表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神無日には月を抱いて  作者: 成瀬 透
7/8

呪われし災厄の果て

「闇よ。暗黒から滴る墨となり、我を包囲し遮断せよ」

 詞言をそらんじると、百瀬を囲む地面から黒い水が滲み出た。それは徐々にかさを増やし、波打ちながら昇って行く。遂には百瀬を黒水の膜で全面覆ってしまった。

「よし、防術も完全に会得だな」

 阿文の一声に、鍛練場の四隅がざわざわと騒ぐ。


 今や、百瀬の詞言訓練は熱心な邪霊使が見学を申し込むようになっていた。もちろん全員が殊勝な心掛けからではなく、冷やかしも混じっている。しかし中には、真剣な面持ちで闇術を観察する者がいることに百瀬は気付いている。彼らは決して距離を縮めようとはしないが、いずれ言葉を交わせる日が来ることを百瀬は期待していた。


 それよりも訓練中、阿文は普段と変わらぬ態度だったが、その実灯冶とのことを知ってるのではと思うと、気が気ではなかった。

 何しろオオナは休眠期だったとはいえ、この男たちはどんな情報を共有しているか分かったものではない。疑い出すときりがなかった。


(日留加様に会いたいなあ)

 休憩中、百瀬は爽やかな緑風に髪を揺らしながら思いを馳せた。

 この状況を分かち合いたい。彼女がいてくれたら、血吻後の処理も教えてくれたに違いない。

(休眠期が明けたらオオナ様にお願いしてみよう)


 しかし彼女との面会は、要請前に計らずとも叶えられることになる。この日、百瀬は一月ぶりに日留加との再会を果たすのだった。




 隆飛の言っていた日留加の処分に偽りは無かった。姓を剥奪の上、王宮からの追放。王族の姫を裸一貫で低級層へ放り出すのである。これには富士平の完全なる失脚を望む勢保の策略が絡んでいて、灯冶と阿文の諫言は力及ばなかった。

 この措置が富士平と久我の屋敷へ伝令されると、一族はその過重とも思える内容に往生した。


 特に激昂したのは華虞名である。彼女は制止の腕を振り切り、灯冶にまで怒鳴り込んで来た。

「日留加の処遇に不服を申し立てる」

 鍛練場から従者に呼び戻された阿文と、それについて来た百瀬が接見の間へ足を踏み入れた時には、既に華虞名の憤激の霊気が充満していた。三十畳ほどの広間に連なるのは華虞名とその従者、王宮に居合わせた大臣たちと中央奥の灯冶である。


「翻す余地はありません。以降の沙汰をお待ちください」

 内心は不当としていても、灯冶としてはそう言わざるを得ない。大臣たちを前に、これは形式的なもので、実際には本人が不自由せぬよう支援するつもりだとは言えない。

「この下賤の鳩め! 祇呟せよ!」

 お前では話にならない、と華虞名は灯冶に目を剥いた。

 しかし灯冶は臆することなく毅然と対峙する。

「オオナ様は現在休眠期です。それでなくとも、神は呼ぶものでなく降りるもの。私の意志でオオナ様が祇呟されることはありません」


 華虞名はゆらりと立ち上がり、その細い体のえぐれた腹から、ありったけの憤怒を爆発させた。

「おのれ愚民風情が、神の名を騙り謀っているのであろう! 大那実津様が我ら久我の姓をないがしろにするはずがなかろうが!」

 立ち上る気炎は大きく波打ち、今にも術に実体化しそうである。そのざわめきは末席に控える百瀬をも巻き込んだ。


 不穏に漂う霊気に恐れをなしながらも、大臣たちは華虞名を追撃する。

「謀る、ないがしろ。どうやら華虞名様は今回ご息女の起こした事件を随分と些事に捉えているようだ」

「地方どころか国外追放となるところを特別の温情でもって処すること、ゆめゆめ理解されよ」

 発言した大臣たちを、華虞名は舐めるように睨み付けた。その迫力に全員が気勢を削がれ、それ以上の野次が封じられる。

 今は娘にその座を明け渡したとはいえ、彼女もまた長らく万夫不当の勇士であった。邪霊だけではなく、自分の行く手を阻むものは全てその実力で蹴散らしてきたのである。文官に偏りがちな大臣たちに、彼女に対抗しうる気概の持ち主はいなかった。


