神と姫の事情
結局、半ば無理矢理馬車に詰め込まれ、車内は一人きりだったので話し相手もおらず、徹夜がたたって百瀬は眠ってしまった。不安から一転、どうとでもなれ、と言う境地に達したせいもある。
揺すり起こされた時にはそこはもう王都で、王宮の門を潜ろうとしている時だった。
(ああ…本当に、ここが王宮?)
ここ王都から百瀬の住みか、南端の和澄地方まで、早馬の足でも丸三日はかかるはずだ。しかし早朝に向こうを出立し、今はせいぜい夕方である。
馬の足に風術、道に土術、とあれこれ可能性を探るうちにバカらしくなって考えるのを止めた。王都の精鋭の霊使と、なにしろ神が揃っているのだ。何が起ころうと不思議ではない。
「あー、腹が減ったのう。百瀬は何を食べる? 肉か、魚か?」
別の馬車から降りて来た自称神が、不躾に百瀬の乗る馬車を開けた。
「どちらでも……、大那実津様」
「オオナでよいぞ」
「はい……オオナ様」
まだ信じられない。眼前の軽薄そうな男が国の創造主にして統治者、あの大那実津だとは。第一、庶民にはその存在すら眉唾ものなのに加え、彼が大那実津だとすると、色々な矛盾が生じることになる。何故なら神を宿す生身の人間、いわゆる依代というものならば、それは即ち王に即位すると同義なのだから。しかし現王は女王だったはずだ。少なくともこの青年でないことは辺境住まいの百瀬だって知っている。
今起こっているこの出来事が夢や壮大な法螺でないだろうことは分かっているつもりだが、それでも半信半疑といったところだ。
オオナに差し出された手を取ることが出来ず、百瀬は馬車から自力で地面に降り立った。他者と接触することに根本的に慣れていない、というより怖いのだった。
白金の装飾が施された白亜の屋敷 その大門の外も内も、ずらりと従者たちが直角に腰を曲げて出迎えている。
(ああ、無理)
こんなに大勢、初対面の人間と対峙したことはない。それに、このむせかえるような霊気の塊。高潔な血統を証明するもの。
あまりの濃度に百瀬は血圧が急降下したのが自分で分かったほどだ。膝から崩れ落ちそうなのを、馬車の車輪に掴まることで何とか耐えた。
「おっと、疲れたか?」
百瀬の背中と膝裏に両手を差し込むと、オオナはそのままひょいと抱き上げた。
「ひゃっ」
(ああ、止めて止めて!)
ただでさえ強い霊気のせいで吐きそうなのに、こんな風に持ち上げられて畏怖と動揺で血の気が引いた。
皆お辞儀の姿勢を崩してはいないのに、彼らの視線が自分に突き刺さるのを全身で感じる。
その中で、門から溌剌とした華やかな少女が駆けて来た。肩まで緩く巻かれている赤い髪が、ふわふわと揺れている。
「オオナ様! お帰りなさいませ」
「おお、日留加。心配をかけたな。この娘は我らの恩人じゃ。手厚くもてなしてくれ」
「まあ、分かりました。これ、誰か、この子を運んでちょうだい」
阿文がスイと前へ出ると、オオナから百瀬を引き取り、軽々と門の中へ運んで行った。
「もういいです、自分で歩けます」
腕の中からそう訴えると、阿文は何も言わずに静かに百瀬を床に下ろした。
膝が若干震えるが、屋敷の奥に行くにつれ気分は晴れてきている。霊使たちの巨大な霊気から離れたためだ。
「霊気に敏感なのだな。穢人とはそういうものなのか?」
「穢人だからというより、普段森に籠って人とあまり会わないからだと思います。あんな強い複数の霊気、感じたことないので」
「ふうん、そういうものか」
二人きりになると砕けた感じになった阿文に、百瀬は何だか緊張が解けた。阿文は百瀬の調子を慮ることなく、ずんずん進んで行ってしまうが、恭しくされたことなどないので、正直多少雑に扱われた方が居心地が良かった。
「私、いつ帰れるんでしょうか」
「さあな。オオナ様のご気分次第だ」
予想はしていたが、そうはっきり言われると改めて途方に暮れる。
「心配するな。なるべく早く帰れるよう進言してやる。ここはお前のような者のいるべき場所じゃない」
申し出は嬉しい限りだが、声色がオオナがいなくなったからか、はっきりとぞんざいである。しかしこれでも普通以上の反応だろう。百瀬は特に気にしなかった。
「ところで何故灯冶はあんな森にいたんだ? どこかで倒れたりしてたのか?」
「灯冶って、もう一人のオオナ様のことですか?」
「灯冶に会ったのか?」
その問いに、百瀬は口をつぐんだ。これ以上は、何だか言ってはいけないことのような気がした。
「まあいい、じきに分かることだ。おまえの疑問も俺じゃなくオオナ様か灯冶から聞け」
百瀬が話す意思を見せずにいると、阿文はそれ以上追及しなかった。それきり口を開かず、十畳ほどの豪華な客間に百瀬を置いて、さっさといなくなってしまう。
しばらくぼーっとしていると、次々に侍女たちが部屋に押し入ってきて、着替えやら寝具やら食事やらを運びこみ、仕舞いに風呂の世話までしようとしてきたので、それは固く断った。
