皆がいつも残業してる中、定時で帰ったら、帰り道に恐ろしい目にあった
ある会社に入社して一ヶ月、俺はようやく気づいた。
ここはブラック企業だと。
この会社では、みんなが残業する。
終業時間は夕方の5時なのだが、まずみんなこの時間には帰らない。残って仕事をする。当然サービス残業だ。
帰るのが9時、10時以降になるのは当たり前。
そんなに忙しいのかというと、決してそんなこともない。
まだ期日が迫っていない仕事に熱中したり、しなくてもよさそうな資料作りをしたり、帰れる状況なのに帰らない。まるで残業のために残業をしているような感じだ。
世の中は残業なんてナンセンスなんて方向に動いているのに、完全に時代を逆行している。
まさに“社畜”ってやつだ。
とはいえ俺も、入社したての頃は付き合って残業してた。まだろくに仕事もないのに、どうも先に退社するのを遠慮してしまって、他の人に付き合って遅くまで残っていた。
だけど、こんなのはただの時間の無駄である。
今日俺は定時で帰るぞ。5時になった瞬間、「お先に失礼します」と言って帰るぞ。残業してる上司や先輩には目もくれず颯爽とオフィスから出てやるぞ。
俺はそう決めた。
時計を見ると、午後3時だ。あと2時間で俺は帰る。ああ、その時になるのが楽しみだ。
***
ついにその時が来た。
オフィスの時計も、俺の腕時計も5時を指し、定時となった。
俺はすぐさまパソコンをシャットダウンし、カバンを持ち、オフィスの仲間たちに告げた。
「お先に失礼します!」
皆が一斉に俺を見た。
俺はギョッとした。
なぜなら、皆の表情は俺を責めるでも羨むでもなく、全くの無表情だったからだ。
人形みたいな顔つきで俺を見つめている。
「ひっ……」
恐怖を感じた俺は慌ててオフィスから立ち去った。
外に出て、夕暮れの町並みを見ると、俺の中から先ほどの恐怖はすっかり消えていた。
あとはもうまっすぐ帰るだけだ。
明日、もしかすると「昨日は早く帰りやがったな」なんて嫌味を言われるかもしれないが、知ったことか。
今の俺は怖い物なし。さあ、家に帰ろう。
しばらく歩いていた、その時だった。
俺は後ろに気配を感じた。ふと振り向いてみる。
すると――
「課長……!?」
課長がいた。
眼鏡をかけた中年男である課長が、俺の後ろから歩いてきていた。
「なんですか? 何か用ですか?」
冷静に問いただしてみるも、課長は無言で近づいてくる。目からは生気を感じられない。
危機感を覚えた俺は課長に背を向け、歩き出した。課長に追いつかれたらただじゃ済まないような気がしたのだ。
課長の歩みは遅く、程なくして振り切ることができた。俺は胸をなで下ろした。
だが、ホッとしたのも束の間、今度は係長と出くわした。
渋みのある30代といった外見の係長だが、やはり先ほどの課長のように生気のない顔で俺を追ってくる。
課長よりも速い。早歩きをしている。
ある種の恐怖を感じた俺は、交番に立ち寄った。
運よく警官がいたので、話しかける。
「す、すみません!」
「はい?」
「仕事を終えて会社から出たら、係長が追ってくるんです! 助けて下さい!」
警官は顔をしかめた。
「そりゃあなたが仕事をやり残してるか、忘れ物をしたかしてるんでしょ? 私はこれでも忙しいんですよ」
さして忙しくなさそうな警官だったが、あしらわれてしまった。
係長はもう間近に迫っている。
これ以上警官に泣きついても仕方ないと、俺は交番から立ち去った。
交番を離れて歩いていると、今度は先輩が現れた。
俺とさして年は変わらないが、やり手のビジネスマンだ。
また俺を徒歩で追ってくるのかと思ったが、今度はとうとう――走ってきた。
「ゲ!?」
正しいフォームで走ってくる。
かなり速い。
俺も直感で走って逃げることを選択した。追いつかれたら、終わる。
時刻は夕方5時台、多くの会社員でごった返している通りをひた走る。
時折後ろを振り返るが、先輩は振り切られることなく、徐々に距離を詰めてくる。
「や、やばい……!」
ここで俺は気づく。なにも馬鹿正直に屋外を逃げ回る必要はない。どこか店に入って先輩をやり過ごそう。
さっそくコンビニがあったので、俺は入ろうとする。
だが――中にはオフィスの連中がいた。
どういうわけかは知らないが、回り込まれてしまっている。
他にも何軒かの店で試したが、結果は同じ。ちくしょう、どうなってるんだ。
ならもう急いで帰るしかない。
原点回帰。俺はさっさと帰宅してしまおうと、会社の最寄り駅まで走った。
息を弾ませて駅に到着した俺だったが、そこにもすでに見知った顔がいた。
オフィスのOLさんや他の課の連中が、俺を待ち伏せるように待機している。
彼らが定時で上がった俺を追うつもりなら、駅なんか真っ先に押さえられているはずだと気づくべきだった。
背後からは課長や係長、先輩らが迫っている。
「待って下さい! 俺が何したってんですか! ただ早く退社しただけじゃないですか!」
思わず泣きそうな声が出てしまうが、彼らは生気のない顔で迫ってくる。まるで真意が読めない。
「ひえええええっ!」
俺は逃げ出すしかなかった。
ここから先はどうしていいかも分からず、俺はがむしゃらに逃げた。
だが、どこへ行ってもオフィスの連中が待ち構えていて、いわゆる「安全地帯」はどこにもなかった。
もう一度交番にとも思ったが、ルートは塞がれていた。
体力も限界に近づいてきて、俺はとうとう路地裏に追い込まれた。
ザッザッザと規則正しい足音を立てながら、課長や係長、他の同僚たちが俺に迫ってくる。
俺は泣き叫んだ。
「ゆ、許して下さい!」
土下座もした。
「この通りです! お願いします!」
だが、彼らは無表情のまま、歩みを緩めることはなかった。
まもなく俺は――
「うぎゃああああああああああ……!!!」
***
その後、俺がどうなったかって?
もちろん、ひどいことなんか一切されなかったよ。
だって今もこうして会社で元気に働いているんだからね。
それにしても、あの時の自分を思うと、自分が恥ずかしくなる。
なぜ俺は「会社から早く帰りたい」なんて思ってたんだろう。
早く家に帰ったってやることなんてないし、それなら会社で仕事をしてた方がずっと充実した人生を送れるじゃないか。
世の中、やたら残業させる会社はブラックだと決めつける風潮があるが、俺からすればその心根こそよっぽど暗黒に包まれてるって感じがするね。
今は夜の7時、俺の会社のメンバーは誰一人帰らず、みんな残業している。
俺も今日はたっぷり残業するつもりだ。少なくとも夜10時ぐらいまではやろうかな。
あと3時間も会社にいられると思うと胸がおどるよ。
俺はもう「定時に帰ろう」だなんて考えを起こすことは二度とないだろうな。
完
夏のホラー企画参加作品となります。
お読み下さいましてありがとうございました。