第二話:さざなみの玉椿1
粗末な小屋の一室に、月明りが降り注いでいる。
心地良い虚脱感に身を任せようとしていた女の耳元で、男が囁いた。
『私を救えるのはお前しかいない』
身じろぐと、絹の布団がサラリと音を立てる。寝具、灯り、家具等々、部屋の質素な造りとは不釣り合いに豪華な調度品は、すべて男からの贈り物だ。最初は自分への心遣いと単純に喜んでいたけれど、みすぼらしい場所に居座るのが嫌なだけだと気付いたのは、いつ頃のことだったか。高貴な生まれの男は、庶民を物の数とも考えていない。卑しい身分の自分の元へ、それでも思い出したように通ってくるのは、ほんの少し物珍しかっただけなのだろう。
何も知らない小娘の頃は、自分の人生には無縁の明るい色、美しい世界を見せてくれる人なのだと信じていたけれど、今は男の狭量さが、ただ哀しい。
『お前の力が必要だ』
女の諦念も知らず、男は甘言を、まるで睦言かのように繰り返す。
男が可愛いのは己だけなのだと、とうに女は知っていた。だから、自分が思うのと同じだけの評価をくれない世間を捻くれた目で見ているし、いつも誰かを責めてばかりいる。
――わたしのことを何とも思っていないから、自分のために、わたしの手を汚せと平気で言えるんだわ。
男が思うよりも、女はずっと聡明だった。勉学では身に着けられない部類の教養を、人生の中で自ら掴み取る能力に長けている。が、庶民を一括りに見下す男には、理解できるはずもない。
『事が成就すれば、いずれお前を正式に妻に迎えることも出来よう』
最上級の交換条件に、女は溜め息をつきそうになるのを何とか堪えた。
妻なんて絶対に嘘。この人が愛しているのはわたしの見た目だけ。庶民を下賤の生き物と見下す人が、遊芸人を妻になんてするはずがない。
しかし何より女を傷付けたのは、決して短くはない年月を共にしながら、男が自分をまったく理解していないことだった。妻になりたいなどと、大それた夢は抱いていない。女が男の自由にされていたのは、結局のところ、欠陥ごとこの男を愛していたからだ。
――わたしがあなたを理解できているのも、愛しているからこそ、なのに。
わかっていたはずの擦れ違いを改めて眼前に突き付けられて、女の艶やかな美貌に影が差した。そしてそれに気付けるような男なら、女の苦悩もこれほど深くはなかっただろう。
『――良いな?』
拒絶をまったく想定していない様子で、男は言い聞かせるように首を傾げた。
敏い頭で、女は考える。
こうして男の愛玩動物でいられるのも、あと数年。歳を取って容色が衰えれば、男は容赦なく自分を棄てる。妻になりたいから傍にいるのではない。引き止めたいから協力するのでもない。
――愛しているからこそ、ダメな人だとわかっていても、手を貸さずにいられないだけ。
男の確認に、女は小さく微笑んで首肯した。
男は満足げに頷いて、身支度を整え始める。
月明りに浮かび上がる冷たい背中を目で追いながら、男の器の小ささよりも、己の心持ちこそが何より哀しいと女は思った。
○ ● ○
「おはようございます!!」
「!!」
不意に眠りを破られて、頭中将は切れ長の瞳を瞬かせた。
御帳台の天蓋から差し込む陽射しは既に明るく、行きとし生けるものの活動時間の到来を告げている。隣で身じろぐ気配に視線を巡らし、そこで頭中将はようやく、ここが最近になって枕を交わすようになった姫君の寝所であることに思い至った。
何事かと一先ず薄物を羽織る間にも、掛け声は続いている。塗籠を出ると、蔀戸はとうに開け放たれており、庭の様子が目に飛び込んできた。
牛飼童姿の少年が平伏した状態で、一生懸命に声を張り上げている。
「無作法をご容赦ください!」
物音で主が起きてきたことを察したのだろう、少年は即座に朝の挨拶を謝罪に切り替えた。まさに今、訪問先での無礼を窘めようとしていた頭中将は、毒気を抜かれて言葉を飲み込む。少年が自らの行為を恥じるように、頬を赤らめていることに気付いたからだ――確かに、生まれを差し引いたとしても、本来非常識な人物ではない。
小さな物音に振り返ると、塗籠の影から姫君が不安げな顔を覗かせている。親以外に顔を見られることは元より、裸同然の薄着を余人に晒すような不調法な振る舞いは決してしないひとであるはずだが、余程驚かされたのだろう。