(全然落ち着かない……)
穢人として、これまで散々人外の扱いを受けて来た。村の中には僅かに優しい人達もいたが、基本的に百瀬母子に対する扱いは酷かった。母は元より百瀬だって幼い頃から散々薬を調合して助けてきてやったのに、代金は払い渋るわ術の練習の的にするわ、誕生会に招待されてノコノコ村に下りてみれば子供達皆に笑い者にされるわ、楽しい思い出なんか何もない。百瀬の拠り所だった母も亡く、それでも森を逐われないだけマシなのだと教えられた通り、今日まで虐げられながら生きてきた。
(ここの人たちは何とおぞましい! って思ってんだろうな)
先程出入りしていた侍女たちも、皆表情が固く、百瀬と極力目を合わせないように努めていた。きっと彼女たちもある程度の家柄の子女たちだ。穢人など生まれて初めて見たに違いない。
とにかく疲れた。百瀬はふかふかの布団に倒れ込み、その柔らかさを堪能しながら眠りに落ちた。
足音がする。
山での一人暮らしの影響か、物音には例え就寝中だろうが敏感なのだ。
上体を起こして身体を強張らせていると、障子の向こうにほっそりとした物影が映っていた。
「百瀬さん、起きていますか」
この声は、と百瀬は跳ね起きた。
「起きてます!」
何だかとても懐かしい。
障子を開けると、あの暗い瞳をした彼がいた。ほっと、安堵の溜息が出る。
身なりを整え、高位の男性用の直垂を身に着けている。髪もちゃんと短く切り揃えられており、その姿は儚い花のようであり、それでいて、しなやかな若木のようでもあった。
「すみません、こんな遅くになってしまって。その、オオナ様を説き伏せるのに時間がかかって」
ふるふる、と百瀬は首を横に振る。来てくれたのがこちらの方で心底嬉しい。
「申し訳ありません、全て私の責任です。あなたを巻き込んでしまった」
部屋の中に入ろうともせず、本当に申し訳なさそうに項垂れる。
確かに彼のせいには違いなかったが、とても責める気にはなれなかった。
(だって私をここに連れて来たのはもう一人のこの人なんだし)
それにしても、自分の髪と額に触れた唇が、どうにも気になる。
(だめだめ、この人には関係ないことよ!)
無理やり平静を保とうと、百瀬は会話を探した。
「お名前、灯冶様、でいいんでしょうか」
「様は外してください」
「そういうわけには」
「せめて灯冶さんとお呼びください」
「では……灯冶さん。あなたは、依代ってことですか? それも……祇呟依代」
たっぷりの沈黙。言葉より何より、それが肯定の証に思えた。
「あなたが知る必要はない」
酷薄とした返事である。いささかムッとしたものの、百瀬はなお食い下がる。
「でも、誰も私に隠すつもりが無いみたいですけど。オオナ様に正体を尋ねたらあっさり神じゃって言ってましたし、阿文さんも知りたいことはオオナ様か灯冶さんに訊けって言ってましたし」
「ではオオナ様に聞いてください。私が答えられることではありません」
これが曲がりなりにも謝りに来た人間の態度だろうか。いくら身分が違うとはいえ、今回百瀬はこの男のせいで多大なる迷惑を被っている。
そして今更隠す必要性が分からなかったが、目の前のこの相手は紛れもなく依代なのだ。
依代。それは正統なる血統の王族より神が選びし神を宿す人柱。神と対話し、神託を告げる巫女のようなもの。その資質により、神が依代との対話のみか、依代の身体を借りて表に出て来れるかが決まる。前者を隠呟依代と呼び、後者を祇呟依代と呼ぶ。無論祇呟依代の方が資質も高く、もう何代も現れていないはずだ。
しかしそんな祇呟依代が、王に即位せず他に王を立てているのは何故か。知りたい気持ちはあったが、この調子ではきっと答えてはくれないだろう。百瀬は質問を変えた。
「あんな遠くの森の中まで、何故わざわざ私を尋ねて来たんですか?」
「王宮の薬師は信用できないし、他の腕利きの薬師は大概王族貴族と繋がりがある。秘密裏に最短で事を進めるにはあなたが最適だと思った。報酬さえ渡せば簡単に薬を渡すと思ったからです。断られたのは、正直計算外でした」
この上ない説得力のある回答である。穢人が経済的に困窮していないわけがない。
「……今もまだ、死にたいのですか?」
「少なくともあなたを和澄に帰すまでは、それどころではないですね。これでも一応、責任を感じているので」
本当はどうして死にたいのか、と問いたかったのだ。けれど、それを口にすることは憚られた。どうせ知ったからといって自分に解決できる話でもない。それに、きっとこの人は己の胸の内を安易に晒すことを嫌うだろう、とは、人付き合いの薄い生活をしてきた百瀬でも何となく分かる。
「とにかく、オオナ様が飽きる少しの間辛抱してくだい。何か不便なことがあれば侍女にでも私にでも遠慮なく伝えてください」
「こんな遅くにわざわざそれを言いに来たんですか?」
