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神無日には月を抱いて  作者: 成瀬 透
3/8

極上の血

 夜中、オオナが開ける前に、待ち構えてた百瀬が部屋の障子を勢いよく開け放った。

「オオナ様」

「な、なんじゃ」

 気圧され気味のオオナが上擦った声を出した。


久呉(くご)草と、多葉名(たばな)草ってこの辺りにありますか?」

「あるにはあるが、それがどうした」

 百瀬の表情がぱっと明るくなった。

「明日、摘みに行っていいですか? 作りたい薬があるので。あとは、申し訳ないのですがこの紙に書かれている物を用意していただけたら有難いのですけど」

 差し出された紙切れには、薬草作りに必要な最低限の備品が記入されている。


「こんなものいちいち用意せんでも、調合室に最新の設備が一通り揃っておるわ。それに、張り切ってるところ水を差すようじゃがな、あれは薬でどうにかなるか分からんぞ。孕みにくい体質なのじゃな」

「オオナ様、薬草学に明るいんですか」

 まるで誰に何を精製するのか分かっているような口ぶりである。

「もう永いこと生きとるからな。木使の依代も大勢いたしの。知識だけならそなたにひけを取らんかもしれんぞ」

「そうなんですか……。でも、薬を調合するのはいいですよね?」

「まあ好きにせい。しかし一人では行くなよ、阿文か灯冶を同行させるように。それから、薬作りは覚醒後にせい。結構時間と手間暇がかかるものじゃろ。ばれたらまた灯冶がうるさいからの」


 百瀬は思いっきり落胆した。せっかく力になれると思ったのだ、この機会を潰したくない。

「そんな顔をするな。それより覚醒訓練はあまりうまくいかなかったそうじゃな、灯冶に聞いたぞ」

 更に深く、気持ちに影がさした。

「灯冶さん、私に苛立ってました?」

「いや? だって今日が初日じゃろ? あ、ただ、明日からの訓練に参加するって言っとったわ」

「えっ」

「何じゃその嫌そうな顔は」


 今、灯冶の意識はないとオオナに確認した上で、百瀬は重い口を開いた。

「いえ、あの、今日とても冷たい目で見られたので、出来ないところを見られると緊張するというか、怖いというか。明日から、もしかして厳しくしごかれるのかと思うと気が重いというか……とにかく、疲れるんです」

「ほう、疲れとるのか。可哀想に」

 オオナは百瀬のうなじを掌で包み、そのまま自らの胸へと傾げた。頭をぎゅうっと優しく抱き締められる。以前の百瀬なら飛び退けたところだろうが、今日は本当に疲れていたし、そのまま人のぬくもりに甘えた。身体から凝り固まった疲労が抜けていく感じがする。


 百瀬にとってオオナはすっかり安全地帯となっていた。図々しいとは思うものの、父か兄がいればこんな感じなのだろうか、と想像してしまう。

「まあ、しごくつもりじゃからそう言い出したんじゃろうなあ。そなたを早く帰してやりたいんじゃろ。責任を感じてるんじゃよ」

 お気持ちだけで、充分です。私にとって面倒事が増えるだけです、と言ってしまってから一抹の不安を感じ、胸の中から上目遣いにオオナを見上げた。

「あの、これ、本当に灯冶さんに聞こえてないんですよね?」

「くくくっ。面白い女子じゃのう、百瀬は。では迷惑だから来るなと、わしが言っておこうか?」

「そんな、やめてください。いらぬ誤解を生むじゃないですか」

「では自分で伝えるんじゃな。ほれ、灯冶に替わってやるぞ」

「は? えっ、ちょっとオオナ様?」


 百瀬の頭の上に灯冶の身体がだらりと覆い被さって来た。倒れないように慌てて抱きとめると、弛緩した身体に不意に生気が蘇る。持ちあがった顔と、百瀬は鼻同士がくっつきそうな至近距離で目が合ってしまった。

 こんばんは、と言いたかったが声なんてとても出て来なかった。そのまま硬直している百瀬から灯冶は素早く身体を引き剥がして、物理的な距離を取る。


 恐る恐る表情を盗み見ると、露骨な仏頂面をしていた。

「オオナ様から、何か話があると伺ったのですが」

 声色まで不機嫌全開である。咄嗟のことに百瀬は頭の整理が追い付かなかった。

「えっと、オオナ様は?」

「もうお休みになりました。用事と言うのは?」

 灯冶の態度がかなり険しい。この時間だ、寝ているところを起こされたからか、もしくは自分と身体が接近していたからか。考えれば考えるほど百瀬は混乱していった。


「いえ、えーと、あの、訓練に明日から参加されるって聞いて」

「ええ、そのつもりですが」

 じろりと睨まれた、気がした。

「あの、灯冶さんもお忙しいでしょうから結構ですよ、無理なさらなくても」

 言ってから、しまったと後悔したがもう遅い。何を馬鹿正直に告げているのだ。でも焦燥と罪悪感で全然取り繕うことが出来ない。そもそも嘘をつくのが苦手なのだ。


 しかし灯冶に特に気を悪くした様子は無かった。気怠そうに長い瞬きをしたのみである。

「毎日暇を持て余してるので大丈夫ですよ」

「え、お暇、なんですか?」

「ええ、日がな一日、本を読んだり剣や霊術の稽古をしたり、気ままに暮らしています。正統な王族でもない私にこれといった公務はありませんから。邪霊狩りに駆り出されることもありませんし」