申し訳ございません、と重ねられた謝罪に、引き摺られるようにして視線を戻す。その頃には頭中将の明晰な頭脳は、正確に状況を把握しようとしていた。
今日はこの後、舞いの修練の予定が入っている。幼い頃から手ほどきを受けた、師に当たる貴族の屋敷は生憎と方角が悪く、頭中将は昨夜を方違えの名目で愛人宅にて過ごしたのだが、このところ考え込むこともあったためか、ついつい寝過ごしてしまったらしい。見れば、門扉の側からこちらの様子を窺うような、供の者達の姿もある。師を待たせる訳にもいかず、さりとて姫君の体面を考えれば無遠慮に急き立てる訳にもいかず――見かねた少年が「情緒も作法も弁えぬ物知らず」との汚名を着るという、苦肉の策を取ったというところだろう。
非難も制止も、頭中将からの応えがないことが急に不安になったのか、それまで覚悟を決めた風だった少年の背が、僅かに揺れる。ほんの少しだけ顔を上げて、こちらの様子を窺うように、おずおずと付け加えた。
「……あの、ごめんなさい……お時間です……」
貴人に仕える者にしては子供らしい謝罪に、ついに頭中将は苦笑を漏らした。肝が据わっているのか無鉄砲なのか。何にしても、素直な謝罪と意図せぬ上目遣いは、大人の庇護欲を駆り立てるのに充分な愛らしさだ。甘いとは思うものの、叱責の言葉はいずこかへと霧散してしまう。
「――しばし待て。すぐに出る」
言い置いて踵を返すと、新しい恋人もまた、花のような笑みを浮かべていた。先程までの怯えた様子はきれいに失せ、優しい表情でこちらを見守っている。
「とんだ後朝で申し訳ない、愛しいひとよ」
優しい声で囁きながら姫の元へ戻ると、両手を取るようにして迎え入れられた。不躾に起こされたというのに、「朝から面白きものを見せていただきました」と悪戯っぽく瞳を覗き込まれ、愛しさと同時に尊敬の念が募る。
寛大な恋人をしっかりと抱き締めてから、頭中将は身支度を整えるために塗籠へと戻った。
「だいたいね、大切なお役目の為に、改めて舞いの基礎から見直したいって言い出したのは、薔薇の君でしょ!」
師の屋敷へと向かう道中、牛車に揺られながら、頭中将は何度目かの溜め息を落とした。屋形の斜め前を歩きながら、器用に牛を操る牛飼童姿の少年――紫苑のお小言は留まることを知らず、延々と続いている。恥ずかしい思いをした、無作法者の汚名を着たという以上に、姫の屋敷の女房に胡乱な目を向けられたことが、常識人を自認する紫苑には余程堪えたものらしい。「姫はお前を愛らしいと仰っていたのだぞ」と宥めても、普段以上に辛辣な説教は、いっかな収まる様子もなかった。
「……ずいぶん機嫌が悪いな」
なぜ主である己がこれほど肩身の狭い思いをしなければならないのだと訝しみながらも、自身の非を認められないほど狭量でもない頭中将は、憮然と零す。
すると、ややあって前方から返されたのは、こちらも拗ねたような呟きだった。
「――ちゃんと北の方様がいらっしゃるのに……」
なるほど、と頭中将は顎に手を当てた。
そもそも、「宴の松原の怪事件の関係者」として検非違使に出頭した紫苑が、なぜ頭中将の元にあるのかといえば、情状酌量の余地が認められた、という以上の理由はない。首謀者との連絡役を務めた男を探して大内裏周辺をうろつく姿を何度か目撃されていたため、それを「検非違使に訴え出る機会を窺っていた」という話に摩り替えてやったのは頭中将だが、それでも無罪放免とまではいかなかった。罪状に応じて下された労働を極めて短期間に終えられたのは、やはり真面目で素直な紫苑の人徳によるところが大きい。
そうして、晴れて自由の身になった紫苑を、頭中将は召し抱えてやった。牛飼童はあくまで真似事であり、本来は屋敷の下働きという扱いだが、理由を付けてあちこち連れ回している間に、いつしか身に着けた芸当らしい。今では牛の世話も手慣れたもので、本職の者以上にしっかりと懐かせているのには驚かされる。
結果的に、宴の松原事件の首謀者とやらに反故にされた「定職に就きたい」という希望を、頭中将が代わりに叶えてやった形だ。紫苑への給金はそのまま、彼ら一家への支援ともなる。頭中将は以前にも増して、一方ならぬ感謝と献身の念を受けることとなった。
