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神無日には月を抱いて  作者: 成瀬 透
8/8

爽風

 休眠期から明けたオオナは流石に茫然としたらしい。

 何せ御所の八割が半壊し、焼け焦げていたのだ。屋敷の復旧は木使と土使の手によって着々と進んでいる。

 オオナによると伯都創始以来五本の指に入る凶事とのことだが、灯冶からそれを聞いた百瀬は他の四つが一体どんな惨劇だったのかと恐れ入った。


 史上最凶の邪霊を討伐したとして、あの場にいた数名の邪霊使と阿文、灯冶、そして百瀬は国の英雄として奉られた。

 これには若い二人は面映ゆく、特に灯冶は百瀬に功を譲ろうとしたが、オオナの「灯冶、よくやった。さすがは我が依代ぞ」という賛辞には素直に顔を綻ばせた。


 英雄といえば、隆飛もまた名を上げた。中庭での戦闘前、王宮の南端にて邪霊使たちを従え、最後まで指揮を取っていたのが彼である。見舞いに行った灯冶と百瀬は、その自慢の顔を殆ど包帯で隠した隆飛と無言で見つめ合い、互いの勇姿を讃えた。


 百瀬は肩を脱臼した以外は軽度の傷であったし、灯冶は左半身を焼いていたが、さほど重症ではなかった。数日の集中治療後は二人で方々の怪我人の見舞いに回った。

 そして今日、阿文も加えて富士平の家に見舞いに来ている。


 日留加は生きていた。

 全身に重度の火傷を負い、肉の一部を溶かされ、所々皮膚の表面が苔の侵蝕により壊死していたが、阿文と燐佳の懸命な働きにより彼女は華虞名の腹から救出されたのである。


「随分小尻になっちゃったわ」

 臥せる彼女の声は弱々しく、全身の包帯には何か所も血が滲んでいた。

「生きている意味がない。そう思って贄になろうとしたのに、食べられたあと防術を張っちゃった。いざとなったら命根性の汚いもんよ」

 日留加は口元の皮膚を引き攣らせ、自虐的に笑ったかに見えた。


 彼女の包帯に包まれた手が、百瀬の膝の上に置かれる。

「私、溶けてる間意識があったの。冷たいけど、温かかった。百瀬の術がお母様を冷却してくれなきゃ、死んでたと思う」

 大蛇のことである。大蛇の放つ闇の冷気が、間接的に日留加を救っていた。

 日留加の三本しか指の無い手にそっと触れながら、百瀬はただ静かに嗚咽を堪えていた。


「日留加様は、王の過去の罪を知っていたの?」

 包帯の隙間から、睫毛の溶けた日留加の瞼がぴくりと痙攣した。

「私に霊気封殺の術をかけたのは、彼女たちと同じ目に遭わないよう、助けてくれたんじゃないの?」

 日留加の腕が百瀬の膝から滑り落ちた。

「考え過ぎよ。私はそんな正義感と自己犠牲に溢れた人間じゃないわ」


 日留加が微かに首を傾げて阿文を見上げた。それだけで、充分だった。 

「長居は身体に響くだろうから、そろそろ帰るぞ」

 阿文に促されて、百瀬は名残惜しくも立ち上がった。部屋から出ようとすると、灯冶がまだ座したままである。

 灯冶さん、と言いかけたところで、百瀬は阿文に腕を引かれた。


 何故、と質すのも無粋だろう。百瀬は黙って従った。屋敷を出る途中、一族の皆が二人に平伏した。富士平と久我への懲罰は王位の格下げ、王宮への進入禁止に留まる。未曽有の大惨事を引き起こした姓に対し、格別の恩赦である。

 互いに口を利かぬまま馬車の中に入ると、百瀬は車内に待機していた燐佳の隣に腰を下ろした。


「日留加様に会って行かなくて良かったの?」

「ええ。いいんです」

 静かな、それでいて寂しそうな言い方だった。いつも穏やかで親切な燐佳だったが、ここのところは心なしかふさぎ込んでいるように見える。

「ねえ、王の首を刈ろうとしてた時、私に水術で霊気をくれたのは燐佳? 防術で何度か助けてもくれたよね。燐佳って火使じゃなかったんだ? 凄い、邪霊使でもないのに、あんな高度な術」


