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視線

まなざし

作者: 園田 樹乃

彼が失踪()えた。



 大型連休を目前にした前倒しの仕事が立て込み、その日の私は疲れていた。

 ”遅くなる”という彼からの連絡を受けて、一人で夕食を済ませソファーでうたた寝をしていた。


 夢うつつで、彼の歌声を聞いた。いつもより低いトーンに違和感を覚えて目を開けた。

 歌を生業にする彼のためにつけてある加湿器のそばで歌う彼の姿が見えた。

 ”いつものように近くで聞かせて”

 私の甘えた思いは、言葉になったのか否か。

 もう一度、眠りに引き込まれた私は”風邪をひくから”と、起こされた。

 彼に促されるまま、私はおとなしく自分の部屋に向かった。



 翌朝、目覚めるとテーブルに彼からのメモがあった。

 今日の起床予定は私の出勤時刻あたりらしい。

 彼の部屋を覗いて、声をかける。

 ”起きた”という意思表示らしい。シーツの間からヒラヒラと手を振るのを確認して仕事に向かった。



 この日も仕事に追われていた私が携帯の着信に気づいたのは、終業後だった。

 彼の仕事仲間のリーダーからだった。

 折り返すと”彼が仕事に来ていない”という。

 連絡も取れないらしい。

 何度も彼の携帯に掛け直した。

 彼の携帯は電源が入っていないらしく、アナウンスしか流れない。

 電車の速度をもどかしく思いながら、家路を急いだ。



 誰もいない家は、いつもより片付いている気がした。

 ”立つ鳥 あとを濁さず”という言葉が、浮かんだ。

 彼の部屋は、朝と変わりないように見えた。

 書き置きの一枚すらなかった。

 ただ、私のCDラックからCDが一枚なくなっていた。

 彼の出したCDのうちで、私が一番好きな一枚だった。



 リーダーのところに、彼から連絡があったのがその日の夜更けのことだったらしい。

 朝になって”心配いらない”とリーダーは私にも連絡をくれた。

 通勤途中だった私はゆっくり話を聞く余裕がなかった。

 リーダーと予定をあわせて、三日後に一度彼らの仕事場を訪ねることになった。




 相変わらず私には彼から連絡はなかった。

 詳しいことがわかるまで、仕事中は考えることを止めた。

 仕事の間はよそ事を考えるスイッチを切るのは、仕事をしていて身につけたスキルのひとつだ。

 それでも、何かの瞬間に浮き上がってくる事もある。そんな暇もない忙しさに救われた。


 その反動のように、帰宅して独りになると考えてしまうのは止められなかった。

 歌うことのきっかけを与えたリーダーに、彼が一目置いているのは知っていた。

 でも……と思う。

 私には、何も連絡がないのはなぜ?

 彼にとって、私はなんだったの?

 知人や、彼の仕事仲間たちは私たちのことを”同棲している恋人”と認識している。

 彼も私も否定はしていない。

 けれど、実際は……恋人ではない。

 年の離れた兄妹のような、友人以上恋人未満のような、そんなゆるい関係だった。

 ゆるいけど、簡単には切れないつながりがあるように思っていた。

 そう思っていたのは、私だけだったのかもしれない。


 彼はもう帰ってこない。そんな気がしてきた。



 リーダーと会う約束の日は、連休の初日だった。

 仕事仲間たちは彼が帰ってくるのを待つかのように、彼抜きで進められる作業を続けているらしい。

 仕事場のミーティングスペースでリーダーと会った。


 彼は今、携帯が使えない環境にあるという。

 最近咽喉に違和感を覚えていたらしいが、居なくなる前日まではリーダーにも気づかせていなかった。

 素人の私が気づかなかったのは彼の”プロとしてのプライドのなせる業”だと 言ったのは、リーダーの慰めだったのか。


 いつもより低いトーン

 加湿器のそばで歌う姿

 シーツから振られる手


 私に普通に声を聞かせられなかった?

