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神無日には月を抱いて  作者: 成瀬 透
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仙駕として

 穢人(えと)ではないと、誰にも悟られては駄目。

 どんなに辛くても、それが霊力の糧になる。

 闇気(あんき)にはそういう特性があるの。

 いつかこの国にこの力が必要とされる時まで、子に継承しつつじっと待つのよ。

 そうすれば、必ず仙駕(せんが)一族は復興できる。

 母さんもずっと力を隠して繋ぐように育てられた。

 でも、もし本当に必要だったら、命も惜しまぬ覚悟があったなら、その時には闇術(あんじゅつ)を使いなさい。

 あなたが強く願えば、闇気を封じる術は解けるようになっている。

 母さんには、仙駕の行く末よりあなた一人の方が大切。

 百瀬は、私のたった一つの宝物だから。




 久しぶりに母の夢を見た。

 あの世かとも一瞬思ったが、見覚えのある自室の天井が視界に映るということはどうやらまだ命があるらしい。

 百瀬は右手をゆっくりと握ってみた。関節が若干軋む感じがするが、一応思い通りに動く。

(ちゃんと、生きてる……)

 体中がぎしぎし痛むのと、疲労感、虚脱感が凄まじいが、何とか四肢の感覚はあるし恐らく五感も保っている。


 そこで、頬をザラリとしたものが這った。

 顔を横に向けてみると、クロが更に百瀬の鼻を舐めて来る。唇が震え、目頭から涙が溢れた。

(灯冶さんが、生きてる)

 怪我をしていたようだが、それでも命に別状はないのだろう。そうでなければ、クロが姿を保てるわけがない。


 百瀬は苦労しながらも上半身を捻じり、クロを胸に抱いた。こんなにこの子を愛しいと思ったことはなかった。

(阿文さんも、無事だったかな。二人に会いたい)

 でも、と思い直す。

(私の正体はもうばれたんだから、それどころじゃないのかも)


 拷問を受けて他の一族の居場所を吐かされるかもしれない。それは最も避けるべき事態だった。舌を抜かれようが腕を切り落とされようが自死できる術は会得済みだ。しかし今の衰弱した状態ではそれも叶わない。

(もう少し体力を回復させなきゃ)


 深い溜息を吐いたところで、障子が開いた。と、同時にか細い叫び声が上がる。百瀬より少し年上だろうか、涼やかな目元の細身の侍女が百瀬を凝視していた。いつも部屋に出入りしている者ではなかったが、見覚えがある。確か日留加に付いている侍女だった。

「百瀬様、いま人を呼んでまいります、決して動かぬように!」

 返事する間もなく侍女は部屋を出て行った。と思ったら遠くから廊下を走る足音がして、さっきの侍女と興奮して言葉を交わすと、そのままこちらに向かってくる。


「百瀬!」

 その顔を見て、百瀬はあれ、どっちだろ? と迷った。これまで一度も見違えたことなどなかったのに、本気で判断がつかない。

(私いま弱ってるから、こんなことも分からないのね)

 自分自身に少々呆れていると、相手はずかずかと部屋の中に上がり込み、百瀬の正面に腰を下ろすとその頬にそっと触れた。


「良かった……!」

 するりと首の下にしなやかな両腕が滑り込んでくる。

「百瀬、本当に、良かった」

 自分を百瀬と呼び捨て、頬ずりするからには彼はオオナなのだろう。寝ている間に休眠期が明けたのだろうか。


「阿文さんは、大丈夫でした?」

「ええ、あなたのおかげで皆無事です。百瀬、身体の様子は」

「話すのもしんどいです。ごめんなさい、少し眠りたい」

 気がかりを確認したら、何だか改めて疲れが押し寄せて来た。意識を保っているのがやっとの状態だ。

「何か欲しいものは? 目が覚める前に用意しましょう」

「何も要らない。眠るまで、手を繋いでて」

「そんなことで、いいなら……」

 布団の合間から差し出した手を、こわごわと恭しく包まれた。たったそれだけのことなのに、体だけでなく魂にまで溜まった疲労が浄化されていくようだった。


「何だか今日のオオナ様、灯冶さんみたい」

「あ、え、……っと」

「でもそれもいいかな。灯冶さんがオオナ様みたいに優しくしてくれたらいいのにって、私ずっと思ってたの」

 百瀬が寝息を立て始めてからも、灯冶はずっとその手を離さなかった。




 物心ついた頃は、何故母が穢人穢人言われ、忌み嫌われるのか不思議だった。

 百瀬が知る限り母は誰より優れた霊使だった。山火事を消し、獣が百瀬や家を襲わないよう結界を張り、蛇や蝙蝠を眷属として操れた。黒い火や氷も生成できたし、天候さえ変えられる。母はそれらを百瀬に隠したがっていたが、百瀬にはお見通しだった。


 ある日母と村に降りたとき、穢人、穢人の子と石を投げられたのに腹が立って「母さんは穢人じゃない、本気を出せばあんたたちなんか氷漬けにできるんだから」と口走ってしまった。

 母は血相を変えて百瀬を家に連れ帰り、固く口止めした。我々が闇士であることは決して口外してはならない、それどころか穢人として生きなさい、と。そして少しずつ、自分たちのことを教えてくれた。