穢人である自分にそんなに礼を尽くす必要が分からない。
「どうしても、直接詫びなければ気が済まなかったのです。こんなはずではなかった」
結局灯冶は一歩も部屋に入らず、廊下でそれではまた明日、お休みなさい、と告げて去っていった。
翌日、目が覚めて布団を畳んでいると、侍女たちが一斉になだれ込んできた。髪を編まれて結われ、目も眩むような上等な着物を着付けられ、身支度を入念に仕上げられたあとは、漆塗りの食器の御膳が運ばれて来た。箸には螺鈿細工が施されており、料理は彩り鮮やかな高級食材ばかりで、正直口に合わなかった。それでも勿体ないからと、赤身魚の煮凝りに散らされた金粉を摘まみながら、これが王宮の暮らしかと何度目かの衝撃を受ける。
「さ、百瀬様、オオナ様がお待ちです」
朝食もそこそこに、表面上は笑顔を崩さない侍女たちに連れられて、百瀬は長ったらしい廊下を抜け、だだっ広い部屋に案内された。
「おー、百瀬。可愛くなったではないか」
肘置きに体重をかけて、緩い姿勢で横座りをしている。
本当に姿は同じなのに、人格がどちらか一瞬で見分けがつく。この朗らかさと生命力の強さを灯冶に少し分けてあげたらいいのに、とすら思う。
オオナの隣には阿文と、もう一人昨日門前でオオナと話していた美少女がいた。
「お早うございます」
正座をして慇懃に頭を下げると、「良い良い、そんな堅苦しくするな」と、オオナがつまらなそうに手を振った。
「ところで百瀬、昨夜灯冶から顛末を聞いた。灯冶をよく介抱してくれたのう。わしとしては褒美をたっぷり持たせて家に帰してやりたいところじゃが、ちと面倒なことになっての」
これ以上に面倒な事があるのだろうか。とてつもなく嫌な予感しかしない。
「あのな、世間には灯冶の存在は隠匿されているんじゃ。せいぜいここ王宮に出入りする者くらいしか知らん。じゃからな、そなたに言い触らされると色々と不都合なんじゃよ」
「私、言いません、誓って」
当然である。そんな厄介なことをして何の得になる。
「でもな、王族の……特に王の出身一族の者がうるさいんじゃよ。中には首を撥ねろなんて言う奴もおってな」
百瀬の顔色がすうっと青白く引いた。それを見てオオナが慌てたように身を乗り出す。
「いや安心せい。流石にそれはないじゃろうと、わしから言っておいた。しかしこのまま王宮から出すわけにもいかん。つまり、一部の記憶を消す術を施さにゃならん。しかしこの術がな、穢人には効きが悪いのよ。だからな百瀬、そなたがここから出るには覚醒してもらわなきゃならんのじゃ」
ここで百瀬はたっぷり思考を停止させた。覚醒? 穢人相手に何を言ってるんだ?
「覚醒って、霊術の、ですか?」
通常、常人ならば十歳前後で何らかの霊気に目覚める。これを覚醒と言う。
「そうじゃ。どうせこの先穢人として暮らすのは辛かろう? 訓練すれば霊力が誘発されて覚醒するやもしれぬ、王宮で覚醒訓練を受けて行け」
「いえ、無理だと思います。母も穢人でしたし、霊気なんて自分に感じたこともありません」
間髪入れず、百瀬はあっさり辞退した。にもかかわらず、オオナは動じず微笑んだ。
「ま、物は試しじゃよ。ここにおる阿文と日留加に習うといい」
そこで初めて赤毛の美少女と目が合った。彼女がにこりと笑うと、それだけで場の雰囲気が華やかになるようだった。
「よろしくね、百瀬。日留加って呼んでいいから、困ったことがあったら何でも言ってね」
「え……はい」
有無を言わさぬ迫力がある。威圧的というわけではないのに、その存在感に気押されてしまった。それにしてもこの名には聞き覚えがある。
「この者は現王の娘、富士平日留加じゃ。年は十八。百瀬と同世代の王族は日留加だけじゃから、百瀬の世話人を頼んだんじゃよ」
そうだ。「轟火狩りの皇姫」という異名を持つ皇女。
霊力が暴走すると人は邪霊という異形へと変貌する。ありったけの霊力を発散させ破壊と殺戮を繰り返す化物。それを退治するのが王族貴族の大切な役割だ。
中でも日留加姫は和澄のような田舎にも名が届く名手だった。庶民にとって、いや最貧困層の更に下、人モドキの穢人にとって、ただでさえ王族の姫など殿上人である。その視界に姿を映しただけで、それこそ首を撥ねられてもおかしくはない。
(そんな方に世話人、なんて)
どう反応していいか分からず、口をきつく結んで黙るしかない百瀬を、日留加は興味深そうに眺めている。
「では、覚醒訓練は明日から開始じゃ。今日は王宮や王都を日留加に案内してもらうといい。女子同士楽しんでまいれ」
「はい、じゃあ早速。行きましょう百瀬」
そう言うと日留加は立ち上がり、襖を開けて手招きをしてきた。え、え、と百瀬が慌てているうちに、部屋から連れ出されてしまう。
「馬車に乗って出かけるわね。服や櫛を見に行く? あ、まずは甘味でも食べに行きましょうか」
