10分間しか人間に化けられない猫又だけど、誰か私にピアノを教えてください
吾輩は猫である、なんて小説が流行った時代。
その頃、既に私は日本にいた。
しかし、まだ人間に対する興味は薄く、人間というのはものすごい繁殖している別の生き物でしかなかった。
と、いうのも、私は黒猫であったので、割と迫害されて生きてきたのだ。
日本でも、今でこそ猫の立場というのは安定しているが、いつ取って食われてもおかしくない時代はあったのだよ。
冗談だと思うか?
今でこそ猫の毛皮なんて身に着けていたら、趣味が悪いなんて思われるだろうが、当時は猫だろうが兎だろうが同じ獣であり、せいぜいネズミを捕食する動物だから見逃されているという程度だったのだ。
三味線など、未だに猫の皮が使われているという話だ。まぁ現代では超高級品らしいが。
兎もペットとしての地位を獲得している中、未だにラビットファーなる需要があるが、キャットファーというものが無いこの情勢に、胸を舐めおろすばかりだ。
さて、私が日本に来たのは…舶来貿易と呼ばれる中であろう。
魔女狩りという苛烈な人間の人間による狩りが行われ、何故か黒猫がとばっちりを受けた。
黒という色が悪いなどという理不尽な理由であったが、そもそも魔女狩りが理不尽なものであるし、そもそもというのならば、人間は理不尽が二足歩行しているような生き物であった。
私は、迫害を受ける前から旅で地方を転々としていたが、野生として生きるにしても森は過酷であったし、実際、狩りに出掛けたきり戻って来られなくなる仲間達も多かった。
それに、少なくとも人間の住むところでは食い物に困る事は少なかったので、人間の住む場所から完全に離れるという選択肢は捨てがたかったのだ。
日本に向かう貨物船に乗った経緯は偶然としか言いようがない。
雑多な荷物紛れたのだが、別にわざとではない。
その日は本当に歩き疲れて、いい感じに人目に付かなそうな場所があったから潜り込んで休んでいたら、眠っている間に船に積み込まれてしまったのだ。
狭い船の中で船員から逃げ隠れするのは本当に大変だった。
そこで、以前から交流のあった猫と再会を果たす。
彼はケット・シーであった。
彼とは旅先で何度か顔を合わせた事があり、顔(匂い)を覚える程度には見知った仲である。
人間に化けることができた彼は、気まぐれに私を匿ってくれた。
彼は人間としての資産もそこそこあり、教養も高かったように思う。
それなりの身分を持っていたらしく、彼に与えられた個室に勝手に人が入る事はまず無かった。
その頃は、まだ人間の言葉を知らなかったが、彼が「人間の言葉は国によって違う」のだと教えてくれ、なるほど人間とは不便な生き物だと実感したものだ。
何しろ、猫の言葉は世界共通。しかも、きつい訛りはあるものの、大型の…例えば虎だのライオンだのという種類まで言葉が通じるのだから便利である。
まぁ、そこまで猫種が違う場合、触れ合うだけで命の保証はし兼ねるが。
そして、全く文化の違う別の国というものに、強い希望を持ったのを覚えている。
彼の助力もあって、無事に日本へとたどり着いた私だが、人間の文化の違いを確かに感じた。
彼が言うには、私と出会った旅先は複数の国であったと言っていたのだが、人間の巣の違いなどよくわからない。
違うと言われればどこもかしこも違うし、同じようなと言われれば、どこも同じような街並みであった。
だが、ここは違った。
巣に使われている素材が爪を研ぎやすそうなものばかりであったのだ。
そして、ここで雨を凌げとばかりに床が高くて自由に出入りできるスペースがあり、まるで猫の為にあるような国であった。
だが、人間の国であり人間の巣である事を忘れてはならない。
冒頭のように猫の皮は需要があったし、猫に限らず獣が嫌いな人間というのはいた。
それに、この国の人間は貧困層でなくても飢餓に見舞われる事に慣れていて、食に貪欲で、食えるとなれば何でも食うような人間は一定数いた。
そんなわけで、狂ったように迫害される事はなくとも、油断すれば危険である事に変わりはなかった。
逆に「縁起が良い」とよくわからない事を言って可愛がってくれる人間もおり、そういう所に限って裕福だったりする。
それでまず「縁起が良い」という言葉を覚え、そう言ってくれる人間の巣に住み着くようになった。
そこに住んでいれば他の人間や獣から身を守る事ができたし、ねずみを狩れば喜ばれ、時に魚のほぐし身などを分けてもらえたからな。
そうして日本に定住するようになった私だが、人間の言葉はほとんど覚えなかった。
覚えたところで別の生き物である。意味は無いと思っていたのだ。
この国には猫又というのがおり、ケット・シーとどう違うのか分からないが、彼らも人間に化ける事ができた。
私にも同じことができるのではないか?と何度か聞かれたが、そんな事はできず、必要性も感じなかった。
猫は短命である。
それは、いつか狩られるが故に、長寿の猫が少ないのだと思っていたが、私は相当長生きらしい。
確かに、同じ商家に住み着いていた猫は、あっという間に老けていった。
老いて弱り、「そろそろ死に場所を探しに行く」と言って去った彼女に、何と言葉をかけたら良いのか分からなかった事を覚えている。
人間は猫より長く生きるが、やはり短命である。
特に可愛がってくれた家の老人を看取った頃には、多少はその老人の言葉が分かるようになっていた。
老人が老人になる、ずっと前からの付き合いであった。
