銀の花嫁 4
リィラは、歩きにくい裾をさばき部屋の中央まで戻ると、先刻まで父が座っていた椅子に腰を下ろした。ドレスが皺になるかと思ったが、
「構わないか、私の出費じゃなし」
わざと声に出して言って座ったのだった。
そして、
「レス。今のところ、大丈夫そう。ガナは、それほど不細工じゃなかったし」
と独り言ちた。リィラは、生理的に受け付けない容姿であるとか、余程気に食わない奴なら、新領主といえども張り倒して逃げてやろうと思っていたのだ。
剣士アロウの娘である。辺境に追いやられた悔しさも手伝って、リィラは戦うための腕を磨いていた。父はあまりいい顔をしなかったが、そんなことはお構いなしだった。食べるために荒れた土地を耕し、作物を育て、狩りをする、そんなぎりぎりの生活の中でも、時間を見つけては剣の稽古もした。本物の剣があるわけでもなく、専ら木切れや石での鍛錬ではあったが。
慣れない館の豪奢な部屋で、いつもと違う姿を纏い一人でいる、そんな自分をなんとか鼓舞しようとしていたリィラだった。
その時。
風が、笑った。
滅多に吹くことのない風が、ふっと窓から入ってきて、くすくす笑うかのように部屋を駆けた。
「誰っ?!」
リィラは、立ち上がって誰何した。
人の気配がする。とっさに窓の方に向き直り、リィラは椅子の後ろに回った。
窓枠に手を掛けて、ぼんやりとした人影が入ってきた。リィラが目を凝らすと、人影は、背の高い青年を形作る。彼は、紫に煙る髪をなびかせ、
「この姿に気づく奴は、そういないのだが」
と、紫の瞳を細めて、物珍しそうに彼女を見つめている。あまりに整った顔立ちは、なんだか造りものめいていたが、それでも彼の瞳の紫の奥に見える力は圧倒的な強さで息づいていた。
リィラは、ここが二階であったことを思い出し、
「壁にへばりつくのが、お好きなようね」
と辛辣に言った。
「浮かぶのが得意なのさ」
闖入者は、そう言ってふわりと空中に浮かんだ。花嫁の控室に断りもなく入り込んだ怪しげな男。この状況で、彼に向って冷静に皮肉を言うリィラの反応を明らかに楽しんでいる。
リィラは、椅子の背をしっかり掴んで、彼に見入っていた。
彼の周りだけ、風が吹いている。少女の頃の、遠い記憶が重なる。
紫の……。
「……シルヴァ。シルヴァね!」
リィラは半ば叫ぶように言って、椅子の後ろから飛び出した。
「あなたって、いつも遅いのよ。でも、今なら……」
「いつも?」
言いかけたリィラを遮って、彼は聞き返す。
「もう覚えていないかもしれないけど、前にも会ったの。かあさんのために、虹をかけてくれたでしょう?」
リィラは、気が急いたことを恥じるように説明した。
「いや……」
シルヴァは、彼女を覚えていた。初めて彼を真っ直ぐに見つめた、珍しい銀の髪と青い瞳を持つ少女。
けれど、リィラは、その出会いを都合よく解釈していた。シルヴァが雨を降らせたのは、それが彼の義務だからであって、彼女の母の死を悼むためではなかった。
「三日でいいの。雨を降らせて。そうすれば、私は……」
嫁がなくて済む。リィラは、彼が救けてくれると思い込んでいた。今、この時に、彼がここに現れたことがなによりの証だと。
「私は、雨の施し屋ではない」
シルヴァの声は、堅く冷たかった。
「でも」
リィラは食い下がった。
「偉大なる契約者、紫の主。私の状況を、知っているんでしょう?」
「もちろん」
彼はそっけなく答えた。
「だったら」
シルヴァは、リィラを見下ろし、冷たく言い放った。
「私に、お前を救ける義理があるのか?」
リィラにとって、彼との出会いは優しい思い出だった。けれどそれは、再会によって木端微塵に砕かれようとしている。
「しばらく見ない間に、ずいぶん性格悪くなったのね」
リィラは、両手をぎゅっと握りしめ、威勢を張った。
シルヴァは苦笑して、
「随分な言われようだな」
と言った。
「コクトーの領主が、そう不細工じゃない、私は性格が悪い、か。そういうお前は、口が悪い。……生憎だが、雨を降らすことはできない。この姿ではな」
今度の言葉は、少し柔らかくなっていた。シルヴァは、リィラの虚勢を見抜いている。
「……この姿って、なんなの?」
リィラは、訝しげに問うた。彼に口が悪いと断じられても、不思議と腹は立たなかった。
「触ってみるがいい」
シルヴァは、リィラの前に一方の腕を突き出した。
リィラがためらいもなくその腕を掴もうとすると、彼女の手は、ただ空を切った。
「実体ではない」
シルヴァは言った。
「だから、よく気づいたなと言ったんだ」
実体でなく、これだけの会話をすることができる。彼は、その目で見、耳で聞き、身体と離れた場所の情報を知ることができるのだ。シルヴァは、コクトー領主の代替わりによる情勢を知るため、影を飛ばしていたのだった。
「じゃあ、あなたは、どこにいるの?」
「今は、ロゼンダだ。飽きれば、他へ行く」
シルヴァの答えに、リィラは、
「遠いな」
とこぼした。彼の力でもってすれば、一飛びなのだろうけれど。
「雨が欲しければ」
シルヴァは、銀の髪の娘を見据えた。
「迎えに来い」
リィラは驚いて、彼を見上げた。絡む視線が火花を上げる。
シルヴァの影は不敵に笑って身を翻し、そして消えた。