「いえ……そんな……王族の方が穢人相手に、いけません」
「え? 何が?」
「一緒に出掛けるなんて。いくらオオナ様の命とはいえ、こうして言葉を交わすことすら本来許されないことなのに」
百瀬が縮こまって目を伏せると、日留加はうーんと少し考え込んだ素振りを見せた、
「ああ、まあ、穢人は正直初めて見るわね。でも、あなたは灯冶を助けてくれたのよね?」
助けた、と言っても命に関わらない程度の毒を解毒しただけだし、そもそも自分に会いに来たために毒にかかったのだ。感謝されて良いのか分からない。
口ごもる百瀬の様子を謙遜と捉えたのか、日留加は眼を細めて小首を傾げた。
「ありがとう。王族を、いえ、国を代表してお礼を言います」
社交辞令、という雰囲気ではない。これは恐らく、彼女の心からの言葉なのだ。
なんだ、こんな風に心配してくれる人がいるんじゃないの、と百瀬は拍子抜けする気分だった。この光景を灯冶に見せてあげたい、と思う。
握られた手は温かく、手入れが行き届き、艶がある。傷だらけで赤黒い自分の手を、百瀬は急に恥ずかしく思った。
夕方王宮に戻った頃には馬車は荷物で溢れんばかりだった。半日以上日留加に王都を案内され、先々で大量に買い物をした。上等な着物、帯、簪、その他身の回りの雑貨を値段も確かめずにぽいぽいと買い求め、途中までそれは日留加自身の持ち物になるかと思っていたのに、帰りの馬車で日留加様に似合いそうなものばかりですねと言ったら全部あなたのよと言われて百瀬は卒倒しそうになった。
荷物を侍女たちに運ばれ、部屋に着いた時にはもうクタクタだった。開封する気力も無くて布団の上に寝転がっていると弾むような足音が聞こえてくる。
「もーもせっ」
障子が乱暴にパーンと開けられる。これが腐っても十六の婦女子の部屋へ訪問する態度だろうか。百瀬は慌てて姿勢を正した。
「王都はどうじゃった? 楽しかったか?」
「はい、とっても」
これは随分買い込んだのう、とオオナが部屋を見渡した。畳の上に正座する百瀬の隣、先ほどまで百瀬が温めていた布団の上に、今度はオオナが寝転がった。
「日留加とは気が合いそうか?」
「はい、とても気さくな方で、王族の姫君とは思えませんでした」
道中、当たり障りのない会話ばかりだったが、日留加は決して百瀬を軽んじることなく、本当に旧知の友人に接するようにしてくれた。たとえそれがオオナの命によるものだとしても、百瀬は彼女の闊達さに随分心が軽くなったのである。
「そうじゃろう。王族ではなかなか珍しい性格じゃな。気軽に頼って良いからの」
「はい、ありがとうございます」
オオナはふわりと笑うと、指を伸ばして百瀬の髪を緩く梳いた。
百瀬はびくりと強張ったが、顔を少し俯かせただけでその手を払うわけにもいかず、されるがままになっていた。
未だにオオナを、とても神だと正確に認識できない。しかしむしろそれが彼に対する親近感に繋がっていた。少なくとも朝よりはまともに返事が出来ている。
「そなたが良ければいつまで居てもよいぞ。こうしてわしの話し相手になるも良し、薬師として働くのも良し。そうすれば灯冶の寿命も延びるかもしれんしの」
「灯冶さんの寿命が? どうしてですか?」
百瀬の髪を一房、指にくるくると巻きながらオオナは天井を見上げている。
「依代と言うのはな、そもそもの素質も大事じゃが、わしが降りてからは一層力が強まるのじゃよ。依代を輩出した一族……主に久我、富士平、勢保じゃな。これのどれかが依代在任中は力を持つ。一丸となって依代を盛り立てるのじゃ。しかし灯冶は庶民じゃ」
え、と小さく驚きの声を上げた。身を引いた拍子に髪が引っ張られ、微かに痛かった。
「灯冶さんって王族なんじゃないんですか? 依代って王族からしか選ばれないんだと思ってました」
「一応、王族の血は混ざっている。いわゆる混血じゃな。母が東雲の女で、そこで十三まで育った。王族であるらしい父親が誰かは未だ不明じゃ」
これはまた少々複雑な話である。それにしても東雲とは。和澄より寂れた東の端の、痩せた土地の治安の悪い場所だ。
しかしいずれにしろ、依代は王族から選定されるのが歴代の常であり、依代となった者が老若男女問わず王となるのが習わしだ。庶民出身の祇呟依代など、前代未聞に違いない。
「じゃあ、今の王様は、仮の王ということですか?」
「いや、仮ではない。先代の依代が死んでから一向に依代が見つからなかったのでな、その姪の華虞名が即位した。灯冶を王にするわけにもいかんから、未だ王としての公務一切を隠呟依代という体で執行している。祇呟依代には男しかなれんが隠呟依代なら女でもなれるからの」
そ
こでオオナは図々しくも百瀬の膝の上に頭を乗せた。驚いて飛び上がりそうだったが、オオナの話の腰を折りたくないばかりに、その衝動を抑え込む。