 確か燐佳は富士平の分家筋の貴族だったはずだ。姓からも名からも、ついつい火使を連想していた。

 霊気譲渡の術は灯冶のものかと思っていたが、彼に心当たりは無いと言う。そもそも風の霊種の彼にとってはそう簡単に扱える術ではないらしい。その他にも百瀬が華虞名と対峙していた最中、幾度となく水の防術が百瀬を支え、攻撃を挫いてくれた。


「私は富士平に属する者でありながら水使に覚醒した落後者です。それを日留加様だけが目にかけてくださいました」

 きっと燐佳の苦境にこれ以上ないという程共感できただろう。日留加とて、彼女自身が久我の落後者なのだから。

「じゃあ、日留加様の侍女に戻った方がいいんじゃない? こんな時に私なんかを面倒見てる場合じゃないでしょう?」

 慮る百瀬を見遣った切れ長の目尻から、細く薄い一筋が滑り落ちた。

「いえ、百瀬様が闇使と判明されてから、百瀬様を最優先にお守りするよう命じられています。親兄弟が死にかけても、たとえ日留加様自身に仇なすことになっても。私の代わりに百瀬を守って、と仰っていました。あの方の信頼を裏切ることは出来ません」


 やはり日留加は分かっていたのだ。百瀬が危機に晒されることを。それが日留加自身の手によるものか、華虞名の手によるものかは問わずとも。彼女の中に、一体どれだけの葛藤が渦巻いていたことか。

 何か発すれば言葉が震えてしまいそうで、代わりに百瀬は燐佳の手を握った。ひやりとした燐佳の手が、しっかりと百瀬の手を握り返してくる。


 外は五月に相応しい快晴である。百瀬は硝子越しに流れゆく雲を目で追った。

 日留加は傷が癒え次第、国外追放が決定している。伯都の外で彼女の新たな人生が始まるのだ。

(さよなら、一人きりの、私の友だち)

 百瀬は心の中で呟いた。

(いつまでも、大好きだよ)




 二人の姿が遠くなると、灯冶はおもむろに指輪を抜いて、自分の左小指を刺した。血が十分に盛り上がるの待って、日留加の瘡蓋の張った唇に、その小指を優しく当てた。

 日留加の唇が朱に染まり、それを彼女の舌が丁寧に掬い取る。

「どうして……?」

 日留加の声は掠れている。


「日留加。君の本心がどうであろうと、私は君を敬愛している。依腹として不服に思ったこともない」

 そこには欺瞞も憐憫もなかった。

 日留加は灯冶の断言に暫く口が効けなかったが、潰れた喉でやっと声を出す。

「何よ、一度も相手にしてくれなかったくせに。オオナ様にばっかり押し付けて。きっとそのせいで妊娠しなかったんだわ」


 その刹那、灯冶の顔が十三歳の少年のようになった。初めて王宮で対峙したときの、まだ何も持っていなかった、無力だったあの頃の。

「だってがっかりされたくなかったんだよ。子供だったし」

「今は大人、みたいなこと言うじゃないの。大体どの口がそんなことを言うのよ、私を斬ったくせに」

「ごめん」

「でも、いい判断だったわ」

 灯冶はありがとう、とは言わなかった。あの瞬間、日留加を本気で斬った。死んでもいい、むしろ殺さなければと思っていたのである。それをいい判断と言えることに、灯冶は舌を巻いた。彼女にはいつまでたっても敵わない。


