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神無日には月を抱いて  作者: 成瀬 透
6/8

涙のぬくもり

 一人で寝床に臥した後も、百瀬は悶々として寝付けなかった。

(ほんとオオナ様には困ったものだわ。そんなに飲みたきゃあげるわよ、灯冶さんをいちいち絡めて来ないで欲しいわ)


 そこで百瀬はふと気付いてしまった。確かに灯冶には安易にあげられる気がしないが、オオナにならひょいと献上できる気がする。何故? だってオオナは人じゃないから。神なのだから、細やかな思慕の介入する余地なんてないのだ。


(……違う。そうじゃない)

 例えどんなに取り繕っても。尤もらしい理屈づけをしても。彼に対して湧き上がるこの甘い熱を看過するのは、もういい加減無理がある。

(何でこんなことになっちゃうの? 日留加様を応援してたじゃないの。灯冶さんだって私を必要以上に構うから悪いのよ!)


 ここで一人悶えていたって仕方がない。取り敢えず今日はもう寝ようと百瀬は相棒を手繰り寄せようとした。しかし傍らに寄り添っているはずの兎を探す手が、宙を切る。

「クロ?」

 クロはいつもぴたりと百瀬にひっついている。それがたとえ就寝中でも、だ。不審に思って百瀬は布団の中から頭を出し、這い出そうとした。


 発されるはずの声が、喉の奥で縊られて行き場を失った。

 声が出ない。身体も動かない。暗闇の中で百瀬の細切れの息遣いが静かに響いていた。唯一自由に動かせる眼球が、恐怖と困惑の色に染まっていく。


(どうして?)

「こんな夜中にどうしたの? 眠れないの?」

 枕元に正座する、その人物は。眼を覚ましてからずっと、会いたかった、百瀬の憧れ。

「生還おめでとう、百瀬。でも、ずっと寝てて良かったのよ? それとも邪霊にでもなってくれれば、私の出番だったのに」

 微かな月明かりに、赤い髪が照らされている。


「な……ぜ? どう、して」

 見えない触手に全身を縛られているようだった。それでもそれを必死で振りほどこうと、百瀬は全力で霊気を研ぎ澄ませる。

「あら凄い、声が出るの。あなたって本当に古の王族だったのね。すっかり騙されてたわ。百瀬姫、と呼んだ方がいいのかしらね?」

「ごめ……なさい、で、も」

 視界が霞み、逆光である日留加の顔は見えなかった。けれど彼女の霊気は仄暗い、侘しい奈落を思わせる。


「ねえ、どうして穢人のままでいてくれなかったの? あなたに依腹になられたら私困るのよ、困るの。女性王族の中で一番じゃなきゃいけないの。そうじゃなきゃ、お母様に認めてもらえない。私の名を、呼んでくれない」

 締め付けて来る見えない無数の腕が、徐々に百瀬を締め上げていく。足元がよろめいて、百瀬は横向きに倒れた。血液が停滞し、呼吸すら絶え絶えになり、喉を伸ばして喘がねば、すぐに意識を失ってしまいそうだ。


「でも私、本当に百瀬が好きだった。これは嘘じゃない。だから殺しはしないわ。どんな形であれ一生面倒を見てあげる。私必死に闇術の練習したのよ。クロを解体するのも、とっても苦労したの」

 彼女の目的は何か、これから一体自分の身に何が起こるのか。百瀬は戦慄しながらも、未だこの現状を受け入れられなかった。日留加が自分に酷いことをするはずがない。

「怯えてる? ごめんね、うまく発動するといいんだけど。これから私の霊気を百瀬の中に流すわね? あなたの霊気を封殺するの。封印じゃなく、封殺。分かる?」


 意味も意図も何も分からなくて、百瀬はただ日留加を見つめた。女性王族の頂点に立つために? 王に褒められるために? そのために自分を本物の穢人にしようとしている?

 日留加が百瀬の肩をぎゅっと掴んだ。そしてその手の甲の上に額を乗せる。


「ひる……か、ひるか」

「ごめんね。私は絶対、地獄に落ちる。それでも止めるわけにはいかないの」

 両腕でぎゅうっと抱擁される。どうして? 彼女の腕はこんなに柔らかく優しい。それなのに、どうして。

「闇よ。渓谷より這い出し泥炭よ。塗り重ね染め上げ、気魂を封殺せよ」

 日留加の火使とは思えぬ冷たい掌が、百瀬の頬を包んだ。百瀬のわななく口を被うように、日留加の柔らかな唇が貼りついて来る。


 ひ、と声にならない悲鳴を上げた。脳髄から脊髄を異形の波が激流のごとく流れ落ちていく。身体を拘束されつつも、それを凌ぐ力で仰け反った。生命を凌辱される感覚。精神を粉砕される感覚。耐えられない、これに耐えれる霊使などいない。


(いや、いや、死ぬ、霊気が、あああああああああ!)

 日留加から流れ込む霊気は容赦なく、手綱を緩めはしなかった。

(ああ、やっと)

 絶望が百瀬の体内を腐食させて行く。抗いようのない蹂躙に、成す術もなく百瀬は侵された。

(やっと光が見えて来たのに)


 身体中の力が枯れてゆく。瞼を開けていることすら出来なくなって、百瀬は視界を失った。

 ふと、日留加の口が百瀬から離れた。

 もう、充分なほど霊気を流し込んだのか。百瀬は自分の身体を支えきれず、床に倒れ込んだ。


「どうしてあんたがここにいるのよ」

「水よ。混濁なき清流よ。夾雑を呑み循環すべき巡りを押し流せ」

 気絶した百瀬の喉に手を翳し、灯冶はもう片手で印を組んだ。

「どうやって私の結界を破ったの。それ以前に、式神は潰したはずよ、どうして気付いたの」

「百瀬、意識はある? 私の声が聞こえるなら手を握って」

「答えなさいよ!」

 金切り声を出されてやっと、灯冶は日留加を視界に入れた。

「持たせた護符が知らせてくれた。結界は水術で何とか破れたよ。多少、オオナ様に助言は頂いたけど」

「そんな、だからってあんたなんかが」

「人は成長するんだ、日留加」


 灯冶は百瀬を横向きに抱き上げると、詞言を唱えて緊縛の術を解いた。百瀬の身体はびくりと跳ね、次いでだらりと弛緩した。

「私とていつまでも子供ではない。すぐに阿文がやって来る。逃げてもいいが、その際には容赦はしない」


「あんたさえいなければ」

 百瀬を抱きかかえながら部屋から出て行こうとする灯冶の背に、日留加の呪詛が突き立てられる。

「あんたなんか産まれて来なければ良かったのよ。国を乱す忌み子! 死んで。今すぐ死になさいよ!」

 灯冶は歩みこそ一瞬止めたものの、顔色一つ変えなかった。そしてそのまま振り切るように、日留加を置き去りにした。




 濁った霊気を濾過するため、百瀬は灯冶の部屋で養生することとなった。神と依代の発する清陵な霊気で包むことが回復の近道、という理由だ。

「この術は闇術じゃから闇士に効きは悪い。術自体の生成も脆いようじゃし、霊気清浄の術をかけ続けて安静にしてれば治るじゃろ」

 その言葉通り、三日間の灯冶と燐佳の献身的な介護により百瀬は危機を脱した。頭が朦朧としていて、悪寒と発熱に苦しめられたが、それでも四日目には随分楽になっていた。


 夜中、やっと意識がはっきりすると、誰かが手を繋いでくれていることに気が付いた。

 ゆっくり首を傾けると、百瀬の指に自分の指を絡めて、隣で灯冶が眠っている。

 邪霊に闇術を使った際とは違い、今回は途切れ途切れに記憶があった。無理やり流動食を流し込まれたり必要以上に布団を積まれて暑かったりしたが、燐佳と交代で献身的に尽くしてくれていたのを百瀬は知っている。


