守りたいもの
(それにしても、さすがは阿文さんだわ)
訓練の時間までクロを撫でながら必死に猛る血を鎮めていたというのに、鍛練場で日留加を確認した途端、彼女の血が芳しくて堪らなくなってしまった。鼻腔をくすぐる濃厚な香りが百瀬の血を躍らせる。彼の言葉が予言とならぬよう、百瀬は息を殺して耐えた。
今日ばかりは灯冶のしごきが有難かった。これまでの非礼がどうの、傷つけただの言っていたくせに、何故か今日も絶好調に厳しい。なのに、それほど頭に来ないのが我ながら不思議でもある。やはり吸血したからだろうか? これでは日留加の目論見通りである。
(あれ?)
そろそろ休憩に入ろうかという時、百瀬は不穏な気配を感じた。
(なに? 強くて澄んでいるのに、尖った霊気)
辺りを見回すと、中肉中背の細面の若い男が鍛練場に入って来ていた。身なりからいって王族のようだが、ゆっくりと歩くその姿勢はゆらゆらと定まりがなく、目鼻立ちは整っているのに人を小馬鹿にしたようなその顔つきが、彼から王族らしい品性を奪っている。
しかし何より百瀬の眼を一番引いたのは、肩下まで垂らされた彼の赤茶の髪だった。ここ伯都でこんな男は見たことが無い。伯都の男性は子供から老人まで皆短髪が普通である。
「こんにちは、穢人ちゃん」
誰かと尋ねたかったが、場の雰囲気がそれを許さなかった。灯冶も日留加も明らかに緊張している。
「何? 隆飛あんた何しに来たの」
「件の穢人とやらを拝みに来たんだ。部屋には結界が張られてるし、外じゃお前たちがいつもそれにくっついてるから、もう直接来ちゃったよ」
「何の用? この子はオオナ様の客人よ。傷つけたりしたら許されないわよ」
「なに、ちょっとね」
隆飛と呼ばれた彼が地面に指をかざすや否や、百瀬の足元から蔓が飛び出し、そのまま身体に絡みつく。食い込むほどきつく巻かれ、持ち上げられ、蔓は隆飛の足元にぞんざいに、ゴミでも捨てるかのように百瀬を運んだ。
「いた、痛っ」
「止めなさいよ、何する気!?」
宙吊りにされてもがいていると、蔓がぶつりと切れて、地面に叩き付けられる。日留加の火が、蔓を焼き切ったようだ。
芋虫のように地面を這っている百瀬に灯冶が走り寄る。が、それより先に隆飛が俯せの百瀬を足で転がした。そして、露わになった肩口を掴むと、躊躇いもなく歯を立てたのである。
「!」
百瀬も、日留加も、灯冶も、全員の時が凍り付いたようだった。吸血している。穢人の血を、王族が。
静寂を破ったのは隆飛の「うえっ」という、えずく声だった。百瀬を突き飛ばし、ぺっと血液を吐き出す。
「噂には聞いてたけど、本当に酷い味だな! 人に流れる血とは思えない!」
百瀬は肩を抑えながらただ震えていた。一体何が起こっているのか。何故? 何のために? 何もかもが分からない。
「何してんのよ! どういうつもり!?」
「王族の間で話題になってたからさ。穢人の血の味ってどうなんだってね。やっぱりそこは、俺が確かめるのが筋だろう?」
「大丈夫ですか」
灯冶に肩を抱かれ、術で傷口を塞がれても声が出なかった。足が竦んで力が入らない。
「あんた、ただじゃ済まないわよ。オオナ様に報告するから」
「この程度でオオナ様が動くはずないだろ。だったら俺はとっくにどうにかされてるさ。なあ灯冶?」
その問いかけに灯冶は答えなかった。目さえ合わせず、百瀬の背中をさすっている。
「最低ね」と吐き捨てた日留加を、隆飛は侮蔑をたっぷり込めた眼差しで睨み付けた。
「最低? 最低なのはどっちだよ。依腹にもなれない石女が。誰の子でもいいから、せめて孕んでからでかい口叩くんだな」
日留加が言葉に詰まるのが離れていた百瀬にも分かった。もちろん、灯冶にも隆飛にも伝わっているだろう。
「なあ、灯冶いいの? お前の妻候補が苛められてるけど? 黙って見てんのか? 可哀想な姉上」
え? と思って灯冶を見上げると、「彼は王の息子、日留加の異父弟です」と小声が返って来た。
(そんなまさか、こんな奴が)
隆飛はわざとらしいにこやかな表情を作り上げると、挑発するようにボキボキと指の関節を鳴らす。
灯冶が鋭く警戒するのを、居合わせた全員が感じ取った。
「相手にしなくていいわよ、灯冶」
「おいおい、依腹でもないお前が依代様に意見なんかしていいのかい?」
日留加は頬の筋肉を痙攣させつつも黙り込む。
そんな日留加と隆飛に、灯冶は注意深く視線を走らせている。
「百瀬さん、日留加の方へ走って」
咄嗟のことにもたもたしていると、灯冶は百瀬の背を押して「早く!」と叫んだ。足がもつれそうになりながらも、百瀬は走り出す。
「逃げないってことは、胸をお借りしてもいいんですよねえ?」
隆飛は指を眼前で絡ませて印を結ぶ。
灯冶と日留加がはっとして身構えた。
日留加の口が何事か唱えようとしたとき、「手を出すんじゃない!」という灯冶の声がそれを制した。
「木よ。大地に巡る蔓よ。拘束の搦手となり関節の軋音を奏でよ」
滑らかでいて、力強い詠唱だった。高らかに掲げるように、隆飛の詞言が響き渡る。
片膝を曲げ、やや後ろに重心をかけながら、灯冶は右手を天にかざした。
「風よ。刃となり輪となり迫る触手を分断せよ」
灯冶の足元から土を突き抜け、数十の蔓が現れた。それらは鞭のようにしなり、彼に絡み付こうとその腕を伸ばした。しかし灯冶を捉える前に、全ての蔓は風に切り刻まれ、次々に地面へと落ちていく。
「ふん、相変わらず発動時間だけは速いね。でも、術が薄いんだよ!」
そう吐き捨てるや否や、隆飛は次なる詞言を唱えた。
「宙に舞う椎葉よ。錐をかたどり骨を穿つ槍となれ」
「幾重の風波で飛襲を削げ」
二人の詞言、特に灯冶のは正規のものより大分短縮されたものだった。しかし防御の術は呑気に唱えてる暇はないのである。
空中から突如大量の硬質な葉が現れたかと思うと、密集しながら彗星のように灯冶に襲い掛かった。