「君には心から感謝している。字から始まり、言葉遣いや王宮での立ち居振る舞いまで、全てを教えてくれた」

「あまりにひどい有様に我慢が出来なかっただけだわ。本物の穢人だって当時のあんたよりはマシでしょうよ」

「そうだね。詞言を唱えようにも、言葉の意味が解らなかったからね。今の私は君の努力と根気を礎にして成っている。本当に、ありがとう」

「灯冶を変えたのはあんた自身よ。私の仕込んだ通り、別人になってくれた。育成失敗部分は陰気な性格と女の趣味だけね」

「それは、自分でもどうしようもないことなんだ」

 灯冶は奥歯を軽く食いしばりながら、悲しそうに笑った。


 本当に、女心の分からない男。こんな時くらいもっと気の利いたことを言いなさいよ、と日留加は思う。でも、この不器用さが彼の彼たる所以なのだ。

「君は、正門氷血の変について知っている?」

「多分一言一句漏らさず知ってるわ。まっずい血、でしょ? ほんと是非その場に居合わせたかったわよ」

 それがどうかしたの? と尋ねる日留加に、灯冶は真剣な面持ちで口を開いた。

「あのとき、百瀬ではなく私が彼を殴るべきだった。ずっと後悔してるんだ。本当にごめん」

 灯冶の下げた頭を、日留加は見ていられなくなった。零れた涙を見せまいと、首を傾ける。あちこちの皮膚が突っ張って痛みを感じたが、そんなことはどうでも良かった。


「灯冶の血、オオナ様のものより美味しかったわ」

 そんな筈はない、と二人とも分かっている。

 しかしその言葉は日留加にとっては真実だった。

「ありがとう。これからは自分のために生きてくれ。私はいつでも、君の幸せを願っている」

 それだけ言い残し、灯冶は日留加から離れて行った。

 その背を見送りもせず、日留加は声を殺して泣いた。




 急拵えで建てられた百瀬の部屋で、オオナがクロの背を撫でている。大きな円い月が障子越しに二人を照らしていた。

「それにしても百瀬はあんな詞言を良く知ってたな。あのような攻術、阿文には習っておらんじゃろ」

 百瀬が華虞名に放った二つの詞言は、触媒を介して霊気の威力を増大させる高等術である。神の生成した式神と依代の護符は、その役目を立派に果たしてくれた。

「オオナ様が教えてくれたんじゃないですか」

 隠れて練習してたんですよ、と言う百瀬に、オオナは首を傾げる。


「ほら、古い教本持ってきてくれたじゃないですか。灯冶さんのふりして私に迫って来たときですよ」

 それを聞いて、オオナはぽかんと口を開けた。それからやれやれというようにうすら笑いを浮かべた。

「何を言うておる」

「え?」

「馬鹿じゃなあ。そりゃ灯冶じゃ」

「は?」

 百瀬はオオナの言う意味が解らない。間抜けな声を出してオオナの次の説明を待った。


「灯冶がわしのふりをして、そなたの気持ちを確かめたんじゃろ」

 そういえば北の書庫を何やら漁っていたな、と独り言を言うオオナを前に、百瀬はワナワナと唇を震わせた。

「でも、霊気が灯冶さんじゃなくてオオナ様のものでしたよ!」

「霊力の強さを寄せることは出来なくても、纏う霊気を似せることくらいは出来るだろうよ。そういう資質があってこその祇呟依代じゃ」


(そんな……。そんなことって)