「灯冶は祇呟依代とはいえ歴代の依代より霊力も弱く頼れる身内もいない。灯冶の力は日留加辺りよりも数段下じゃ。王宮も正直どう扱っていいか分からん。寧ろ先の王族御三家にとっては眼の上のたんこぶじゃ。灯冶さえいなくなれば、また自分の一族から祇呟者ではないにせよ、依代が出るかもしれん。そこでじゃ。わしの目の届かぬ時に暗殺でもされないよう外部からの攻撃から守る護術をかけたんじゃよ。じゃから並大抵の打撃や攻術ではこやつは傷つけられん。唯一の弱点は体内からの侵攻、つまりは毒じゃ」
オオナは真っ直ぐに百瀬を見上げる。こうして真面目に話している彼は灯冶に見えなくも無かった。
「これから先も凝りもせず灯冶は服毒を試みるじゃろ。盛られる可能性もあるしの。それに備えて腕利きの薬師が必要じゃ。あいにく王宮の薬師は今人手不足でな。どうか灯冶のため、わしのために力になってくれんかの。こやつに死なれたら困るのじゃ。祇呟依代なんてな、十人に一人いるかいないかじゃからな。隠呟だと、実体のないまま依代としか話が出来んのじゃ。やはり自分で身体を操りたいからのう」
百瀬の手を手繰り寄せると、その甲に頬ずりをする。
「身体があれば、こうやって女子と睦むことも出来るからの」
嬉しそうにしているオオナが何だか可愛らしく思える一方で、百瀬は羞恥に耐えた。出し惜しみするような手ではないが、こんな荒れた手に触られるのは恥ずかしい。あまりにオオナがしつこくするので、百瀬は空気を変えようと質問を捻り出した。
「そもそも灯冶さんの自殺願望を解消すれば、ご心配が減るのでは?」
「ああ、それは当分無理じゃろうな。珍しく誰の言う事も聞く耳持たん。理由が気になるか?」
しばし考えた挙句、こくりと頷く。それを見たオオナは何故か嬉しそうに口元を伸ばした。
「ふふ、覚醒したら褒美として教えてやろう。どうせ帰るまでには忘れてしまうのじゃからな。それまでせいぜい励めよ」
「はあ」
それでは結局、いつまでも聞けずじまいではないか。百瀬はがっかりして気の無い返事をした。
「ん? 褒美がそれだけでは不満か? まあ大した話ではないからの。では祝いに血吻でもしてみるか?」
オオナの唇が百瀬の手首に押し付けられる。
今度こそ百瀬は飛び上がり、オオナの指から腕を引っこ抜いた。
「滅相も無いです! 私の血なんか!」
「何を言う。覚醒したら味だって変わるじゃろ。依代の血は旨いぞう」
伯都の民は覚醒すると血液の味が変化する。それは霊気の質や強さに比例して美味となるのだ。お互いの血を吸血し合うことを血吻といい、主に色恋に関わる情事とされる。
「そなた、もしかして血吻したことが無いのか? 確か十六じゃろ?」
そう言われても穢人の場合は年々錆びた味になるといい、こんなものには需要はない。第一相手が見つからない。
真っ赤になって顔を逸らしていると、オオナが起き上がってあぐらをかき、指先でちょんと百瀬の頬を突いた。
「ふんふん、まあ、これまで穢人として暮らしてきたからの。無理もない。では百瀬の初めてはわしが貰おうかの」
ぶるぶる、と頭を左右に振った。
「ん? 灯冶の方がいいのか?」
百瀬の頭の動きが一層増した。
「いずれにしろこれで覚醒後の楽しみが一つ増えたわい。わしと血吻するまで誰にもやらずに取っとくんじゃぞ」
オオナは実に楽しそうにニコニコしている。そんな日はやって来ないと思いつつ、顔の赤みは引かなかった。
「あ、そういえば、百瀬にこれをやろう」
袂から取り出された白い兎が、オオナの掌の上にちょこんと乗っていた。耳と手足、尻尾の先端のみが黒くなっている。
「わしの式神じゃ。餌も食べぬし排泄もせぬし話もしないが、可愛がってくれ」
式神とは霊使の術から編み出される使い魔である。中級以上の霊使でないと扱えない、そこそこの難度の術だ。
「可愛い」
手渡された兎は、ちゃんと毛の感触がした。鼻がヒクヒク動くのも本物の兎のようだった。
「ありがとうございます」
顔を綻ばせた瞬間、頬に柔らかな唇が当たった。
「灯冶には内緒じゃぞ」
片目を瞑って微笑む神と目が合わせられず、百瀬はまたも紅潮しながら俯くしかなかった。
(神様に、また口付けされちゃった)
和澄でされたときのように声を上げることはなかったが、患部がじわじわと熱を帯びてくる。
「内緒って言ったって、その身体は灯冶さんのものなんだから、灯冶さんにもこの状況が見えて聞こえてるんじゃないですか」
「いや、わしの祇呟中は意識がないことが多いのう。逆に灯冶が表に出てるときは、わしは寝てない限り見聞きしてるがの。じゃから灯冶の悪口も心置きなく言っていいぞ」
またまた頬をちょんと突かれる。本当に次から次へとお触りが多い。
(じゃあ知らないのね、こうしてちょくちょくオオナ様が私に触れることを)
ほっとする反面、何故だかじんわりと罪悪感が生まれた。
「オオナ様は、私を汚らわしいとは思わないんですか? 穢人なのに」