その攻撃を、風圧の防壁が跳ね返す。前衛の葉が飛び散ったが、後方から後押しされて鋭利な葉先が風の壁を突破した。が、更なる防壁がその行く手を阻む。猛烈な術の凌ぎあいに、衝撃波がほとばしった。ぎんぎんぎん、という耳をつんざくような振動に、百瀬は日留加の横で四つん這いになって耐えた。
やがて衝突がおさまった。百瀬はやっと目を開けて灯冶を探すと、灯冶は先ほどより膝を落とし、左手で右肩を押さえている。その手の下の着物が、赤に染まりつつあった。
「え? オオナ様の護術がかかってるはずなのに」
「隆飛程度になると完全には効かないわ。あれでも軽減されてるのよ」
日留加の横顔が歯痒さに満ちている。きっと灯冶を助けたいのだろう。彼女ならきっと、あの隆飛とやらを蹴散らせるのに。
「つまらないやられ方だね。防戦一方じゃ、こちらが苛めてるみたいじゃないか」
腰に手を当て、傲岸に言い放つ。
灯冶は額に汗をかきながら、じっと隆飛を睨んでいた。
「じゃあ、そろそろ本気出そうかな。女の子二人の前で恥かきな」
口元をにやりと歪める。その顔からは先刻までかろうじて持ち合わせていた、なけなしの優雅ささえ消え失せていた。灯冶を玩弄せんとする醜悪さが剥き出しになっている。
隆飛の指が、再び印の形を取った。それを見ていた日留加が、ハッと印を結ぼうとする。
木よ、風よ、火よ、と、三者の緊迫に満ちた詞言が重なる。
しかしその詞言の完成を、ごつっという鈍い音が遮った。
隆飛の横っ面を撃ち、眉尻から血を流させたものは、何のことはない、足元に落ちた石ころだ。
全員が虚を突かれて石の投擲されて来た方向を辿ると、そこには太く絡まった蔓を両手に携え、大きく振りかぶる百瀬の姿があった。
「百瀬っ」
振り向く隆飛の腰のあたりを、背後から目いっぱい打ち付ける。バシン、と小気味良い衝突音と共に、蔓は葉を散らせながら消滅した。この蔓は先ほど隆飛自身が生成した術である。
不意の衝撃に膝をついた隆飛は、驚愕と憤怒の赤黒い表情でゆっくりと百瀬を見上げた。
「お前、穢人の分際で、この私に……」
飛び出した灯冶が隆飛と百瀬の間に割って入り、百瀬の両肩を強く掴んだ。
「隆飛様、申し訳ありません! 百瀬さん下がって!」
叫ぶ灯冶の声をかき消すように、百瀬の唸るような声が轟いた。
「あなただってただの王族の分際で祇呟依代様に攻撃したじゃないの! 今の詞言、腕を捻じり切るものでしょう! 依代様を損なうことは国を損なうことじゃないの!」
詞言の勉強をそれなりに進めて来た百瀬にも分かった、あれは邪霊狩り用の術だ。そんな特殊で攻撃的な術を、生身の人間に向けることが信じられなかった。
「依代といってもこいつは王じゃないんだぜ。淫売女が生み捨てた父親の分からない忌子さ」
隆飛渾身の侮辱の言葉を百瀬は鼻で笑った。
「そんなことで灯冶さんの価値は揺るがない。親の所業は子供には関係ない。王の息子のあんたがこんなに卑劣で陰険ってことが何よりの証明だわ」
「お前っ」
いきり立った隆飛は詞言を唱えるべく大きく息を吸った。隆飛の唇が動いた瞬間、百瀬は灯冶の腕を振り払い脇をすり抜けて、隆飛の間近に飛び込んだ。そして印を結んだまま呆気に取られている隆飛の眉尻の傷口に、追い打ちをかけるように渾身の力で殴りつけた。
「いつも術に頼ってるからこんな目に合うのよ! 女の拳も避けれないなんて、人を石女呼ばわりする前に、少しは身体を鍛えたら!?」
尻もちをついて腰を抜かしているであろう隆飛の腹を蹴ろうとしたところで、百瀬は灯冶に羽交い絞めにされ、日留加に緊縛の術をかけられた。
まさに堅牢、という言葉がぴったりな石造りの牢の中で一晩過ごした百瀬は、俯せになって寝転び、クロの尻尾を摘まんで遊んでいた。
(オオナ様も休眠期で庇ってくれないし、死罪かしらね?)
自分でもどうしてあんなに暴走してしまったのか分からない。あんな無謀なことをする人間ではなかったはずなのに。
(何だか最近喜怒哀楽が激しくなってるなあ。子供の頃みたい)
今でこそ穢人らしく日陰者の態度が板についている百瀬だが、十にも満たない幼い時期には気が強く、お転婆で村の子たちを力で捻じ伏せたりもしていた。
(あの頃は自分に出来ないことなんて無いと思ってたな。穢人として暮らすって自覚も無かったし)
永久に喪ったと思っていた万能感が、何故隆飛に対してむくむくと湧いて来たのか分からない。とても危険な行為だったと思う、しかしあの時は絶対に許せなかったし負ける気がしなかった。
(日留加様にも灯冶さんにもなんて無礼な男。いい気味)
しかし後悔はしていなくとも命を取られてはさすがに困る。
(死ぬ前に、もう一度灯冶さんの血が吸いたいな)
どうか少しでも軽い刑で済みますように、と一応今眠っている神に祈ってみたところで、階段を降りて来る足音が聞こえ、百瀬は慌てて正座を作った。
「おい、起きてるか」
薄暗くて見えないが、阿文の声だった。後ろに灯冶もいるようだ。
「もう出ていい。自分の部屋に帰れ」
「え、あの、私どうなるんでしょう」
「どうにもならん。お咎め無しだ」
これは意外な結末だ。百瀬は単純に喜んだ。
「姉である日留加様がボコボコに隆飛様を糾弾してたからな。久我としてもこんな惨事を公にはしたくないんだろう。良かったな、隆飛様の日頃の素行が悪くて」
そういうことか。口元がにやけそうになるのを堪えて鍵の開いた牢から出ようとすると、きつい力で手首を掴まれた。
「百瀬さん。今回日留加の尽力により特に沙汰はありませんが、あなたには言いたいことが山のようにあります。先に私の部屋に寄りなさい」
静かな物言いだったが、それがより恐ろしさを増していた。霊気がうねって髪が逆立っているように見える。
阿文に助けを求めようと視線を送ったが、目を逸らされて無視された。
百瀬は覚悟を決めて、灯冶について行った。