 そう言われてみれば、彼は王でもなく王族の家系図にも載っていないのだ。それでもたとえ王になどなれずとも、一生王宮での生活が保障されていることだろう。確かにこの青年は貧民として生まれながら、誰もが羨む夢のような僥倖を手に入れた。

(でも、平穏と退屈は紙一重だわ)

 中でも邪霊狩りなんてもっての外だ。うっかり死んでしまっては取り返しがつかない。

 なるほど、余暇を持て余せば百瀬の事情に首を突っ込みたくなるのも無理はないのかもしれない。


 あ、でも、と思いつく。

(子供を作る仕事は、ある意味公務よね)

 それでも忙しいのは夜だけ?

「百瀬さん?」

 呼ばれて百瀬ははっと我に返った。

「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて」

 顔を上げると思ったより近くに灯冶の顔があり、たじろいでしまう。今更ながら、灯冶と日留加は既に子作りをしているのだ。お互いの顔を知っているだけに、何だか生々しい。


「話と言うのは、それだけですか?」

「あ、はい、えーと、そうです」

 お互い正座したまま見つめ合う。百瀬は息苦しさを感じていたが、灯冶が何やら言いたげだったので、黙って彼の言葉を待った。


「……あなたは本当に帰りたいのですか?」

 何の他意も無く、ただ純粋な疑問、という様子だった。彼の言いたいことも分からなくもない。何せ村であんな目に遭っているところに出くわしたのだから。

「帰りたくないからといって、ここに居られるわけでもないでしょう」

「穢人とはいえ、オオナ様がお許しになればあなた一人くらいどうとでもなりますよ。もし覚醒したからといって、申し訳ないが人並みの霊使になれる可能性は低い。村人たちのあなたへの態度が激変するとも思えません。だったらこのままオオナ様の側室にでもなった方がいいんじゃないですか」

 これまでオオナや日留加姫に散々驚かされて来たが、この発言が今のところ群を抜いて百瀬の常識を打ち砕いた。


「そんなこと有り得ません」

 百瀬にしては、かなり強い語気で言い切った。

「確かにオオナ様はお優しいけれど、そんなんじゃありません。私は和澄に戻って子供を産みたいんです」

 これには灯冶の方が虚を突かれたような顔をする。

「……好きな人でもいるんですか?」

「あ、えーと、決まった相手はいます」

 結構長い沈黙が過ぎた。灯冶の表情が微妙に色々と変わり、彼の動揺が伝わって来る。


(まあそうだよね、普通は驚くよね)

 彼の想像は確実に真実とかけ離れているだろうが、こちらも嘘は言っていない。

「だから側室なんて困ります。それに穢人と神様なんて組み合わせ、オオナ様の評判を落とすだけです」

「それなら尚更、オオナ様があなたを手放し難くなる前に覚醒せねばなりませんね」

「だから、そんなことにはなりませんって」

「だってこんな夜中に抱き合ってたでしょう」


 かーっと百瀬の顔が染まる。

「違いますよ! あれは慰めて貰ってたんです!」

 先程のことは誤解だが、事実でもある。当の本人相手に下手な言い訳は無駄だと知りつつ、百瀬はそれでも弁明せずにはいられなかった。

「慰め? 訓練が上手くいかなかったからですか?」

「灯冶さんに訓練中苛められたからですよ!」


 あ、と百瀬は手で口を押さえた。咄嗟のこととはいえ、本音とはいえ、この言い方はまずい。

 灯冶は少しの間目を見開いていたが、やがてその目は苛立たしく細められていった。

「そうですか、ではオオナ様にたっぷり優しくされるといい。これで遠慮なく昼間の訓練に精が出せますね」

 失礼! と言い捨てて灯冶は荒々しく去って行く。

 百瀬は自己嫌悪と彼の嫌味に耐えられず、枕を箪笥に投げつけた。


 翌日の覚醒訓練から、予告通り百瀬の受難が本格的に始まった。灯冶の、不機嫌さを前面に押し出しつつ進められた訓練に、日留加どころか阿文さえ訝し気だった。

 霊力を閉じ込めた護符に手をかざしたり、それぞれの霊種の結界に閉じ込められたり、術の詠唱をさせられたり。灯冶主導により、様々な訓練が行われたのだが、しかしそのどれにも百瀬は反応しなかった。


 和やかな雰囲気を取り戻す余裕もなく、二週間経つ頃には全員の神経がすり減っていた。阿文はあからさまにではなかったが確実に興味が削がれているようだったし、日留加も百瀬を励ましつつ少々疲労と閉塞感を抱いているようだった。そんな中、しつこく熱心に指導し続けるのが灯冶である。そしてこの熱意こそが場の空気を日に日に荒れたものにしていた。