 パズルのピースがはまるように、脳裏に光景が浮かんでストンと納得がいかされた気がした。




 作業が一段落したらしく、仕事仲間たちがミーティングスペースに入ってきた。

 私には書き置きひとつなかったことを言うと呆れたような、痛ましいようなそんな目で見られていたたまれなかった。

 ”恋人なんかじゃない”と言うのは、何かに負けた気がして何も言えなかった。

 何も言えないまま、仕事の話に移行したのをきっかけに辞去した。



 いつ、どうやって家に帰ってきたのかわからない。

 気が付くと、彼の部屋に座り込んでいた。

 あの日から禁域のように、この部屋のドアは閉めたままだった。

 うっすらとした埃が、主の不在を主張しているようだった。

 テーブルに残された彼のノートを手に取る。

 ”歌詞を考える材料”を貯めていた、それまで置いていった彼はもう歌えないのだろうか。

 英語の苦手な私には意味を捉えきれない単語と、彼の声で聞き覚えのある日本語とが混じるノートを行きつ戻りつめくりながら今日の会話を反芻していた。


 頭の中で、繰り返すうちに腹が立ってきた。

 ”プロとしてのプライド”って、私はいまでも客だったわけ?

 そして、寂しくなった。

 確かに始まりは、一ファンだった。



 当時、高校生だった私は勉強の気分転換にキッチンに入った。

 母がラジオをBGMに夕食の支度をしていた。

 聞こえた声に胸の奥をつかまれた気がした。

 曲が終わるまで、息をつめるようにして聞いた。

 それが彼の声を聞いた最初だった。


 社会人になり、親元を離れた私が住んだ町が彼の活動拠点の近くだった。

 それまでCDで聞くだけだったのが、ライブにも通うようになった。

 そして偶然に偶然が重なるようにして彼と接点ができ、いつしかこんな生活になっていた。


 彼の声が好きだった。

 それ以上に彼のことが好きだった。



 腹立ちと寂しさに振り回されているうちに、眠ってしまったらしい。

 彼のベッドで朝を迎えた。


 その朝から二日間、彼のノートを読んだ。

 書き溜めたノートは、一冊二冊ではなかった。

 日本語は脳内に彼の声で再生されてしまうので、なるべく見ないようにした。

 辞書を片手に、英語を読む。

 読み疲れたら、そのままうたた寝をした。

 目が覚める度に、彼の居ないことを実感した。


 彼の歌声でうたた寝からめざめるのが好きだった。

 彼は私の隣に座ったり膝枕をしたりしてよく歌ってくれた。

 マイクを通さない声が、体を通して響くのが至福だった。


 彼との思い出をたどりながらコーヒーを飲んで、調理しなくても食べれるもので空腹を満たす。

 そして、また彼のノートに戻る。

 連休をいいことに、そんな二日間を過ごした。



 甥がやってきたのは、連休最終日を翌日に控えた日の昼前だった。

 甥は、我が家を貸し出し期限のない図書館と思っている節があり、時々やってきては本棚を漁っていく。この日も、以前貸した本を持ってきていた。

 甥とはいえ、この二日間の自堕落な食生活を披露できず、久しぶりにまともに食事を用意した。

 姉一家の近況など世間話をした後、いつものように本棚に向かった。


 次々に本を手にとっては、中身を確認する姿をぼんやりと眺めていた私は、小さな叫び声で我に返った。

 甥が手にしているのは、私が気合を入れるときに読む本だった。

 本の間から、床に数枚の紙が舞った。


 書かれているのは、この二日間ずっと見ていた彼の筆跡。

英語ばかりで書かれていても、それは判った。


 ”こんなところに”


 何かが決壊した。

 彼が居なくなって、一度も出なかった涙があふれた。



 いつの間にか、甥は帰っていた。

 気を使わせたか、後日姉から様子見の電話がかかるか。

 そんなことを考えながら、床に散った時にバラバラになったナンバリングをそろえようとして最後の一枚に日本語が書かれているのに気づいた。




  PS.英語の苦手なお前にはどうかと思ったけど、あえて英語で書きました。

     きっと、いつものように一言ずつ辞書で引きながら

     丁寧に読んでくれると思う。

     食事を疎かにしないで。

     何日かかってもいいからゆっくり読んで欲しい。




 彼は。

 私が思っているよりずっと、私のことをよく見ていた。

 食事をおろそかにしがちなこと

 英語が苦手で歌詞カードを辞書片手に読んでいたこと

 日本語だと読み飛ばすかもしれないこと


 そして、きっと私にとってのあの本の意味も。


 いなくなって初めて、

 歌声だけでなく彼のまなざしでも包まれていたことを知った。


 END.

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めましてです。読ませていただきました。 キャラクターの動きや描写、なにげない日常が細かく描かれていて、それが後々の物語のラストに繋がってくる感じ。読んでいて、すごく丁寧できれいな文だと感じ…
[一言] はじめまして(・∀・)♪ 読ませていただきました* とても面白かったです\(^O^)/ これからも頑張ってください(*^-^*)
2012/09/13 09:43 退会済み
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