「座りなさい」
命じられるまま百瀬は腰を下ろす。
灯冶の部屋は西の端の離れにあった。北西に位置する百瀬の部屋と意外に近い。
しかし神の住まう部屋だというのに内装も調度品も質素そのものだった。広さはあったがほとんど書物で埋め尽くされ、これでは百瀬の部屋の方がまだマシである。一つ珍しいものがあるとすれば、茶の道具が一式揃えてあることくらいか。
「自分が一体どれだけのことをしたか分かっていますか」
部屋を見回すのを止め、百瀬は慌てて灯冶に向き直った。
「あの場で命を取られていても文句は言えなかったんですよ、本当に分かってるんですか!」
そんなことは分かってる。オオナや日留加の庇護がなければ簡単に首を撥ねられるようなことをした。それでも勝手に身体が動いてしまったのだ。
「だってあんなのおかしいじゃないですか、あんな一方的な暴力は。どうして二人とも言われっぱなしのやられっぱなしなの?」
「それは彼が第一王位継承者だからです。第二位の日留加も迂闊に手が出せない。それに、私の存在は依代の座を狙っていた隆飛様にとっては忌々しい存在でしょうし、実際霊力では敵いません。王族の機嫌を損ねたら休眠期に暗殺されかねない。自分の死期くらいは自分で決めたい。何とか死なない程度にやり過ごすしかないんです」
とても納得できる回答ではない。淡々と答える灯冶に百瀬は一層義憤に駆られ、尚も噛みついた。
「依代様にそんなことしていいんですか?」
「オオナ様が止めないのですから、いいんでしょう」
「知らないだけでは? だって今は休眠期だし」
「とっくにご存知ですよ。彼の嫌がらせは私が依代となってからこの四年間、ずっと続いています。実は昔取り成しを頼んだことがありましたが、人同士の諍いに興味はない、で終わりました。それでもお情けで護術を施してくれたんですよ」
灯冶に対するいら立ちが、ぼきっと折られて矛先を見失ったようだった。
随分な事なかれ主義だ。これでは灯冶を大事にしているのか邪険にしているのか分からない。
百瀬の無音の唸り声が灯冶には届いたのか、灯冶は小さく溜息をついて、瞼を落とした。
「そもそも、私のような者に依代の座を奪われた隆飛様の状況は、酌量されるべきだと思います。彼の気持ちも分からなくもないのです。彼は、髪が長いでしょう?」
百瀬は相槌を打った。確かに長髪の男を隆飛以外に百瀬は知らない。村の男たちも皆短髪だったし、男とはそういうものだとずっと自然に思っていた。
「私も王宮を抜け出す直前に切り落としてしまいましたが、ここに来てからはずっと長かったんですよ。依代の身体には神気が宿っている。地方の民たちのために、髪を護符として使うのです」
最初に出会ったとき、やけに乱雑な髪をしていたのはそのせいだったのだ。お守りの中に閉じ込められた髪は、それだけで微弱ながら霊気を増加させる。下級の精霊使たちには必需品なのだという。
百瀬は知らずに育ったが、謂わば男性の長髪は王の証なのだ。庶民は勿論、王族貴族も在位中は男が髪を伸ばすことは許されない。それを踏まえて、依代候補である王族の男子は、依代崩御後願掛けの意味で髪を伸ばすことがある。それは前回にも見うけられた現象だった。しかし灯冶に宿った後、他の王族たちは皆しぶしぶ断髪したが、隆飛だけは髪を伸ばし続けたのである。
「他族はおろか、久我の者にまで彼は嘲笑されていました。けれど、今日まで彼が断髪することはなかった。その一貫した姿勢に、私は敬意を抱くくらいです」
依代に選定されなかったばかりか、その地位に妄執する姿はさぞ滑稽だったろう。自尊心の高い彼にしては、信じがたいほどの不面目である。それでも彼を駆り立てたのは、王族としての強烈な自負だった。
「彼はこの四年で術を磨き、日留佳に迫る霊使になった。力こそが彼の拠り所だったのでしょう。少々荒っぽいところもありますが、王族としては充分立派な方ですよ」
尤もらしい言い方をしているが、これには賛同しかねたので百瀬は相槌を打たなかった。
その頑固な様子に、灯冶は困ったように額に手を当てた。
「オオナ様が私のような混血、貧民、祭子を選んだのがそもそもの間違いなのですよ」
「祭子?」
聞き慣れない言葉だった。髪のことといい、百瀬は世俗のことには所々疎い。
灯冶はふっと微笑んだ。諦めるように、悲しそうに。
「祭の日に、行きずりの男女が交わって出来る子です。一般的にはかなり恥ずべきこととされています。たとえ王族の血が混じっていてもね」
彼自身とあまりに似つかわしくない説明に、百瀬は反応に窮した。それでも何か言わなければと、懸命に頭を捻った。
「そんなこと、灯冶さんのせいじゃないわ」
「それでも業からは逃げられない。あなたが穢人であるように。謂われない暴言や暴力に、あなただって曝されてきたでしょう」
今度は本当に何も言葉が出て来なかった。肯定する材料はいくらでも蓄えてきたけれど、否定する材料は長年にわたり散々身ぐるみ剥がされてきたのである。
「私は取りあえず五体満足で生きていれさえすればいいのです。万が一私が死んでも次期依代は恐らく日留加か隆飛様ですから問題ありません」
「いえ、そういう問題じゃないでしょう。本気で言ってるんですか」
百瀬は怒りと呆れを半々忍ばせて、少々詰るように灯冶を睨んだ。それでも灯冶はあくまで粛々と話を進めようとする。
「とにかく、今後一切日留加以外の王族とは関わらないこと。これを肌身離さず持ち歩いていなさい。先ほど言っていた私の髪入り護符です。多少の護術の代わりにはなるし、我々があなたの居場所を辿りやすくなる」
渡された護符は、青地に銀糸で護という字が縫われていた。髪が入っているなど気色悪く感じそうなものだが、不思議と有難いとしか思わない。
「それにしてもまさかこれが必要になるとは思わなかった。あなたはいささか活動的すぎる。クロをつけておくだけで十分なはずだったのに」