「ほら、集中して! 覚醒すると本気で念じながら霊石を動かしてください!」

「そんな事最初から分かってます、出来るならとっくにやってます!」

 最初は遠慮していた百瀬も、灯冶のあまりに苛烈な指導に、とうとう強く言い返すようになっていた。今や二人の関係は一変し、険悪、と言っても過言ではない。


「では今度は木術の詞言を唱えて」

「木よ。我が手足よ。地を這い空を仰ぎ猛る……」

「猛る枝葉を羽ばたかせよ! 三日前に教えた詞言ですよ、どうして暗唱できないのですか!」

「ねえ、朝からずっとこんな調子じゃない、ちょっと休憩しましょ。お昼なんだし」

 見かねた日留加が百瀬の掌から霊石を摘まみ上げた。


 朝の十時から訓練が始まり、段々と苛立ちが積もり、雰囲気が最悪になったところで阿文か日留加が止めに入る。こんなことをここ数日毎日繰り返している。

 休憩後昼食を食べて、灯冶の駄目出しと小言を聞いてからまた一頑張りしなければならない。部屋に戻ってからは、灯冶がどっさりと持ち運んだ詞言の教本を覚えるのだ。百瀬の一日は途端に過密になった。


 あの夜の失言を、謝ろうとは何度も思ったのだ。しかし肝心の灯冶が全く取り付く島もなく、とうとう機を逸してしまった。

(だって私だけのせいじゃない、元はと言えば向こうの態度が悪いからじゃないの!)


 被害者意識が肥大している感は否めないが、百瀬にだって心はある。厳しくされたり責められれば辛くもなるし、不満も溜まる。そしてその鬱憤を百瀬は灯冶の言いつけ通り、夜に訪れるオオナに開き直って泣きつくことで発散させていた。

 もう覚醒なんてどうでもいいだの灯冶を訓練から外してくれだの言ってはオオナに宥められているのである。顔も見たくない、声を聞きたくない相手でも、中身が違えば甘えたい人物になるのだから我ながら不思議だった。それでどうにか今日まで精神を繋いできたのだ。


「昼間は激しくやりあったのう……」

 今宵もオオナは百瀬の部屋で愚痴を聞いてくれる。膝を抱えて俯く百瀬を、後ろから抱きしめてくれ、耳元に口付けをしてくる。最近ではこの程度の接触にはすっかり百瀬も慣れていた。

「明日なんて来なければいいのに」

「灯冶には灯冶の考えがあるのじゃよ」

「灯冶さんが来なければいいのに」

「そ、そこまで言うか」

「灯冶さんなんて嫌い」

「すまぬな、嫌いな男の形で」

「全然です! オオナ様は大好きです。身体は灯冶さんだけど私が嫌なのは灯冶さんの中身だから!」

 この断言に、オオナもさすがに溜息をついた。


「灯冶、可哀想に……」

「いえ、可哀想なのは私です」

 本人(の身体)を相手に、言いたい放題である。

 しかしそれが許される程にオオナは百瀬を可愛がり、百瀬もオオナに心を開いていた。こんな風に甘えられる相手に、ずっと飢えていたのだと不本意ながら認めざるを得ない。


(母さんがこの状況をあの世から見てたら驚くだろうな)

 自分が王宮で神と毎夜ひっついているなんて。

(それにしても灯冶さんたらざまあみろだわ。あんたの嫌いな百瀬とあんたの身体はこんなに仲良くしてるんですからねー)


 百瀬を緩く抱くオオナの腕に手を添えると、オオナは嬉しそうに「何じゃ?」と言いながら百瀬を少しきつく抱きしめた。

 灯冶に陰ながら復讐している気になって、百瀬は多少溜飲が下がる。しかし復讐とはそれが相手に伝わらなければ実際のところ意味がないのであった。


 百瀬は今日もまた朝から三時間ほど灯冶に容赦なく叱責されていた。

「違います、違う! 何度も教えたでしょう、あなたの耳は飾りですか! あなたの詞言は上滑りだ、そんなものに霊気が宿るわけがない!」

 しゃがみこんで両手でこめかみを押さえる百瀬の頭上から、雑言の嵐が降り注ぐ。


(もう無理、限界、灯冶さんと一緒にいたくない。絶対目を合わさない)

 訓練が始まって早一月である。百瀬の心身は限界を突破しつつあった。しかも今日は阿文が公務により不在である。日留加が気遣って百瀬を庇うものの、灯冶の非難は緩まない。


「ねえ、百瀬ちょっと顔色悪くない? 今日はもう部屋で休んだら?」

「これくらい大丈夫でしょう。辛くない訓練などありはしない」

「疲れてるときに無理したって体調を崩すだけよ。霊気が暴走して怪我でもしたらどうするの?」

 百瀬の中で、灯冶の株が暴落していくに反比例して、日留加への依存心は急速に増していた。本当に、日留加は女神ではないかと思う。


「そういうときの為に我々がいるんじゃないか」

「本気で言ってるの? 精霊の加護を受けるってもっと穏やかで崇高なものよ。あんたのはただ苛めてるだけじゃないの」

「彼女は王族じゃない。そのやり方で覚醒しないからこんなに苦労してるんだ」

「厳しくすれば結果が出るってわけ? あんたの自己満足に百瀬を付き合わせないで!」

「君だって自分の理想を押し付けてるだろう!」


(あー、また始まった)

