人間もどき
「人間もどき?」
静原静はこてんと首を傾げた。
目の前には、カウンターを挟んで菜箸でがんもどきをつまみ上げている壮年の男が立っている。黒い蝶ネクタイに、白いシャツに黒いベスト。背後に並ぶ色とりどりの酒、カクテルベース。薄暗い店内にはジャズのレコードがかかっている。つまり、ここは夜に開くお洒落なバーだが、マスターである高堂はカウンターの上に最近買ったばかりだという「おうちで本格おでん屋さん」とやらを置いておでんを仕込んでいた。
板で仕切られた銀色の四角い鍋の中に、ぷかぷかと具が浮いている。
がんもどきを皿にそっと乗せると、静の前に置かれた。
ふわふわの寝癖だらけのように見える髪に、つるんとした無垢な顔。大学生くらいに見られる彼は、しかし成人を十三年前に迎えた大人であり、この古ぼけたビル「無限海」の二階に相談屋の事務所を構える一国一城の主だった。といっても、助手は一人しかいないし、さらに彼女はお出かけとやらで今日は不在だ。
「わあ、美味しそうねえ」
静の隣に座っている微妙に若々しいちょっと胡散臭そうな美しい女が、頬杖をついて自分の皿が来るのを待っている。
「そういえば修子さん、いくつだっけ」
「四十六」
「答えてくれるのが修子さんだよね」
「当たり前よ。年齢聞かれて、いくつに見えますかーって返すは二十代まで。年齢聞くなんて失礼ね、なんてムッとするのは三十代まで。四十代はね、これだけ生きてきましたけど?! って胸を張って言うもんなのよ」
「なるほどね。年齢にしては若いって言ってあげたかったけど、年相応に綺麗だよ」
「そりゃどーも」
「――ボス。お待たせしました。がんもどきと大根です」
この無限海の最上階の三階に陣取るボスである修子のともへ恭しくおでんの器が差し出される。ボスという言葉とがんもどきと言う言葉のコントラストが激しすぎて、照明を落としたムーディーな店内が商店街の端っこの年季の入ったおでん屋に見えてくる。
ぬる燗までカウンターに置かれたので、静は持っていた箸を宙でくるりと回した。
「それで、マスター。人間もどきってなに?」
静が尋ねると、菜箸でおでんをつついていた高堂は思い出したように顔を上げた。
彼のことだから、がんもどきを見ていて思い出した話なのだろう。静の皿を見て何度も頷いた。
「ああ、昔ですね、うわさがあったんですよ。人間もどきってうわさ。知りません?」
「知らないな。修子さんは?」
「はふ、んー、なんかマンガであったような、気もするけど、はふ」
「おでん食べてていいよ」
静はちらりと高堂を見上げる。
穏やかな目がにこっと笑って、続きを話してくれた。
「昔、私の知り合いの知り合いの知り合いが、山の中の植物研究所で働いていましてね。山村だったか谷口だったか、小泉だったか……ああ、岩水だ。岩水という青年が酒の席でぽろりとこぼしたそうなんです。その山は丸ごと植物研究所の為に買い上げられていて関係者以外は立ち入れないというのに、広大な施設の中に点在する中庭に、時折ぽっと人が現れる、と。倒れた状態で、脈がない。つまり、死体が出るんだそうです」
優しい声で語るその話に、静はじっと聞き入った。
「最初は研究所内での殺人かと思われましたが、そうではない。身元不明の死体はどこにも外傷はなく、移動させるために触れると異様さに気づいたので、その処置を行うことになった、と」
「処置?」
「解剖です」
「……警察とか呼ばなくて良かったの?」
「さあ、どうなんでしょう。まあ、うわさですから」
「あ、そうだった。うわさだよねえ」
「ふふ。まあ、でも、山を買い切って広大な施設を建てて立ち入り禁止だなんて、まともなところではなさそうですよね」
「あえて僕がすっとぼけたのに」
「うわさですよ」
静はようやくがんもどきに箸をつける。
味がしみていて美味しい。
静の素直な目の輝きに、高堂は嬉しそうに目を細めた。
「それで?」
食べ終えた静が話の続きを促すと、高堂は修子におかわりを渡しながら口を開く。
「その死体を解剖をしてわかったことですが、血液も内蔵も一切なく、そこには真っ白な綿が詰められていたんですって。けれど、どこにも縫合した痕跡はない。見たこともないほど白い綿が、ただ詰まっている。彼らはそれを人間もどきと呼んだそうです」
「白い綿」
「はい。ここからなんですけどね、それ、消えるらしいんですよ」
思い出しているように、高堂は遠い目をした。
「人間もどきを保管するための部屋は厳重に鍵がかけられて、それから監視カメラもついていたのに、突然パッと消えるんですって。そして、数日したらニュースになる」
「……ニュースって」
「はい、事故とか事件とか、とにかく、報道されるようなもので被害者の顔写真が出るんです」
「もしかして」
「ええ。人間もどきと同じ顔をしてるんだそうですよ」
「へえ」
奇妙な話だな、と静はからっぽになった皿を見た。
