銀の花嫁 1
川が歌っている。岩場の間を流れる清涼な水は、戯れるように渦を巻きながら、下流へと落ちていく。
川面から突き出た石の上に腰を下ろして、素足を水に遊ばせている娘がいた。
すらりと伸びた手足、肌は透き通るように白いが、同時に血の通った生命力に溢れている。肩から背中へ静かに流れ落ちる滝のような細くきらめく銀の髪。瞳は、深い青。整った顔立ちのわりに、冷たい感じがしないのは、彼女のうちにあるもののせいだろうか。
この辺りは、岩場が多く人気もない。集落の川の流れを川上にたどって、人の足なら半日あまりのところだった。
「リィラ」
低く抑えた声がした。呼ばれて娘が振り向くと、川の畔の岩陰に黒い獣が見えた。
「そろそろ見回りが来る時間だ」
と獣は言った。
犬によく似たこの獣は、牛のような体躯をして、全身真っ黒の毛で覆われている。人語を解し、変身能力を持つというヴァン族の生き残りだった。
リィラは川の浅いところを数歩で渡り、岸に放り出していた編み上げ靴を拾い上げた。
「髪、濡れてるぞ?」
獣は、黒い毛の中に埋もれた瞳に穏やかな光を浮かべていた。
リィラは、慌てて背中に手を当てた。少し首を傾けて、長い髪を体の前に持ってくる。肩下半分くらいが、ぐっしょり濡れていた。
「やだ、とうさんに見つかっちゃうじゃない!」
リィラは獣に恨みがましい視線を浴びせた。注意してくれてもいいのに。
「走るうち、乾くだろ」
獣の声は少し笑っていた。
その時、和やかだった獣が、突然身体に緊張を走らせた。まだ、遠い。けれど複数の足音を、獣は感じ取っていた。
「レス?」
リィラは、獣の名を呼んだ。
「しっ」
レスは背に乗れと前足で合図した。
リィラは靴を持ったまま、ひらりとレスの背中に飛び乗った。
レスは背中の重みを確認すると、岩場を縫って走り始めた。足には自信があった。駿馬にも引けは取らない。だが、見つからないにこしたことはない。川番たちは、大事な水源に近づくものを容赦しなかったから。
畑を囲った柵に腰かけ、だらりと両手を垂らして、ぼんやり前を見ている男がいた。彼の目の前には粗末な小屋があったが、彼がそれを視界に入れているようには見えなかった。
まだ壮年の引き締まった身体つきと、表情のない顔、すっかり真っ白になってしまった髪が、ちぐはぐな印象を与える。
川から戻ったリィラは、畑の向こうに父親を見つけた。レスの背から降りて、獣と一緒に痩せた畑の周りをたどっていく。
乾いた大地に育つのは、生きていくのにぎりぎりの作物だけ。それでも、川から水を引くことを許された集落の辺りは、まだ豊かだった。リィラと父親が住むのは、コクトー地方の外れ、最も川から離れた土地である。頼りは、小屋の裏手にある小さな井戸ばかりなのだ。
「とうさん?」
リィラは、ぼんやりしている父親に声をかけた。
アロウは白い頭を上げ、やっと娘と彼女に寄り添う黒い獣を見た。
「また川へ行ったな」
と、彼は渋い顔をした。
「ごめんなさい」
リィラは、素直に謝った。
レスは、リィラの傍らに、ちょうどお座りの格好で長くふさふさした尻尾を地面につけていた。
川は、民のもの。久しく雨の降らない世界で、唯一、天の恵みを運んできてくれる流れは貴重だ。領主の許可なしには、何人たりとも勝手に近づいてはならない場所なのだった。
リィラは、そっと背中の髪に触れてみた。すっかり乾いている。アロウは、リィラとレスがまだ微かに身に纏っている水の匂いで、彼らが川に行ったことを悟ったのだ。
こんな時、表には出さないけれど、リィラはなんだか泣きたくなる。
かつて、コクトーにその人在りと騒がれた剣士アロウが、ここにいる。川を守り、水を廻る領土争いを治めて走った彼の能力は、まだ生きている。それなのに。彼がこんなところで、やっと日々の糧を得る暮らしを細々と続けて、もう何年になるのか。