加えて言うなら、妹の紅に関しては、年頃ということもあって、嫁入りの世話もしてやりたいとは思っている。が、その美貌を惜しむ気持ちもない訳ではないので、二の足を踏んでいる状態だ。己の処遇その他に対して、頭中将に恩義を感じている風の紫苑も、妹を貴族の妾にすることには、今も乗り気ではないように見受けられる。もちろん紅自身や母君の思惑もあろうし、複雑なところだ。
「お前には難しいか」
これでは先が思い遣られる。笑い含みにそう返してやると、紫苑はプイと顔を背けた。「一生わからなくていいです」と言い置いて、屋形の傍から牛を先導する位置に戻る。お説教からはようやく解放されたようだが、これでは頭中将の立場がない。黙って二人の遣り取りを受け流していた他の者達にも、うっすら笑うような気配がある。
やれやれと肩を竦めながら、頭中将はそれでも、紫苑を咎め立てはしなかった。
紫苑が頭中将の女性関係を嫌うのは、おそらくは好意の裏返しだ。主が自分の理想通りの好人物であってほしいという願望はそのまま、子供の憧れのようなもの。であるだけに、男の浪漫や男女の機微などと言われても理解できない。それがわかっているからこそ、頭中将も無暗に叱り付けるような真似はしないのだ。『薔薇の君』という、己にとっては不名誉な呼称を許しているのも、「だって頭中将様だと、出世されるたびに変えないといけなくなるし、他に何人も同じ呼び方をされてきた人がいるってことでしょ? 貴方だけをお呼びする名前があってもいいじゃないですか」とムキになったように言い張られたのが思いの外可愛らしかったとか、そういったことでは決してない。
――すべては頭中将の寛容さの故。
「お前ほど主に辛辣な者もおるまいよ」
時間が経てば解決すること、仔犬がじゃれついているようなものだと思えば腹も立たぬと己を納得させて、頭中将は小さく苦笑した。
気付けば随身達も、いつの間にか紫苑を注意することがなくなっている。これもまた彼の人徳というものなのかもしれない。
●
宮中は今、朱雀院にて開催される『紅葉賀』に向けての準備で騒然としている。
元々は桐壷帝の父・一の院の五十歳の祝典として計画されたものだが、最愛の后妃・藤壷の女御の懐妊という慶事も重なり、帝はこれをより盛大なものにと望まれるようになった。舞楽の演目に『青海波』が選ばれたのも、おそらく無関係ではあるまい。青海波の演奏には、笙・篳篥・竜笛・琵琶の楽士四人に加えて、桴を持って演奏を補佐する垣代役が、二十人から四十人程度必要になる。多くの殿上人が演者として舞台に上がることになるため、必然的に華やかで豪華な演目になるのだ。
中でも、最も人目を引くのが、左方の舞い手二人。これに選ばれたのが、帝の実子すなわち一の院の孫でもある源氏の中将と、左大臣の嫡男・頭中将である。今を時めく貴公子の揃い踏み、舞いの技量はもちろんのこと、見目の麗しさまでを考慮に入れた、異の唱えようもない最適の人選だと言えよう。
式典に先駆けて、当日朱雀院へ赴くことの出来ない身重の藤壷のため、まずは宮中にて試楽が催されることになっているのだが――。
「――素晴らしい!」
師は、品よく老いた顔に満面の笑みを浮かべて、頭中将の舞いを褒め称えた。幼い頃から鍛えた弟子とも呼べる存在が、式典での大役を射止めたことを、心から喜んでくれている様子が窺える。
僅かに乱れた呼吸を整えながら、しかし頭中将は浮かない表情で、そうでしょうかと呟いた。
「今のままでは何かが足りぬと思うのに――それが何なのか、私にはわからない」
これまで誰の前でも吐いたことのない、今回の役目に対する迷いを、頭中将は初めて口にした。それは師である壮年貴族が、今も変わらず、祖父のように優しく厳しく接してくれることに対する甘えや安堵もあったのかもしれない。何せ、一緒に舞うのはあの源氏の中将だ。舞いの技量はもちろん、姿かたちや衣装の着こなしに至るまで、後れを取っているとは思わない。しかし今の自分には何かが欠けている。そう感じられてならなかった。間違っても、世人に「光源氏に見劣りする」などと、思われる訳にはいかないのに。