 その華虞名の怒気が、ふと緩んだ。彼女の振り向いた先を、全員が辿る。応接間の入り口に、息を切らした日留加がいたのである。その後ろには顔を伏せた燐佳が控えていた。

 日留加様、と百瀬は声を漏らす。何故、何処から。問いたいことはたくさんあったが、日留加は百瀬を一瞥すると、中央に仁王立ちしている母の元へ早足で近寄った。


「お母様、霊気を鎮めてちょうだい。私が神の愛でる者を壊そうとしたから、天罰が下った。それだけのことなのよ」

 娘の諌止に、華虞名の血気が綻びる。

「何を言う。おまえとその娘の何が違うのだ。同じ王族ではないか。稀種とはいえ闇の霊気など何と縁起の悪い」

「私の血は濁っている。百瀬は純血だわ」

 それは母の頬を叩き付けたかのようだった。


 華虞名は膝を崩してその場にへたり込み、床に手をついた。

「我らが一体何をした。不相応な依腹を退けて何が悪い。血統を守ることだけを教えられ、娘にもそう躾けて。あんまりではないか」

 床を見つめて独白する華虞名の肩を、日留加が屈んで抱いた。しかし次の一言に、日留加は母から離れ、瞠目する。


「これでは今までの苦労が水の泡ではないか。何のために他の幼子を葬って来たか分からぬ」

 全員が唖然とした。

「お母様、それは……」

 現在適齢期の王族の女子は日留加のみである。しかし十数年ほど前に、確かに乳児が事故や病没した事件が一時期相次いだ。

「案ずるな、すべての子に手を下したわけではない。この子より霊力の強かったほんの数人。あとは偶然じゃ」

 全ては、自分の娘を依腹とするために。


「華虞名様、聞き捨てなりませんよ」

 騒乱とする中で、灯冶の声が一際大きく投じられた。

 峻厳とした顔つきで立ち上がる彼を、華虞名は「灯冶め……」と憎々しげに歯を剥いた。

「お前さえ祇呟の力を有さなければ、こんなことにはならなかったのだ。隠呟依代にすらなれなんだ王の悲劇がおまえに分かるか。おまえに神など在るものか。我らを拒む神など在りはしないのだ!」