 この伯都国創生時より、大那実津(おおなみつ)神に仕えた王族の中に、闇術に秀でた仙駕一族という民がいた。

 灯冶のように風使(ふうし)ながら水術(すいじゅつ)も、という多種の霊術を身につける者も珍しくはないが、闇術は闇士にしか扱えぬことが多く、重宝された。


 依代を多数輩出し、国の隆盛に献身的に務めた仙駕族はしかし、他の王族から次第に疎まれるようになる。それは霊種の特性にあった。霊種の覚醒には遺伝と環境に起因する。 仙駕はより強力な闇士を育成するため、覚醒前の子供を精神的、肉体的に過酷な状況下に置いた。そうしなければ闇でなく土使や金使に覚醒してしまうからである。


 そして無事闇使に覚醒後は圧倒的な力を揮った。特に攻術においては火使さえ凌ぐ力量で、当時の邪霊狩りはほぼ闇使によって行われていたほどである。相反する属性の光使はごく稀な霊種であり、王族にも殆ど覚醒する者がいなかったため、王族であり一族総勢で闇術を極める仙駕に対抗しうる勢力はいなかった。


 そして国の情勢が落ち着いた頃には、仙駕は自ずと王都で孤立を強いられた。政治的発言権も奪われ、邪霊狩りにも召集されなくなる。それでも討伐に手こずれば仙駕の手を借りずにいられぬ矛盾が他族を苦しめた。


 次第にひっそり細々と、王宮でも離れで暮らしていた仙駕だったが、ある時最悪の事態が訪れる。闇士から邪霊が出たのだ。それは王族と言っても分家のごくごく下層の王宮にすら居を構えていない者だったが、これを殲滅するのには甚大な被害があった。そしてこれを機に一つの懸念が提起されたのである。「王宮本家の闇士が邪霊化したとき、国が亡ぶのではないか?」と。「戦闘に突出している闇士はむしろ平和を脅かすのではないか?」と。


 これにはさすがの仙駕も激昂し、反駁した。この時点で建国から約三百年、これまでただの一人も邪霊を出さずに来た。それは仙駕一族の教育の賜物であり矜持でもある。それを今回たった一人出したからといって何事か、これまで仙駕が他霊種の何千体の邪霊を斃したか。


 それでも時世には逆らえず、仙駕一族は王都を追放された。辺境の地に棲み付いた後、慣れない自給自足の生活や疫病に苦しめられ、その数も激減する。しかし因果なことにその逆境が更に仙駕を強固にしてしまった。より少数精鋭となって霊力は更なる高まりを誇ったのである。

 これに脅威を覚え、業を煮やした王宮は仙駕一族を強襲し、皆殺しにしたのである。ごくごく僅か残った生き残りが、全滅を避けるために方々の体で命からがら各地へ散った。


「それが私たちよ、百瀬」

 何だか現実味の無い、途方もない話に思えた。でも、そういうことならこの状況に辻褄は合う、と思って幼い百瀬は一応納得した。穢人として、その子として虐げられることは闇気を養うのに確かに合理的だった。


 それから百瀬は村人たちに苛め抜かれた甲斐あってか、いつの間にか覚醒し、無事闇士となった。まだ七歳、平均より三年も早かった。母に霊気を消してもらい、血の味も変えてもらった。

 森の中で密やかに行う母との術の鍛錬は、それなりに楽しかった。


 そしてこの頃になると一つの疑問が湧き上がる。

「私の父さんは、誰なの?」

 そう尋ねた時、母は少し困ったように瞬きをした。

 母の説明によると、仙駕族は基本他霊種との交配は控えている。ただでさえ希少な霊種なのに、混血になってはたちまち闇気が薄まってしまう。ではどう子を授かるのかというと、適齢期の霊力の強い、その代の代表の男たちが持ち回りで各地の女の家へ回るのだと言う。


「あなたの父の順番は終わったから、もうここに来る機会はないかもしれない。でも居場所は分かるから、もう少し大きくなったら会いに行きましょうか」

 百瀬は興奮して頷いた。

 それから数年後、その約束を果たすべく計画中に、母は亡くなった。


 次に目覚めたとき、身体はあちこち軋むものの、かなり軽くなっていた。

 部屋の掃除をしているあの侍女が、雑巾を手洗に入れた頃合いを見計らって百瀬は「あの」と掠れ声を出してみる。今回は叫びはしなかったものの、侍女は目玉を大きく見開いて百瀬にいそいそと近付いて来た。

「お目覚めになったんですね。ご気分はいかがですか」

「この前より大分いい」

「それはようございました。でも五日も寝たきりでしたから、いきなり立ち上がってはいけませんよ。いまお粥をお持ちしますね」

 嫌味だったり露骨に百瀬を避ける部屋付の侍女たちと違い、本当の主に仕えるような所作だった。


(もう穢人ではないから? それにしてもどうして日留加様の侍女しかいないんだろう?)