 最近は、こうなることもしばしばだった。当初はふたりは仲良しの恋人同士だと思っていたが、どうやらそう単純な関係でもないらしい。けれど、もうとっくに他人の恋路への興味なんて失っている。それどころではないのだ、本当に。


「灯冶さん」

 それまで青白い顔で押し黙っていた百瀬がぽつりと呟き、二人の注意が百瀬に向けられた。

「灯冶さんは、そんなに急いで私を追っ払いたいの? 私に、自分たちのこと、早く忘れて欲しいんですよね? そうすれば私を巻き込んだ責任から解放されるもの。肩の荷を下ろして、楽になりたいんですよね?」


 百瀬、と言いかけた日留加を灯冶の低い声が遮った。

「分かっているなら私のためにも精進してください。あなたは自分が穢人だということに甘えている、自分を穢人だと思っている人間が覚醒できるはずがない!」


 彼らの理屈からいえばそうなのだろう。でも百瀬には百瀬の事情がある。もうこんな問答はウンザリだった。

「それのどこが悪いの? 自由に術を使える人たちに私の気持ちは分からない。子供の頃からずっと霊気に頼らない道を探して生きて来たんです、私だって母さんだって必死にやってきたの! そういう生き方を否定することは誰であろうと許せない! 第一、誰のせいでこんなことになったと思ってるんですか!」


 最後の一言は、言ってはいけない一言だったと自覚があった。それでも口が勝手に動いてしまったのだ。もちろん無礼には違いないが、それ以上に構うもんかという思いの方が強かった。

 二人は無言のまま肩で息をする百瀬を見つめている。


 何も言わずに、灯冶が踵を返して歩き出した。

「ちょっと灯冶、どこ行くのよ?」

「帰ります」

「午後の訓練は?」

「どうぞご勝手に」

 日留加は盛大に溜息をついたが、灯冶を止めはしなかった。




「それにしても、灯冶の態度、あれどうにかならないのかしら? 何をムキになってるのかしらね?」

「でも、私も言い過ぎちゃいました」

「いいのよ、悪いのは灯冶なんだから。ちょっと頭冷やせばいのよ」


 ここは日留加の私室である。たびたび訪れるうちに、この場所にもすっかり慣れた。

「明日、灯冶さん来ると思います?」

「来るんじゃない? 今までになく殺気立って」

 その光景が容易に目に浮かぶ。百瀬は額に指を添えて目を瞑った。


「まあまあ、つまり仲直りすればいいんだから、ね?」

「仲直り、なんて。謝ったって許してくれない気がしますけど」

 それ以前に謝る気もない。それだけは真っ平御免だ。


「そうねえ。ね、百瀬は灯冶の血、飲んだことある?」

「無いですよ! あるわけないです!」

 これまた突飛な話である。どうして吸血の話になるのか、見当がつかなかった。

「そうなんだ。じゃあ飲ませて貰えば? 昼間は色々あったけど、灯冶さんともっと仲良くしたいです、つきましては吸血させてくださいって言えば、断られはしないでしょ。さすが神の宿る依代、美味しいわよー?」

「そんな、無理ですよ!」

 どう考えても不可能である。今のこの状況で吸血を求めるなど正気の沙汰ではない。それに……。


「第一、灯冶さんは日留加様の……恋人なのに、吸血なんて誰かに勧めていいんですか」

「だからー、そんな関係じゃないんだってば。百瀬が灯冶の血を吸えば、きっともっとお互い解り合えるわよ。灯冶の血にやみつきになれば、百瀬ずっとここにいたくなるかもしれないし」

「いえ、私の血は……その、不味いので。返すものがないので貰うこともできないですよ」

「穢人の血って、噂には聞くけどそんな酷い味なの? そこまでいくと気になるわね。少し貰おうかしら」


 舌なめずりする日留加に百瀬がびくりとすると、赤毛の姫はきゃははと高い声を出した。

「冗談よ。あのね百瀬、庶民だろうが穢人だろうが、私は百瀬が気に入ったわ。努力家のところも、威勢がいいところもね。もしこのまま覚醒しなかったら、私の侍女にでもなって薬師をやればいいわよ。灯冶のことなんて気にしなくていい、私が守ってあげるから。だからこれからはただの可愛い女の子として暮らしていけばいいわ」


 ただ「ありがとうございます」と言うだけのつもりだったのに、喉が震えて声が出なかった。必死で涙を堪える百瀬の頭を、日留加は両腕でふわりと抱えた。

「これまでずっと頑張って来たんだものね。偉かったわね」

 日留加の柔らかな髪が、頬をくすぐる。


 かつて母以外の人からこんなに優しくされたことがあっただろうか。オオナも優しいが、彼の優しさは愛玩動物に対する可愛がりに似ている。しかし日留加の優しさはあくまで百瀬個人の尊厳を認め、寄り添うものだ。


 今は禁止されているが、いつか日留加のために薬を作りたいと思う。

 でも、そんな日は来るのだろうか。だって自分は絶対に覚醒しない。そのことは百瀬が一番よく分かっている。覚醒訓練なんて、全て茶番だ。


(私、もう和澄に帰れないのかな?)