 その悲鳴とも怒声ともつかない大音声に、部屋が揺らいだ。

 各々が姿勢を崩して足元を確保しているうち、その変貌は刻々と進行していた。


 最初に気付いたのは側にいた日留加である。続いて阿文が青ざめた。その隣にいた百瀬が顔を上げた時には、その凶変は既に産声を上げていた。

 全身に赤黒い班が浮かび、目玉のような瘤が幾重にも盛り上がっていく。次々と芽吹く蕾のように噴出する霊気は、異様な禍々しさを孕んでいた。

 この霊気に百瀬は覚えがあった。これは、紛うことなき……。


「精霊に、喰われている」

 この状況に不釣合いなほど、阿文は平坦に呟いた。その横顔は驚愕に固まっている。

「お母様――!」

 華虞名のうめき声の切れ間に、日留加の絶叫が聞こえる。

 華虞名は耳触りな軋音を鳴らしながら、その身体を拡張させていた。着物を破いた肉と皮膚の質量は、法則を無視して無尽蔵に増殖を続けている。


 接見の間は、恐慌に包まれた。奇声と共に我先にと逃げ惑う大臣と従者たちを阿文が掻き分ける。尻をついて母を見上げる日留加にたどり着くと、前に回り込んだ。

「やめろ華虞名王! 戻ってこい! このまま邪霊となる気か!」

 爆発的に増殖した霊気の躍動が、一瞬止まる。そして王宮中に轟くかという華虞名の呻きが、言語となって耳を突いた。

「このまま何者にもなれず朽ちるなら、邪霊にでもなった方がマシであろうよ」

 言い終わらぬうちに、地中から飛び出した蔦が日留加を襲う。しかしそれを阿文の生成した岩壁が押し留める。


 華虞名は尚も身体を変容させながら、上座に屹立する灯冶へその顔を向けた。

「灯冶、逃げろ!」

 阿文の声は届いているはずなのに、それでも灯冶はその場を動かない。足が竦んで動けないのか。しかしその瞳は爛々と燃えている。

 業を煮やした阿文が華虞名の側面を走り抜け、灯冶の腕を掴んだ。開け放たれた襖の外へと乱暴に引きずり出す。


「お前たちも早く行け!」

 広間の中にはもう百瀬と日留加しか残っていない。百瀬は部屋の中央で座り込んでいる日留加に駆け寄った。

「日留加様、一緒に逃げましょう」

 振り向いた日留加の顔は、どんよりと濁っていた。

 唸り声を上げる母へ再び向き直る日留加を、百瀬は担ぐようにして外へと運んだ。




 華虞名は遂に天井を突き破り、完全にヒトの様相を失っていた。

 彼女のまどろむような瞳は二列三段の六つに増え、滑らかだった肌は幹のようにひび割れ、めくれ上がっている。その隙間からは所々血が滴っていた。肩からは腕の代わりに、しなる茨の触手が数本揺れていた。流麗な脚線美を誇った脚は、伸張した腹と尻から無数に生え、百足のようになっている。

 彼女の繰り出す茨の鞭が屋敷の至る所を打壊し、王宮中の人間が避難しながら蔓草に包まれる屋敷を茫然と眺めていた。


「第三隊、壊滅しました」

 華虞名が変容してから早三時間、前線で戦っていた邪霊使が、半身にびっしりと苔を生やして駆けて来る。

 矢継ぎ早に指揮していた阿文の額に、青筋が立った。

 ここ中庭では続々と運び込まれる負傷者を、集中的に治癒させているところである。しかし数十の怪我人に対し、回復側の術者が圧倒的に足りない。回復を得意とする水使、光使、風使たちの多くが我先にと避難してしまったからだ。その人手不足に、百瀬はおろか灯冶までもが直々に奔走していた。


 王族の邪霊化など、開祖以来の災禍である。その強さは留まるところを知らず、縦横無尽に破壊を繰り返す。王宮のみならず王都中から邪霊使が収集されたが、彼らは一矢報いることも叶わず、燃料となるべく投入されているようなものだった。既に七割の邪霊使が戦闘不能である。

 木気に優位な霊気は金気であるが、この事態はそんな属性の理さえ超越している。


「風使は防御しつつ邪霊使の救護に向かえ、水使光使は治癒だ!」

「阿文様、母屋に枝が移りました!」

「屋敷なんか放っとけ!」

 阿文の怒号が飛ぶ。

 そこで、渦巻く木々の匂いが一際濃くなった。

 風向きのためではなかった。それまで南端に追い込まれて邪霊使たちの攻撃を受けていた華虞名が、人の固まる中庭に迫って来ていたのだった。


「全員退避! 地下へ!」

 人々は互いに庇いながら土使の掘った穴へと潜った。緊急避難用に設けられている通路に繋がるその穴を、百瀬も目指す。半身を血まみれにした邪霊使に肩を貸しながら、反対側の手で呆けている日留加の腕を掴んでいた。そうして地下へ降りようとしたとき、「早く行け、灯冶!」という阿文の声に、百瀬は立ち止まる。


 支えていた邪霊使を隣の霊使に頼んで殺到する列から外れると、殿を務める阿文と数名の邪霊使と共に、華虞名を待ち受ける姿勢の灯冶があった。

「お逃げください、灯冶様!」

「あなたたちこそ早く逃げてくれ」

 退避組を誘導する燐佳の悲痛な懇願に、灯冶は凛然と宣言した。

 邪悪な草木に包まれた華虞名は、もうすぐそこまで迫っている。


「灯冶! ここは退け!」

 阿文が灯冶の襟首を掴んだ。

「退いてどうする。お前たちを失った後で、あれと誰が戦えるというのだ!」

 灯冶は阿文の手を払いのける。


 ここで満身創痍の避難者たちを逃がすためには、華虞名を足止めするしかない。無傷なのは灯冶一人で、阿文も邪霊使たちも皆その身を切り裂かれ、骨を砕かれ、苔や胞子に身体を侵掠されて気力体力を屠られている。