 何だか心がとても静かで凪いでいて、こんな些細なことが気になる。これから自分の命が危ういというのに、おかしな話だった。

(まあ、いざとなれば死んじゃえばいいのよ。ここまで体力が回復してれば大丈夫だわ)

 拳をぎゅっと握ってみると、少し痩せて筋肉も落ちているようだったが、ちゃんと力を込められる。


 またうとうととしているうちに、米の匂いが鼻をくすぐって来た。そういえば眠っていたとはいえ五日も食べていないのだ。心許ない腕で肘を付きながら上体を何とか起こしていると、膳を持った侍女と一緒にオオナと阿文もくっついて来た。

「百瀬、具合はどうじゃ」

 オオナとちゃんと話すのはとても久しぶりな気がして、胸が締め付けられた。

「どうした。どこか痛むのか」

 心配そうなオオナの指が頬に触れた途端、眸に溜まった水滴が決壊してしまった。


「オオナ様、ごめんなさい」

「何を謝る。灯冶を助けてくれたんじゃろ。阿文だってそうじゃ。あの場にいた全員をそなたは救ってくれた」

「でも、私ずっと皆を騙していた。穢人のふりをして、覚醒訓練なんて受けて」

 はらはらと、涙が止まらない。寝間着の襟元が濡れぬよう、オオナが自分の袖口で涙を拭いてくれる。

「そんなことは最初から分かっとったよ。おぬしが闇使ということも、薄々気付いておった。こんな形で露わになるとは思っておらなんだが」


 百瀬はぎょろりと、湿った目を剥いてオオナを見つめた。

「どうして……」

 時折、オオナは気付いているのではと、ふと疑うことがあった。でも誰も何も言って来ないので自分から白状する気にもなれず、黙秘を決め込んでいたのだった。

「本物の穢人は他人の霊気など感じやせん。血吻しても心は揺れぬ。霊気消失、血味汚濁の術は闇術にしかないし、他霊種の霊使が簡単に習得できるものではない。ただ、確信が無かったので様子を見ていたのじゃよ。そもそも、そなたは自分が何者か知っておるのか?」

「私は」


 百瀬は一瞬、言い淀んだ。まさかこの名を、他人の前で声に出して名乗る日が来るとは。

「私は闇術を司る仙駕族の、仙駕百瀬です」

 オオナは百瀬の両肩に手を添えたかと思うと、更に背中に移動させて百瀬を優しく、けれどしっかりと、抱きしめた。


「これまでよう耐え抜いたな、仙駕の者よ。よく絶えずに継承した。数百年ぶりの再会、嬉しく思うぞ」

「嬉しい、ですか? では仙駕を王都から追放したのはオオナ様の御意向ではない?」

「無論じゃ。あれは当時の隠元依代が暴走した結果じゃ。わしは不本意であり無念であった」

 涙が止まらなかった。これまで長年溜めて来た澱が、一気に溢れ出るようだった。


「百瀬、俺からも礼を言う。ありがとう」

 後ろに控えていた阿文が頭を垂れた。

 オオナの腕の中から離れて阿文を観察してみると、一見して特に外傷は無さそうだった。

「あれは、あの時のあの術は、時を止めた、のか? 俺と灯冶だけを除いて?」

「そうですね、たった数秒、ごく狭い範囲でしたけど」

「詠唱無し、印も結ばず?」

「だってそんな余裕無かったので。おかげで術の反動に耐えきれずこのザマですけど」

「未だに信じられない。本当に可能なのか、そんなことが」


 驚嘆する阿文に対し、百瀬の代わりにオオナがえへんと胸を張る。

「凄いじゃろ? これが仙駕の力よ。それにしてもそなた純血じゃろ? 時止(ときと)めの術を使えるとなると、かなりの霊力じゃからな」

「純血だと聞いてます。ところで、何だかいつも同じことを尋ねている気がしますが、私これからどうなるんでしょうか」

 話の流れからいって物騒なことにはならなさそうだが、それでも幽閉でもされては堪らない。


「お前が寝てる間に王族会議が開かれた。そこで決まったのは、お前は王宮で王族として暮らすこと。強制ではないが邪霊使として活躍して欲しいこと。お目付け役としてクロを付け、王宮外へ出る場合は日留加様か灯冶と行動を共にすること。他の闇士を捜索するのはお前の存在が国に浸透してから、ということだ」

 やはり仲間の問題まで話が回ったか。しかしそれは当然のことだ、仙駕の存在が知られた今、王宮が放置するわけにもいかないだろう。百瀬は腹の底が重苦しく冷えていく感じがした。


「仙駕を集めきったところで、一網打尽に滅ぼすなんてことは」

「隣の神に誓ってそれはない。正直仙駕に対する反応は芳しくなかった。大半の奴らが気味悪がっていて、真面目に論議している人間は少数だったからな。そこをオオナ様と俺と、時止めの場にいた数人が押し切ったのさ」

「ふふ、あの馬鹿ども、何かあっても庶民暮らしの闇士くらい何とかなると宣いおった。奴らより数段血の濃い先祖が束になっても敵わなかったのだぞ。伯都の歴史も知らず仙駕の力を侮る間抜けが」


「仙駕が、脅かされることは、もうないのでしょうか」

「ない、元よりわしにはそんなつもりは無かったのじゃ。しかしあの時代は祇呟依代に恵まれずどうしようもなかった。そなたもそなたらの先祖も守りきれず済まなんだ。まさかこんな風に生き延びていてくれたとは」