初めて対面したときからずっと疑問だったのだ。こんな距離の近い対応を未だかつてされたことがない。
しかしオオナの回答は、百瀬の切実さと全く温度差のある飄々としたものだった。
「穢人なんて呼び名は人間が勝手につけたものじゃ。わしは気にならんよ。どの者も皆伯都の民には違いない」
単純に、衝撃だった。しかし一方で神の視点で見れば、そんなものなのか、とも思う。
(神様が、こんなにいい方だったなんて)
その夜百瀬は兎を抱いて寝た。名は先端の模様を取ってクロと名付けた。とても久しぶりに、いい寝付きだった。
予告通り、翌日からは霊力覚醒の訓練となった。
王宮には広大な中庭の更に奥に、鍛練場と呼ばれる開けた場所がある。その名の通り、霊力鍛錬の演習場であり、そこで阿文と日留加が神妙な面持ちを携えていた。
「霊気の持たない人などいない。穢人にだって霊気はある。ただそれが常人より著しく少ないってだけだ。穢人だって絶対に覚醒できないわけじゃない」
そこで阿文は袂から榊の葉を取り出し、茎の部分を指先でつまんだ。
「これを使って霊力の種類、霊種を見極める。覚醒の遅い子供に促す方法だ」
頼りなげに相槌を打つ百瀬に、阿文は榊の葉を握らせた。
「葉を『動かさずに変化させる』ことに意識を集中するんだ。ちなみに土の霊種の俺がやるとこうなる」
そう言うや否や、袂から取り出されたもう一枚の榊は葉先からみるみる腐り始め、ぽとりと地面に垂れた。
「霊種はもって生まれた資質と環境に因る。多くは火、水、土、木、風だ。例外は滅多にいない」
日留加姫もどうぞ、と言われて日留加が榊を受け取った。焦げ臭い匂いがしてきたかと思うと、ポッという音と共に、榊がたちまち燃え上がる。
「こうやって、榊が霊気を感じ取って術となる。おまえの霊気がどんなに微弱だろうが、必ず何がしかの反応が現れるはずだ」
しかしそんな阿文の説明を裏切り、それから二時間、百瀬は榊を握りっぱなしだった。もちろん、何の変化も無いどころか、ピクリともしない。惨めにそよそよと、風に揺れるだけだった。
「全然駄目だな。さすが穢人と言うべきか」
「思ったよりしぶといわね」
二人に浮かぶ困惑と焦燥の色がどんどん濃くなっていくのを、百瀬はヒリヒリと感じ取っていた。だがどんなに鼓舞されても動かせないものは動かせない。身を縮める思いで百瀬はその時間をひたすら耐えた。
さすがに休憩しようと、三人は鍛練場の端に建つ小屋の中に入ることにする。
「やっぱり育った土壌の関係で霊力に鈍感なのかしら。和澄って霊気の薄い土地よね」
「まあ、こんなのは前例がないので。何かのきっかけで突然覚醒するかもしれませんし」
耳が痛くて、阿文の淹れてくれたお茶を黙って啜る。そんな百瀬の足首を、兎が慰めるようにぺろりと舐めた。
(クロ。おまえはいい子だね)
部屋を出る時クロを部屋に置いて行こうとしたのだが、百瀬を追って結局着いて来てしまった。
両手に兎を乗せて抱きしめていると、外から爽涼とした気配が近付いて来る。失礼、と律儀に声を掛けてから扉を静かに開けたその人は、堅苦しい方の彼だった。
「調子はどうですか。どの精霊の加護を?」
「それが……」
阿文がこの二時間の成果を手短に報告すると、灯冶の眉が少しずつ中央に寄せられて行く。
(だから、無理だっていってるのに)
失望されただろうか。心証が如実に表れる様を、百瀬は針で突かれるような気持ちで見守った。穢人なんだから当たり前でしょ、という表面的な気持ちとは裏腹に、穴があったら入りたいとさえ思う。
「百瀬さん、覚醒しないと家には帰れませんよ」
真正面から見据えられ、話しかけられて百瀬は胸がどきりとした。
咎められたこともあるが、不謹慎にも大半は昨夜のことを思い出してである。あの指が、昨夜自分の唇に触れたのだ。そしてあの唇が、この頬に口付けた。どれも彼の知るところではないけれど。
俯いたまま返事もしない百瀬に気を悪くしたのか、灯冶の霊気が微かに重苦しくなった。
「霊気を操る感覚と言うのは己との対話です。自分の中の霊気を探る研鑽を積めば、必ず辿り付くはずです」
その他にも何だか色々と口を動かしているが、全く頭に入って来ない。何より恥ずかしくて目が合わせられない。顔が赤くなっていくのを止められず、百瀬は灯冶から顔を隠すように更に俯いた。
「百瀬さん?」
聞いているのか、という含みを持った非難の声が降ってきたが、顔を上げることは出来なかった。
「初日から頑張りすぎるのも良くないわ。今日はこの辺にしましょう。ほら、解散」
説教が尚も続く気配を察して、日留加が遮った。
もっと何か言いたそうな灯冶も、言葉を喉の奥に呑み込んで黙る。
「では、明日からも励むように」
そう言い捨てて、灯冶は去って行った。
扉が閉まってたっぷり五秒ほど経ってから、日留加がふうーと息を吐く。
