとまでは言えないにしても、とりあえず僕の勝ち逃げだ。ありがとう。おかげで幸せに死ねそうだ」

 そして青年は、壁にもたれかかり、目を閉じ、深呼吸をし、少女のことを可能な限り想起し、そうして、今度こそ、カッターナイフに力を込め、自らの頸動脈を切った。

 その瞬間、青年の背後の壁は鮮やかな赤色に染まり、青年はその場に倒れ込んだ。

  ……青年の遺体は、微笑をたたえていた。だが、取り残された少女は、青年の死をひどく悲しんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