 最近はそれも別にいいと思っている。和澄で成すべきことは果たせないが、ここでの生活は確かに快適だ。しかし問題はそれがいつまで続くか、だ。


(本当に王宮薬師になんてなれるのかしら)

 もしかしたら始末されるかもしれない。わざわざ穢人を飼う必要はないのだ。今の厚遇はあくまで一時的なもの。

(もし、そうなったら)

 そのときは、どうしよう? 


 待ち構えていた彼が来る。百瀬は立ち上がって障子に手を添えた。

「百瀬、起きとるかのうー?」

 掛け声と同時に障子を開けるとオオナが両腕を広げ、百瀬を抱きとめた。

「う、う、オオナ様あー」

「おー、よしよし。昼間は大変じゃったのう」

「灯冶さんと私の仲は終わりです」


 諦めんでくれーと首周りに巻き付いて来るオオナを、百瀬は拒絶の表情で迎えた。

「そう言うな。こやつは不器用な奴なんじゃ。人にも自分にも、ちいーと厳しすぎるのよ。あまり悪く思わないでやってくれ」

「悪く思ってるのは灯冶さんでしょう。凄く怒ってたもの。嫌われて当然だわ」

 百瀬は首をくたりと傾けた。

「眠いか? 疲れたじゃろ。もうお休み」


 確かに今日は消耗している。あと五分来訪が遅ければ就寝してしまうところだった。

「私が眠るまで、ここにいてもらっていいですか?」

 弱ってるからこそ、彼が拒まないと分かってるからこそ、今ではこんなわがままも言える。

 オオナは百瀬の髪を撫でながら慈しむように微笑んだ。

「よいよい。膝枕でもしてやろう。ただし、もしこのまま寝てしまったら朝は灯冶になっておるぞ」

「えーっ嫌だ! 何でですか」

「こればっかりは仕方ない。休眠期じゃ。わしがおらぬ間、いい子にしてるんじゃぞ」


 オオナは百瀬をひょいと横向きに抱き上げると、ゆっくりと布団の上に寝かせてくれた。その頭を持ち上げ、あぐらをかいた自分の足を百瀬の下に差し入れる。

「オオナ様、母さんみたい」

「ふふっ。こんな下心のある母がいるものか」


 自分の唇を這う指を、ガッと掴んで百瀬は真顔で言った。

「私が寝たら、絶対帰ってくださいね」

 その念押しにオオナが何と答えたか、耳に届く前に百瀬の意識は眠りの淵へと沈んで行った。


 朝、目覚めると灯冶の寝顔がそこにあった。

(ぎゃああああーっ! オオナ様のバカ――!!)

 飛び起きようとして、起こしてはいけないと思い直し、細心の注意を払って静かに布団から抜け出す。それでもまだ心臓の鼓動は鎮まらない。


 どうやらオオナは百瀬の布団に潜り込んで一緒に寝てしまったらしい。一晩同じ布団で寝ていたというのに、全然気づかなかった。


 着替えようと抜き足差し足で箪笥に近付くと、ひっ、という声と共に灯冶が起きてしまった。

「あ、お早うございます」

 何とか掠れた声を出すも、灯冶からの返事はない。

「……」

 茫然としている。最高に気まずい。そしてさりげなく着衣を確認している。最悪である。


「何故、ここにオオナ様が?」

 微妙にはだけた前をきつく整えている。何だか見てはいけない気がして百瀬は視線を逸らした。

「昨夜ここで眠っちゃったんです。すみません、私が引き留めたから」

「引き留めた? あなたが?」

「ええ、眠るまで一緒にいてと。その後オオナ様もここで寝てしまったみたいで」

「あの、まさかとは思いますが、その、ただ眠っていただけですよね?」

「ええ、もちろん」


 そんなに嫌なのか……と少々胸がもやもやした。まあ、当然か。穢人と関係を持つなど不名誉極まりないことだ。しかし、これは逆にまたとない好機ではないかと思いつく。この最悪の状況は最高の復讐に成りうるのでは?