だから、私は彼の恋の悩みも、人付き合いの相談も、商売の話も、それから子供や孫の成長を喜ぶ話も、たくさん、たくさん聞いた。
もちろん、最初は意味なんてわからず、よく喋る人間だなと思っていたわけだが。
老いて床にいる事が多くなった彼は、それでも腹や膝に乗れば私をよく撫でた。
「お前は変わらんなぁ。やはり猫又じゃったんかなぁ。」
その頃から、自分は猫又と呼ばれるものなのではないかと思うようになった。
この先がうっすらハート型の尾も、ちょっとした個性だと思っていたが、2股に別れているように思えなくもない。
だが、その老人がいなくなってから、人間に対して持ち始めていた興味を再び失った。
この身体の真ん中に占めていたものが急に無くなったような、震えるような感覚が、人間のいるところから離れたいと思わせたのだ。
私は、喪失感と涙を知った。そして、同時に寂しさも覚えた。
この寂しいという感覚は厄介である。
どうせ、同じ思いをすると分かっているのに、気が付くと人間の近くに行ってしまう。
関わりたくない。でも放っておけない。
人間なんて理不尽の塊で、戦っても勝てない危険な生き物で、たまに狩ろうと命を狙ってくる生き物だ。
なのに、彼らはとても温かくて、繊細で、言葉にして彼らの思い出をくれる。
それは私の思い出となって、私の心を満たしてくれるが、急にいなくなって心に穴を空ける。
本当に厄介だ。
それはともかくとして、猫又というのは大した能力は無い。
人間に化けたり、それから…まぁ色々できたのかもしれないが、それ以外に特に大したことをして見せた者はいなかった。
そんな猫又達も、何度か起きた戦火に飲まれていなくなってしまった。
近所のタマさん以外は。
そして現在。
猫の立場は、しっしと追い払われることはあっても、石を投げられるような事は滅多に無いほど安定した。
この情勢に、戦火を生き残った猫又が深く関わっているのでは?という憶測もあるが、定かではない。
兎にも角にも、私が今見えている世界は平和である。
さて、数年前だろうか。
運命の出会いを果たした。
私は、ある学校の体育館に侵入し、そこでグランドピアノというものを見た。
それは、私のようなツヤのある黒い身体を持ち、車のような無機質で鏡のような風貌をし、機械のような内臓のような金属臭のする内面を晒していた。
そんな外見に、特段興味を抱いた事は無かったのだが、その日、気まぐれに独り弾いていた生徒の弾くピアノに釘付けになった。
その音色は何度か聞いた事があったのだが、その日聞いたものは、なんというか音楽であった。
この日、私は音楽というものを本当の意味で知ったのだ。
音を楽しむと書いて音楽。
その知識は確かにあったし、テレビやラジオ、スマホというもので聞いているのを何度も横から聞いた。
人間たちは、時に歌い、踊ったり奏でたりしながら楽しそうにしていた。
所詮、他人事であったのだ。
だが、足から耳や尻尾の先まで駆け巡るこの衝撃はなんだ?
踊りたい?わかる。歌いたい?鳴きたい。できることなら吼えたい。違う、そうじゃない。
奏でたい。弾きたい。
だが、私の4本脚は実に不器用で、1つだけ押したい鍵盤を2つ踏むし、前足の動きは多少制御できるが、後ろ脚でもいっしょに弾く事は不可能。
その上、鍵盤というのは思ったよりも硬く、猫の体重を跳ね返し、強く弾く事が難しいのだ。
何度か奮闘したが、大量の不協和音を量産した上で、少女の弾いたそれを再現するのは私には不可能であることがわかった。
人間の体重と、あの器用な両手があれば、私もピアノを弾く事ができるのであろうか?
そういえば、「もしもピアノが…」なんて曲もあったな。私はそれを想像し、願い、必要とした。
それが叶い、なんと私は人間に化ける事ができたのだ。
…が、ケット・シーや、今まで会った猫又のように長くその姿を保っていられず、すぐにばてた。
おそらく、私は猫又の「初心者」というやつなのだろう。
後でタマさんに聞いたが、そういうものらしい。
何十年もかけて、ちょっとずつ時間を延ばしていくのだそうだ。
だが、私は今すぐピアノを弾けるようになりたいのだ。
そして、それが一朝一夕にはいかないという事を私は知っている。
とにかく1曲弾けるぐらいの時間は化けていられなくては話にならないが、それだけの問題ではない。
独学というやつは、よほどセンスとやる気が無ければダメなのだ。
やる気に関しては、まぁ猫であるから保証できるかどうかはさておき、溢れるほどにある。
だがセンスはというと……うむ、指というものがこんなにも扱いにくいものだとは思わなかったな。
中指と薬指、薬指と中指が特に制御できず同時に動くので、せっかく人間の手であるのに猫の前足で弾いているようなものだ。
また、右手と左手が別々の動きをするなんて、とてもじゃないが理解できない。
時々、悪ガキがやって来て弾く「猫踏んじゃった」なる大変失礼な題材の楽曲を、時間をかけてゆっくりと弾けるようになったが、あの悪ガキにセンスがあるようには、どうにも思えない。
だが、私よりは遥かに弾きこなしていたようにも思う。つまり。
私にセンスは期待できない、という事である。
こうなれば、師事を仰ぐしかないのだが、残念な事に私は猫又初心者。人脈はまだない。
そう、何が言いたいのかというと、こういう事である。
10分間しか人間に化けられない猫又だけど、誰か私にピアノを教えてください。