「追っ払い成功。ごめんね、怖かった?」
百瀬に向けられた日留加の言葉はあまりに優しさと労りに満ちていた。
それは人に甘えることに慣れていない頑なな心さえほろりと崩す威力があり、百瀬は簡単に本音を漏らしてしまう。
「……少しだけ。灯冶さんって、結構容赦ないところありますよね。冷たいっていうか、厳しいです」
それは初対面の時から感じていたことである。行動は情に厚いところもあるのに、彼から吐き出される言葉は時に辛辣だ。
「まあ、あいつは昔から真面目だからな。子供の頃から働きづめだったし、今は時間を持て余して、どうでもいいことに首を突っ込みたくなるんだろう」
どうでもいいこと、という箇所が少し気になったが、それ以上に阿文の言葉前半がそれ以上に興味深かった。
「灯冶さんと、昔からのお知り合いですか?」
「ああ、あいつの出身地を統治してたのが俺の家だ。俺は貧乏辺境貴族の三男坊だったからな、よく村の子供たちと遊んでたのさ。依代になって王宮に来ることになったとき、灯冶の意向で俺もこっちに引っ張られたんだ」
「そうよー、最初は丸っきり灯冶の保護者みたいだったものね、阿文だって二十歳そこそこだったのに。その献身的な働きが認められてオオナ様の近衛隊長兼側用人にまで大出世したんだから」
王宮の人事に詳しくはないが、王都ではなく東雲程度の貴族が若くして重職に就いてるのだから、優秀な人材なのだろう。近衛隊長というからには腕も立つのだ。
改めて百瀬は阿文を尊敬の眼差しで見上げた。
「それは他に適任がいなかったってだけですよ。あいつは弟みたいなもんだから、仕方なくです。おかげであのバカ神に昼夜問わず振り回される羽目になって」
百瀬はぎょっとしたが、日留加は平常を保っている。
「バカ神なんて言っていいんですか?」
「いいさ。そもそも俺は元々神なんて信じちゃいなかったからな。お前は信じてたのか?」
「ええ、まあ」
「へえ、信心深いな。王族はともかく王都の貴族ですらオオナ様の存在なんておとぎ話みたいに思ってるぞ。地方の貴族で信じてる奴なんてまずいなかったけどな」
それは、隠呟依代が四百年続いた負の功績だった。神の姿が見えず、声も聞こえなければ、民衆はその存在を信じ続けることが出来ない。人は、目に見えないものは疑いたくなってしまうものだ。
「さ、今日はこれで本当に終わり。百瀬、私の部屋に来ない? 一人でいても退屈でしょ?」
どちらかと言えば早く一人になりたかったのだが、拒否権などあるはずもない。
部屋に着くと、日留加は侍女に茶と菓子を持ってこさせ、畳の上に座り込んでしまった。百瀬の部屋とは比べものにならない豪奢な造りに感嘆してしまう。家具も小物も、当然だが国随一の一級品だろう。
促されるまま下座におずおずと座ったものの、百瀬は恐縮のあまり言葉に詰まる。昨日一日、今日半日一緒に過ごしたとはいえ、買い物や訓練などの目的が無ければ何を話していいか分からない。そんな百瀬の気まずさを砕くように、日留加が百瀬の耳に触れた。
「この水晶の耳飾り、やっぱり似合ってるわ。着物も帯も、とっても可愛い」
「あ、ありがとうございます」
今日身に着けている上質な服と装飾品は全て昨日の日留加の見立てである。朝侍女たちに着替えさせられた時には、鏡を見て目を疑った。丁寧に梳かれ、結い上げられた髪には黒檀の髪留めが飾られている。淡い草色の地に黄と水色の小花が散っている着物を絹の腰紐と銀糸の織り込まれた帯で締めあげると、それなりに見れる格好になった。
「ねえ、百瀬は覚醒しなかったら薬師としてずっとここにいるのよね?」
「あ、はあ、オオナ様には一応そう言われています」
「そう、良かった! じゃあそうなったらずっと一緒に遊べるわね!」
遊ぶ……? 自分と? 困惑がそのまま顔に出ていたらしい。
「ほらまた、そういう顔する」と、眉間をぐっと指で押し上げられた。
「王族の姫が私なんかと、って思ってる? でもね、穢人なんて別にそこらの普通の霊使と大して変わらないじゃない?」
えっ、と百瀬は小さく叫んで、つい顔を上げた。
「私から見れば王都の民はまだしも、地方の庶民なんて皆穢人みたいなものよ。だって碌に術も発動できないらしいじゃない? 少し風を起こせる、少し水を浄化できる、そんなことに大して意味がある? 私たちみたいに竜巻や火柱を起こせるっていうなら価値はあると思うけど。結局術に頼らない生活してる人が大半でしょう? それって穢人と何が違うの?」
投げかけられて、百瀬は大いに戸惑った。確かに生活する上で霊気の恩恵を受けていない層も少なくない。とはいえ。
「でも、精霊の加護を全く受けていないっていうのは、やっぱり常人とは違うと思います」
そこには大きな隔たりがある。身に染みて叩き込まれた絶対的な概念だ。
それでも日留加は揺るがなかった。
