灰朱の城 4
気球に乗っていた三人は、まだ遠かった城が突然彼らの目の前に現れたのに目を剥かんばかりである。
「カーマの大使殿はどちらか」
シルヴァが問うと、気球の中で一番太った男が片手を上げた。男は、シルヴァの紫紺の髪を見て気を取り直した様子で、
「カーマの宰相ハラシン、紫の主殿にお願いがあり、参上した」
と大音声を上げた。
「シルヴァ殿は、もう二年もロゼンダに留まり、他の地を顧みようとされぬ。これは一体どういう次第か」
「シルヴァ殿がどこにいようと、彼の自由だ」
リクロットがシルヴァの後ろから口を挟んだ。
ハラシンは、薄くなった黒髪を撫でつけ、口元の髭を震わせた。
「そういう貴公はどちらか」
普通に話して届かぬ距離でもないのに、やはり大声で言う。
「ロゼンダ領主リクロットだ」
リクロットは少し前に出て堂々と言ったが、まだ少年のような彼は、腹の出たカーマの大使に体格負けしていた。
「では、ブリード殿を継がれたのは貴公か。ロゼンダは、もう青々としているではないか。そろそろ、雨を譲られてはいかがか」
ハラシンは、平べったい鼻を膨らまし、言い分を述べた。
「ハラシン殿」
シルヴァが、顔に微笑みを張り付けて言った。
「私は、譲られるものではありませんが」
シルヴァを「雨」と物扱いしてしまったのは、ハラシンの失策だった。シルヴァから漂う威圧感に、いったんは口を噤んだハラシンだったが、
「紫の主には、各地を滞りなく潤す義務がおありだろう」
と、切り口を変えてきた。
「私がどこにいようと」
シルヴァは、笑みを絶やさない。
「どこかの地が渇水で苦しんでいるとか、凶作続きで飢えているとか、そういうことがありましたか」
シルヴァは時に応じて影を飛ばし、各地の情報を絶やさない。そして必要に応じて、ロゼンダ城を留守にし、雨を降らせに赴くこともある。義務をないがしろにしているように言われるのは心外だった。
「カーマでは、シルヴァ殿に一層お勤めに励んでいただけるよう、大勢の美姫たちが、シルヴァ殿のお越しをお待ちしております」
慌てたハラシンが追従するように唇の端を上げて笑う。
するとシルヴァは、
「そこの二人」
と、ハラシンの後に控えている兵士らしき二人に言った。
「美姫というのは、本当か?」
「本当に美しいのかと聞いている」
「はっ、それはもう」
ハラシンに睨まれながら紫の主のカーマ訪問は自分たちの答えにかかっていることを感じた彼らは、声をそろえて言った。
「そうか。それなら、お前たちにくれてやる」
シルヴァはそう言って、また風に何事か囁いた。
「……シ、シルヴァ殿!!」
ハラシンの大声と共に突然巻き起こった竜巻は、あっという間に気球を攫って空の彼方に消えていった。
何事もなかったように、シルヴァは部屋に戻り、バルコニーの扉を閉めた。
ほっとした表情のロゼンダ城主が、彼に歩み寄った。
シルヴァはリクロットを無視して再びテーブルに着くと、
「まだ、ここにいると言ったはずだ」
と言った。
リクロットと従者たちが黙って部屋を出て行った後、一人になったシルヴァは、残っていたロゼ酒を飲み干して、
「……迎えに来いと、言ってしまったからな」
苦笑まじりに呟きながら、空のグラスをテーブルに置いた。
塔を降りたリクロットを待っていたのは、家令のアンバーだった。
「ぼっちゃま、塔の上はいかがでございましたか」
と、恭しく腰を折って尋ねる。
口元と顎に白い髭を蓄えたこの老人は、代々ロゼンダ城主に最も近しい地位を務める家柄の生まれだった。前城主のブリードが幼いころから家令として務めているものだから、リクロットなどは未だに「ぼっちゃま」呼ばわりされているのである。
「じい、そろそろ、ぼっちゃまは止めてくれよ」
リクロットは抗議したが、アンバーは一向に気にしていない様子で、人の好さそうな薄い茶色の目でにこにこ彼を見ているのだった。
「で、塔の上の方は?」
アンバーは、先刻城を騒がせた気球の目的がシルヴァであることなど十分に承知していた。
「シルヴァ殿は、まだ出ては行かないとおっしゃられた」
リクロットは正直に答えた。
アンバーは、少し顔をしかめ、
「ぼっちゃまは、シルヴァ殿に甘すぎるのです」
と決めつけるように言った。
「まだ、ですと? 大した雨を降らせもせず、よくも、まあ」
「アンバー」
リクロットは、珍しく威儀を正した。
「そういう言い方は、よくない」
老人が誰よりも彼に忠実であるは、わかっていた。しかし、シルヴァに関してはもっと違う見方をしたかった。
「確かに、シルヴァ殿は、唯一雨を降らせることができる方だ」
リクロットは考えながら言葉を紡いだ。
「だが、彼は、雨じゃない」
リクロットは、気球と一緒に彼方へ追いやられたカーマ大使の二の舞を踏んではいけないと思ったのだ。
「それだけのために彼に頼っているのは、よくないことなのかもしれない」
「そうはおっしゃいますが……。大地エルノスが地上から離れた後、雨を降らせるのは紫の主の役目」
と、アンバーは反論した。
リクロットは笑って、
「お前が、そういうことを言い出すと限りがないからね」
まだ昔語りを続けようとした老人を制した。
「……紫の主が、雨のためだけに存在するとしたら。だとしたら、シルヴァ殿は、あまりに……」
リクロットは言いかけて口を噤んだ。孤高の貴人に、同情ほどそぐわないものはないだろう。
「塔の上の方は」
アンバーは、優しい領主に目を細め、静かに言った。
「わかっておいでです。彼が、雨を還す者でないなら……、彼は紫の主でいるしかないのですから」
リクロットは、古い伝承を思い浮かべた。――大地エルノスが還るとき、雨もまた空に還る――大陸から雨を取り上げた偉大なる契約者オルファが残した希望だと言われている。……そんなときが、一体来るのだろうか。