「クロって、私のお目付け役だったんですか?」
「村で襲われていたように、ここでも不埒な輩が出ないとも限らないと思ってオオナ様に頼んだんです。申し訳ないが私の霊力でそれ程の式神は生成できないので。実際役に立っているでしょう」
「はい、それはもう」
そうだったのか。ただ退屈凌ぎと寂しくないように預かっていると思っていた。というより、灯冶の発案と言うことが驚きである。
そこで灯冶は隣にある茶道具の方へ向き、茶杓で抹茶を茶碗に入れた。
「隆飛様に齧られた肩、まだ痛みますか」
「いえ、お蔭様でもう全然。それに、私にとってはあんなこと日常茶飯事なので、気にしないでください」
茶釜の湯を別の茶碗に注ぐ灯冶の手が止まり、肩越しに百瀬の方へ首を捻った。
「吸血されたことはないのでは?」
「普通の吸血はないですよ。でも度胸試し的に怪我させられて、流した血を味見されるのはしょっちゅうでした」
灯冶は一瞬厳めしい顔をしたが、やれやれと肩を落として抹茶茶碗に湯を注ぐ。
「でも、それが普通ですよ。寧ろ灯冶さんはどうして穢人にそんなに偏見がないんですか?」
オオナや日留加ならばまだ分かる。存在がかけ離れすぎてて逆に何とも思わないのだ。しかし灯冶はただの庶民なのだ。実際灯冶と同郷の阿文は暴言暴力はないものの、百瀬をたびたび穢人として扱う。一般人の認識的には穢人は祭子より更に下層の最底辺である。
「幼いころ、近所に穢人の老人が住んでいたんです」
しゃかしゃかと抹茶が点てられる音がする。
「もちろん嫌われ者の彼は本当に息を殺して暮らしていた。でも私は優しい彼が大好きだった。頭を撫でて膝の上に乗せてくれたのは彼だけでした。自分も貧しいのに、私のために菓子を用意してくれたりして。亡くなったときは、本当に悲しかった」
百瀬の膝の前に香り立つ抹茶が置かれた。
どうぞ、と促されて口に運ぶと、まろやかで芳醇な味がする。
「穢人は人に非ず、という考えには賛同しかねます。実に下らない。あなただって、敬意を払われるべき一人の人間だ」
何も言えなかった。心臓が固まり、喉が痙攣している。何か一言でも発すれば、泣いてしまいそうだった。
「あなたは本当に、祭子に嫌悪感はない?」
尋ねる灯冶の様子はとても頼りなげで、心許ない。
お茶を零さないよう注意しながら、百瀬は必死に頷いた。
「だってそれを言うなら、私だって祭子のようなものです。父親の顔を知りませんし、この先会えるとも思えません。加えて穢人ですもの、灯冶さんよりもっとタチが悪いですよ」
灯冶はまじまじと眼を瞠ると、口元だけでくすりと笑った。
「我々は、似ているのかもしれませんね。穢人と、祭子と。幼少期から偏見に晒され、ずっと重たいものを背負ってきた」
こんな弱々しい彼は見た事がない。儚くて脆くて、手が触れただけで溶け崩れてしまうような繊細さだ。
灯冶の視線が百瀬の手元に落ちると、空になった茶碗を回収された。再び抹茶を点て始める灯冶を、百瀬はただ美しいものとして眺めていた。
「抹茶、嫌いではなさそうですね」
「飲んだことはありませんでしたが、美味しかったです」
「私もここに来て初めて飲みました。この一式の茶道具はオオナ様にわがままを言って誂えて貰った、私の唯一の贅沢です」
今度は二人分の抹茶が用意された。灯冶の真似をしてたっぷりと匂いを嗅いでから口に注いだ。
「そういえばあなた今朝方、日留加を狙っていたでしょう」
茶を吹き出しそうになって、百瀬はむせる口元を手で押さえた。
「い、いきなり何ですか? 狙ってた、なんて」
阿文の言う通り、そんなに自分は分かりやすく飢えた顔をしているのだろうか。
先ほどまでの弱々しさは今や霧散し、代わりに灯冶は不機嫌そうに茶を啜っている。
「他の誰かに吸血を迫ったりしてないでしょうね」
「し、してないです。ちょっと、美味しそうとは思ったんですけど」
「誰を」
「……日留加様と阿文様と、部屋の侍女何人かです」
灯冶は棚から厚手の手ぬぐいを取り出し、膝元に敷いた。かと思うと、不機嫌そうなまま指輪を外し、内輪の仕込刃に勢いよく中指を差し込む。
「痛そう!」
昨日よりかなり派手な出血量だ。袖を捲った肘から手ぬぐい目がけて血液が滴り落ちる。
「いえ作った傷口を更に食い千切られる方が痛いですから」
「く、食い千切ったわけでは」
「犬歯を穿って穴を拡げたでしょう。なかなか痛かったです、あれは」
そう言われては申し訳ありませんとしか言えない。それにしても抹茶より何倍も美味に違いない液体がぼたぼたと垂れているのが勿体なくて仕方がなかった。出来れば今すぐにでも彼の腕を舐め上げたい。
今日はとても慌ただしい一日で、吸血欲なんてずっと感じなかったのに、彼の血の気配を感じた途端あの渇きと疼きが鮮やかに蘇ってくる。
「どうします? もう王族からの喧嘩は買わないと約束するなら飲ませてあげますが」
「あ、はい、約束します」
即答だった。灯冶は拍子抜けしたようだったが、すぐに満足そうに頷く。その表情が何だか少しオオナに似ているような気がした。
目の前に突き出された灯冶の右腕に、恐る恐る指を添える。肘から手首にかけて、彼の血を掬うべく丁寧に舌を這わせた。掌、指の根元、そして指先まで舌と唇で存分に味わう。血はまだ少しずつ流れ続けている。やっと傷口までたどり着くと、百瀬は前回よりは緩く、歯を立てぬよう入念に血を吸った。
「こんなに出血して、貧血にならないですか」
自分の心臓の鼓動と息遣いがうるさいのを誤魔化したくて、息継ぎの合間に話しかけた。
「休眠期ですから大丈夫ですよ。私はオオナ様とは違ってそう易々と吸血だの血吻だのしませんから」
律儀に灯冶も返事をくれたが、その言い方が何だか引っかかって顔を上げると、ぐっと何かに耐えているような険しい顔をしている。
(やっぱり痛いのかな?)