(何だかこの人に心配かけてばっかり)

 自身の本意ではないにせよ、ここのところ事件続きだ。否、百瀬が目を覚まして体力が戻りきっていない時期を日留加は狙ったのだろうから、この状況は必然とも言えたが。

 枕に、一滴、涙が零れた。一度溢れたそれは止めどなく流れ続け、嗚咽を我慢できなくなったが、それでも声を押し殺して百瀬は泣いた。


「……百瀬?」

 灯冶だった。暗がりの中で上半身を起こして、不思議そうに、こちらの様子を窺っている。

 百瀬は絡まっていた手を解いて両手で自分の顔を覆った。横向きに転がり、灯冶に背を向けて、百瀬はなお泣き続ける。


「大丈夫ですか? 痛む? 気持ち悪い?」

 身を乗り出し、百瀬の背をさすりながら、覗き込むように問いかける。

 つい先ほど灯冶に心配させることを反省したばかりなのに、今またこんな不安そうな顔をさせてしまっている。それでも、どうしようもなかった。自分ではこの悲しみを止められない。


「日留加様はどうなったのですか?」

「オオナ様が直々に結界を張って、あなたが入っていた地下牢に入れられている」

「日留加様に会いたいです」

「……分かった。もっと元気になって、お許しが出たら会いに行こう。約束する」

 微かな逡巡のあと、それでも灯冶ははっきりと力強く言い切った。


「まだ信じられない。どうして、あんなこと……」

「重圧が、追い詰めたんでしょう。彼女には我々の考え及ばぬ苦悩があった」

 腹の上で拳を握り、灯冶は深く頭を垂れた。

「処分は重いですか?」

「審議中です。何せ日留加は皇女ですし、色々と貴重な存在でもある。王は無罪放免を主張してますが、さすがに無理でしょう」


 あの優しい日留加が。王族らしい気品と力を備えて自分にすら手を差し伸べてくれた彼女が、その地位を追われようとしているのか。そんなことが許されるのか。自分が現れたばかりに、彼女を脅かしてしまったばかりに。自分のせいで!

「日留加様の価値に比べれば私なんか、どうなったって良かった。それで日留加様の気が済むのなら、あのまま穢人になったって廃人になったって構わなかったのに」


 顔を包んでいた両手を掴まれ、そのまま持ち上げられて半身を起こされた。丁寧にこじ開けられて露わになった百瀬の湿った眸を、灯冶は捕らえて離さなかった。

「そんなことを言うものじゃない。これ以上私を孤独にしないでください」

 灯冶の懇願は切実で、自分と同様、この人も日留加の凶行に打ちのめされていると、百瀬はやっと気付いた。だからといって彼の言う一方的な条件を呑むことは出来ない。もう、求められるだけでは満足なんて出来ない。


「だったら灯冶さんもどこにも行かないで」

 拘束されていた両腕を伸ばして、指先を灯冶の首筋に這わせる。緩く腕を引きよせると、抵抗もなく灯冶の頭は百瀬の肩口に沈んだ。

「これ以上誰も失いたくない。私だってもう独りは嫌なの」

 阿文の言う通りだった。百瀬は日留加と灯冶に深入りしすぎた。

 長らく一人きりで生きて来たというのに、自分はこんなにも人の温もりを求めていたのか。


 灯冶の指が、百瀬の背に丁寧に添えられる。されるがままにしていると、首筋にかかる彼の吐息が途切れ、やがて大きく息を吸い込んだ。

「私はどこにも行きません。あなたを独りにもしない」

「信用できない。灯冶さんは死にたがりだもの」

「だってあの頃はあなたを知らなかったから」

「でも、いずれ私の面倒を見るのに嫌気がさしたら? 子供でも出来て暇じゃなくなったら? 灯冶さんの責任感はいつまで続くの?」

「あなたの血が温かい限りは」


 驚いて自分から灯冶を離すと、灯冶はやけに真摯な顔をしていた。

 嬉しい時に流す涙がこんなに熱いなんて、すっかり忘れていた。

 幼い頃、和澄の森の中で、自分の居場所はここじゃないと思っていた。母を亡くした後は、自分の居場所はどこにもない、と思うようになった。でも、もし許されるのなら。

(ここを私の居場所にしてもいいですか)


 百瀬は灯冶の左手を取り、その掌に頬を擦りつけた。とめどなく溢れる涙が袖口を濡らしたが、灯冶はそれに構わず右手で百瀬の髪を撫でる。

「約束する。私を信じて。だから今は、安心してお休み」

 耳元で囁かれた言葉はこれまでになく誠実だった。百瀬はやっと安心して目を瞑った。


(たとえ交わした契りがこの場限りの口約束だったとしても)

 今後彼の態度が翻ったとしても、自分は灯冶を責めず恨みもせずにいよう、と百瀬は誓った。

 ただ、いまこの瞬間の幸福だけは、ずっと忘れずにいようと思う。




 更に三日経って何とか自分自身で身の回りのことが出来るようになった頃、日留加との面会が許可された。

 灯冶と阿文と一緒に百瀬は地下牢へ向かう。

 謝りたい、と思っていた。あれからどんなに考えても、どうしても彼女を咎める気になれない。彼女の許されざる行為も、駆り立てさせたのは自分なのだ。何と声を掛ければいいのか、日留加は自分を拒絶しかしないのではないか。心が鉛のように固く重く、百瀬の足取りは憂鬱だった。