「あ、でもそういえば」

 布団から立ち上がろうとしていた灯冶がぴくりと動きを止めた。

「膝枕、位はしました」

「膝枕? オオナ様に?」

「いえ、私がしてもらいました」 

「!」


 こんなに露骨に驚く灯冶を見たのは初めてだった。

 もっと嫌がらせしてやる、と百瀬は調子に乗った。 

「ぎゅっと抱きしめてもらって、頬ずりされて、頭を撫でられました」

「嘘、ですか?」

 信じられないという彼の面持ちが、百瀬の嗜虐心を満たしていく。


「嘘じゃないです。ちなみに昨晩だけじゃなく、ここのところいつもこんな調子です」

 これは事実である。しかし改めて口に出すと結構際どいことをしているな、と百瀬も我ながら思う。つい最近まで、他人と距離を取ることが長年の癖になっていたというのに。


 灯冶は結局布団から出られぬままその場にしゃがみこみ、驚愕の表情を片手で隠して俯いてしまった。

「すみません、オオナ様はあなたに相手がいることをご存知ないのです。その、もしかしてあなたが私を嫌う理由は、オオナ様があなたに馴れ馴れしいから、という理由も含まれているのでしょうか」

 あなたのことは嫌いですがこの件は別ですとも言えず、百瀬は質問を躱すことにする。


「私を嫌っているのは灯冶さんでしょう?」

「私が? 何故?」

「だって私にとても厳しいし、いつも怒ってるし、和澄に早く帰そうとしてるし」

「それは……だって帰りたいのでしょう? 恋人と家庭を築きたいのですよね?」

 そういえばそんな話をしたっけ。別に恋人がいるわけではないのだが、説明がややこしいので百瀬は曖昧に返事を濁した。


「それに私の態度が悪かったのは、正直言うとやはり面白くなかったのかもしれない。あなたはここに来た当初からオオナ様にばかり懐いて、私と目が合うとすぐに視線を逸らして不機嫌そうにしていたので。件の元凶である私を怒ってるんだな、嫌いなんだなと思ってました」


 あ、それは、と思い当る。

「すみません、それは……恥ずかしかったんです」

「恥ずかしい? 何が」

「だって私を触る身体は、灯冶さんの身体でもあるから。その指や唇に色々されてるのかと思うと……。最近は大分平気になったんですけど」


 灯冶の呼吸が止まっている気がした。強張る彼を見て、百瀬はさすがに焦った。

「あの、でも、本当にさっき言ったようなことだけですから。犬猫を可愛がるのと同じです。すみません、そもそも私が嫌な態度を取ったばっかりに」

「いえ、あなたをそうさせたのはオオナ様ですから、気にしないでください」

 両手を腰に当てて、俯きながら深呼吸しているようだった。


 顔を上げた灯冶は、怒っているでもなく恐らく彼本来の誠実で理性的な表情をしていた。

「百瀬さん、昨日は申し訳ありませんでした。言いすぎました。昨日だけじゃなく、ずっとあなたを傷つけていた。本当は私の方から出向こうと思ってたんです」

 その素直な物言いに百瀬の毒も抜けてしまうようだった。自分だって、思えば自棄になって随分酷いことを言ったものだ。


「私こそ生意気なことを言ってすみません。灯冶さんが苛立つのも私のせいですし」

「いえ、あなたの主張に返す言葉もありませんでした。逃げたんです、私は。最低です」

 萎れる彼には本当に申し訳ないことだったが、百瀬はその罪悪感につけ込むことしか考えていなかった。今なら頼めるかもしれない、と瞬時に計略を練る。図太く、しぶとく。欲求を叶えるのに霊力がなければ知恵を絞るしかない。


「もう全然気にしてないので大丈夫です。それより、あの、中庭の向こうにある林に薬草を取りに行ってもいいでしょうか? もちろん詞言もちゃんと覚えます。日留加様に薬を作るお約束をしてるので、できれば涼しくなる夕方以降にお付き合いして欲しいのですが」

「いいですが、それなら他の薬師に採って来させればいいでしょう」

 百瀬は内心拳を握った。素材さえ揃えてしまえば精製まで何とかこぎつけて見せる。


「いえ、ちゃんと自分の眼で選別したいんです、灯冶さんのためにも」

「私のため?」

 灯冶がきょとんと百瀬を見返した。

「お作りするのは女性の気を整える薬です。日留加様とお子ができれば、死にたくなんてならないでしょう?」

 相変わらず呆けた顔をしながら、灯冶は身を乗り出した。

「初耳です。そういうことになってるんですか?」

「えっ、だって、他の貴族と子を成すのが嫌で自死を考えたのでは?」


 そこで彼はやっと、「ああ……」と呟いて顎を指で擦った。

「まあ、それも理由のうちですが。私の自殺志願の動機は、何一つ思い通りにならない生活に限界を感じたからです。むしろ日留加とのこともその一端に入ります」

 これは百瀬こそ初耳だった。何事も伝聞は当てにならない。


「でも、二人は恋人同士なんじゃ? 血吻、されてますよね?」

「オオナ様とはしてるでしょうね。識格が違っても血の味は同じなので」

「日留加様は灯冶さんの子が欲しいって言ってましたよ」

「それは欲しいでしょう、依代の子は。でも、それはオオナ様の子であって私の子ではないですよ。私は彼女と姉弟のようなものです。私が王宮に来たとき、彼女が唯一私に温かく接してくれた」

「そうなんだ……」


 安心している自分が不思議だった。彼らの事情など百瀬には露ほども関係ないはずなのに。

(なのにどうしてこんなにほっとしているの?)