早々に吸血を切り上げられたら困ると、百瀬は取りあえず血を啜ることに専念した。自分でも、ちょっとどうかと思ったが今はそんなことを気にしてはいられない。
「時間と共に初期の猛烈な吸血欲求はおさまります。それまで滅多なことはしないように。我慢が出来ないなら私が吸わせてあげます。それに」
灯冶の指が百瀬の口の中に進入してきて、その舌をぐりぐりと擦った。予想外の動きに鼻から吐息が漏れてしまう。
「他の誰を吸っても、どうせ私の血が欲しくなりますよ」
楽しそうに百瀬の口内をゆっくりと撫でる灯冶は、オオナともまた違った別人のようだ。
(この人一体どういうつもりなのかしら)
何せ恋愛経験どころか対人関係すらまともに築いてこなかったのだ。からかわれていると分かってはいても、どうしても勘違いしてしまう。特別な感情が芽生えてしまう。
(駄目駄目駄目。気まぐれで言ってるだけよ。何だかんだ言って、灯冶さんは日留加様と夫婦になるのが一番いい)
思い直して、百瀬は指から口を離す。
百瀬の唾液と灯冶の血液が混ざり合い、ぬるぬると照っているのが恥ずかしくて、懐から懐紙を取り出し素早く彼の指を被った。
「もういいんですか? もっと吸っても構いませんよ」
気軽に言ってくれる。こちらは断腸の思いで引き剥がしたというのに。
「いえ、充分です。ご馳走様でした」
「もし吸われたくなったら、私でよければお相手しますよ」
「飲めるような味じゃないですよ! 隆飛様の感想を聞いていたでしょ!」
本当に今日の灯冶はどうかしている。途中でオオナに入れ替わったのではないだろうかと疑わずにはいわれない。
「味の他にも楽しみ方はあるので大丈夫です。試してみますか?」
その声色はいつも通り整然としていたのだが、言葉の意味を量りかねて、また量る余裕なども既に持ち合わせておらず、百瀬は顔を赤くして唇を小刻みに震わせた。
「すみません、今日は帰ります」
もう、限界だった。
送りましょうと言う申し出を重ね重ね固辞して、百瀬はクロを道案内に渡り廊下を歩いていた。目まぐるしく色々な想いが湧いて混ざってぐるぐると渦を巻いている。
(何よ、最初はあんなに怒ってたくせに。ああ、日留加様ごめんなさい、血も美味しかったけど抹茶も良かったなあ)
それにしても、と百瀬は思う。日留加の言う通り、吸血には特別な作用があることを認めざるを得ない。何なのだろう、この相手に対する溢れ出る好意と幸福感は? あんなに嫌いで顔も見たくなかったのに、今ではすっかり想い人のようになっている。何でもしてあげたい、何をされても許せる、そんな柔らかな尊い気持ち。
(そりゃ舞い上がってるだけとは思うけど)
それでも灯冶は自分がこういう状態になると見越して吸血させたのだろう。果たして嫌な相手にわざわざこんなことをするだろうか? それに本当かどうかは知らないが日留加とも血吻していなさそうな口ぶりだった。さっきだって、簡単に吸血させない、と言っていたではないか。
(違う、灯冶さんにとっては大して意味の無いことなのよ、期待しちゃいけない!)
拳をきつく握りしめたところで、誰かの話声が聞こえて来た。
「ねえ、あの穢人、処刑にならなかったそうよ」
どうやら自分の噂話のようだ。時間からいって、昼休憩中の侍女たちだろう。百瀬は襖の奥から聞こえる声に耳を研ぎ澄まさせた。立ち聞きなど褒められたことではないが、元々卑しい身なのでそんなことは気にしない。
「どうしてこんな甘い処分なのかしら。オオナ様のお気に入りだから?」
「それだけじゃなくて依代様も阿文殿も日留加様も可愛がってるらしいわよ。やっぱり異端者はおかしなモノを好むのかしらね」
「ああ嫌だ。依代様を助けたなんて、どうでもいいじゃない。早く処分してしまえばいいのよ」
「ほんとほんと。あの部屋の手入れするの心底ゾッとするもの。何が悲しくて貴族の私が穢人の世話しなきゃならないのよ。こんなことのために宮仕えに来たわけじゃないわ」
「でもねえ、依腹目指してやっと召し上げられたのに、依代様があれじゃあねえ」
「親が泣くわよ。顔が綺麗だって、いくら何でもお断り。性格に難があったって、隆飛様を狙うわよね普通」
「ま、日留加様とみそっかす同士でお似合いじゃない? 親の愛を知らない二人で仲良くすればいいわよ」
「え? 日留加様ってそうなの?」
「知らないの? 華虞名王の隆飛様贔屓は露骨よねえ? あれは娘を道具としてしか見てないわ。久我を名乗らせず、穢人の世話させられてる時点で、ねえ?」
「日留加様の華虞名様へのご機嫌取りの様子見てると、痛々しいったらないわ」
「痛々しいより、笑えて来る、でしょ」
姦しい笑い声に紛れて、百瀬は襖を通り抜けた。
浮かれた気持ちはすっかり萎えている。何だか無性にオオナに会いたくなった。
「百瀬! 良かった、もう牢から出て来れたのね!」
昼食と入浴を済ませたあたりで、日留加が高級菓子をたっぷり持参して尋ねて来てくれた。
さっき吸血したばかりだというのに、もう彼女の血に反応してしまう自分にいい加減ウンザリしてくる。
「ありがとうございます日留加様。私のために皆さんと掛け合ってくれたみたいで」
「当然でしょ! あんなの全部あいつが悪いんじゃないの、むしろあいつが懲罰牢に入るべきよ! 異父弟とはいえ姉として恥ずかしいわ、全く」
躊躇う気持ちもあったが、先ほどの侍女たちの話が頭からこびりついて離れない。百瀬は思い切って訊いてみることにした。
「どうしてあの方が第一王位継承者なんですか? 日留加様が長子ですよね? 人格だってこんなに優れてるのに」
ああ、それはねえ、と日留加の表情が曇る。
「私の父親よりあいつの父親の方がいい血統だったからよ。お母様があいつを溺愛してるしね。お母様の……王の姓は富士平でなく久我なの。久我族は木の霊種だから、私は混血扱いなのよ。だから火使の血統である富士平の遠縁に養子に出されたの。男なら祇呟依代になる可能性もあるけど女じゃ隠呟にしかなれないし」
日留加は忌々しそうだったが、その口ぶりは実に流暢である。
「富士平でも腫物扱いだし、結構寂しいもんよ。お母様と姓も違うし。久我でいたいわけでもなく火使であることに誇りもあるけど、いつからか強さと依腹になることだけが私の存在意義みたいになっちゃった」
そこで口いっぱいに栗きんとんを放り込む。ろくに噛みもせず呑み込むと、日留加の身体から力が抜けて行くようだった。
「百瀬、ありがとね」
突然礼を言われて、百瀬は「はいっ?」と姿勢を正す。
「私が石女って言われてるの、怒ってくれたでしょ。凄く、嬉しかった」
日留加の視線は栗きんとんに注がれたままだった。そんな日留加の翳りのある端麗な横顔を、百瀬は黙って見つめていた。
「私の世代って、王族女子が他にいないのよね。上は三十超え、下はまだ童子なの。生まれてはいたんだけど、皆流行病や事故で子供の頃に亡くなってるのよ。だから責任がね、重いのよね」
微かに項垂れる彼女を、出来ることなら抱きしめてあげたかった。しかしそれはいくら何でも思い上がりというものだろう。もどかしさを、百瀬は歯を食いしばって呑み込んだ。
「あ、ごめんごめん、またこんな話。それより百瀬、昨日から何だか様子が変だと思ってたら、灯冶の血貰ったんだって? 阿文から聞いちゃった!」
ぽかんと口を開けたまま、百瀬の息が止まった。
(何で言うのよーっ!)