自分の舞いを基礎から見直したいと考えたのは、そういった模索の一環だった。
「舞いに不調は見えませんが……強いて言うならば、お心持ちの問題でしょうか」
「心持ち?」
慈愛に満ちた眼差しを向けられ、頭中将は素直に繰り返した。拍手の手を解いた師はしかし、それ以上具体的に説明するようなことはせず、微苦笑を深める。
「相手が悪いと言ってしまうのは無礼に当たろうが……しかし、頭中将殿とてひとかどの御方には違いないのだから、お二人ともさぞかし称賛の的になることでしょう」
「……痛み入ります」
どうやら師の側には、弟子の技量に対する不安要素はないらしい。それが知れただけでも意義はあったと思い直して、頭中将もまた微苦笑を返す。
自らが源氏の中将に並び立つ存在であることに関して、頭中将には変わらず疑いの余地はない。今回の重責も、見事に果たしてみせるだけの自信はある。だが同時に、何事においてもはっきりと勝っているとも言い難く、むしろ一歩及ばぬ点もないではないという事実が、このところしきりと気に掛かって仕方がない。
「市中に奇怪な事件の起こる折でもあり、今お二人が慶賀の祝典に大事なお役目を戴いたことも、意味のないことではございますまい」
師の指摘に、頭中将はハッと両の瞳を瞬かせた。世情はいつでも大抵不安定なものだが、巷間ではまた、何やら怪しげな事件が起こっていると聞く。慶事に花を添えるだけではない、悪しきものの影を振り払う意味でも、二人の輝ける貴公子達に祓の舞いを披露して欲しいとの主上の意向も、有り得ない話ではないだろう。
「存分に努めます」
師の厳愛の指導に、頭中将は背筋を正してから、深く頭を垂れた。
さて、心持ちの問題とは、いったいどういうことだろう。
自邸へ戻る道すがら、牛車の揺れと心地良い疲労感に身を委ねながら、頭中将は師の言葉を何度も反芻していた。
言わんとすることはもちろんわかる。しかし、簡単なようでいて、実はこれほど深い問答というのも珍しいのではないか。実際に頭中将は、気が塞いでいるとか、闇雲に不安がっている訳ではない。自信ならばいつもの通り、しっかりと実力が裏付けてくれている。舞いの腕が鈍っているということもないようだ。ならば惑うことなどないはず。にもかかわらず、何とはなし、己の青海波には大事なものが欠けているような気がしてならないのだ。
――他に思い悩むことなどあっただろうか。
考えても思い当たるフシはなし、そもそも思い出さなければならない煩悶など、その時点で悩みとは言えまい。
どうしたものかと頭を捻るうち、ふと往来の喧騒が耳に飛び込んでくる。
「――何事だ」
人々が集まっているのに気付いて、頭中将は屋形の外へ向かって声を掛けた。「田楽一座のようです」と答えたのは随身の一人だ。
田楽は本来、耕田儀礼の伴奏と舞踊を指すが、神道や仏教との混交を経て、芸能として発展してきた。猿楽や延年などと並んで、娯楽の一翼を担っている。
さては客引きも兼ねた宣伝かと納得したところで、笛の音が聞こえてきた。澄んだ音色に合わせて、女舞いが始まったようだ。群衆の間から垣間見えた瞬間の手捌きが見事で、思わず牛車を停めさせる。優雅なだけでなく、どこか気迫を感じさせる腕前に、頭中将はいつしか見惚れていた。遠目とはいえ、よくよく見れば、舞い手自身もなかなかに美しく見える。
「最近京でも評判の一座の、舞女なんですって」
屋形に近付いてきた紫苑が小声で囁いた。
「――ほう」
それでこの人だかりか、さもありなん、と頭中将は小さく頷く。と同時に、聞かれるよりも先に主の求める情報を仕入れてきた紫苑の能力の高さにも感心させられた。まったく、良い家礼を手に入れたものだ。
だが、当の紫苑はというと、舞いが終わるやいなや、帰宅を急かし始めた。まるで頭中将の好き心を見透かしたかのような態度に、前言を撤回すべきかと、思わず眉根を押さえる。
舞女への惜しみない喝采の中、これ以上ない勢いで後ろ髪を引かれながら、頭中将はその場を後にした。
しかし、その遊芸人の見事な舞いは、正体の見えない逡巡を抱えた頭中将の心に、強い印象を残したのである。