「だからってお前を犬死にさせるわけにいかねえんだよ! 誰を犠牲にしたって生き伸びろ! 祇呟を待って立て直せ!」

「ふざけるな! 民が皆殺しに遭った後で、何のための立て直しだ!」


 灯冶の主張も尤もだった。

 華虞名の邪霊化の直後から、灯冶はオオナに必死で呼びかけていた。しかし運悪くオオナの休眠期は明けていない。通常の睡眠とは違い、休眠期の眠りは深い。灯冶の声が届くかは運次第だ。このままオオナが眠り続ければ、半日もせずに王都は半壊するだろう。


「来ます!」

 二人が言い争っているうちに、木端の矢と無数の棘が降り注いだ。

 既に華虞名の射程圏内である。

 土使たちの結界がこれを間一髪で防いだが、それでも土の壁を貫通したいくつかの矢が邪霊使たちの身体を穿った。


「阿文、護りを」

 灯冶の掌の中に、大粒の水滴が集約していく。それはたちまち鋭利な片手剣となった。

「馬鹿野郎、死ぬぞ!」

「私は死なない。王を倒す。神に代行し国と民を守る!」

 太刀を持ち替え、華虞名と対峙する。

 華虞名の六つの眼が、嬲る獲物を見つけた様に目尻を細めた。


「百瀬様、お早く!」

 地下に続く穴の奥から、燐佳が叫んでいる。

 灯冶、阿文、邪霊使たちを除いて、地上に留まるのは百瀬と、脇に座る日留加のみだった。

 彼らに加勢すべきか地下に潜るべきか迷っていると、それまで魂が抜けたようだった日留加が、ふらりと立ち上がった。

「日留加様、戦うんですか!」

「違うわ。お母様を独りにはできない」

 青白い顔でそう告げると、日留加は前へと歩き出す。


 百瀬は信じられない思いで彼女の後姿を見た。

 おぼつかい足取りで近付く日留加に、阿文が気付いて目を瞠る。

「姫! 防術をお張り下さい!」

 しかし日留加は誰の声も無視して、母の前へと進み出た。両手を広げ、その瞳を閉じる。

 百瀬にはその行為の意味するところが解らなかった。ただ、只事ならぬその光景に足が勝手に地を蹴っていた。


「姫? 何を……! まさか」

 阿文が日留加の肩を掴もうと腕を伸ばすと、弾丸のような種子の飛礫がその手を弾いた。

 華虞名は自分の娘を暫く見下ろしていたが、その顔をゆっくりと彼女に近付けていく。

「止めろ、邪霊の贄となる気か!」

 灯冶が叫ぶ。

 贄とは邪霊の餌となることだ。邪霊は霊使を喰うことでその霊力を増幅させる。そのため邪霊には強い霊使に引き寄せられる習性があるのだ。灯冶が金使の邪霊に狙われたのもこのためである。