「ほらね? 昨日はいつもより二人穏やかだったもんね?」
「すみません、私なんかが。灯冶さんは日留加様のものなのに」
恐縮しまくりで百瀬は俯いて膝の上の拳に力を込めた。
が、日留加は全く曇りのない笑顔で指をひらひらと振っている。
「だから違うって! でもでも美味しかったでしょ? びっくりしたでしょ?」
顔を覗き込まれたが、とても直視できなくて百瀬は顔を逸らした。
「いえ、あの、私そもそも他人を吸血するのすら初めてで」
「え!? ああ、まあ、うんうん」
「だから比べることが出来ないんですけど……とっても美味しかったです」
恐る恐る、ちらりと日留加の顔を見遣ると、彼女は口元を手で押さえながら、姫とは思えぬほど俗っぽくニヤついていた。
「で? 灯冶の様子はどうだった?」
「いえ、別にどうということはなく。あ、やっぱり、少し痛そうでしたかね?」
普通に真面目に答えたはずなのに、日留加がぷーっと噴き出した。
「ごめんごめん、ちょっと想像しちゃって。あのね、百瀬は知らないだろうけど、血吻の真髄は吸血にあらずよ。吸われる方がずっと快感なの。それはね、痛かったんじゃなく気持ちいいのを我慢してたのよ!」
えーっ! と心の中で絶叫してしまう。いや、そんな、まさか。だってあの灯冶が? 色恋沙汰に全然興味の無さそうなあの灯冶が? いやでも今日の彼は様子がおかしかったと言えなくもない。いやでも、いやでも……。
「どういういきさつでそうなったの? 百瀬から頼んだの?」
「違いますよ! 私に酷い仕打ちをしたお詫びとしてです。飲みますか? って差し出されたら、そりゃ飲まざるを得ないじゃないですか」
「あ、なるほど、灯冶はそういう誘い方するのね。ふーん、ふーん」
日留加はこの上なく楽しそうである。一方百瀬は未だ複雑な気持ちだ。どうしても人の物に手を出してしまったという罪悪感が拭えない。
「ああ、でも百瀬困っちゃうわねー? 和澄に帰って記憶はなくても身体があの味を忘れられなくて村人を襲っちゃうかも? でも満足なんか出来ないよねー? どうしようねー?」
「もう、そんな不吉なこと言うの止めてください」
「だからずっとここにいればいいじゃない、ね? ついでに依腹になっちゃえば? せっかくオオナ様に気に入られてるんだし。森の中で一人で暮らすより楽しいと思わない?」
やれやれ、である。日留加もいつかの灯冶と同じようなことを言う。ついでにって、そんな簡単なことなのだろうか。
「でも、そうなると私たちはその、灯冶さんの身体を共有? することになりますよね、日留加様はそれでいいんですか」
「だから、王族はそんなこと気にしなーいの! 灯冶にも文句なんか言わせない! ね? オオナ様に頼んでみようか?」
ぎゅっと両手を握られる。百瀬はむせ返る血の芳香に我慢ができなくなって思わず顔を背け、手を振りほどいた。
「え? ごめんなさい、私一人で盛り上がって怒っちゃった?」
日留加が少なからず傷ついた顔をしている。誤解されたくなくて百瀬は慌てた。
「違います! すみません、日留加様もとっても美味しそうなので、つい……。出来ればあまり近付かないでください」
こんなことをいちいち弁解しなきゃいけないのが恥ずかしくて堪らない。この吸血欲はいつになったら終わるのだろう。
日留加はさすがにすぐに察しがついたと見えて、一転照れ笑いをしていた。
「あ、そういうこと? あはは、そっか、うーん、普通同性同士で血のやり取りはしないけど、百瀬のためならあげてもいいかなー? 覚えたてって、凄く乾くから辛いものね」
何とも魅力的なお誘いである。でも、それを素直に受けるわけにはいかなかった。
「あ、いえ、それは……いいです」
「何で。無理しなくていいのよ」
「灯冶さんに、他の人の血を欲しがらないよう言われてるんです。確かに、卑しい、ですよね」
「じゃあこの時期をどう乗り越えろっていうのよ。ひたすら悶々と耐えろっていうの?」
「一応、我慢できなくなったら灯冶さんのをくれるって言ってました」
「え、それって」
日留加が言い終える前に部屋の障子がバッと開いて、一匹の鷲が飛び込んで来た。ぎゃーっと鳴くと、鷲の姿は溶け、代わりに小さな紙切れが表れる。
日留加はそれを手に取ると、紙に記された文字に素早く目を通した。何事かと呆けている百瀬に、片目を瞑って愛嬌たっぷりに微笑む。
「一緒に来て、百瀬。私の勇姿を見せてあげる」
わけがわからないまま馬車に乗せられ、着いた場所は海に近い郊外だった。後ろを山林に囲まれた盆地の一角で、何やら轟音が迸っている。音の出処から二百メートルほど手前の丘陵で、百瀬は日留加に促されて車から降りた。
「ほら、あそこに灯冶と阿文がいる。あそこで待ってて」
見ると丘の上に二人と、数名の従者が佇んでいる。日留加は別の道から丘の下へ駆けて行った。残された百瀬は仕方なく彼らの方へ赴いた。
「どうしてあなたがここに?」
「日留加様に連れられて来ました」
灯冶の問いに答えた途端、周囲が大いに安堵したのが伝わった。
「皆、引け! 守りの陣を取れ! 日留加姫が参戦される!」
四十人はいるだろうか。壮年の男女が散りぢりになって、ある化物を牽制しつつ、各々の霊術で攻撃している。
化物。そう、それは動物とは言えない、化物としか言いようのない形をしていた。角があるわけではなく、尻尾があるわけでもない。形はヒト型である。ただ、その体長は五メートルを超えるだろう。錆びたような赤茶けた肌に、硬質な輝きを放つ細い杭が、体毛のように全身から突き出していた。頬の肉は削げて鋭利な歯が剥き出しになっている。瞼と言うものが存在しない眼は白目部分ばかりが肥大し、両生類のように零れそうに揺れ動いていた。
「あれが……邪霊?」
実際に見るのは初めてである。何かに掴まらなければその場にへたり込んでしまいそうで、百瀬は踏みしめる足に力を込めた。
あれこそが霊力を借る最大の弊害。霊気は制御しつつ使用すれば万物に値するもの。しかしひとたび制御を失えば、その身を精霊に喰われてしまう。哀れな霊使の成れの果てだ。