 阿文が牢番の男に話しかけると、牢番は困ったように首を振った。何やらやり取りしている最中に、奥の牢から突然怒号が反響した。

「この、半端者!」

 阿文が止める牢番を無視して早足で牢に向かい、様子を窺った。その後にくっついて行った百瀬と灯冶も、声の主を確かめる。

「どこまで私の顔を潰せば気が済むのだ! おまえのために母がどれほど心を砕いて来たか分からぬのか!」


 目に見えぬ壁に両拳を何度も打ち付け、髪を振り乱す姿は地獄の亡者のようだった。

 牢には結界が施されている。それは本来、中から脱走や悪さできぬよう役割を果たすものだが、今や日留加を保護しているようだった。

 当の日留加はというと、華虞名から離れるように牢の隅に座り込み、しゃくり上げながら泣いている。


「王! 何事ですか」

 阿文が大股で迫ると、華虞名はギッと振り向いた。その眼は赤く充血しており、頬を痙攣させながら歯を剥く姿は獣のようである。

「何じゃこの畜生めが! 引っ込んでおれ!」

 かざされた掌から蔦が噴き出し、頭を庇った阿文の腕の皮膚を破る。

 阿文の後ろに百瀬と灯冶の姿を認めると、華虞名は眼尻と口角を吊り上げ、息を大きく吸い込んだ。


「阿文、出直そう」

 灯冶は百瀬の腕を掴んで踵を返す。それに倣って背を向けた阿文を華虞名が追いかけようとしたその時、日留加の悲痛な声が聞こえて来た。

「お母様止めて! 全部私が悪いんだから!」

 ゆらりと、華虞名の身体が揺れた。阿文から日留加へその視線を移すと、腹を痙攣させるように深い呼吸を繰り返す。


「そうじゃな。そなたが悪いな。とんだ狼藉者よ」

 華虞名は再び結界に手を叩きつけ、その透明な壁を抉るように爪を立てた。

「返せ! 私の労力を返せ、時間を返せ、この出来損ない! ここから出たその瞬間、我がお前を穢人にしてくれる!」

 廊下の角を曲がる刹那、日留加と一瞬、眼が合った。それはいつもの溌剌とした彼女のものではなく、怯える童子のようだった。


「おい、王はいつからここにいるんだ」

 牢番に問い詰める阿文の眉間には深い皺が刻まれている。

「一時間ほど前からですかね。そろそろ終わると思います。でも、毎日二、三回いらっしゃって、ずっとあの調子ですよ」


 先程の日留加の眼が忘れられず、百瀬は牢へ戻ろうとした。

 そんな百瀬の腕を、素早く灯冶が掴む。

「拗れるだけです。止めておきなさい」

 百瀬はやりきれない思いに唇を噛んだ。これまで散々助けてもらったのに、こんな時にも役に立てない。


 力が、欲しかった。守られるだけでなく大切な人を守る力が。それがたとえ、災いをもたらすものだとしても。




 身体はすっかり回復したというのに、未だ霊気の巡りに乱れがあるとかで、百瀬は日に何度もオオナに霊気清浄の術をかけられた。自室に戻った後にオオナが休眠期に入ると、今度は頻繁に灯冶の部屋に呼ばれるようになる。確かにこの部屋の空気は清明で、霊気が澄み渡っていた。


 灯冶の部屋には常に燐佳も伴われ、主に茶を振る舞われながら詞言の勉強をしていた。燐佳は毎度私が同行して宜しいのでしょうかと居心地悪そうにしていたが、百瀬は、きっと灯冶とて、その方が気が楽なのだ。今は何だか二人きりになるのが憚られる気分だった。

 そんなわけで今日も三人で灯冶の抹茶を啜っている。この味は燐佳も大層気に入っている。


(灯冶さんは日留加様の居場所を知っているのかしら)

 上目づかいにちらりと灯冶を盗み見るが、すぐにその好奇心は萎んだ。

(知っててもどうせ教えてなんかくれないわね。王にあれだけ詰られても口を割らないんだもの。どこにいようが、日留加様が健やかに過ごされていれば、それでいい)


 あれ以来、オオナは日留加を牢から出し、どこかに隠してしまった。誰も追跡できぬほど忽然と姿を消したことに華虞名は荒れ狂ったが、オオナは相手にせずそのまま休眠期に入ってしまった。そのとばっちりを日々灯冶が受けているのである。


 物憂い時間が過ぎる中、すい、と襖の隙間から鷲が滑り込んで来た。灯冶の肩に止まると、忽ち紙切れに姿を変える。

「阿文から呼び出しです。百瀬も一緒に行きましょう」




 馬車の着いた先は、王都の南端にそびえる山林だった。

 整然と立ち並ぶ林の中に、一本だけ無軌道に捻じれる樹木があった。他の木より十倍はあろうかという幹は、周囲の幹枝を取り込み、複雑に絡み合っている。あらゆる方角に伸びた枝葉は、広範囲の木々の成長を歪めていた。

「ちょっと手こずっててな。たまには仕事するのもいいだろう」

 阿文の言う仕事とは、この異常発達し続ける巨木を撤去することだった。この山に植えられた木は、全て檜などの商業用である。それらの成長を促進するために木術が施されているのだが。


「恐らく、術の生成に破綻があったと思う。でも、俺じゃこれ以上の増幅を止めるので精いっぱいだね。色んな霊種の術が入り組みすぎてて簡単には解けない」

 お手上げというように両手を肩口に上げるのは、隆飛だった。邪霊討伐の他にこういった高度な霊術を要する厄介事も、立派な公務として王宮の霊使はしばしば駆り出される。彼もこの場に集まる他の王族と同様、久我一族を代表する霊使として派遣されていた。王宮外だからか他の霊使が大勢いるからか、百瀬と灯冶を一瞥しても、特に突っかかることなく木を眺めていた。


「金術、土術も試してもらいましたが、金術で切り倒しても、切り株からすぐに生えるんです。土術で根を腐らせようにも、腐りながら分枝してしまいます」

「ここ数日でいきなりなんです。このままだと辺り一帯に損害が広がります」

 現地で働く霊使たちが、弱り切った顔で阿文に訴えた。

 こうしている間にも、呪われた木はその表面積を脈々と肥やしている。


「本当は、火で焼き払えればいいんですが」

 王宮の事情に疎い庶民ならではの発言に、王宮組は全員言葉を返さなかった。

 この大木をかかった術ごと燃やせるとしたら、富士平一族の火使しかいない。しかし彼らは現在、一族総員謹慎中だ。余程の緊急時でもないかぎり、公務に就かせるわけにはいかない。