「生まれ持った性質で差別するなんておかしいわよ。自分の力じゃどうしようもないことじゃない」
ぽかんと開いた口が閉まらない。まさか階層の最上部の人間、最も民を差別している王族からそんな台詞を聞くとは。この国では霊気の種別、強さで徹底的に区別され、差別される。しかしながらこれは、恵まれた者特有の傲慢というものだろうか。
「でも、それが現状なのも事実よね。だから覚醒訓練頑張りましょ。百瀬だってきっと覚醒できるわ。私の霊種は火だから、百瀬が火使だったらいいのにな。もしそうだったら、誰にも侮られないくらい力を引き延ばしてあげるのに」
ぽん、と両肩に手を置かれて百瀬は衝撃を通り越してじんわり心が溶けていくようだった。他人から、こんなに自分に寄り添われたことなどあっただろうか。
(本当に火使になれたらいいのに)
心底、そう願った。
「何だか不思議です。庶民よりも神様や王族の方々のほうが穢人に理解があるなんて」
「理解も何も、誰もが蔑むことなく、蔑まれることのない国にしたいと、そう思ってるだけよ。皆が自分の能力に合った生業に就いて、力ある者が弱きを助ける、それでいいのにね」
もしそんなことが実現したら、どんなにいいかと思う。誰しも授かる能力は選べない。しかしそれによって人生が大きく左右されてしまうのが現実だ。
「素晴らしい志ですね」
「ありがとう。でも、灯冶のことがなかったら、こんな風には思えなかったかもね」
「灯冶さん?」
「純血の王族じゃなくても祇呟依代になれる、高潔な魂を持つ、ってこと。霊力の強さだけが全てじゃないってこと」
確かに、血統と強さだけが条件ならば灯冶が依代になりえるわけがない。
(どうしてオオナ様は日留加様を選ばなかったのかしら)
そうすれば全てが丸く収まったのではないか。能力、人格、問題なし。前王から見ても姪の娘なのだ、資格は十分である。
「ところで百瀬、ちょっと、内緒で聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
突然小声になり、かしこまった日留加に百瀬は顔を寄せた。
「はい、もちろん」
「あのね、不妊に効く薬って、あるかしら? 一応、これまでに色々試してはみたんだけど」
「……妊娠を希望されてるんですか?」
「そう。早く灯冶の子が欲しいの。依代の子を産むのが、私の務めだから」
誇らしげに胸を張りつつ、恥じらうように唇がふにゃふにゃと揺らいでいる。
心底驚いて、百瀬は日留加をまじまじと見つめてしまった。先ほどの二人のやり取りからは、およそ想像できぬ展開だ。
「お二人は、夫婦だったのですか?」
百瀬の質問に、日留加はプッと吹き出した。
「いえ、より霊気の強い子を産むために婚姻せず子を成すのは王族貴族の間ではよくあることなの。私が子を産めば、灯冶も前向きになってくれると思うし。私がずっと孕まないから、他に貴族の娘と子供を作るって話が持ち上がって、灯冶はそれが嫌だったみたい。それでオオナ様の休眠期を狙って今回の事件が起こったのよ」
覚醒後の褒美話が思わぬところで手に入った。ずっと気になっていた、灯冶の死にたい理由。それは日留加に操を立てたかったから? だとしたらそれは命掛けの恋というものではなかろうか。自分とは、およそ無縁の。
そう思うとやはりどこか寂しい。恋愛事などとっくに諦め受け入れて来たが、それでもそれは自分が望んだことではないのだ。
(いけない、暗くなっちゃ)
「あの、休眠期って何ですか?」
日留加に気取られぬよう、百瀬はわざと明るい声を出した。
「オオナ様が数日眠りにつく時間。この間だけ灯冶はずっと自分でいられるってわけ。でも、今回は毒に当たって結局オオナ様が早めに起きちゃったんだけどね」
そうだったのか。それであんなに時間がない、と急いていたのか。即死性にやたらこだわるのも不思議だったが、そういう理由だったのか。
「お二人、お似合いです」
「あ、そんなんじゃないのよ。お互いの気持ちなんて関係ない、ただ出産が目的の国策なんだから。富士平の繁栄にも繋がるし、お母様にも喜んでもらえる」
「そういうものなんですね」
孕むのも仕事のうち、と言わんばかりである。王族も何かと大変だ。
「そうよ。依代の子を孕む女を依腹って言って、王族の女は皆依腹を目指してるの。お母様は私が依腹になることを強く望んでるから」
「母上のこと、お好きなんですね」
「そりゃそうよ。私のお母様は王というだけでなく、とっても優秀な霊術士なの。心から尊敬してるわ。だから、お母様の願いを叶えたいのよ」
輝く瞳が眩しかった。愛する母が生きていること、その母を喜ばせられることが、羨ましい、とさえ思った。たとえそれが政略的な出産を求められることでも。
「お子、早くできるといいですね。私も尽力させていただきます」
日留加が、嬉しそうに頷いている。
この人の力になりたいと、百瀬は本気で思った。