 身に覚えのない感情に流されるのは苦手だ。自分自身の矛盾を打ち消そうと、百瀬はわざとおどけて言った。

「でもそれじゃ狡いですね。日留加様ばかり灯冶さんの血の味を知ってて。すっごく美味しいって言ってましたよ」

「ああ……、飲みますか?」


 数秒、百瀬の時が止まる。からかわれているのだろうか?

「すみません、そんなつもりでは」

「いいですよ。昨日のお詫びに」

 灯冶は立ち上がり、百瀬に近付いてくる。右中指から飾り気のない白銀の指輪を抜いて、嵌めていた指の腹を指輪の内側で擦る。指輪に仕込まれていた小さな爪が、皮膚の表面を引っ掻いた。

 まさか本気で? と百瀬は内臓が痙攣しそうだった。


「あの、私は穢人だし、そんな依代様の血なんて」

 後ずさりしていたら、箪笥に背中をぶつけてしまった。よろけて慌てている顔面に、灯冶の右中指が差し出される。

「どうぞ」

 一体どういうつもりなのか。そのさらりとした涼しい顔からは何の意図も読み取れない。


 彼の指先の腹にはぷっくりと赤いふくらみが鎮座している。

「何かの罠でしょうか」

 上目遣いで灯冶を睨むと、彼はくすりと笑って「まさか。単なる味見です」と答えた。

 その綻んだ顔がこれまで見たどのオオナの笑い顔とも違っていて、胸の動悸が一段と激しくなってしまう。

(常人の、それも依代様の血を吸う機会なんて、これから絶対二度とない。どうしよう、でも、ああ、でも)

「い、いただきます」

 葛藤の末、誘惑には勝てなかった。ぺろりと、血のふくらみを舌で舐めとる。


(えっ)

「美味しいですか? 一応依代なだけあって血の味は王族にもひけを取らないと思うのですが」

 たった一滴。その小さな雫が、舌を伝って細胞全てを塗り替えてしまうようだった。先ほどとはまた違った胸の震えが、身体全体を駆け巡る。背中まで鳥肌が立ち、呼吸すら忘れてしまった。

(我慢できない。こんな、こんなものが存在するなんて。それが目の前で漲っているなんて!)


「あの、もう少し、いただいてもいいですか?」

 ためらいがちなどうぞ、という返事を聞くや否や、百瀬は灯冶の指を咥え込んだ。血の流れ出す遅さに耐えかね、指に歯を立て傷口を抉り、強引に血を吸いこんだ。

 本来、吸血や血吻というのはこんな乱暴なものではないと、頭ではわかっている。灯冶の表情がいささか歪んだのも、勿論分かっている。それでも止められなかった。理性や自制心というもの全てが、この味の前では無力だった。


 甘ったるいのに、後味はすっきりとしていて香りは爽やか。喉を潤すと共にまた乾かせる。これではきりがない。

 我に返って息遣いも荒いまま指から唇を離すと、困惑の表情の灯冶と目が合った。

「ご、ごめんなさい、すみません、あの、わたしっ……」

 顔といわず全身がカーッと熱くなるのが分かった。本当に、本当に申し訳ない。灯冶を自分が汚してしまったようで、百瀬は怒涛の罪の意識に浚われた。


「もしかして、吸血するの、初めてですか? されるのも?」

 灯冶は失礼、と机の上に折り重なって置いてあった懐紙を一枚つまんで指の血を拭った。血の滲んだ懐紙を屑籠に捨てた時には、既に傷跡はなくなっている。灯冶ほどの使い手となると、簡単な術は詞言(しごん)なしで発動させられるのだ。


「それは、だって、私は穢人なので、美味しくないので誰だって吸いたいとは思わないので」

「でも……、あなた恋人が」

「いえ、とにかく吸血するのは初めてです」

「ふうん……」

 灯冶が疑わしそうに百瀬を眺めた。


「では、これでこれまでの非礼を許してもらえるでしょうか」

「いえ、ありあまる、というか、こちらこそ本当にごめんなさい」

 もう全て水に流します、という心境である。むしろあの陰惨とした日々に感謝したいくらいだ。

「それでは薬草摘みは近日中に行きましょうか。できれば休眠期が明ける前に」

「どうしてですか?」

「オオナ様は夜型なので、識格争いに負けたくないんです」


 再びどうしてですか、と尋ねかけたところで障子の前に人影が映った。 

「おい、起きてるか。オオナ様が来てるだろう。開けていいか」

 百瀬がどうぞ、と返事すると、阿文がそろそろと遠慮がちに障子を開けた。そして室内の状況を検めて意外そうに息を飲んだ。

「何だ、灯冶か。こんな朝から説教か」


 これに百瀬は吹き出し、灯冶はあからさまにムッとした。

「そんなわけないでしょう。オオナ様が泊まったんですよ。そのまま休眠期に入りました」

 迷惑そうにフイとそっぽを向く。

 阿文相手だと、灯冶はいつもより少しだけ幼いことに百瀬は最近気付いていた。


「お前、オオナ様に襲われたりしてないだろうな?」

「何もないですよ。ご心配いただきありがとうございます」

「別にお前の心配なんかしてない。妊娠でもされたら厄介なだけだ。あの方は祇呟しちゃあ色んな女の寝床に忍び込むからな」


 そうか、それであの反応か、と灯冶が目覚めた時の様子を思い返す。

(日留加様だけじゃないんだ……)