「じゃあ、取りあえず促成を止めますか」

「促成は止めても養分は吸い続けるんじゃない? こいつを倒さなきゃどっちみち土が死ぬだろ」

 良策が浮かばず、皆頭を悩ませている。 


 あの、と百瀬は近くにいた霊使に尋ねた。

「あの木は、枯れちゃっても大丈夫ですか?」

「ええ、もう使い物になりませんから」

 それを確認すると、百瀬は「阿文さん」と、背後から話しかけた。

「ちょっと試したい術があるんですが」

 囲まってうんうん唸っていた男たちが、一様に百瀬へ注目した。

「術を解くことは出来ませんが、霊気を吸い取ることなら出来るかもしれません」


 その発言に、灯冶と阿文以外の誰もが息を飲む。

「おいおい、仙駕ちゃん。駆け出しの君には荷が重いよ」

 それまで百瀬を無視していた隆飛が、急に馴れ馴れしい口を利く。百瀬はそれをかわす様に身動ぎしながら、阿文の意向を窺った。


 それを見ていた灯冶が、難しい顔で腕組みしている阿文の肩をとんとんと叩く。

「ものは試しです。やってみては?」

「まあ、お前がそう言うなら」

 その決断に、隆飛以下の霊使たちは少なからず動揺した。そこかしこから、もしかしてあの方が? 闇の? という囁き声が漏れ聞こえてくる。


 百瀬は喜び勇んで木に近付くと、目を瞑り、すうっと大きく深呼吸した。粟立つ心を落ち着かせ、自らの深淵を覗く準備を整える。

「闇よ」

 大きくはないが、よく通る声だった。水面に雫が滴るように、それは波状となって周囲に伝導して行く。

「侘しき空洞よ。集り、屠れ。その腹に霊気を喰らい、飢えを満たせ」


 直後に、反応は無かった。術は失敗に終わったかと、落胆の空気が漂い始める。

「気にすることないよ。詞言を使いこなすにはもっと時間と経験が」

 隆飛の声は、そこで途切れた。

 術の発動が、木に異変をもたらしたからである。

 懼れるように震える葉音が、林を騒がせた。しかしそんな足掻きも虚しく、脈動していた幹は急速に水分を喪い、表面積を縮ませている。葉は渋く変色しながら落葉し、枝も、根も、全てが雄々しい茶から、土気色を経て灰色へと変貌していく。その動きが止まった時、そこにはすっかり生気を抜かれた枯れ木が佇んでいた。


 百瀬がほっと一息つくと、群衆からたちまち歓声が沸いた。百瀬が驚いて見回すと、灯冶の顔が珍しく上気している。

「素晴らしい。優秀な闇使誕生の瞬間に立ち会えて光栄です」

(私の力が、人の役に立った)


 その怒涛の感激に、百瀬はさらわれそうになる。膝が脱力しそうになるのを堪え、足の裏に力を込めて、百瀬は懸命に大地を踏みしめた。




 王宮に帰ると、正門は随分と賑わっていた。

 見知った侍女や邪霊使、その他王宮の従者たちがずらりと見える。

「先に式神を飛ばしていたんですよ。皆喜んでくれている。よく頑張りましたね」

 その顔には誇らしげな笑みが湛えられている。

 向けられた笑顔に、百瀬の胸がふわりと浮いた。


 すると、どこからともなく手を打つ音が鳴った。それにつられるように次第に音は大きくなり、百瀬を温かく包んでいく。

 紅潮する顔を見られるのが恥ずかしくて、百瀬は俯いた。勝手にはにかむ口元を抑えるのが忙しい。

 そんな微笑ましい光景に、一つの影が気配を殺して迫っている。


 はっとする灯冶に百瀬が気付くのと、肩に手が置かれるのが同時だった。

「噂には聞いていたけど、なかなかやるね、仙駕ちゃん」

 背後に隆飛が立っていた。

 その表情はにこやかだが、穏やかではない。


「これで新しい依腹候補の座も安泰かな。日留加も安心して地方で暮らせるね」

 見上げる百瀬に衝撃が走るのを確認して、隆飛は更に口角を吊り上げた。

「あれ、知らなかった? あいつ、姓を剥奪されて地方に追放されるんだよ」

 百瀬は反射的に、灯冶へと振り返った。しかし彼は百瀬と視線を合わさず、ひたすら隆飛を睨んでいる。


「異端同士仲良くしてたのに、残念だったね。でも、嫉妬深い女が煙たいっていう依代様の気持ちも解るよ。あいつは王族の恥だ。富士平も厄介者を押し付けられて可哀想に」

 先ほどまでの舞い上がるような気分は、隆飛によって引きずり降ろされ、地面に叩き付けられたかのようだった。


 骨髄が熱を失い、循環する血液が冷えていく。

 紡ぎ出された冷気が、百瀬の手を伝い、足を伝い、影縫いのように隆飛へと伸びて行った。

「ひっ」

 隆飛の悲鳴に、周囲からも喚声が上がった。中心にいる三人を遠巻きに皆、警戒しながら注目している。


 地面から生える黒い氷が隆飛の足元から立ち上り、その体を凍えさせた。ぱきぱきと鳴る氷は光を反射し、黒曜石のように輝いている。

「ごめんなさい。まだ、霊力が安定しなくて」

 しかし、謝辞を述べる百瀬に慌てる様子はない。

 既に隆飛の右半身は氷に被われ、その切っ先は喉元まで達しようとしている。彼は蒼白になりながら、声を殺して喘いでいた。それは恐怖のためなのか、王族としての尊厳のためなのか。


「百瀬やめなさい!」

 後ろから灯冶に腕を掴まれ、百瀬はよろめいた。それでも隆飛に対する怒りが揺らぐことはない。

「日留加様は王族としても霊使としても素晴らしい方よ。弟であるあなただって分かってるでしょう? そんな彼女の名を汚すことを、どうしてその口が言えるの!」


 三人からやや離れた場所にいた阿文が、人垣を割って飛び出してきた。百瀬の襟首を掴むと、強引に正門の奥へと連行して行く。

「光使、中和を!」

 阿文の指令に霊術師の中から三人ほど進み出る者がいた。その見通しにやっと余裕を取り戻したのか、隆飛は哄笑に喉を鳴らせた。

「ふ、ふふ、手を出したな。久我である俺に、手を出したな、卑しい仙駕め!」


 背中に叩き付けられた言葉に、百瀬は阿文を乱暴に振り切った。静止する間もなく踵を返し、隆飛に向かって突進する。

 再度のどよめきの中、灯冶が正面からぶつかるように百瀬を受け止め、行く手を阻んだ。

「隆飛様どうか無礼をお許しください、彼女はまだ王宮の事情に明るくなく」

 百瀬を抑え込もうとする灯冶が、首だけ後ろに捻じり、隆飛へ弁明する。しかしその声を百瀬の怒声が打ち消した。

「久我? 仙駕? それが何だってのよ!」

 その叫び声と、彼の首筋に這う氷が甲高い破裂音を上げて弾け飛ぶのは同時だった。その破片が隆飛の頬に一筋の線を刻む。


 呆気にとられている灯冶の隙をついて百瀬は彼の腕からすり抜けた。そのまま隆飛の目前に飛び出すと、引き攣った頬に滲む血液を、親指で力任せに拭う。そしてその指を自分の口の中へ突っ込むと、たちまち顔面を大きく歪めて、思いっきり吐き捨てた。

「まっずい血!」




 正門氷血の変、と後々まで語り継がれるこの沙汰に、王宮はたちまち色めき立った。噂好きな宮人たちの興味をくすぐるのに、この物語は話題性充分である。久我一族はこれに憤懣やるかたない思いを抱き、他の王族たちはある者は腹を抱え、またある者は眉を顰めた。


