【三題噺】沈む
この時のお題は
「津波」「火事」「ピアノ」
です。
見上げればそこは星空。
灰色の海に飲まれた私の目に映る空はやけに滲んで、歪んで、拉いでいた。星は歪な明滅を繰り返し、ごぼりと泡を吐く私をただただ傍観している。
「ねぇ知ってる?」
押し寄せる波に揉まれながら、思い出すのは隣の千鶴の声。私に意地悪ななぞなぞを仕掛ける時や、わざと難しい話を振る時によく言った口癖だった。
「上は洪水、下は大火事。これなーんだ?」
千鶴は頭のいい子だ。でもともすれば自分の知識をひけらかす傾向のある、少しばかり嫌な奴で。どんなに頑張っても勉強は千鶴に勝てなくて、私は唯一千鶴より上手くできたピアノに心血を注いでいた。
きっと千鶴はそれが気に食わなかったのだろう。その日のピアノで私はバイエルを卒業し、ブルグミュラーをもらった。千鶴はまだ、バイエルで手こずっていた。千鶴は意地悪な笑みを浮かべて私の答えを待っている。小学生の私は千鶴のそういうところが鼻持ちならなくて、わざとらしく悩んだ末に「お風呂」と答えた。私はそのなぞなぞの答えを知っていたのだ。きっとその時の私の顔は嫌な顔だっただろうな。ごぼ、と一際大きな泡を吐きながら思い出した。
「ぶっぶー」
千鶴は嬉々として腕で大きくバッテンを作って言った。
「答えは、火事になった竜宮城でしたー」
ああ、あのしてやったりといった千鶴の顔ときたら。千鶴は正解の「風呂」を答えられたらそう切り返すと決めていたのだ。嫌な奴。ぐるりと体が捩れた。私は彼女の嫌な顔を思い出しながら、死ぬんだ。胸の内は不思議と穏やかで、一面の闇の中で漂う私のスカーフだけが妙に赤く、鮮やかだった。纏わり付くプリーツスカート、耳にへばりついたセーラーカラー。濃紺の制服は私を呑み込んだ海よりも暗く、一緒に呑まれた誰よりも喪服に似つかわしかった。
もしかしたらこのまま竜宮城に行けるかも知れない。薄れゆく意識の中でまた一つ、泡を吐く。誰もが呑まれ、流された先に、竜宮城はあるだろうか。私はついに目を閉じる。乙姫様が千鶴の顔をして手招きしてる。音もなく私は数多の人や犬や猫や家や鞄や靴や机やその他諸々の何もかもと一緒に海の底へと沈んでいく。
ふ、と目を開ければ、私の腕に絡みついた鞄が口を開けていた。
零れ落ちた楽譜。目一杯に広がった五線譜が奏でるは、ドビュッシーの「月の光」。
海の底には届かない、あの銀の柔らかな光を思い出しながら、私はまた泡を吐く。濁った海水の中、泡だけは上に上に昇り、私は千鶴の待つ海底へと真っ逆さまに落ちていった。