銀の花嫁 7
コクトーの中心部から離れ、家がまばらになった辺りで、リィラはそっとレスを呼んだ。遠くまで聞こえるような声ではなかった。けれどリィラは確信していた。レスには聞こえると。
そのまま歩いて、いよいよ集落を出た。太陽は、すっかり岩山の向こうに姿を消していた。
それでもまだ茜色の余韻が残る空の下、柔らかに大地を蹴る音がして、リィラの前に黒い大きな獣が現れた。
「呼んだだろ?」
と、レスは言った。
リィラは、
「乗せていってくれる?」
とレスに近づいた。
「どこまで?」
「ロゼンダ」
「そりゃまた、遠いな」
「半月で、帰ってこなきゃならないの」
努めて明るく言うリィラに、
「きついな」
と答えながらも、レスは嫌な顔を見せない。
「経緯は、道々話すわ」
リィラは、レスの背中に飛び乗った。
背中の重みを確認すると、獣は、東を目指して走り出す。
館に父を残してきたことを、リィラは決して忘れてはいなかった。半月で帰らなければ、アロウの身の保証はないだろう。
穏やかでいて、その実、狡猾そうなガナの顔が浮かんだ。あんまり信頼できそうな相手ではなかったが、期限まではどうでもおとなしくしていてくれることを願うしかない。
「リィラ、飛ばすぞ」
レスが言って、リィラは獣の背にしがみついた。
黒と銀の風は、一路東へと向かった。
ガナや周囲の者は館に泊まるよう勧めたが、酔っ払ったギルナは聞き入れなかった。すっかり夜も更けたころ、千鳥足で館から通り三つ離れた自分の屋敷に戻って行った。
ギルナが屋敷に着くと、男が彼を待っていた。男は屋敷の召使いたちを皆下がらせ、一人でギルナを出迎えた。
「時折、川の側で見かけるという、例の獣はどうなった?」
玄関の戸を閉めた途端に、しっかりとした足取りに戻ったギルナが、傍らに控える男に言った。
「銀の娘と合流して、東に向かった模様です」
と、男は答えた。彼の皮の胸当てと腰に剣を穿く姿は、兵の略装だった。
「……なるほど、黒い獣とは、ガナにも私にも目立つ目印を残していってくれるものだ」
薄暗い廊下を歩きながら、ギルナは呟いた。男は数歩下がって、ギルナの後をついていく。
廊下の突き当りは壁になっていて、ちょうど大人の男の目の高さに小さな絵が掛かっていた。絵はかなり古いもので、若い母親が赤ん坊をあやしている姿が描かれている。これを目にする度、ギルナは自らの皮肉の才に満足するのだった。
ギルナは、命令するために男に向き直った。
「ソル。娘と獣から、目を離すな」
ソルと呼ばれた男は、唇の端を上げて僅かに頷いて見せ、
「ですが、川番の連中から人数を割くわけにも……」
と、上目遣いにギルナを見た。
「金は厭わん。何のための権限だ」
ギルナは鼻の付け根に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
「はい。不肖ソルめが川番係になれましたのも、ギルナ様のおかげ」
「もうよい、行け」
ギルナは、しゃべり過ぎる部下を黙らせた。
一礼して退出しかけたソルだったが、立ち止まり、
「しかし、『雨』に私どもで敵うものでしょうか?」
と尋ねた。今度の質問はギルナの気を良くさせたようで、
「心配するな。サフィア様がついておられる」
そう言ってほくそ笑み、足下を見た。
ソルが去った後、ギルナは壁の絵を外し、絵の後ろにあった把手を引いた。すると、壁の手前の足下にぽっかりと穴が開き、地下へ通じる階段が現れた。
ギルナは、手近の廊下の燭台を手に取り、ゆっくりと階段を下って行った。