 さて、当の本人はと言うと、反省室という名の簡素な座敷に軟禁されていた。投牢されないだけまだマシ、というところか。

 あのあと灯冶に激怒され、もう半日が経つ。そろそろ日が暮れようとしていた。


「反省しましたか」

 灯冶と阿文が日の差さない四畳半に迎えに来た。

 百瀬は部屋の隅で膝を抱え、その呼びかけを無視する。

「隆飛様にお顔以外に怪我はないようです。彼に傷をつけるのはもう二度目ですし、あなたも一方的に非力な穢人ではない。これから久我の皆様に謝罪に行きましょう」

「絶対嫌です」

 その頑固な拒絶に、灯冶は大袈裟に溜息をついた。


「王族と揉め事を起こさないと約束したでしょう」

「だって、日留加様をあんな風に言われて、灯冶さんは平気なんですか!」

 百瀬の一言に、灯冶の目がたちまちつり上がる。

「平気なわけがあるか! 私だって我慢してるんだ! 君は私との約束ひとつ満足に守れないのか!」

 聞いたことのないような大声だった。

 あまりの剣幕に百瀬は気圧され、絶句した。今まで散々彼に叱責されてきたが、今回は叱るというより怒りの爆発である。隣の阿文もさすがに驚いた顔を見せている。


 灯冶は二人の困惑に気付くと、はっとして額に手をやった。

「すみません、つい」

 その様子に、百瀬は却って灯冶が心配になる。疲れているのだろうか。とても消耗しているように見える。

「謝罪はこちらで済ませておきますので、あなたは結構です。もう部屋に帰りなさい」

 それだけ言うと、灯冶は百瀬と目も合わせずに部屋を出て行った。


 百瀬だって昼間の振る舞いがまさか褒められるとは思っていない。だが、こんなに激昂されるとも思わなかった。だって許せなかったのだ。彼は日留加を辱め、灯冶さえも侮った。しかしその独りよがりな正義感が、彼をあんなに追い詰めたかと思うと、やるせなさと罪悪感が沸々と湧いて来る。

「俺は、お前を見直したけどな」

 掛けられた言葉に、百瀬は噛んでいた唇を緩めた。

「よくやってくれた」

 その琥珀色の瞳に優しい光を忍ばせ、阿文は微笑んでいた。


 百瀬は途端に胸が熱くなる。しかし調子に乗るなと自戒して、鼻を啜った。

「でも、私のせいで灯冶さんや阿文さんの立場が悪くなったら」

「そんな大袈裟な話じゃないさ。心配するな」

 畳の上に座ったままでいる百瀬に手を差し伸べ、起こしてくれる。


「灯冶さんのために、私にできることって何でしょう」

 百瀬の呟きに、阿文の眉がぴくりと動いた。

 百瀬は今まで闇の力も、それを宿す自分にも後ろめたさがあった。しかしこの力が、役に立つのなら。彼の力になりたいと、心から願う。


「そんなこと、本人に聞け」

 にべもなくあしらわれたものの、百瀬は食い下がる。

「いいえ、灯冶さんのために一番働いてるのは阿文さんです。私も灯冶さんを支えるために、阿文さんと同じ方向を向いていたい」

 百瀬は大いなる決意をもって、阿文に訴えた。

「私に出来ることなんて無いかもしれません。期待されないことには慣れてます。でももう諦めることはしたくない」

 阿文は百瀬の覚悟を確かめるようにその瞳を覗き込んだ。怯むことなく、百瀬も見返す。

「あいつはいつも、とんでもないものを引き当てる」

 言われた意味が理解できず、百瀬は首を傾げた。


「おまえにできることは、まずあいつの依代としての地盤固めだ。一心不乱に灯冶のために働け」

「それはもちろんです。でも、それだけじゃ」

「神に仕えるのではなく、依代に仕えろと言ってるんだ。俺がオオナ様に気を遣わないのは、灯冶に仕えてるのであって、オオナ様にじゃないからだ。姓に縛られない自由な手駒がどれほど貴重なのか、おまえは解っていない。あいつには強力な後ろ盾がないからな」


 阿文は四年前の霹靂の日を思い起こしていた。そして、辛苦に満ちたこの四年間を。

「あいつは田舎の貧乏な次男坊で、風使として何の期待もされていなかった。それがある日突然『我大那実津なり』って喋り出した」

 訝しむ周囲に詞言もなしに季節外れの花を咲かせ、地面から水を湧かせた。彼の人生はその日から文字通りひっくり返ることになる。


「王宮入りする際従者として指名されたが、最初は断った。辺境の貴族としては少々腕が立つ程度の俺なんかに務まるわけがない。でも、青ざめた縋るような目を見て気付いちまった。俺よりあいつの方が怖かったに決まってる。あいつは十三で、俺は二十一だった。自分より年下の灯冶をこんな魔窟に一人で送り出すなんて、俺には出来なかったよ」

 それでも紆余曲折を経て、灯冶は何とか王宮入りした。だが彼に降りかかった洗礼は、苛烈なものだった。


「俺はまだマシだった。前任の側用人のジジイが変わり者でな。結構俺を可愛がってくれて、親切に何でも教えてくれたんだ。それに引き換え灯冶は針の筵だった。故郷でのあいつは家族の奴隷みたいに働いていて、教養なんか欠片もなかったんだ。まともに箸も使えない灯冶を、王宮の全員が、庭師までもがあいつを嗤ったよ」

 それからは寝る間も惜しんで、人として最低限備えるべき知識を修養した。しかし彼のたゆまぬ努力も、中々事態を好転させるには至らなかった。


 あるとき、阿文は奇妙な仇名を耳にした。従者たちが、灯冶を遠巻きに鳩様と呼ぶのである。それを聞いた灯冶は早足でその場を去ってしまった。従者に由来を問い詰めると、オオナと阿文の間を往復する伝書鳩、とのことである。暗に鳥並の知能とも揶揄しているのだ。


 灯冶を探して屋敷を走り回った阿文は、北の離れにある書庫でやっと彼を見つけた。その後ろ姿は激しく嗚咽していた。王宮に来てから、灯冶が初めて見せた慟哭だった。

「その時誓ったんだ。俺だけはずっとあいつの側にいてやろうって。王族だろうが貴族だろうが、神様だろうが関係ねえ。あいつの敵は全て薙ぎ払う。俺があいつの道を拓くってな」


「そんなことが……」

 その出自のせいで灯冶が微妙な立場だとは百瀬も認識していた。しかしここまでとは思っておらず、彼の境涯の苦難を改めて思い知る。

「正直おまえのことはずっと厄介者だと思ってた。でも、今はおまえがここに来たことで、灯冶が少しでも昔みたいに笑ってくれたらと思ってる。昔から神経質で生真面目なタチだったが、あいつも子供の頃はもう少し明るいガキだったんだ」