丘の下では阿文の号令が届いたのか、邪霊を狩ることを生業とした邪霊使と呼ばれる者たちは、その金種の邪霊から距離を取り始めた。
化物を拘束しようとしたのか、地表から巨大な蔦が数本、地鳴りと共に突き出て来る。腿までに絡みついたそれは肉が食い込むほどに締め上げ、足元の自由を奪うことに成功したかに見えた。
しかし、化物に生える杭が円柱状から平坦で鋭利な長方形に変形すると、蔦を切り落としたのである。断裂した繊維が散らばる中、化物の目玉が高速で回転し、とある方角へぴたりと止まる。
蔦を生成した一人の霊使に狙いを定めると、一斉に毛穴が開いた。土台を失った無数の杭が、的を目がけて襲い掛かる。
百瀬はあっと息を飲んだ。遠目からだが、あれは恐らく隆飛だろう。邪霊の放った杭の嵐は今まさに彼に届こうとしている。
そのとき、一際色濃く紅い炎が現れ、飛来する杭をくまなく呑み込んだ。次いで炎は化物の脚を燃え上がらせ、左脛を溶かす。片足となった化物は平衡を崩して地面に倒れ込んだ。
「あれは日留加様の火だな。ここからは早いだろう。よく見とけ」
阿文に言われるまでもなく、百瀬の目線は邪霊討伐に釘付けだった。
邪霊は耳を劈く金切り声を上げ、両手を地面に叩き付けた。
その衝撃に、距離を保つこちらの地面も激しく揺れた。屈み込んで踏ん張り、再び顔を上げたときには、化物の手足から放射線状に濁った琥珀色の水晶が広がっている。広範囲に突き出たその水晶の切っ先は、所々邪霊使たちの血飛沫に濡れていた。
百瀬があっと叫んだのと、水晶を吹飛ばす爆発が起こったのが同時だった。爆心地から熱がどんどん拡がり、水晶をみるみる溶かしていく。その中央には傲然と佇む日留加がいた。
「火よ」
凛とした詞言が冴え渡る。両手を化物に向け、獲物を捕獲するべくその瞳は爛々と輝いている。
「我を取り巻く蛍火よ。猛り、踊れ。我に仇なす彼奴に群がり、蹂躙せよ」
空気中を舞っていた火の粉たちがたちまち火の玉となり、螺旋状に化物を包囲する。外から化物の姿を隠すほどになると、その輪は一斉に内側へと飛び込んでいった。
阿鼻叫喚すら、燃やし尽くすようだった。焦げ跡すら残さず、その化物は蒸発した。
「今回は貴族の分家の者が邪霊化してしまいました。地方の庶民ならともかく、強力な霊使が邪霊と化すのはごく稀なことです。そしてその分邪霊としての力も強くなる。こうして邪霊の討伐を生業とする邪霊使たちが深手を負うことも珍しくない」
腕を組み、灯冶は髪を熱風になびかせて、厳しい顔つきで狩場を睥睨している。
「ですから、力強き者ほど、霊気を制御する力が求められるのです」
精霊に喰われる。その身に霊力を宿せば、確実にこの惨禍を孕む。
(こんなに、大掛かりなことなの)
未だ目前の光景が信じられず、茫然とする。
難は去り、後には抉れた野山や飛び散った血液、負傷して救助を乞う人々が残された。
「これくらいの被害で済んで良かった。私は癒術班の加勢に行きます。あなたはここで阿文と一緒にいるように」
そう言われて百瀬は灯冶を見上げた。しかし彼はもう隣におらず、負傷者の集団に向けて走り出している。
「別にお前がわざわざ行かなくてもいいんだぜ」
「討伐に参加出来ないのですから、せめて」
しかしそこで灯冶は立ち止り、阿文が身じろぎをした。
二人の視線の先を追うと、忙しなく動き回る霊使たちの波間から一人の女が悠々と歩いて来る。
「おや、これはこれは」
ねっとりとした声だった。三十半ばだろうか。端々に装飾の施された身なりから、かなり高貴な身分を窺わせる。
個性的な美人だった。気怠そうな眸と厚ぼったい唇を、細い眉と尖った顎が締めている。個々に見れば端正、とは言いがたいのに、危うい均衡から成る、絶妙な美しさだった。しかし彼女の美をより際立たせていたのは、華奢な身体へ繋ぐ、首だった。細く、やや長めのその首には皺もなく、染みはおろか黒子の一つもなく、どの角度から見ても完璧な曲線を保っている。
「華虞名王」
阿文の問いかけに、百瀬ははっとして女を見つめた。では、この退廃的な美女があの快活な日留加の母だというのか。
「華虞名王も参加されたのですか」
邪霊が出現すると、先鋒としてまず邪霊使が急行する。彼らは国内屈指の強者たちだが、それでも手に余るときには今回のように王族に要請がかかるのだ。
「一応な。しかし娘が一人で駆逐してしもうたわ。こちらは出る幕もない」
顔だけは呆れたようだったが、その口調には誇らしさが滲み出ている。
日留加の活躍は勇猛であり華麗ですらあった。手をこまねく邪霊使達に抜きんでて、ほぼ一人で畳んでしまった。
「流石は富士平の火使でございます」
灯冶が恭しく腰を屈めた。それに阿文が追従したので、百瀬もそれに倣う。
「嫌味が上手くなったな、久我から火使を出したことを嗤うているのか」
先程まで上機嫌だったのにも関わらず、王は一転して不快感を露わにした。
「いえ、決してそのような」
挑発するように口角を上げる王は、百瀬を慄かせた。
その態度は、どんな無茶も通せる者独特のものだった。圧倒的強者の持つ風格を、惜し気もなく発散させている。日留加から、オオナからでさえ感じたことのない威圧感に、百瀬は酔いそうになった。
灯冶はというと、頭を垂れたままじっと足元を凝視している。
「ところで近頃棲み付いている穢人というのはそれか?」
唐突に話題を振られ、ぎくりとする。慌てて両腕を揃え、勢いよく礼をした。
「初めまして、百瀬と言います」
下げた頭を持ち上げようとするより前に、百瀬は頭頂の髪を荒々しく掴まれ、引っ張るように持ち上げられた。
「そなた、穢人のくせに我が息子に大変な無礼を働いたそうじゃな。この首が繋がってることを奇跡に思えよ」
霊気までが怒気に猛り、百瀬を喰らい尽くすかのようだった。頭皮の痛みなど吹き飛ぶほど、絡まる剣呑な霊気が百瀬を怯えさせる。
迫る霊気に息も止まってしまったとき、掴まれている百瀬の髪が王の手首の下でぶつりと切れた。地面に膝と手をつき百瀬は呼吸を整える。
「何じゃ。この穢人を庇うのか」
睨まれた灯冶は怯むことなく王を見返した。