 そんなことを、百瀬は知らない。それでも日留加の前に回り込み、華虞名の巨大化した顔に噛みつかんばかりに怒鳴りつけた。

「やめて、日留加様を巻き込まないでよ!」

 華虞名はそこで静止し、百瀬の顔を覗き込んで充血した眼たちを見開いた。

「黙れ小娘。お前に私の無念が解るものか。子を想う母の気持ちは産んだ女にしか解らぬ」

 潰れた、蛙のような声だった。それでも完全に邪霊化した後に人の自我を保っていることは驚異的であった。


 百瀬の頭上の華虞名は異形の精霊そのものである。今にも頭を飛ばされそうな恐怖と戦いながら、百瀬は必死に自分を奮い立たせた。

「母の気持ちは解らなくても、母を想う娘の気持ちなら解る! あなたこそ日留加の苦しみを解ってない!」

 子を愛さない母親はいても、母親を愛さない子はいない。華虞名は自分の目的のために娘を支配し、愛情という糸で操った。これは罪だった。許されざる大罪である。


「余計なことしないで」

 立ちはだかる百瀬が、前面に手をついた。

 後ろにいた日留加が百瀬の背中を突いたのである。百瀬を跨ぐように、日留加は足を踏み出す。その瞳には人でなくなった母しか映していない。

「駄目!」

 百瀬は地に這いながらも、彼女の足首を必死に掴もうとする。

 それを日留加は踵で蹴った。


 日留加を華虞名の脈動する霊気が包み込む。しかしそれは彼女を傷つけることはなく、まるで羊水のように日留加を漂わせた。 

「そうか、それが君の選んだ道か」

 灯冶の低い呟きが、百瀬の耳に入る。

「やめて!」

 百瀬が制止する以前に、灯冶は即断していた。


 灯冶の隠れた才に、俊足があった。霊力の重んじられる伯都において、体術はさして注目されない。

 しかしこの時にはその脚力が功を奏した。

 地を踏みしめるや否や、灯冶は疾風の力を借りて日留加に迫った。


 駆けながら水剣に力を込め、霊気を纏わせる。遠隔の攻術では日留加に傷一つ負わせられない、可能性があるとすれば近接から霊気を叩き込むに尽きる。

 霊種の相性も幸いした。

 日留加を覆う枝葉を一陣、吹き飛ばす。

 その切れ間の露わになった背を、

(許せ!)

 極限まで硬化させ鋭利にした水剣で、灯冶は斬った。


 鋭い悲鳴と共に、左脇下から右肩へと紅い血が噴く。

(だが、浅い)

 物足りぬ手応えに第二陣を薙ごうとしたとき、華虞名の肩から生えた触手に打たれ、灯冶は後方に吹っ飛ばされた。

 阿文の生成した砂の衣が灯冶を受け止め、衝撃を和らげる。それでも咄嗟に鞭を受けた水剣は、激突に耐えかねて飛散していた。


「おのれ」

 かつては白くたおやかだった腕たちが、固い枝となって日留加に張り付き抱きかかえた。

 日留加の赤い髪が、枝から無数に生える草草の茂みに埋もれて揺らめいている。

 華虞名の開いた咢に挟まれた日留加は、それが閉じられると共に姿を消した。

 百瀬は絶叫した。

 もう駄目だ、と全員が思った。

 完全に、喰われた。


 華虞名は天に向けて咆哮した。火気を取り込み、華虞名の霊気が赤く染まる。触手がけたたましく波打つと、その先から四方に火が奔る。その速さはこれまでの攻撃の比ではなく、瞬く間もなくその視界を赤で埋めた。

 避ける暇もなく、防ぐ暇も無かった。百瀬はただ身を強張らせて屈み込んだ。


 しかし炎の矢は百瀬に届かず、熱風だけが髪を揺らす。火が逸れたのかと、瞑った瞼を開けてみると、灯冶を呼ぶ阿文と邪霊使たちが彼に駆け寄るところだった。

「忌々しい。そんなにその娘が大事か、力なき依代よ」

 どうやら百瀬は灯冶の防術で護られたらしい。その代償に、灯冶は己の身体を護りきれなかった。


「灯冶さんっ」

 倒れている灯冶の側へ寄ると、苦痛に歪めた顔が一瞬、綻んだ。

「大丈夫、でしたか?」

 力なく笑う姿は痛々しい。見ると、左袖が消失し、焦げた布の下には爛れた皮膚が覗いていた。

 それが眼に映ったとき、百瀬の箍は一気に緩んだ。長年きつく引いていた手綱が、指をすり抜け放り出されて行く。


「もう飽いた。まとめて片づけてくれる」

 華虞名はその厚い唇を目いっぱいに開き、息を吸い込んだ。

 阿文も、邪霊使達も、ここまでかと観念した。

 戦えない。人の力をあざ笑うかのように、華虞名の霊力は彼らの総力を軽く凌駕している。これまで研鑽を積んだどんな攻術も、津波に小石を投げるようなものだ。


 阿文は灯冶を担ぎ、地下に向かう穴へと走り出す。

 邪霊使たちから、一斉に防術の詞言が叫ばれた。自分たちを護る術ではない。阿文の足を止めないための術である。


 一人蚊帳の外にいる百瀬は、心は燃えているのに、身体は冷えきっていた。しかしその冷えは百瀬にとっては馴染み深く、力強い冷えだった。

 命がけで灯冶を守っている、阿文の言葉を思い出す。

 ――王のために、その力を揮え。

(オオナ様、力をお貸しください)

 百瀬は瞠目し、神に祈る。


 怒りを抑えるな。

「闇よ」

 苦しみに耐えるな。

「我に眠る轟然たる漆黒の獣よ」

 胸を切り刻む、獰猛な悲しみを解き放て!