 懐古の表情から、阿文は百瀬を見据えて神妙な面持ちにその顔を変える。

「お前の力は、唯一無二の力。灯冶のために、その力を揮え」


 道が、見えた気がした。自分の進むべき道が。

 百瀬はぺこりとお辞儀した。

「明日からも、詞言の鍛錬よろしくお願いします」

 ああ、と頷く阿文には不敵な笑みが浮かんでいる。

「そう来なくちゃよ。覚悟しろ」




 月明かりを頼りに灯冶の部屋へ行く途中、百瀬は懸命に頭を巡らせていた。

 彼を怒らせたことを詫びなければならない。どう釈明しようかと考えあぐねていると、廊下を歩く足が止まってしまった。

 渡り廊下の向こうから、灯冶がこちらに歩いて来るのである。

「どうしました? 私に会いに来たんでしょう?」

 灯冶は先ほどとは違い、穏やかな表情をしている。


 謝らなきゃと思い、口を開きかけたとき、百瀬の手を灯冶が取った。

「おいで。今日もお茶の用意をしてあります」

 確かに彼はここに存在していて体温だって伝わって来るのに、何だか目の前の彼が幽霊のように朧げに感じて、百瀬は本来の目的を忘れてしまった。

 物の怪に誘われるように、懼れながらも百瀬の足はふらふらと灯冶に付いて行く。


 二人は茶釜の隣に向かい合って座り、百瀬は灯冶の点てた抹茶を静かに頂いた。いつもより味が薄い気がしたが、それは味などろくに分からぬほど、気もそぞろだったからかもしれない。

 いつ謝罪を切り出そうかと機を窺っていると、伏し目がちだった灯冶の頭が段々と下がって行ってしまった。 


「先ほどは、怒鳴って申し訳ありませんでした」

 そう言って灯冶が軽く頭を下げたことに、百瀬は驚いて茶碗を落としそうになる。

「え、や、止めてください、私こそすみません、失礼なことばかり言ってしまって」

 恐縮して更に深々と頭を下げ、その頭を再び上げた時には灯冶は微笑んでいた。泣き顔と言っていいほどに、とても悲しそうに。


「どうしたんですか。どうしてそんな顔をしているの?」

 今宵の彼は明らかにおかしい。いつしか、自分を祭子と告白していた時の様子に似ている。しかし以前より一層、彼の輪郭は曖昧だ。

「自分を、許せない。本当に、こんな時は堪らなくなる。あなたに怒りをぶつけて隆飛様への鬱憤を晴らそうなどと、卑怯者の八つ当たりです」


 そんな大袈裟な、と百瀬は思ったが、見る限り灯冶は本気で言っているようだった。

「そんな、気にしないでください。だって最初に灯冶さんに噛みついたのは私の方じゃないですか。そもそも約束を破った私が悪いんですから、灯冶さんには私を怒る権利がある」

 こう言えば灯冶はきっと分かってくれる。ありがとう、と言っていつもの彼に戻ってくれると、百瀬は半ば確信していた。


 しかし、灯冶の態度はむしろ頑なな方向へとねじ曲がって行く。

「止めてください。私を甘やかさないでください。そうやってあなたに優しくされればされるほど、その優しさに付け込んだ自分が浅ましくて情けなくなる」

 その頑迷さに百瀬は行き場を失った。当たり前の理屈が通じない。


 戸惑いを隠しきれない百瀬から、灯冶は自棄になったような雑な態度で顔を逸らした。

「あなたと出会えて少しは変われるかと思ったのに、結局私は少しも変われていない」

 手元の茶碗に注視しながら灯冶は頭を振った。

「変わるって、どういうことですか」

 灯冶は黙った。沈黙が流れて、更に声をかけようと思ったまさにその時。先ほどまでとは違う、無感情で平坦な声で、灯冶がぽつりと呟いた。

「私はずっと、子供の頃から何故生まれて来てしまったんだろう。自分の存在が周りを不幸にしている、と思っていました」


 百瀬は胸を突かれ、息を大きく吸い込んだ。

「今だって、私さえいなければ王族の誰かが依代となれる。私は正常な巡りを乱す災厄なのです」

 やっと上げてくれたその顔は薄く微笑んでいたものの、百瀬はとても笑えなかった。

 だって彼の心は今、こんなにも泣いている。


「どうせ本当に欲しいものは手に入らない。だったらせめて、皆の願いを叶えたいと、そう思ってあなたを尋ねて行ったんです。でも、あなたは私と同等に、もしくはそれ以上に辛い日々を送って来たはずなのに、その心はとても強くて優しく、眩しかった。私は傷つくのが怖くて、いつからか他人との接触を避けるようになっていましたが、これからはあなたのように前向きに生きて行けたらと思ってたんです」

 膝の上の拳が固く握られる。その指が赤から白へとまだらに色を変えた頃、ほろりと突如、灯冶の身体から力が抜けた。


「本当は嬉しかったのです。あなたが隆飛様にやり返したのが」

 えっ、と百瀬の喉から、驚く声が漏れた。

「でも、それと同時に自分の弱さを改めて突き付けられて、打ちのめされた。結局私は何一つ変わっていない。私はいつだって誰のことも守れない。自分のことしか守らないんだ」


 もう黙ってはいられない。耐えきれず、百瀬は悲痛に訴えた。

「そんなことない。私はいつだって灯冶さんに守られて来ました。初めて出会ったあの日から、いつでも、ずっと。私こそ灯冶さんの強さと優しさに救われて来たんです」

 灯冶は肺の中の空気を全て出し切った。目元を掌で隠し、自分自身をせせら笑うように口元を歪める。

「そうですね。無理なく、出来る範囲で。褒められたくて感謝されたくて。どんなに抜かり無く虚勢を張っていても、内心は怯えながら自分に対する関心を期待している」

 指の合間から、充血した眼が覗いている。

「乞食のようでしょう?」


 百瀬は遠慮なく絶句した。ただただ悲しかった。灯冶が自分自身をここまで忌み嫌っていることが。そして、そう彼に思わせて来た、彼を取り巻く全ての非情が。今までどれだけの不条理を、その細い体の中に呑み込んで来たのか。

「そんなことない……。大切にされたいとか、認めて欲しいとか、誰だって、私だって、そういう気持ちは持ってます」


「例えそうだとしても、私はこんな自分の存在が許せない。このまま独りで、消えてしまいたい。先ほどの怒鳴り声は八つ当たりの他に嫉妬も混ざっていたんです。あなたは私の欲しいものを全て持っているから」

 闇気のことだろうか? それとも、彼の言うところの強く優しい心? 百瀬は首を捻った。

「灯冶さんの本当に欲しいものって、何ですか?」

 長い瞬きだった。瞼が痙攣し、彼の睫毛が小刻みに震えるのを、百瀬は辛抱強く待った。


「純血の血統と、強い霊力と、あとは自己肯定感、でしょうか」

「自己肯定感? どうしてそんなに自分を認めてあげないんですか?」

 二つ目まではまだ分かる。百瀬にとっては大して価値のないものだったが、彼の立場では必要なものだろう。しかし最後の一つは今一つ理解出来ない。百瀬には灯冶の自分自身に対する理想が、天より高いとしか思えないのだ。


