銀の花嫁 2
「リィラ」
悔しげな娘の表情を見て取って、立ち上がったアロウの声には宥めるような響きがあった。
「館から使いが来た」
リィラは顔を上げ、父の紫の瞳を見つめた。その色は、幼い頃に出会った雨を呼ぶ少年を思い起こさせる。
「オスマ様が亡くなられた。ガナ様が後を継がれるそうだ」
かつて仕えていた領主の死を、父は淡々と語った。彼をこんな辺境に追いやったのも、他でもない故人だったが、父は恨みがましい気持ちも感じさせない。
「それで? 恩赦でも出るっていうの?」
皮肉半分期待半分で、リィラは言った。
彼らが、コクトーの中心を追われたのは、水盗人としての責めだった。
数えて九年前になる。
リィラの母が病で伏せっていた。渇きが絶え間なく襲う熱病で、割り当てられた水では到底足りなかった。アロウは、何度も何度も領主に懇願した。けれど、折からの水不足で領主は頑として彼の願いを跳ね除けた。
思い余ったアロウは、妻のために川へ走った。だが、川番に見つかり捉えられて投獄された。彼には、ただ任務を全うしようとしているだけの同郷の民に向かって剣を振るうことはできなかった。
残された幼い娘と病気の母親は、川に対する権利を剥奪され、コクトーの外れに追放された。アロウが二年の刑を終えて娘のもとへ帰った時、妻はとうに土に帰っていた。
「恩赦か。ある意味では、そうかもしれんな」
アロウは苦く呟いた。そうして、
「銀の娘を花嫁に、との申し入れだ。花嫁の父は、館で幸福な余生を約束されるのだそうだ」
と続けた。
リィラは、青の瞳を見開いた。
じっとしていたレスも、アロウの言葉を聞いて立ち上がっている。
「で? なんて返事したの?」
剣呑になる心を抑えつつ、リィラは聞いた。死んだコクトーの領主にはいい感情を持っていない。父のしたことは確かに掟破りだったかもしれないが、十分な手当てもされず、幼い娘の行く末を案じながら死んでいった母を思えば、リィラが領主の仕打ちを恨んでいたとしても仕方のないことだろう。代替わりしたとはいえ、領主という括りで考えてしまうし、まして見ず知らずの男のもとへ嫁ぐ謂れもない。
珍しい銀の髪を持つ娘。アロウは、リィラの問いには答えずに、
「母さんが死んだ後、私が帰るまでの間、お前の面倒を見てくれたのは誰だった?」
と尋ね返した。
「……治水顧問官の、ザラさん」
リィラは、渋々答えた。
この大陸では、雨が降るということがないので、川が暴れるということもない。治水顧問官というのは名目上の地位で、領主の愚痴を聞くだけの閑職である。そのザラが、たった一人辺境で父を待つ少女に、食料や衣服を持ってきてくれたのだった。確かに、彼の援助がなければ、幼い少女がこんな不毛の土地で二年を生き抜くことはできなかっただろう。
「そのザラが、使いとして来たんだ。無碍に断るわけにもいくまい」
と父親は言った。
今にして思えば、ザラは最初からそのつもりでリィラの面倒を見たのかもしれない。ザラの施しにすがるしかなかったリィラだったが、ただ親切でしてくれているとはずっと思えなかったのだった。
母のイリーナは、コクトーでも評判の美人だった。アロウもなかなかの美丈夫で、その二人の娘である。幼いころから将来はさぞやと褒められたものだった。そして何より、その銀の髪。銀の花嫁は、幸福をもたらす。コクトーの古い伝承である。ザラは、リィラに恩を売ることで、将来の報奨を計算していたかもしれなかった。
髪の色を除けば、死んだ妻に生き写しの、美しい娘に成長したわが子を見つめながら、アロウは言った。
「断れば、コクトーの民としての地位を奪うとまで言ってきた」
「そんなもの! とっくの昔に……」
奪われているも同然とリィラが激しく首を振ると、
「その時は、今まで与えたものをすべて返せ、と。ざっと推し量って、水八万ダカールだそうだ」
アロウは吐き捨てるように言った。
「無茶だ……」
レスの絞り出すような声が聞こえた。
八万ダカールの水。コクトー一帯を覆い尽くすほどの土砂降りの雨が降ったとしても、時間がかかるだろう。それにおそらく、コクトーを流れる川の水や井戸は一切勘定に入れられない。
「出て行こうよ」
リィラは言った。
「ここでやってこれたんだから、どこか、他所へ行っても十分生きていけるわ。ね、とうさん?」
「二人くらい、乗せて走れるぞ?」
と、レスもリィラに賛同する。
だが、アロウはゆっくりと首を振った。
「今度は、水八万ダカールの水泥棒だ。ガナ様は、四方八方の領主達に使いを送るだろう。どこの土地に行っても、受け入れてもらえない」
リィラは唇を噛んだ。弱気になってしまった父親に。切り開こうと思わなければ、できる道もできないではないか。
「わかった。じゃあ、結論は、一つね」
努めて明るく、言う。
「リィラ……」
レスの抗議の声を聞き、リィラはくるりとレスに向き直った。少し膝を曲げ、両手で黒い獣の顔を挟む。
「どうしても、嫌な奴だったら。救けに来てよね、レス」
口調はおどけて見せていたが、青い瞳は真摯だった。
「わかった」
これもレスは、本気で請け負ったのだった。