【第三十三話】「魔の森の囁き」
辺境の森は、もともと「魔の森」と呼ばれる険しい樹海だった。
だが、ここ数日の森の様相はあきらかに異常をきたしていた。
森の外縁部にまで弱い魔物が這い出してくるだけではない。
本来なら遠く北方の寒冷地にしか生息しないはずの毛皮の厚い獣型魔物や、普段は地下深くに潜んでいる地底蜘蛛までもが、光を嫌いながら地上へ溢れ出していた。
明らかな生態系の崩壊。
近隣の村の民からも「森の奥が妙に騒がしい」という不安の声が届いており、内部で縄張りが致命的に乱れているのは明白だった。
報告を受けたウエスは、静かに隊員たちへ告げた。
「……魔物の異常発生は、森の奥で何かが起きている兆候だ。第九隊で調査に向かう」
その言葉を聞いた瞬間、ガレンの瞳に鋭い光が宿る。
内に秘めた“前へ出たい”という焦りが、一気に火を吹こうとしていた。
森へ向かう道中、ガレンのズレは昨日よりもいっそう濃くなっていた。
踏み出す足音が一拍分早い。
呼吸は浅く荒く、その視線は足元や味方の死角ではなく、吸い寄せられるように森の奥ばかりを追っていた。
腰の剣を握りしめる手には、血の気が引くほど無駄な力がこもっている。
(……ガレン、また焦ってる……)
並んで歩くミレイユは、相棒の異変を即座に察して胸を痛めた。
それ以上に──このまま焦りに呑まれ、ガレンがどこか遠くへ消えてしまうのではないかという、身を切るような「恐怖」が胸を締め付ける。
ウエスも、ドレイクも、その危うい歩調に気づいている。
ガレン本人だけが、己のズレと空回りに気づいていなかった。
森の入口に到着した瞬間、隊員たちの足が重く止まる。
周囲の空気が、肌にまとわりつくように重かった。
風が死んでいる。
木々の影が濃く落ち、魔力の流れが不自然に歪んでいた。
「……風が流れにくい……?」
リアナが不安げに周囲の気配を探る。
「魔物の気配が濃すぎます……何かがおかしい……」
ミレイユが魔力のノイズを感知して眉をひそめれば、ドレイクが大楯の柄を握り直しながら低く呟いた。
「まるで森全体が、俺たちを“押し返して”きてるみてぇだな……」
画面に映る周囲の「音」にウエスは戦慄していた。
葉の擦れ合う音、大気の振動、気配の残滓──それらが奇妙に歪み、時折、世界そのものが途切れたかのような無音が訪れる。
その瞬間、ウエス自身の「ドクン、ドクン」という心臓の鼓動だけが、森全体に響き渡るほど不気味に大きく耳元で鳴り響いた。
世界の法則すら狂わせるような不快な圧力が、彼の優れた感覚に警鐘を鳴らし続ける。
その時だった。
どたどたと不穏な足音が響き、森の奥から複数体の魔物が姿を現した。
しかし、それらは襲いかかってはこなかった。
本来なら相容れないはずの北方魔獣と地底魔物が、瞳を恐怖に濡らし、争うことすら忘れて外へと逃げてくる。
それらの皮膚には、何かに深く噛みちぎられたような痛々しい痕や、人間の仕業とは思えない歪な切り傷が刻まれていた。
逃げ出す間際、先頭の魔物が一頭、死の恐怖に怯えたように立ち止まって森の奥を振り返った。
そして、絞り出すような甲高い悲鳴を一度だけ上げると、なりふり構わず脱兎の勢いで走り去っていった。
「……魔物が、逃げてる……?」
ユアンが呆然と槍を構える。
「何かに怯えてるみたい……何に追われてるの……?」
ミレイユの呟きに、ドレイクも不気味そうに顔をしかめた。
「こんな逃げ方をする魔物なんざ、見たことがねぇ……」
ウエスは無言のまま、手負いの魔物たちが怯えて振り返った暗い樹海の奥を見つめた。
あの魔物すら恐怖させる何かが、奥で確実に蠢いている。
その逃げ惑う魔物たちの姿を見た瞬間、ガレンの中で理性が弾け飛んだ。
焦りに自我を侵食された足が勝手に動き、弾かれたように森の奥へ躍り出ようとする。
「ガレン、ダメ!」
咄嗟にミレイユが手を伸ばし、ガレンの腕を強く掴んで引き留めた。
その瞬間、ミレイユの胸を激しい衝撃が貫く。
掴んだガレンの腕が、汗ばんでいるはずの肌が、氷のように冷たかったのだ。
その冷たさが、相棒が自分から遠く離れていってしまうような強い喪失感となってミレイユの心を刺す。
ガレンは血走った目でミレイユを睨みつけ、
「離せ──っ!」
荒い怒号を叩きつけた。
ミレイユは掴んだ腕を離さなかったものの、ガレンの眼に宿った正気ではない光に一瞬だけ足がすくみ、息を飲み込んだ。
ガレンが自分を傷つけるかもしれないという、予期せぬ恐怖が脳裏をかすめる。
ガレン自身も、怯えたミレイユの瞳を見てハッと息を呑み、言葉を詰まらせた。
己の手を握るミレイユの指先が、恐ろしいものを見るように震えていることに気づいたからだ。
自分でも気づいていなかった危険な衝動に、ガレン自身が一瞬だけ慄く。
そこへウエスが静かに割り込み、ガレンの肩に重い手を置いた。
「……その一歩は強さじゃない。焦りだ」
ウエスの重い言葉と逃げ場のない眼光に叩かれ、ガレンはギリッと悔しそうに歯を食いしばるしかなかった。
魔物の群れが走り去った直後のことだった。
立ち並ぶ巨木の隙間、森の暗がりの奥で──黒い“影”がひとつ、すっと横切った。
魔物の動きではない。
周囲を執拗に警戒するように首を振るい、何か大きな荷を背負った人間特有の癖のある足取り。
影が動いた瞬間、背負った荷から「ジャラ…」と金属同士が触れ合う微かな音が耳に届いた。
その影は一度こちらを伺うように止まり、やがて森の奥深くへと姿を消した。
それを見た瞬間、ウエスは即座に右手を挙げた。
「引くぞ。……今は深入りしない」
隊員たちはウエスの指示に従い、ゆっくりと距離を取る。
撤退の道中、ウエスは一歩踏みしめるたびに、先の戦いで負った傷口が焼き鏝を当てられたように疼いた。
ウエスは痛みを誤魔化すように一度だけ深く呼吸を吐き出すと、ガレンの危うい背中から決して目を離さなかった。
痛みに耐えながら、胸の奥で静かに誓う。
昨夜、共鳴石を通じてシーンが届けてくれた言葉。
(一人で死に急ぐ強さじゃなくて、“生きて帰って、大切な人の隣に立つための強さ”を)
自分と同じように、大切な人を守りたい一心で危うい道へと足を踏み入れかけている若者。
身体の痛みを抱えながらも、ウエスの中で決意が刃のように研ぎ澄まされていく。
(……ガレンを、あの危うい道から必ず引き戻す)
生態系の崩壊、途切れる音、闇を横切る謎の人影、理性を侵食し始めるガレンの焦り、ミレイユの抱く恐怖、そしてウエスの身体を苛む激痛。
あの人影は何者なのか。魔物たちは一体何に怯えていたのか。
ウエスたちはいまだ、その正体を知らない。
辺境を蝕み始めた異変は、まだ芽生えたばかりの小さなものであった。
森は、静かに息をしていた。
次の犠牲が足を踏み入れるのを、ただじっと待つように。