人間もどきのうわさ。一度も聞いたことがない。
「で、高堂ちゃんは突然昔話をおでんで思い出したわけ?」
おかわりも食べ終えた修子が聞くと、高堂は首を横に振った。
「いえいえ、それだけじゃなくて、昨日のお客さんがですね、突然私にその話をしてきたんですよ。だから驚いちゃって」
「……それ、マズくないかしら?」
「おでんですか?」
「そうじゃないわよ」
修子が静の腕をたたく。
「絶対その人、人間もどきよね?」
「……も~。修子さんやめなよ」
「いいえ、そうよ。きっと秘密が漏れていないか、話を知った人間のところに現れて反応を見ているのよ。違いないわ。高堂ちゃん、大丈夫? 素直に知ってるなんて言ってないでしょうね?」
わざと怖がらせているな。
静が高堂を見ると、彼もそれがわかっているように曖昧な微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、ボス。すっとぼけましたから」
「まあ、そう。じゃ、安心ね。で、静も心当たりあるんじゃない?」
突然振られて、静はうろんな目で隣を見る。
「まだ続けるの? 僕に心当たりなんかある訳ないでしょ」
「そうかしら。あんた、文字のにおいしない人と会ったことないの?」
静原静は「手書きの文字から本人の感情をにおいとして感じる」という特殊な体質を持っている。外には文字が至る所に溢れていて静の身にはあまりにもキツいので、彼はこの無限海のビルからは滅多に出ないほどだ。
自分の特性を話に出されて、その目は突然不安そうなものに変わった。
「……においのしない人?」
「ええ、そう。もしそれがあったら、きっと書いたのは人間もどきだもの。中身綿でしょ? においなんかしないわよ」
「や、やめてよー! 急に怖くなってきたじゃん!!」
「落ち着いて、静。ここだけの話だけど……冴は、触れても見えない人、いたらしいわ……きっと冴は人間もどきと接触してるのかもしれない……ああ、今日は一人で出かけるって言ってたけど、無事かしら……」
「い」
いやだーー!!
と、子供のような叫び声を上げて、静はわあわあと頭を抱える。
そこに追い打ちがかけられた。
「そういえば、あのお客様、また来るって言っていましたね」
「ひっ!!」
静が叫んだところで、店の扉が開いた音が響く。
「んぎゃーーー!!! 来たーーー!!」
「……来ちゃだめだったの?」
眉をしかめて入ってきたのは、静の助手であり「触れた相手の子供の頃の姿が現れる」という奇妙な体質がある佐伯冴だった。
顎のラインで揺れるボブに、額で分けた前髪。
凄むと迫力のある顔立ちだが、いつも無表情に近い。
その顔を見た静はほっとしたのか、バー特有の背の高い椅子から転げ落ちた。
「ちょっと、静くん?!」
「……冴さん、冴さん無事だったの……よかったあああ」
「修子さん、なんです、これ」
助け起こそうとしてくれたところで、静はその細い腰にまとわりついた。訝しげに見下ろしてくる目が容赦ない。
修子はひらひらと手を振る。
「いや、夏だから。怖い話してたのよ」
「うううう、うわさだし、怖い話じゃないしー」
「うわさって?」
「人間もどきですよ、佐伯さん」
「ああ……綿の?」
「冴さん、なんで知ってるの?!」
「なんでって」
「いやあ、やっぱり言わないでえ!」
静がぶんぶんと首を横に振るが、ボスは無慈悲だった。
「まあ、冴。なんで知ってるのかしら?」
「昨日ここにいたので。話を一緒に聞いただけですよ」
「ねえ、じゃあ教えて」
静は嫌な予感にバッと耳を塞いだ。
すぐに無情なボスにはぎ取られたが。
「そいつの子供の頃の姿、見えた?」
「……いいえ」
「ひーーー!!」
静がびよんっと跳ねる。
「もう、静くん落ち着いて。私よりも九つも上でしょ。しっかりして」
「ささ、冴さん。もうここは安全ではありません、逃げなければ! 綿人間が襲来する!!」
「人間もどきですよ」
「大丈夫よお、人間もどきは死んでるんだし」
「でもいきなり出たり消えたりするんでしょ!! 動けるじゃん!!」
高堂と修子は「あ、確かに」と声を揃える。
冴は仕方なさそうにバッグの中からえだまめを模した人形を取り出して静に渡した。
「はい、お守り」
「……冴さん」
「泣かないの。それに、私そのとき触ってないから」
「え」
「だから、昨日、触ってないから見えなかっただけ」
「……なんだあ、そっかあ……」
「そう。ほら、もう気にしないでいいから」
「うん」
子供のようにこくんと頷く静に、冴は黙っていることに決めた。
この店に入る前に、昨日の男が歩いてきていたことや、冴が話しかけると立ち去ったこと、ふいに手が触れてしまったこと。
何も見えなかったことも、黙っていよう、と。
了
読んでくださり、ありがとうございます。
ホラーは難しいですね。
この二人のシリーズは全てくだらない話でありたいので、くだらないホラーというジャンルになれていたら嬉しいです。