逢瀬
雨が続き、ようやっと晴れて暖かくなってきたからと一応同僚に断ってから散歩に出かけるまではよかったのだが、公園を横切る際に手ごろなベンチを見かけた。高台から街を見渡せる公園、この雲一つない青空にそよ風が吹く昼寝日和、ただ散歩して戻る方が損である。
「……ちょっとくらいなら寝てもいいよな。」
そう思って行動に移すと、多忙の日々に疲れた身体はすぐにまどろみの底へと落ちていった。
ざああ、と頬を少々乱暴に撫でていく風で目が覚める。空はほんのりと茜色に染まっていた。「しまった寝すぎたか。」と身体を起こし、ベンチから立ちあがろうとした時。ふと高台を見下ろせる場所へ目をやった先に、見覚えのある軍服が映った。思わず目を見開く。膝丈まである長い裾、特徴的なデザイン、藍鉄色のその軍服は。
「西軍…か?」
衛仁が怪訝そうに見つめる少し先に立ってるのは紛れも無く西軍のようで、藍鉄色の軍服を纏う男の灰色の髪が風に靡いていた。その腰には日本刀が差してあったが特に気にはならなかった。そもそも西軍だからという理由だけで毛嫌いする衛仁ではない。軍服を見るに、自分よりは階級は上のようだった。「あの人も散歩しに来たのかな。」と他愛の無い想像をしながらベンチから立ちあがり一つ伸びをする。その時は頭にも無かったのだが、数倍も離れている西軍の本部から東軍の統治下であるここへやって来ることは相当無茶なことであると気付いたのはかなり後のことであった。
するといきなり動いた気配に気づいたのか、少し先に立っていた西軍の男がゆっくりと振り向いた。一瞬風が凪ぎ、夕日が差し込む。辺りが赤に染まる。男が完全に此方を向き、目が合う。衛仁は言葉を無くした。
その男は灰色の髪に深緑色の目をしていたが、顔形が寸分の違いも無く衛仁そのものだった。
「……今晩は。」
呆気に取られる衛仁をよそに、男がにこりと微笑むと挨拶をした。襟の階級章を見ると大佐で、敬語を使わなければならないはずなのに混乱していたからか「あ…、今晩は…」と気の抜けるような声で返したことがおかしかったのか、男はふっと笑う。その笑い方さえも、以前同僚に言われた自分の笑い方に似ていたような気がした。
「(ああ、俺もとうとう狐に化かされる時が来たのか。それかこれはまだ、夢か。)」
とこっそり口の中で舌を噛んでみる。痛かった。夢じゃないと思いながらも、こんなこと夢でなければありえないとも思っていた。
「君は俺を見て敵意を抱かないんだね。」
矛盾と齟齬による混乱に飲み込まれそうになった時、男が笑みを浮かべながら聞いてきた。はっと我に返り「ああ…え、まあ…」と曖昧な返事をすると少しぎこちない笑みで答える。
「あまり偏見を持って人と接するな、と親に言われてきたもんなんで…。そもそもこの国だって、元は一つの国だからそれ程抵抗は…。」
そう言ってからさっと血の気が引く。全ての人がこういう解釈を善しとする訳ではない、むしろ前にある西軍人と接触した時に気付いたのだが、西軍となると東を嫌う人が多いように感じていた。ならば今の発言は尚更まずいと思ったのだ。しかし当の本人は「そう。」と言うと目線を外し何処か虚空を見つめていた。その表情はさっきから微笑んでいるように見えるので違いを見分けにくい。だが雰囲気が少しだけ和らいだのが感じられた。
「…この国はいつになったら戦争を終えるんだろうなあ。俺には上の考える事がよく分からないよ、ここまで来てはみたけどね。」
『ここ』とは恐らく階級のことを言ってるのだろう。男が「まいったなあ」と髪の毛をくしゃりと掻き分け、困ったような笑みで此方を見た。
ああやっぱり、と衛仁は思う。所詮、上に昇り詰めても本当の『上の人達』が考えることなど理解できないことがあるのだ、と思った。だからこそ周りの昇進を強く望む者たちの気持ちが衛仁にはよく分からない。
「俺も、分かりませんね。」
そう言うと男が少し驚いた様子で目を開いたのが見えた。いつしか夕日は沈む間際にまで落ち、辺りは夜の帳を下ろしつつある。秋の匂いを感じる夕暮れの風にほんの少し肌寒さを感じながら、衛仁は続けた。
「何時だってお上の考えることは…分かりませんよ。」
そう言うと今度は色々な事が浮かんできて止まらなくなってしまったので後が続かなくなってしまった。こういう時に自分の語学力の無さを呪う。肝心な言いたい事はいつだって言葉にはならない。できない。
「……そっか、そうだね。俺達はどんな時代も上の命令を聞く忠実な犬であり、その真意はいつも知らされない、与えられる事をこなすのみの猟犬だ。…でも、心はある。」
「飼い主を噛み殺すことも、できる」と続ける男の新緑の瞳が一瞬、暗い暗い気配を帯びた。それを直視した衛仁はぞわり、と悪寒染みたものが背筋を這ったような感覚を覚えた。それと同時に、遠い昔に聞いたある言い伝えが脳裏を過る。
イーヴィルアイ《evil eye》、和訳すると『邪眼』もしくは『魔眼』とも呼ばれる。悪意を持って相手を睨みつける事により、対象者に呪いを掛けるとされている。
西洋では緑目の者をそう呼ぶことがあるのだと子どもの頃、何かの本で読んだ事を思い出す。余程強張った変な表情をしていたのか、数秒後に男がたまらず吹きだした。
「何もそんな顔しなくても、取って食う訳でもあるまいし…でもすまないな、俺も少し口が過ぎたみたいだ。」
隣で「これは軍で言ってたら不敬罪だな」と悪気などさらさら無いように話す男を衛仁はじっと見つめた。男の真意はよく分からなかったが、東軍である此方に最初から敵意を向けていない所や初対面である自分に気軽に話しかける様、そして自分と同じ顔。
「…貴方は、」
そう口を開きかけると男が衛仁の口元に人差し指を当て、沈黙を諭す。そしてやはり少しだけ困ったような表情で、その深緑色の目を細め笑うのだった。
「さて、俺もそろそろ行かなくちゃ。君も帰らないと怒られるよ?」
男に楽しそうに言われてからやっと気づいた。辺りはもう薄暗く、空は全てが紺青に染まりかけている。常識的に考えてみてもそろそろ帰らねば皆が心配する時刻だった。これでは上司にも同僚にもお小言を言われてもおかしくない、と少し焦りを感じ始める。
その様子を見てくすり、と可笑しそうに笑ってから「じゃあ俺も行くよ」とぽん、と肩を叩かれる。そのまま衛仁の横を通り過ぎ、歩きだした瞬間。
「俺みたいには、ならないでね。」
と、小さく呟く声を聞いた。何が、と問おうと後ろを振り向き目を疑う。そこには最初から誰もいないかのように何も無かった。誰も、いなかった。
それが合図とでも言うように、風が吹き始める。ねぐらへ帰る群れからはぐれた烏が寂しげに鳴いた声が聞こえた。