「信じていいんですか」

 この慈愛と悔恨の入り混じった霊気に嘘はない、と百瀬は既に確信している。それでも確かめずにはいられなかった。自分一人のしくじりのせいで同胞を危険に晒すわけにはいかない。


「疑り深いのう。そんなんで依腹が務まるのか」

「は?」

 ぐずぐずと流れ続けていた涙が、一瞬にして引っ込んだ。

「いやいや一六の王族女子、それも純血が現れたのじゃぞ。他の闇士と子を成して血統を保つことも大事じゃが、それとは別に依代の子を産むのも大事な役目じゃろうが」

「まあ、確かに、そうなりますね」

 至極真っ当なことのように、何の表情も変えない阿文に百瀬はますます狼狽した。


「灯冶はぐちゃぐちゃの混血じゃから、子が闇士になるかは分からぬがな。しかし大昔仙駕の依代が何人かいたが、皆祇呟依代だったのだぞ! わしは仙駕の身体と相性がいいのじゃ、百瀬には灯冶との子を沢山産んでもらわなければ困る!」

「あいつ性格はともかく顔はいいからな。別にいいだろ、それくらい我慢しろ」

 いいも悪いも、思いもよらぬ方向に百瀬は頭がついていかない。何せついさっきまで一族存亡の危機を憂いていたのだ。


「我慢なんてする必要ないじゃろ。百瀬は灯冶が好きなんじゃろ? これでめでたしめでたしじゃ」

「え? いや、何でですか!?」

 気力が足りなくてここまで適当に聞き流していた百瀬だったが、さすがに黙ってはいられなくなった。

「何を言うておるのじゃ、好きでもない男の為に命を張る女がいるものか。それとも吸血目当てか?」

 大口を開けて反駁しようとするのを、オオナは品性の欠ける含み笑いをしながら遮った。

「ま、今すぐどうこうという話ではないから安心せい。灯冶が嫌ならわしが替わってやるぞ」


 もう駄目だこの人たちは、と百瀬は早々に見切りをつけた。とにかくまともな人と話がしたい。

「あの、日留加様はいらっしゃらないんですか?」

「姫なら地方の邪霊狩りへ出張中だ。まあ、数日で帰って来るだろ」

「そう……ですか」

 それは残念だった。あと数日も彼女に会えないかと思うと、百瀬は急に心細くなる。


「さあさあ、お話はまた今度になさいませ。百瀬様がお疲れになってしまいますよ」

 それまで穏やかに三人を見守っていた侍女が、やんわりと話の腰を折ってくれた。

「ねえ、あなた、日留加様の侍女だったわよね? どうして私の世話をしてくれてるの?」

「お前の部屋に付けてた侍女たちが全員配置換えを願い出たからだよ。闇士なんて得体の知れない者と同じ空間にはいられないってさ。そこで日留加姫がこの肝の据わった侍女を寄越してくれたんだ」

「えええー……」

 それでは穢人だった時と何ら変わらない。寧ろ危害を与える可能性が出た分だけ悪化しているではないか。


(私って、つくづく嫌われる運命にあるのね)

燐佳(りんか)と申します。百瀬様には邪霊使である兄を救っていただきました。誠心誠意尽くさせていただきますので、何なりとお申し付けください」

「うん。ありがとう。よろしくお願いします」

 聞けば彼女の兄はあの時止めの場にいたのだそうだ。捨てる神あれば拾う神ありというところだろうか。このいかにも王都の貴族出身という風貌の彼女を、百瀬は何だか好きになれそうな気がした。

(あのとき、術を使って良かった。人生を賭した甲斐があった)


 それでも、もし術生成に失敗していたらどうなっていたことか。今更ながらに、肝が冷える。

「では我々は帰るとしよう」

「あ、オオナ様。灯冶さんは、どうされてます?」

「自分のせいで百瀬が死にかけたと大騒ぎしておったぞ。毎日ここへ来てはそなたの寝顔を眺めておる。今替わろうか?」


 是非、と言いかけて百瀬は急いで首を振った。

(眠ってる間は仕方なかったとしても、こんな姿見られたくない)

 頬はこけ、肌はガサつき、きっと生気のない、ひどい顔をしているだろう。出来ればもう少しだけ、少なくともちゃんと身支度をしてから会いたかった。




 オオナと阿文が立ち去ったあと、燐佳に粥を食べさせてもらったり身体を拭いてもらって、百瀬の気力は大分回復した。明日からは自由に動いていいとはいわれたものの、百瀬はこれからのことに予測が立たず、中々寝付けずにいる。


(こんなに友好的に受け入れてくれるなんて、予想外すぎて落ち着かない)

 闇士と知れれば命はない、と育てられたのだ。仙駕族の野望としてはそれこそ国が傾いた時にでも決起するつもりだったのではないか。それがこんな、王宮で依腹を期待されるなどと誰が思うだろう。

 各地に散在する仙駕の者はおよそ百瀬を含めて数十名。そのうち半分は混血だというから、純血の仙駕はごくごく僅かだ。


(皆で、王宮で暮らせる時が来たりするのかな)

 未だ見ぬ父や異母兄弟との再会も果たせるかもしれない。これまで決して叶わないと、夢想することすら許されなかったことが実現するかもしれない期待に、身体を丸めて脚をばたつかせた。

(これで、穢人として生活しなくていいんだ! 私の子も、王族として堂々と術が使えるんだ!)

