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ロラン様は来ない。私はそれを知っている。
*
さっき、看守が今日の日付を話していました。牢にいる私にではなく、自分の仲間へと。今日は十月十五日だそうです。ならば私は死ぬのでしょう。
明日の十月十六日、私は息絶えることとなるのです。
私は何もかもを知っています。三年前に嫁いだこのガリア国のこと、王家の秘密、どうして私が首を刎ねられることになるのかも。また、革命政府がどのように組織され、どのようにして勢力を広げて行ったのかも。
どうしてか? それはただひたすら奇妙で皮肉な現象のせいです。
ガリア国という国など、本当は存在しません。少なくとも“生前の”私にとっては。フランスの古名をとって名づけられたこの国は、欧州のあの国をイメージして創作された架空の国です。
そう、創作。私が今、確かに生きているこの国は創作の世界に、紙の上にしか存在しなかったはずの場所です。それが何故か実体化し、現実の世界として私の前に現れています。
最初、まだ幼い頃は全く気付きませんでした。自分が創作の世界に転生していることも知らず、田舎の小国で、王女として適度に贅沢しながらのほほんと暮らしていました。
だけど成長し、適齢期になった時、私は自分の運命を悟りました。やっと『思い出した』のです。
嫁ぎ先として決まった夫は、ガリア国王太子ジョエル。
そして私の名前はリディアーヌと申します。
『……ガリア国王太子妃リディアーヌ!? やだ、なんの冗談かしら』
思い出した時はかなり焦りました。何故って、自分が昔読んだ漫画の登場人物になっているのですから。しかも内容は革命物。フランスそっくりの国でフランス革命のような革命が巻き起こり、その激動の中、ドラマチックな恋愛が繰り広げられるのです。主人公は不遇な生活を送る貧乏貴族の令嬢で、出会った革命家たちと関わるうちに彼女は医学を志し、一方では革命仲間の青年と運命的な恋に落ちるのです。
もともとは私の母が持っていた古い漫画で、絵が素晴らしく綺麗だったことをよく覚えています。一時期は本当にドはまりして、漫画の中の決め台詞のひとつ、『人民のために!』を家の中で叫んでドン引きされたものです。他ならぬ母に。
漫画自体は傑作でした。それはいいのです。しかし問題なのは。
「よりによってリディアーヌに転生するなんてね……」
繰り返しますが、例の漫画は革命物です。革命というのは、ようするに現政府を倒して新しい政府を建てる過程を指します。それがフランス革命の場合は、倒されるのがブルボン王朝。その後、共和制、帝政、また王政復古と色々ありますが、今の私に、実際のフランス史はさほど重要ではありません。
フランス革命のハイライトと言えば、やはりあれでしょう。
ギロチン。特に有名なのが、王妃マリー・アントワネットの最期。
例の漫画はその史実をなぞっています。
王太子、革命直前に即位して国王となっていたジョエル十六世はギロチン刑となります。その妃も連座し、処刑台の露と化すのです。
私は王妃リディアーヌであると申しました。
つまり私には、首を刎ねられる最期が待ち受けています。
さらに確認させてもらいますと、すでに革命は起こっています。夫ともども、私も革命政府に捕えられました。牢に放りこまれ、今は革命裁判の結果を待つばかりの身です。判決はまだですが、死刑だと私にはわかっています。
そしてここが漫画の作者の嫌らしさというか真面目な点で、私リディアーヌはマリーと同じ十月十六日に首を刎ねられます。不幸なことに、そこだけはよく覚えています。
というわけで私は明日、ギロチンにかけられます。悲惨だと自分でも思います。
ですが、ひとつ思い出してほしいのです。マリー・アントワネットにはフェルゼンがいました。彼女を救おうと働きかける、愛しい恋人がいたのです。残念ながら失敗しますが。
漫画がその歴史的事実をなぞるならば、私にもそんな存在がいていいはずです。たとえ悲劇でも、最後まで想い続けてくれる恋人がいたならば、少しは慰めになるでしょう。