「荒ぶるオロチとなり我が敵を掃討せよ!」

 百瀬の足元にいたクロが総毛立つ。眸と四肢の先端を染める黒色が拡がり、全身を染め上げた。やがてその黒は兎の形を越え、砂鉄が飛び散るように爆発的に拡散する。


 大地が割れんばかりの地鳴りに、阿文の足が止まった。阿文の肩越しに目を開けた灯冶は、信じがたいものを目の当たりにする。

 華虞名に、七首の黒き巨大な大蛇が絡みついていた。その身を蔦に巻かれ、焔に焦がしながらも邪霊を締め上げ、彼女の肉に牙を立て、食いちぎる。どちらのものともいえない血の噴射が、地上に降り注いだ。


「そんな馬鹿な」

 その場の誰もが血飛沫を浴びながら、奇跡を体感していた。

 百瀬が行ったのは太古の闇術である、召喚術である。召喚術自体は珍しいものではない。しかしどんな強力な霊使でも、中型の獣一匹成せれば大喝采である。このような大型の化物を意のままに操るなど、規格外にもほどがある。


 華虞名もこれには大いにたじろいだ。応戦を試みているものの、押されている。怪物同士の叫号が、天を裂くようだった。

「一気に攻めなさい!」

 阿文の背から滑り落ちた灯冶が、下知を飛ばす。

「大蛇の援護を!」

 その声に触発されたように、次々と繰り出された攻術が華虞名に降りかかる。

 雹と水蒸気が炎を弱め、かまいたちが身体中に生え続ける枝葉を刈り、石の飛礫と鉄斧が皮膚に食い込む。霊術中和と物理打撃とが、確実に華虞名の動きを鈍らせていた。


 一見優勢に盛り返したようであるが、それでも百瀬は危機感を強めていた。

 召喚者である百瀬と、召喚獣である大蛇の感覚は薄く繋がっている。締めろ、屠れと命令しつつ、大蛇の受けた傷は百瀬にも還って来るのである。皮膚を焼かれ、触手に貫かれる痛みが、百瀬の気力を容赦なく削いでいく。


 それでも百瀬は手を緩めなかった。剥き出しになった華虞名の骨に大蛇の舌を絡ませ、粉砕した。その苦悶にのたうち回った炎の鞭に、今度は大蛇の首が撥ねられる。

 首が砕けた感触に、百瀬は悲鳴を上げて倒れ込んだ。


 このままでは消耗戦の末、こちらの霊力が尽きる。もう、猶予が無い。全員が軽度から重度の火傷を負い、その上肉を抉られている。今の均衡が崩れれば、瀕死のこちらはたちまち全滅である。

(やるしかない)

 勝率は五分もない。が、今ならやれる。やるしかない、と百瀬は覚悟を決めた。失敗すれば死ぬ。だが、挑まなくともどうせ死ぬ。


 百瀬は阿文と灯冶の元へ走った。走りざま、胸元に忍ばせていた髪入りの護符を取り出す。もうクロは使えない。かといって霊気の媒体なしに高度な術を生成する自信はなかった。

「私を、王の頭近くまで運ぶことはできますか」

 問われた阿文と灯冶が、素早く顔を見合わせる。

「何か策があるのですか」

「はい」

「遠隔の護りは精度が落ちる。むやみに近付けば狙い撃ちされるぞ」

「大丈夫です」

 何の確証もなかった。しかし、そう言わざるを得ない。


 阿文は短く頷いた直後、印を結び直す。早口の詞言が呟かれるや否や、百瀬の足元が蠢いた。分裂するように膨張する岩土は、鋒矢状に邪霊目がけて伸びていく。

 その頭を越えるかというほど伸びたとき、華虞名の口から一際大きな火炎が大砲のように発射され、これを挫いた。

 直撃は免れたものの、宙に放り出された百瀬は前後を失った。

 目前に新しい火砲が迫ったとき、百瀬の背をぐいと押し上げる追い風があった。

(灯冶さん!)