 そこでぱたりと脚の動きを止めると、ごろりと寝返りを打って俯せになった。


(子供って……私が依腹になるって本当かなあ……)

 オオナは多分本気だろう。けれど灯冶は?

(灯冶さん嫌がらないかな。また死にたくなっちゃったらどうしよう)

 絶対にないとは言い切れない。自分で自分の仮想に気分が暗くなった。


 百瀬は不安を誤魔化すために目いっぱいクロを抱きしめる。クロの最大の長所は生身の兎ではないところだ。

 普通の兎にこんな厳しい抱擁をしてはいけない。


 翌日の昼下がり、訪ねて来た灯冶が百瀬の体調を案じたり礼を言ったりするのを制して、「術の鍛錬をしたい」と言い出したのには、一同皆驚いた。

「いくらなんでも、まだ早いのでは」

「また倒れたら面倒だ、今日は寝とけ」


 燐佳と阿文にも散々言われたが、それでも百瀬は曲げなかった。

「だってやっと堂々と術が使えるんですよ。もう、霊力が疼いて仕方ないんです。これまでずっと森の中でこそこそ練習してたので、大した術も使えませんし」

「時止めの術は大した術だと思うが」

「でも腕を上げれば発動後に燃え尽きることも無くなります。私の命が懸かってるんです」


 そう言われると駄目とも言えず、取りあえず榊に霊気を当ててみよう、ということになった。

 訓練場へ百瀬、灯冶、阿文で出向き、百瀬が榊を握ったほんの刹那。黒い霜が全面に張り付いたかと思うと、それはみるみる葉の水分養分を奪い、果ては砂鉄のようにボロボロと崩れ落ちてしまった。

 灯冶たちが驚きの声を上げたはるか遠くの後ろから、どよめきが聞こえたのを百瀬は確かに聞いていた。燐佳を含む大勢の従者たちが、その様子を盗み見していたのでる。


「じゃあ、まあ、明日から鍛錬でもするか。教えることがあるかは微妙だが、付き合うことくらいは出来るだろう」

「宜しくお願いします!」

「だから今日はもう帰るぞ。すぐに日も暮れる」

 えー、と文句を垂れていると、灯冶が「そんなに元気でしたら中庭奥の林にでも行きましょうか」と申し出たので、百瀬は手を叩いて喜んだ。


 百瀬にとって王宮の林は宝の宝庫である。オオナによると各地に点在する希少な薬草がほぼ揃っているというのだ。それ以前に王宮に来てから日が暮れた後に屋敷の外になど出たことが無かったので、とても新鮮だった。


「無理に動き回ってはいけませんよ」

 あまりに熱心に薬草を探し回る百瀬に見かねて、灯冶が諌めた。

「でも、本当に回復して良かった。一時はどうなることかと思いました」

「すみません、ご心配をおかけして」

 阿文と燐佳は先に屋敷に戻ったので、この場には二人きりである。二人は大きな岩を背にして並んで寄りかかった。空には既に白い下弦の月が現れている。


「とんでもない。明日からの訓練も頑張ってください。私も闇術の勉強をしておきます。これまで古の難度の高い術、程度の知識しかなかったので、書庫から教本を探してみましょう」

 その何気ない一言に、百瀬は勝手に後ろめたさを感じてしまった。闇術は基本的に攻撃性の強い霊種である。それも、同じく攻撃的な火や雷が『戦う』特性であるのに対し、闇はただひたすら相手を『壊す』ことに特化している。


「やっぱり、気味が悪いですよね。禁術も多いみたいですし。もっと有り触れた霊種だったら良かったのに」

 百瀬の愚痴に、灯冶は慰めも励ましもしなかった。

「宿る力は選べませんからね。私も、祇呟の力なんて欲しくありませんでしたよ」

 思いがけない告白に、百瀬は驚いて灯冶の横顔を見遣る。


「災いとなることの方が多いですからね。自分の睡眠中は別人格として勝手に動き回り、その間の記憶はほぼありません。オオナ様の眠る時間以外は、私のやること成すこと丸見えです。休眠期は開放感でいっぱいですよ」

 思えば百瀬はクロに心強さの他に、ほんの一握り監視されているような窮屈さを感じることがある。が、灯冶などその比ではないだろう。


「例えばあなたとオオナ様が一夜を共にして、あなたの着物の裾をめくったと聞かされた私の気持ちが分かりますか?」

 たった一週間前の事なのに、もう遥か昔のことのようだ。

 忍び笑いをしながら、どんな気分だったんですかと訊く百瀬に、灯冶はあくまで真面目な表情を崩さない。

「膝をついて頭を抱えましたよ。それでは収まらずに本を数冊壁に投げつけました」

「灯冶さんでも物に当たったりするんですね」

「自分を殴るわけにはいきませんからね。殴ったところで痛いのは私だけですし」

 そこで二人はまた肩を揺らして笑った。その肩にかかる使命を取り払った、年相応の少年少女として。

 ひとしきり笑ったあと、灯冶はふと柔らかい眼差しを百瀬に向けた。百瀬はどきりとして身構えてしまう。


「とにかくあなたには助けてもらってばかりいる。この恩をどう返したらいいのか、頭が痛いですね」

「そんな、気にしないでください。最初に村で襲われてたのを助けられたのは私の方ですし。これまで母を除いてあんな風に庇われたことなんてなかったので、とても嬉しかった」