「灯冶の冶という字の意味を、知っていますか?」

 消え入りそうな、か細い問いかけだった。灯冶は顔を背けたまま、風炉の上の茶釜から視線を逸らさない。

 突然何だろう、と思いつつ、きまり悪そうにいいえと答える百瀬を、灯冶は特に意にも介さず話を続けた。

「動詞では『冶る』と読みます。金属を溶かして何かを作る。鍛冶屋の冶です」

 そういえば、と百瀬は記憶を手繰った。『読めるが書けない字』に分類されている字である。

「私の名には、家族の未来を照らす灯を冶れる子になるように、という願いが込められています。母は祭子の私にせめて金使になって欲しかった」


 金気は田舎では特に重宝される。王族貴族の虚栄心と所有欲を満たすのに不可欠な金術は、中々現れない稀種寄りの霊種だ。だからこそ金になる。経済的に恵まれない家から金使が現れると、その後の洋々とした未来を思い、一家で涙を流すことも珍しくない。

「母は夫の子供である兄と姉のことは可愛がりましたが、夫亡き後に出来た祭子の私と、一時期恋人だった男と出来た弟のことは疎ましく思っていた。特に私のことは存在しない者のように扱っていました」

 兄弟と愛情の差別を受ける苦しみは、百瀬には分からない。けれどきっと、何度も涙を流したはずだ。幼い未熟なその心から、一体どれだけの血潮を噴かせたことだろう。


「私は母の関心を引きたくて色々なことを頑張りました。家事、勉強、弟の世話。そのうち学校にも行かず村の仕事の手伝いをして日銭を稼ぐようになりました。気付けば読み書き計算どころか年齢相応の知能にすら達していなかった。それでも、仕事帰りの母を温かな夕食と綺麗な家で迎えることは大事なことでしたし、母にお金を渡す瞬間だけはちゃんと私の顔を見てくれた。それが唯一の喜びでした」


(あいつは家族の奴隷みたいに働いていて、教養なんか欠片もなかったんだ)

 先程の阿文の言葉が鮮明に思い出される。こんなにひたむきで陰惨で深刻な愛の悲劇を百瀬は知らない。

 決して百瀬と目を合わせない灯冶の横顔を、百瀬は食い入るように見つめていた。

「私は早く覚醒して一人前になりたかった。覚醒訓練は辛かったけれど、それでも平均よりは早く覚醒したのです。でも、家族の反応は私の期待したものではなかった」


 その先は聞かなくても予想がついた。このまま聞き続けるのが辛い。それでも百瀬は歯を食いしばって彼の辿る過去を待った。今、他に自分の出来ることなど何もない。

「落胆され、皆から罵倒されました。そんなありふれた金にならない霊種なんて穢人と同じだと。そういうわけで、私は自分の中から誰かの声が聞こえてきて、それが神様だと判ったときには歓喜に震えたのです。これでやっと家族を貧困から救い、喜んで貰えると思ったから。しかし、話はそう単純ではなかった」


 祇呟の力どころか、依代という立場でさえその身には不相応だった。そもそも祇呟依代という言葉すら本人含め家族の誰も知らなかったのだ。依代の近親となれば通常は堂々と王宮で生活出来るものの、当然誰もそれを望まなかった。突然の奇福を持て余し戸惑うだけで、一介の庶民が王宮や権力への欲を表すはずもない。

「家族が一生暮らせる分の報酬を王宮から貰ったから、もう戻って来るなと言われました。私は王宮入りするその日まで、ずっと母親に棄てられ続けた。母親に、私を見上げるおまえの眼は乞食のようだ気持ち悪い、と蹴られて育った子供が、自分を好きになれるでしょうか」


 灯冶の自殺動機を、百瀬は今この瞬間、やっと正確に理解した。

 彼は理想が高いのではない。己を承認されたことが無いばかりに、確固とした足場を初めから持ち合わせていないのだ。

 悲惨な境遇には自信があったが、上には上がいるものだ。しかも、自分の不幸は一段落ついたが、彼の場合は現在進行形である。

 愛に恵まれず搾取され、自ら求めず、人に求められすらしないのに、依代という地位に就かねばならない惨禍。


(この人も、悲しみと共に生きて来たんだ)

 彼の瞳に翳る闇には見覚えがあった。それは自分にも潜むもの。

 激流に抗ってはいけない。勢いを受け流し、耐え忍び、柳のようにしなやかでいなくては。

 彼もきっと、そうやって生きて来たのだ。その術を会得しなければならないほど、運命を何者かに翻弄されることに慣れすぎている。それは自分の意志とは関係なく、しかしその鎌は確実に足元を絡め取って行くのだ。

(苦しみ悲しみと決別して、もっと人らしく生きていくことができるだろうか)

 捻じれた紐を縒り戻すように、この頑なな心を解けたら。


「長々と身の上話なんかしてすみません。同情を買おうとしたわけではないですよ。あなたへの非礼に対する免罪符のつもりではないんです。言い訳がましくて申し訳ない。ただ」

 痛ましい顔で黙考する百瀬に、灯冶が話しかける。その様子は平常時の彼を少しだけ取り戻しているようだった。


「あなたは以前中庭で、母以外から助けて貰ったことがないので、村で襲われたのを助けられて嬉しかった、と言っていたでしょう」

「ええ」

「私が村人からあなたを救ったのは、薬が欲しかったからです。なのにあなたは私の素性も知らぬまま徹夜で薬を作ってくれた」

 灯冶は久しぶりに明るい声を出した。


「私は依代になる前は、母にすら助けて貰ったことがありませんでした。だから森で毒にかかったのを義務も報酬もなしに看病されて、私もとても嬉しかったんです。依代でない私にあんなに献身的に尽くしてくれる人はいなかった」

 王宮に入ってから、最低限の身の回りの世話をする侍女は与えられたし、阿文も日留加もよく気にかけてくれている。それでも、それは自分が祇呟依代だからだと灯冶は充分自覚していた。たとえそこに灯冶自身に対する親愛が含まれていたとしても。


「だから、あの日からずっと私は、あなたに色々とこだわり過ぎているのかもしれない」

 最後の方は少し言いにくそうに、声が萎んでいった。

 灯冶の気持ちが聞けて嬉しかったし、自分なりに色々と辻褄が合った部分もあって、すっきりした。でもそれ以上に、やはり百瀬は目の前の健気でいじらしい相手が今にも崩れ落ちて消えてしまいそうな感覚に、悲しく、切なく、不安で仕方が無かった。