「休眠期の間、丁重に扱うようにとオオナ様より承っております」
「ふん、田舎者の鳩が」
王の怒りが再び灯冶に向けられた時、日留加が丘の下から「お母様!」と駆けて来た。
「おお日留加。ご苦労であった。素晴らしい活躍であったな、母は誇らしい」
これまでのやり取りが嘘のように、王は相好を崩して日留加を迎えた。
「隆飛は邪霊狩りとなるとてんでダメじゃな。やはりそなたの方が一枚も二枚も上手じゃ」
土に汚れた手を撫でられながら、日留加は高揚した様子で母を見上げている。
「可愛い日留加。そなたを妻にできる依代殿は幸せ者じゃ。早く私に孫を抱かせておくれ。次代の依代となる御子をな」
途端、日留加の表情が強張ったことに百瀬は気付いてしまった。
「ではこれで失礼する。日留加おいで」
「百瀬またね。灯冶、癒術班が応援を欲しがってる。行ってあげて」
日留加に言われて、灯冶は「分かった」と短く言っただけで丘の下に向かって行った。
取り残された百瀬はまだ胸の動悸が治まらない。
「大丈夫か」
腕組みをしながら阿文が無表情に百瀬を見下ろしていた。
「隆飛様は……王に似てるのですね」
「日留加姫が特殊なだけだ。言っておくが、隆飛様の事を抜きにしても、あれが普通の王族貴族の反応だからな」
「はい、分かってます」
髪を掴まれたことや言われた台詞にも驚いたが、何より王の放つ霊気に圧倒されたのだ。
(きっと、あの方は私を何の呵責も無く殺せる。土を踏みしめるように、虫を払うように、当然のごとく)
まだ少し、手先が震える。両手を胸の前で握りしめて、百瀬は縮みあがった心臓を落ち着けようとした。
「あの灯冶さんを鳩、と呼んでいたのは何ですか」
「単なる仇名だ。気にするな」
その仇名の由来は分からなかったが、どうせろくでもないことに違いない。王がそんな態度では隆飛のあの悪態も仕方がない気がしてくる。
「見てのとおり、王宮はお前なんかがが暮らしていけるところじゃない。王に本格的に目を付けられる前に全部忘れちまえ。でないと自分の首を絞めるぞ」
「もし、ずっとここにいたい、って言ったら?」
「これ以上王宮を引っ掻き回すな。俺の胃が潰れる。お前が王宮で暮らすのを快く思わない連中を宥めるのに、俺が今までどれだけ苦心してきたか」
「そんなにご迷惑をお掛けしてるとは知りませんでした。すみません」
「謝ってほしいんじゃない。これ以上深入りするな。灯冶にも日留加姫にもおまえの存在はちょうどいい。あの二人は心を許して可愛がれる相手に飢えている。自分より圧倒的に格下の相手には優しくできるってもんだろ。どうせいなくなるなら、奴らの執着がこれ以上強くなる前に消えてくれ。休眠期明けにお前と二人を接触できないようオオナ様に頼むから、子守りはオオナ様にしてもらえよ」
不思議と悪い気がしなかった。消えろと言われても、何だか初めて阿文が彼自身の言葉で話してくれている気がした。
「オオナ様とは会ってもいいんですか?」
「あの方が人との一期一会で心を痛めるわけがないだろう。もしそうだとしても俺の知ったことじゃない」
「阿文さんて優しいですね。いつもお二人の心配ばかりしてる」
阿文はさも嫌そうに顔を顰めた。灯冶と方向性は違えど、彼もまた真面目なのだ。
そこで、治療から灯冶が戻って来た。着物の所々に血液や泥が付着している。
「救護者ももう皆運ばれた。我々も引き上げよう」
片手を上げて応えた阿文は驚愕した。
「灯冶!」
言うが早いか、黄土色の歪んだ金属の矢が、後方下から灯冶の左腿を貫いた。
衝撃で前方によろけた灯冶を、阿文の腕が受け止めようと伸ばされる。
邪霊の大元は日留加が焼き尽くしたが、欠損した破片は先ほどまでそこらに散らばっていた。それらがいつの間にか一か所に集結し、歪な肉塊となって蠢いている。そしてそれに開いた無数の穴から、再びあの金属の矢が出現し、灯冶目がけて再び発射された。今度は三本。
阿文にもそれは見えているはずだが、彼の足は止まらない。
阿文の片手は印を結び、防術の詞言を唱えようとしているが、恐らく間に合わないだろう。きっと矢は彼らを抉る。
このままでは灯冶を庇って阿文が死んでしまう。灯冶だって、第二陣で命はとりとめても、恐らくすぐに第三陣が襲ってくる。そこできっと阿文と同じ運命を辿るだろう。そして灯冶を仕留めたら、次はこの場に残った他の霊使たちも。
(駄目)
詠唱無しにこの攻撃から彼らを守れる者は皆撤収してしまった。この場にはもう誰もいない。
(失えない)
百瀬は両目を見開いた。
防術の生成を一瞬で諦めた阿文は、迫り来る攻撃に備え、倒れ込む灯冶の上に覆いかぶさった。たった数秒でいい、時間を稼げれば誰かの防術が灯冶だけは守れるのではないか。そのために己が貫かれてもやむなし、と。
しかし背面のどこにも痛みはない。術が自然消滅したのかと警戒しながら顔を上げると、灯冶のうなじ僅か拳一個分の距離で、矢が空中に浮いていた。
「阿文、一体何が」と、脚を赤く染めた青白い灯冶の問いに、阿文は答えられなかった。
辺りを見渡しても、とても説明がつかない。あんな喧噪の渦中にいたのに、この静寂は何だ。叫ぶ霊使、顔を覆ってうずくまる御者。それら全ての人々が、微動だにせず静止している。
「闇よ。灼熱の黒炎よ。邪気を纏いし刺客を焼鉱せよ」
切り取られた空間に、緊迫した彼女の詞言が響き渡る。
紛れもなく、それは百瀬の声だった。目を瞑り、両膝をついて印を結ぶ手が激しく痙攣していた。
三拍ほど置いて、灯冶に迫らんとしていた矢が、小さな炎に包まれる。矢の出処である肉塊も、同じく燃え始めた。しかしその炎の色は赤ではなく黒である。黒い炎が灯冶と阿文を暗く照らす。
「矢の軌道から離れて! 燃やし尽くすまで保たない!」
悲鳴にも似た命令に阿文は我に返った。意識が朦朧としているのか、視線が泳ぎ喘いでいる灯冶を肩に抱えて矢の向きとは垂直の方向に走った。
走りながら阿文が生成した防術が二人を無事に覆ったところで、周囲の音が復活した。激しい息切れと共に見渡すと、邪霊の残滓たちは綺麗に消失している。
そして、俯せに倒れている百瀬がいた。