 素直になることに何だか照れてしまって、百瀬はしゃがみ込み、足元の月下草を摘まんだ。月光のある夜にしか咲かないこの白い花は、花弁が微発光する幻想的で壮麗な、百瀬の大好きな花である。


「あなたは王族純血の力を持ちながら、ずっとそんな生活を送っていたんですね」

 見上げると、灯冶が月の光を浴びてその輪郭を曖昧にしていた。

「その強靭な精神力に、感嘆します」

 誰かに認められれば、褒められれば、それは嬉しい。しかしそうされたいという承認欲求など、とっくに捨て去ったつもりだった。なのに何故彼の言葉はこんなに自分の脆い部分を揺り動かすのだろう。どうしてこんなに簡単に心を攫って行くのだろう。


「それは、でも、仙駕の人々は皆似たり寄ったりな境遇ですし。そう思えば少しは慰められました。これが自分の使命なんだと言い聞かせてましたし」

「そして、そんな大きな使命を投げ打って私を助けてくれた?」

「いえ、そんな大層なものでは。灯冶さんは他に、替えがたい人だったから、あのときは必死で」


 灯冶が膝を折って、百瀬の目線まで降りて来た。月下草を握る百瀬の手の上に、彼の手が覆い被さる。

「私にとってもあなたは替えがたい人です。命の恩人というだけではなく」

 真剣な眼差し。熱のこもった言葉。玲瓏たる霊気。

 勿体ない、と思った。こんなものを頂くのは、この身に余る。


「はい、闇士として期待に応えたいと思います。明日から闇術の稽古、一生懸命頑張ります」

 百瀬が頭を下げたところで、灯冶は百瀬を包んだ指を引っ込めた。一瞬、ん? という怪訝な顔をして、心なしか目が泳いでいる。

「あの、替えがたいというのは、私が祇呟依代だから、ですか?」

「ええ、もちろん」

 暫くの沈黙の後、灯冶は彼方に視線を投げた。続いてきつく口を結んで、大きく頷く。


「明日、闇術を拝見できることが楽しみですよ」

 含みのある苦笑いだった。その複雑な表情に、百瀬は無慈悲で不合理な懸念を抱く。

「もしかして、また厳しくするんですか」

 灯冶は激しく瞬きをしてから項垂れると、草むらに座り直した。立てた膝の上に肘を置いて、頬杖をつく。


「必要ないでしょう。もう覚醒を促す必要はないのですから。というより、そもそも覚醒なんてするわけがなかったんですからね」

「ご、ごめんなさい」

 嫌味に聞こえて、つい謝ってしまった。あの苦労の日々は全て徒労だったのである。百瀬自身も辛いものがあったが、彼ら一同の苦労もおよそ実を結ぶものではなかったのだ。


「責めてるわけじゃないんです。でも、思い返すと少し恥ずかしくなりますね、あんなに偉そうに厳しくして。でも、覚醒というのはだいたい切羽詰まった精神状態のときに起こるのですよ。日留加や阿文、あなたのような王族貴族は知らないでしょうが」

「それで厳しくしてたんですか?」

 あまりの驚きに力が入って、月下草の茎をつい手折ってしまった。


「普通はもっと厳しいんですよ。私も理不尽に責められて泣きながら覚醒した覚えがあります」

「だったら、そう言ってくれれば良かったのに。灯冶さんのこと凄く意地悪な人だと思ってました」

 気を悪くした様子もなく、灯冶はくすりと笑った。

「それじゃあ意味がないでしょう。本気で憎らしく思わないと」


 何という事だ。覚醒訓練中の非情な態度、耳を塞ぎたくなった暴言の数々。あれが全て演技だったとしたら。演技とまでいかなくとも、百瀬を心底思ってのものだとしたら。

(この人、冷徹で容赦のない人だと思っていたけど、本当はただただ真面目で優しい人なんじゃないかしら)


 そう、初めて出会ったあの夜から。今になって思い起こせばいつも彼は百瀬を助け、泥をかぶり、こちらの気持ちを尊重してくれていた。

 最初の態度が固かったのも、己の事情に巻き込みたくなかったからだ。覚醒を急いたのも百瀬が帰りたがったからだ。その弊害になる厄介事を避けるために、王族との接触を禁じた。


「私なりに良かれと思ってやっていたんですよ。でも、あのままずっと覚醒もせずにいて、どうするつもりだったんですか?」

 尤もな疑問である。これについては百瀬自身も散々悩んだのだから。

「帰してくれそうにもない感じだったので、皆さんが根負けするのを待って、日留加様の侍女にでもしてもらおうかと思ってました。まあ、帰れないと仙駕族の次の担当の方が困ることになるでしょうけど。もうそれは仕方ないかなって」