「光よ」

 不意に、百瀬の口から光の詞言が零れ出た。

「春の息吹たる陽光よ。彼の者に温もりを分け与え、閉じた蕾を芽吹かせよ」

 灯冶に触れる空気が一瞬ほのかな温もりを帯びて振動したが、すぐにその効力は立ち消える。

「これは……」

「やっぱり、私じゃ駄目ですね」

 百瀬は肩を降ろして脱力した。

 唱えた詞言は物理的に相手を温め、気力を興す術である。覚醒訓練時に灯冶に遮二無二覚えさせられたものだった。百瀬とて光術ゆえに、発動するとは端から期待していない。


 この人をこんなにも慰めたいのに。励ましたいのに。柔らかく温かく包んで、苦しみを取り除いてあげたいのに。どうして私の霊気は闇なのだろう、と悔しくて堪らない。

「でも、この詞言が今の私の気持ちそのものです。そんなに自分を責めないで。そんなに厳しく律しては、傷ついたあなたの心が可哀想」

 灯冶の瞳が見開かれた。

「あなたに流れる血統を変えることは出来ないけれど、力が足りないなら私があなたの力になる。いつでも誰よりあなたの味方でいる。もし時戻りの術というものがあったら、どんな年月をかけてでも習得してみせます。そして小さなあなたを攫ってずっと一緒にいる。毎日が楽しくて仕方ないって思わせる」

 百瀬にとっては親愛を織り交ぜた、最大限の労りの言葉だった。


 それでも長年培われて来た灯冶の猜疑心と自己防衛の癖が、それを容易く鵜呑みにすることを許さなかった。

「私に関わると、ろくなことになりませんよ」

「心配要りません。あなたのもたらす災厄ごと、私の闇で包みます」

 今度こそ、灯冶は黙った。話そうにも思考は麻痺し、喉が硬直している。胸を撃ち抜かれたようだった。


「私を、甘やかすなと言ったでしょう……」

 やっとのことで絞り出した無抵抗な抗議が、百瀬の耳に甘く響く。

「嫌です。どこまでも許して甘やかして、あなたに必要とされたい。あなたの特別になることが、私の喜びです」

 百瀬はその状況に不似合なほど晴れ晴れとした声を出した。可憐に笑うその表情と、甘い罠を張る凶悪さが一致していない。


 正座する百瀬に、灯冶の身体が巻き付く。彼の柔らかな髪に頬ずりしながら、百瀬は湧き上がる情動に身をすくませた。

「恐ろしい人だ、あなたは」

 耳元で呟かれた声色に親密さではなく、純粋な畏れを感じ取り、百瀬は少々不本意に思う。

「灯冶さんが私を見つけたんじゃないですか」

「ここに百瀬を呼んだのはオオナ様ですよ」

 身体をそっと離し、百瀬は灯冶を熱く見据える。

「違う。私を呼び起こしたのはあなたです」

 私を洞から掬い上げてくれたのはあなた。煤を掃い、凍てついた心に熱を注いでくれたのもあなた。


 灯冶の唇が、百瀬の耳の下に緩く押し当てられる。首を竦めて捩る百瀬の頭を、灯冶の長い指が柔らかく包み込んだ。

「オオナ様が、見てますよ」

「大丈夫。彼は今休眠期です」

 たとえ休眠期でなくとも、この激情は止まらなかっただろう、と百瀬は思った。

 この人の腕の中は、どうしてこんなに息苦しくて悲しいんだろう。どうしてこんなに切ない悦びで溢れてるんだろう。

 その悲しみと悦びを全身で受け止めながら、百瀬はゆっくりと眼を閉じた。


 灯冶との血吻は、猛り狂う嵐のようだった。

 百瀬は灯冶から血を吸わせてもらい、自分も左小指を傷つけられた。しかし指から恭しく血を吸っていたのは束の間で、彼は百瀬を畳に押し倒し、その首筋に噛みついたのである。


 歯が皮膚を破ると、全身を駆け巡る血の狂乱に百瀬は悲鳴を上げた。

 流れ出る血液とは裏腹に、彼の唇が、歯が、舌が、百瀬の正気を侵食していく。

 何度も灯冶を押しのけようとし、それが無理と分かると彼の脇からすり抜けようともがいたが、煩そうに両手首を掴まれ、割られた脚の隙間に片脚を挟まれてからは、全てを諦めた。喘ぎ、脚を痙攣させながら、彼が満足するまで耐えるしかない。

 それでも一向に灯冶の蹂躙は飽きることなく、百瀬は全身から汗が吹き出し、意識が飛んでしまいそうだった。彼がやっとその唇を離したのは、止めてお願いという懇願が幾度か繰り返された後だ。


 ぜいぜいと肩を上下させ、潤んだ瞳の非難を、あなたが悪いんですよ、こんなにお預けを食ったこちらの身にもなりなさい、と灯冶は意地悪く笑っていなした。だから今日だけはこの辺で許してあげます、と。




 翌日、百瀬は着替えに四苦八苦していた。昨日噛まれた場所にしっかり痕がついていたのである。噛み傷の周辺の鬱血はどんな肌着でも隠せず、百瀬は仕方なく小袖の下に冬用の襟付きを被った。

 しかしその努力の甲斐も虚しく朝食を運ぶ燐佳に早速見咎められる。

「百瀬様、もう五月ですよ。暑くないですか」

「あ、これは……」

「! さ、差し出がましいことを。失礼致しました」

 首筋を押さえて俯いた百瀬の赤面が伝染したように、燐佳は何事かを察し、目を伏せた。


「あの、もし宜しければ、目立たぬようお直しできますが」

 燐佳のこわごわとした申し出に、百瀬は飛びつく。水術は使えるかとの問いに首を縦に振ると、彼女は短い水術の詞言を唱えた。

 襟元から中を覗くと、傷も変色も跡形もなく消えている。

「伯都の女の嗜みですから。この術だけは霊種に関わらず皆こぞって習得するんです」

 このことは秘密にしますので、と燐佳ははにかみながら退室していった。

 残された百瀬は畳をボカボカ殴りつける。


(あいつー……!)

 教えてくれてもいいじゃない! いや水術使えるんだから治してくれてもいいじゃない! そもそもこんなところ噛まなくたって! と憤ったところで、昨日の惨劇を思い出し、その恥辱にまた悶え苦しんだ。




 昼食後、鍛練場へ行く途中に灯冶と廊下で偶然出くわした。

 彼は何食わぬ顔で近付いてくると、百瀬の襟元を覗き込み、はて? という顔をする。

 燐佳に治してもらったんです、と百瀬がしかめっ面で言うと、灯冶は残念そうにはあ、と嘆息した。


「私との関係を皆に知らしめたかったのに、余計なことを」

 冗談か本気か判らない。ただ、呆れた。

「灯冶さんにそんな露悪趣味があったとは知りませんでした」

「だってあなたは隆飛様の血を舐めてるんですよ。向こうがその気になる前に牽制しなくては」

「もしかして妬いてたんですか」

「まさか。だって彼の血は不味かったんでしょう?」


 確かに不味い血と言い捨てたが、正直味わっている暇は無かった。そういえばどんな味だったっけ、と百瀬が思案に耽ったところで、こら、思い出そうとするんじゃありません、と灯冶に優しく小突かれた。


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