「しかし神を騙るとは、あやつも中々豪胆になったの」

 呑気ににやけるオオナの胸倉を掴むと、相手が神というのも構わずに、百瀬は激しく揺さぶった。

「灯冶さんっ! 灯冶さん出してくださいッ」

「ははは、奥に引っ込んどるわ」

「灯冶さん! 今すぐ出てきて! でなきゃ本気で怒りますよ!」

 百瀬の剣幕が伝わったのか、「灯冶、頑張れよ」と言い残し、オオナは潔く身を引いた。


 開かれた瞳が灯冶のものと確認すると、百瀬は正座の上の拳をきつく握りながら、怒りに任せて難詰を始めた。

「私たちの会話、聞いてましたよね?」

「あいにく、眠っていましたので」

「嘘つかないでください」 

 飄々ととぼける灯冶が憎らしくて、百瀬は声を張った。

 それでも灯冶は動じない。むしろその表情には余裕が見て取れた。


「さて? あなたに言われたくはないですね。嘘つきはそちらでしょう。王族と喧嘩する。隆飛を吸血する。私以外と血吻しないと言ったのに、これは嘘ではないのですか?」

 根に持っていたのか、と百瀬は閉口した。

「でも……、だって、どれも不可抗力ですよ」

 百瀬のいじけたような反論に、灯冶はにっこりと整った笑顔を見せた。

「では、私の嘘も不可抗力です。それにあなたは、私の全てを許してくれるのでしょう? これは甘え甲斐があるというものです」

「くっ……」 

 それを言われては元も子も無い。とんだ言質を与えたものだと、百瀬は己の迂闊さを悔いた。しかし、あの日のあの瞬間は、確かにそう思っていたのだから仕方がない。


 苦虫を噛み潰している百瀬に、灯冶はくすりと笑う。冗談ですよ、と百瀬の頬に手を添え、その温もりを味わった。

「こんな戯言を言えるのはあなただけです。だからあなたも、私の前でだけは本音を見せてほしい」

 灯冶と百瀬の視線が交錯する。

「これからあなたを襲うどんな怒りも悲しみも、私が全て受け止めたい。頼りないかもしれないが、あなたの闇を零すことのないよう、精進していきたいと思っています」


 そんなことをして、いつか私の闇があなたを喰い殺してしまわないかしら、と百瀬は一抹の不安を感じたが、有難くその申し出を受けることにした。これからはお互い支え合い、補っていけばいい。時間はたっぷりとある。焦ることはないのだ。


 二人の距離は自然と縮まり、肩を寄せ合った。

「中庭を散歩したとき、私が子供について何と言ったか覚えていますか」

 百瀬の額に灯冶の額が当てられた。近すぎて彼の顔がよく見えない。吐息のかかるその距離で、灯冶が熱を帯びた声で囁いた。その声を聞くだけで、百瀬の胸は騒ぎ、背筋を羽毛が這うような感覚に襲われる。

「国のためにオオナ様の子を産め、ですか?」

「ええ、神の子を産んでほしいと言いました。でも、今は私の子を産んでほしいと思っています」


 百瀬は灯冶の額から顔を離した。灯冶の百瀬を見つめる潤んだ瞳はひたむきで、健気で、いじらしい。

「同じことじゃないですか……」

 その言わんとしていることを素直に受け取るのに躊躇して、百瀬はつい捻くれたことを言う。

「同じじゃない。同じではないですよ」

 灯冶は少し拗ねたような表情を見せたが、百瀬の唇に人差し指を押し当て、「解っているくせに。意地悪な唇だ」と、優しく微笑んだ。


 その指を噛み切ってしまいたい衝動を抑え、百瀬は灯冶の胸に身体を押し付ける。

「でも私、身体も灯冶さん、識格も灯冶さんじゃ、死んでしまうかもしれない。中身がオオナ様くらいで丁度いいのかも」

「それは困る。大丈夫ですよ。少しずつ慣れて行けばいいでしょう」

 この美しい人の好意が、今自分へ一心に注がれている。こんなことがあっていいのだろうか。こんな、泣き出してしまいたくなるような幸せなことが。


「灯冶さん。これからもし他の依腹と子供を作ることになっても、私は構いません」

 百瀬を抱きしめる灯冶の腕が強張った。

 彼が発する言葉を遮るように、百瀬は自分の言葉を滑り込ませる。

「でも、もし私との間に子供が生まれたら、同じ場所に住んで、同じものを食べて……、どんなことも共有できる、ちゃんとした家族になりたい」

 それは、百瀬が失ったもの。ずっと望み、求めていたものだった。


 灯冶は百瀬が息苦しさを覚えるほどに、その身体をきつく抱いた。

「ええ、子供とあなたに、ありったけの愛情を注ぐことを約束します。だからずっと私の傍にいてください。離れることは許しません」

 灯冶の胸の音を聞きながら、百瀬は小さく頷いた。


 背中に回された彼の力強い腕が心地良い。

 風薫る夜風が、睦み合う二人を柔らかく掠めていった。


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