そもそも、ここが漫画の世界だと思い出していたならば何故、私は原作のストーリーに抗わなかったのでしょうか。思い出したのは結婚直前、それから三年もありました。それになんといっても王妃です。倒される王政だとわかっていたならば、ストーリーに逆らって内側から変える努力をしておけばよかったのにと、誰もが考えるでしょう。何もかも知っている強みを生かし、ギロチンを回避すればよかったのに、と。
しかし待ってもらいたいのです。私を馬鹿だと思うのは、この話を聞いてからにして下さい。
マリーとフェルゼンの恋。運命的な悲恋は、私の身にも降りかかりました。
私が馬鹿かどうかは、それを知ってから判断して下さい。この恋を。
*
その日のことはよく覚えています。
私はすでにジョエルの妃でした。嫁いで一年にも満たない王太子妃です。宮廷はジョエルの父王の寵姫に牛耳られ、異国から来た私は、自分の居場所すら見つけられていませんでした。
味方のいない宮廷生活。大国ガリアの華やかな宮廷では夜毎に種々のパーティが開かれますが、マリーと違って田舎育ちの私は作法もわからず、ぽつんと立ち尽くすばかりです。日中は侍女に囲まれ、静かに自室で過ごすだけ。これが王族なのかしらと思うような、しごく地味な生活を送っています。
夫となったジョエルはというと――残念な人でした。
マリーの夫ルイ十六世も少々残念な人だったようですが、ジョエルは別な意味での残念さです。
性格は我が儘で傲慢、移り気で忍耐力もありません。頭は悪くありませんが、それを世のため人のために使うような気遣いはついぞ持ちません。絵に描いたような特権階級と言いますか、いわゆるステレオタイプな俺様王様で、自分を特別な存在だと強く意識していました。生まれた時から、望んで手に入らない物は何ひとつなかったのですから。
ジョエルは妃となった私への興味を早々に失うと、複数の愛人を侍らせて放蕩の限りを尽くすようになりました。国庫を荒らしながら。彼にとっては結婚以前の生活に戻っただけの話ですが。
夫には顧みられず、宮廷では居場所がない。
それが、その頃の私の状況です。何しろリディアーヌは原作の漫画の作中で、一、二を争う薄幸の脇キャラですので。地味に不幸。私が目立つシーンはただひとつ、ギロチンです。
あの日は、宮廷画家がこの目立たぬ王太子妃の下にやって来る日でした。肖像画のひとつも描かせておくのが宮廷女性のたしなみです。舅である国王の命令もあり、私の絵が描かれることとなりました。
正直に言います。私はその宮廷画家の伺候を、今か今かと待っていました。
まだ早朝の時刻、私は自室でお裁縫などをたしなんでいました。侍女に囲まれ、宮廷の噂話を聞かされながら、リネン地を縫い合わせていたのです。
侍女を通し、訪問者の知らせがもたらされます。
待ち受けていた私の鼓動は早まります。
「――構わなくてよ。通しなさい」
「はい、王太子妃殿下」
侍女に案内され、私の居間にやって来た男性二人。一人は年老い、もう一人はその孫とも言ってもいいような若い男。
老人は宮廷画家ルオールです。ガリア王家お気に入りの画家で、王族の肖像画はもっぱらこの方の手によります。これから私の絵も描いてもらう予定となっています。
そして――青年は。
頭を下げたままの青年を見て、私は思います。
(ふうん。これがあの“アンリ・ロラン”ね)
『アンリ・ロラン』はあの漫画の登場人物の中でも、主要キャラに入るでしょう。主人公の貧乏令嬢と恋に落ちる革命家の、さらにその親友である青年です。同じく革命を志す同志で、実は今日も、革命計画の一部として宮廷画家の弟子に扮しているのです。
老画家の隣で頭を下げる青年に、私は内心でほくそ笑みました。
(革命の芽は早いうちに潰さないと)
この『アンリ・ロラン』は、彼ら革命仲間の中心人物です。リーダーのような彼が消えれば計画の失敗もあり得ます。それに主人公の相手役でもないため、いなくなっても大筋のストーリーに支障はないでしょう。
そう、ギロチンにかかりたくない私としては、彼をどうにかすることが、運命を変える第一歩なのです。我が身を守らねばなりません。折角あちらから来てくれたのですから、罠にでもはめてしまえばいいと思います。
(どうしようかしら? 濡れ衣でも着せて、流刑にしてしまう?)