 これは紛れもなく灯冶の霊気である。一瞬で風は散ってしまったが、それで十分だった。火の玉は空を切り裂き、百瀬の足下を通過した。

 更に、腿の後ろに現れた風の渦が、落下する百瀬を空中で支える。


 今や、手を伸ばせばその眼球に触れるほど百瀬は華虞名に肉薄していた。

 華虞名の眼がぎろりと百瀬を捉える。瞳を被う粘膜が一度内側へ縮んだかと思うと、眼の縁から粘膜が飛び出した。百瀬を捕えようと、その透明の被膜は大きくその腕を広げている。


「闇よ。暗澹を司りし大鎌よ」

 迫る被膜はしかし百瀬を貫くことは無かった。百瀬の前面に突如現れた水の防術がこれを弾いたのである。

 百瀬は次なる攻撃を避けようとはせずに、握った両手を天に大きく掲げた。

「我が腕となり恐慌を掻き立てる御霊を刈れ!」

 灯冶の護符が、百瀬の手の中で黒い閃光を放った。

 振り下ろした光はみるみる暗黒の霊気を纏い、百瀬の身の丈以上もある巨大な鎌となる。

 両腕を闇気で強化させ、鎌の刃先を華虞名のうなじ目がけて渾身の力で食い込ませた。


「ぎぃやあああああああああああ」

 華虞名はもがき、鎌を振り落とそうと首を振り乱す。

 だが、巻き付いた大蛇の圧力がこれを抑え込む。

「ぐうううううう」

 百瀬は唸った。腕に青筋が浮き立ち、腱が切れそうだった。刃を差し込んだはいいものの、歪な骨がつかえてこれ以上斬れないのだった。だがこの術に再戦はない。正念場だった。


(ここで決めなきゃ)

 腰を引いて灯冶の風渦に体重をかけながら、柄を握る手に一層の力を込める。しかし肝心の霊気と腕力がもう力尽きかけていた。大鎌の生成すら解けてしまいそうなぎりぎりの境界である。大蛇の首も最初は七首あったのが既に二首にまで削がれていた。しかしそれを再生させる霊気など残っているはずもない。

 華虞名はのたうち回りながらも、百瀬の作った切口を、細胞を再生させることで修復し始めた。

(どうする!)

 力んだ全身の血管が破裂しそうだった。

(ここまで追い詰めたのに、あと一押しなのに、こんなところで終われない!)


「水よ! 我を潤す湧水よ。枯渇した源泉を滾らせよ!」

 その詞言が耳に届いた瞬間、百瀬の霊気が爆発的に増幅した。

(いける!)

 大鎌と自分自身を漲る闇気で包み込み、思い切り腕を振りかぶる。

(今、この手に全てが懸かってる!)

 そしてぱっくりと開いている華虞名のうなじに再びその刃を叩き込んだ。


「あああああああああああ」

 鎌を留めていた固い感触が、脆い感触に変わる。百瀬はその一点目がけて更に霊力を集中させた。

 そのとき、百瀬の腹に何かが触れた。華虞名の触手か、と背筋を凍らせると、それは側頭部を失い、赤黒い血を撒き散らす大蛇の首だった。かつてクロであった大蛇は百瀬にきつく巻き付くと、百瀬の身体を華虞名から離すように引っ張った。百瀬の手から離れなかった鎌は骨を斬り砕き、肉を両断し、いくつかの眼球を割った。


 断末魔と共に、狂乱する焔と樹葉が百瀬を呑み込もうとその牙を剥いた。これを灯冶のつむじ風が蹴散らす。

 百瀬を支えていた灯冶の風渦が解けてしまい、百瀬は足場を失って落下した。幾重にも張られた水の膜を突き抜け、百瀬は地面に叩き付けられる。しかし水の防術のおかげで大した衝撃ではなかった。

 倒れた百瀬の前方に、華虞名の肉塊が轟音を立てて突き刺さる。

 薄れゆく意識の向こうで、灯冶が「止めを」と檄を飛ばしていた。


 宿った忌まわしき力は、このために。

 今、全ての悲しみが報われる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