「次の担当とは?」

「出産適齢期の女性の家をぐるぐる回って、種をくれる純血の方です。来年あたり私のところにも来る予定でした」


 そう、そうやって仙駕は代々血統を守って来た。実際、百瀬もそうやって生まれている。

 灯冶は感心しているような呆れているような、どっちつかずの感想を持ったようだ。

「王宮をも凌ぐ驚きの効率重視ですね。あなたが以前決まった相手がいる、と言っていたのはその方ですか?」

「そうですよ。顔も名前も知らない、運命の相手になるはずでした」

 だから血吻はおろか吸血さえも未経験だったのだ。


「自殺未遂もしてみるものですね」

「え?」

 灯冶の方へ顔を向けると、正面を向いていた彼の横顔がゆっくりとこちらへ傾いた。

「おかげであなたの運命を変えられた」

 その微笑はまるで、人ではないかのように魅惑的で蠱惑的だった。普段さほど意識はしていないが、この人は本当に美しい。生まれつきの造形も優れているが、その美を彼の纏う壮麗な神気が一層引き立たせているのだ。

 大分慣れて来たとはいっても、見惚れずにはいられなかった。


「迷惑でしたか」

 黙って呆けてる百瀬に、灯冶が不審に思って声を掛けた。

「いえ、いえいえ。まあ、こちらはこちらで波乱の運命でしたけど」

「でも、今のあなたは自由だ。誰の子供だって授かることが出来ますよ。オオナ様が次代の依代候補のために、あなたに子供を望むかもしれませんが」

「あー、またその話ですか……」

 当事者のくせに他人事のように言われて、この人もかなり王宮という場所に毒されているなと思う。オオナの子を産むということは即ち、灯冶の身体を使うということではないか。


「あの、それは、灯冶さんは納得されてるんですか?」

「日留加との件もありますし、今更です。神の子はたとえ依代にはなれなくとも強力な霊使になれる。国のために、そうすべきです」

 そこには彼自身の意志や感情は一切介入していないようだった。確かにそれが依代としての使命なのだろう。だが、百瀬には到底素直にその計画を受け入れることが出来ない。仙駕の繁殖計画には疑問を持たなかったのに、これについては我ながら不思議だった。


「私の子だと、闇士になるかもしれませんよ」

「大変結構。あなたは自分の霊種を嫌っているようだが、私としては羨ましいですよ」

 百瀬は彼の意図が理解できず、当惑しながら次の言葉を待った。こんな禍々しい霊気の、一体何が羨ましいというのか。


「どうせ宿るなら、私に宿ってくれれば良かった。そうすれば霊力は小さくとも、卑しき薄弱の依代と嗤われることも無かったでしょう。たとえ忌術の多い霊種だとしても、希少な霊種と強力な霊力には価値がある。望まれない祭子の生い立ちも、それだったら報われたのに」

 悔しそうに文句を言う灯冶に、何と言葉を掛けていいか分からなかった。あなたは弱くなんかないと叫びたかった。その上で、闇の霊気を彼に献上できたらどんなにいいか。自分が風の霊種だったらどんなに良かったか。


 でも、それが無理なら、せめて。

「私、きっと役に立つ邪霊使になります。もう、誰にも灯冶さんを傷つけさせないように、強くなります」

 風が強く吹いて、どこからか白い花びらが運ばれて来た。

 舞い散る花弁越しに、ふわりと柔和に微笑む灯冶は、まるで月からの使者のようだ。

 眩く麗らかで神秘的なこの刹那を、止めて切り取りたいと百瀬は切に願った。




 程なくして百瀬の体調は回復し、本人の強い希望により闇術鍛錬が開始された。

 百瀬の詞言鍛錬は順調だった。元々いくつかの小規模な術は使いこなせていたし、詞言と印さえ覚えれば発動が遅かったり術の生成が曖昧だったりと、初心者特有の躓きはあったが、総体的に見れば上々の滑り出しと言えただろう。


 灯冶も阿文も、これが仙駕の純血の力かと、舌を巻いた。王族同士、姓を跨いで交配を重ねて来た現在の王族に、真の純血は殆どいない。過去を遡ればどこかで他家の血が混じっているのだ。

 それに比べて仙駕族は個人の人権を没却し、数百年もの間、その血を脈々と受け継がせて来たのだ。


「闇よ」

 宙の一点を睨みながら、百瀬の毅然とした声が鍛練場に響く。

「内に眠る我の分身よ。悲傷を服し、黒煙となり赤を被覆せよ」

 数秒の間を置いて、阿文の傷ついた上腕を黒いもやが包み込んだ。次第に色濃くなっていくと、傷口が引き攣れ、裂けた皮膚が閉じていく。傷跡は残るものの、血液の流れが塞がれたところで、もやは晴れた。


「よし、いいだろう。成功だ」

 阿文の判定に、百瀬は思わず胸を撫で下ろす。

 通常、新しい術を覚えるには一月ほど鍛錬を要する。技量以上の術に挑むのなら、それこそ数年単位の修練となる。しかし百瀬は詞言鍛練を初めて半月、今ので三つ目の成功である。初歩の術とはいえ、これは驚異的な早さだった。