などと、思案していました。
私が考えている間に老画家の挨拶は終わり、その弟子の振りをした彼も顔を上げます。
「王太子妃殿下。申し遅れました、この者はわが弟子でしてな。不調法者ではありますが、少々手伝いなどをさせますので、お許しを」
「……」
「殿下? ロランを同席させてもよろしいでしょうか?」
ルオールに重ねて尋ねられ、ようやく私は我に返ります。
一瞬と呼ぶには長すぎる時間、私は硬直していました。我に返って、繋ぎとめられていた視線を離し、ようやく老画家に答えます。
「え、ええ。……どうぞお構いなく」
「そうですか、それはよかった。では早速ですが、始めさせていただきますぞ」
まずは普段の自然な姿を、ということで、私はそのまま裁縫を続けることとなりました。私は室内でも充分な光量を得られる位置に椅子を置いて座り、イーゼルの前に画家が立ちます。
弟子兼助手として立ち会う彼――ロラン様はひとこともしゃべることなく、老画家が求めるまま、道具を取って渡したり、家具の位置を直したりと、忙しく働きます。
構図が決まったのか、老画家は私の姿を写し取り始めました。静かです。
こうして静かになるまで、私は手元のリネンから目を離せずにいました。
周りは静かなのですが、私の胸の中では、鼓動が激しく騒いでいます。
この感覚。この甘い痛みはなんなのでしょうか。
ロラン様はごく普通の青年です。それほど美形でもなければ洗練されてもおらず、腕力に秀でているわけでもありません。初めて私の前に現れた彼は、茶色の巻き毛の、シャツを肘までまくった、目つき鋭い男性でした。服装もごく質素な、平民の青年です。
だけどあの瞳は。一瞬だけですが、彼は私を見ました。
顔を上げて私を見たあの瞳には、一途でひた向きな激情がすでに宿っていました。不平等な身分社会を変えようという、高い理想が燃えていました。潔癖さも、強い決意も。
何が起こったのかわかりません。
若者らしい激しい衝動を抱えた、鋭く強い視線を向けられただけです。私を憎い特権階級として見ていました。一個の人間とすら認識していないかもしれません。
ですが不可解なことに――私はひどく惹きつけられました。
“見たい”。“見られたい”。
私は自分の衝動を抑えています。ロラン様に吸い寄せられそうな視線は、むりやり縫い針に向け、抑えることもできます。ですがこころはどうしたらいいのでしょう。騒ぐこの胸を収める方法は、どこにあるのでしょうか?
迷い始めました。私は、私はロラン様を罠にはめることはできません。
私はこの日を待ち望むと同時に、どこかで恐れてもいました。
革命家アンリ・ロランは、あの漫画で私の最もお気に入りのキャラでした。
主人公の相手役、フレデリックよりもずっと好きでした。主人公との恋にうつつを抜かすフレデリックよりも、熱い信念と友情、革命に燃えるロラン様に憧れていました。『人民のために!』は、彼の決め台詞です。
(だけどまさか)
漫画の憧れのキャラが実際の人間になって現れても、がっかりするだけだと思っていました。二次元と三次元は違いますから。だからロラン様が現れたとしても、特に気にすることなく流刑にでもなんにでもできるはずでした。
それなのに。
ちらりと、もう一度ロラン様を盗み見ます。気のせいではないかと、確かめるため。
するとどうでしょう。
その横顔。痺れるような感覚が、私の指先にまで広がります。針もうまく動かせません。
恐ろしい計算違いです。現実の人間として現れたロラン様は、二次元の時よりもっと強く、私の心を絡めとりました。
絶望的なほど。