 可哀想に、知らぬ間に自分の身体が方々に夜這いを仕掛けているなんて。彼の身体は一体どれだけの女性を知っているのか。

 同情していたつもりだったのに、灯冶と目が合うと、ぷいと顔を逸らしてしまった。百瀬にはとてもとても刺激が強すぎる。顔どころか彼の身体を視界に入れることさえ憚られた。


「……百瀬さん、私の意志ではないし、本当に、本気で迷惑してるんですよ私は」

 まるで負の霊気が可視化されるようだった。彼に罪はないのだ、この件に関しては一方的な被害者なのである。


「あ、すみません、そうですよね、身体は元々灯冶さんのものですもんね。あんまり跡とかつけないように私も気を付けます」

「は? 跡? 何の跡ですか」

「おいお前、灯冶の身体に何してるんだ」

 何気なく言ったつもりだったのに、思ったより二人が食いついたことに百瀬の焦りが加速した。

「あ、つねったりとか。……ごめんなさい、突き飛ばして壁に頭を打ち付けたこともあります」

「……何故」

「オオナ様が、着物の裾を捲ろうとしてきたので」


 二人は同時に大きく息を吸い、吐き出した。

 阿文が眉間に思い切り皺を寄せながら「お前、気を付けろよ、本当に……」と呟く。

 しかしそれはどちらの意味で言っているのか。灯冶の身体を痛めつけるなということか、実は自分の身を案じてくれているのか。どちらか分からなかったが、どちらでもどうでも良かった。

 そこで灯冶がふらふらと部屋から出て行った。阿文が「どうした?」と声を掛けると、「頭が痛い。部屋に戻ります」とだけ言って、そのまま行ってしまう。


 残された百瀬は阿文と二人きりにされて少々気まずく、早く帰ってくれないかなと期待しながら黙っていた。

「あいつと和解したのか?」

 阿文が振り向いて目が合った瞬間、強烈な喉の渇きと吸血欲に襲われた。彼の発する霊気が魅力的で堪らない。他人の霊気に対してこんな感覚は初めてだった。


(だめ、美味しそう、なんて)

 全身の血が乱舞している。吸え吸えと囁きかけて来る。心臓が忙しなく動き、息が熱く、脇にはしっとりと汗をかいていた。

「お前、誰かの血を吸ったろ」

 白けた声が頭上から百瀬の耳に突き刺さる。

「どうして分かるんですか」

 とても顔を上げられず、百瀬は両手をもじもじと組み直す。


「そんだけ露骨だったら誰でも分かる。オオナ様に貰ったのか」

「いえ、灯冶さんが、昨日私に言い過ぎたって、そのお詫びに吸血させてくれて」

「へーっ、あの灯冶がね……」

 阿文は意外そうに肩を持ち上げた。


「言っとくが、あいつの味を覚えたら俺なんかのを吸っても不味いだけだぞ」

「灯冶さんのって、そんなに特別なんですか」

「そりゃそうだろ。あいつに迫る味は御三家の王族くらいなもんだろう。国一贅沢な穢人だな、お前は」

 まあ、それはそうなんだろう。それにしても恥ずかしかった。そんなに態度に出ていたなんて。自分は今一体どんな顔をしているのだろう?


「あれ、全部読んだのか?」

 部屋の隅に積み上げられた詞言の教本に阿文は目を止めている。話題を変えてくれたのだろうか。さすが大人、と百瀬は小さく感謝した。

「はあ、読むには読みましたが覚えるのはまだまだです」

「何故読める?」


 意味が分からなくて百瀬は返事が出来なかった。何故と言われても、である。

「お前は父親はいないし母親も穢人だ。子供の頃からろくに学校も行ってなかっただろう? 何故字が読めるんだ。しかも、こんな難しい字を」

 ああ、と百瀬は納得した。よくそんなことに気付くものである。

「それなら母に教えてもらいました。それに、家には薬学の本が沢山あったので、こういう本には慣れてるんです」

「ふうん、なるほどな」


「そういえば、どうしてここに来たんですか。オオナ様に御用だったんですか?」

「部屋にいないから探しに来ただけだ。お前、誰彼構わず物欲しそうな顔するなよ。俺は今日鍛錬には公務で付き合えない。姫に噛みついたりするなよ」

 障子をぴしゃりと閉められた後、あまりの羞恥に突っ伏した。

 いつもは百瀬の周りにぴったりとひっついているクロが、気を遣ってか距離を保って寝たふりをしていた。


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