「それにしても乱暴な術だな。無理やり皮膚を寄せるなんて、怪我より痛えよ」

 演習のためにわざと作った傷口を、阿文は顰め面でさする。

 そう言われても、こういう術なのだから仕方がない。直接攻撃や戦闘における補助的な役割の多い闇術だが、百瀬はまず数少ない回復術と防御術を中心に練習している。だがどの術も癖が強く、その効果が一筋縄ではいかないのだった。


 更に阿文曰く、「詞言を聞いてるだけで気が滅入る」らしく、精神攻撃にも微妙に効くらしい。

「じゃあ、今日はここまでにするか」

「いえ、まだ大丈夫です、やれます」

 阿文の提案に必死に食い下がる。


 これが仏頂面で嫌々覚醒鍛錬を受けていた百瀬だろうか、と阿文は肩を竦めた。まるで別人である。

 しかし喜ばしいことに違いはない。覚醒済の霊使に延々覚醒鍛錬を強い、闇使に闇術以外の詞言を叩き込んでいた不毛な日々も、遠い昔のことのようだ。

 鍛練をねだる百瀬を宥めるのが、すっかり阿文の日課の一つになっていた。




 月がやけに赤い夜だった。

 百瀬が熱心に詞言の教本を読みふけっていると、障子がとんとんと慎ましく叩かれた。

「新しい教本を持って来たぞ。高度な術ゆえまだ発動には至らぬだろうが、詞言だけでも覚えておくが良い」

「わあ、ありがとうございます」

 百瀬はオオナから古ぼけた冊子を受け取る。数百年前のものだろうか、雑に扱えばすぐに紙の繊維が裂けてしまいそうだった。


 オオナはというと、敷かれた布団の上に、いつものように頬杖を付きながら寝転がる。

「ときに、百瀬。そなた灯冶といつ血吻する気じゃ」

 貴重な教本を取り落としそうになって、百瀬は慌てて抱えた。

「何でそんな話になるんですか」

 実のところ、今までその件が頭をよぎったこともある。しかし今はそれどころではない、というのが正直なところだった。


「いやいやもう本来の味に戻っとるんじゃろ。そなた灯冶の血ばかり吸って自分のはくれてやらぬのか? ケチじゃのう」

 さも不満そうにオオナは口を尖らせた。

「でも、あの、闇の血ですよ? 一体どんな味がするんだか」

「いや味はかなり上質じゃぞ。わしは仙駕の味を一応知っておるからの、初飲みは灯冶に譲ろうと思うのじゃ。じゃから灯冶と早く血吻してくれんとわしの番がいつまでも回って来んじゃろ?」


 つまりは自分が吸いたいだけか、と少々呆れる。

「えーと……でも……灯冶さんも何も言わないし」

「灯冶から誘えば了承するのか」

「いえ、うーん……」


 確かに今求められれば断りはしないかもしれない。しかし現状ではあくまで形式的なものになってしまいそうで、嫌なのだ。

 血吻とは、もっと神聖なものであるべきではないのか。気持ちが通って、吸い寄せられるように重ねられるものでありたいと、そう夢見るのは幼稚だろうか。

「オオナ様は……灯冶さんが私のことどう思ってるか、知ってるんですか?」

「何故そんなことを訊く。そなたこそ灯冶をどう思うとる。依代としてでなく、あいつ個人を、じゃ」

 ジロリと横目で睨まれて、百瀬は言葉に詰まってしまった。


 どうと言われても、困る。嫌いではない。だが好きとも言い切れない。そもそも好き嫌いで語ることではない気がする。大事な人、特別な人。でもそれは全て祇呟依代としての彼への敬慕ではないか。

 彼個人への想いと言うと、難しかった。

「そんなこと意識してなかったので、分からないです」

 ふうむ、と唸ったオオナは起き上がって百瀬の正面に回り込んだ。

「では今意識してもらおう。ひとつ、実験しようではないか」


 何を、と訊く前に、百瀬の頬に両手が添えられた。吐息がかかるほど近付いた潤んだ瞳は灯冶のようであり、百瀬、と呟く艶を含んだ声もまた、灯冶の声色だった。

「百瀬。あなたはいつになったら私の気持ちに気付いてくれるのですか? 私はあなたとの血吻を心待ちにしているのに」

 血が沸騰し、心臓が壊死するかと思った。

 百瀬は耳まで真っ赤になりつつ、必死にオオナの手から逃れる。


「まんざらでもないのう」

「驚いった、だだけです!」

 ニヤニヤと笑うオオナに、百瀬は背を向けながら声を張り上げた。しかしその声はどもり、信憑性を欠いている。


 オオナは屈んで鼓動を鎮める百瀬に背後から忍び寄ると、その両肩を優しく掴み、耳元で尚も囁いた。

「こんなに愛しく思っているのに……あなたの可愛い指を傷つけることを、許される日は来るのでしょうか」

「止めてーっ! 止めてくださいっ」

 今度こそ百瀬は怒り、オオナを部屋の外に突き飛ばして追い出した。


 冗談じゃーと障子をこじ開こうとするオオナと本気で戦いながら、百瀬はまだ鳥肌が治まらない。

 もし本物の灯冶に、先ほどのようにされたら……、と思うと、その甘美な疼きに、百瀬は慄然とした。


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