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終幕之話「わがまま娘の手を取りましょう」下

――



 しばらく平間は言葉を見つけることが出来ずに、胸中の壱子の存在をぼんやりと受け止めていた。

 その身体は薄く華奢で、力を加えれば折れてしまいそうだ。

 壱子は肩を小刻みに震えさせ、平間の胸に顔をうずめながら言う。


「遅いぞ」

「同感だ」


 平間がおどけて肩をすくめると、壱子は少し顔を上げた。

 部屋の薄明かりに照らされたその瞳は、いつにも増してきらきらと輝いていた。

 思わず息を呑んだ平間に、壱子は微笑を浮かべる。


「これはどうでも良い話じゃが、私は近頃、ようやく『一日千秋』という言葉の意味を理解した」

「へえ、どういう意味なの?」

「暇で仕方なかった、という意味じゃ」

「……そうかい」


 期待していた言葉が返ってこなかった平間が眉をひそめると、壱子は悪戯っぽく笑う。


「そんな顔をするな。何をしに来た?」

「え? それは、壱子を助けに来たに決まっているじゃないか」

「……まことか? 仲間は? お主一人か?」

「隕鉄さんと、あと表立って協力してはくれていないけど、梅乃さんも」

「梅乃が? そんなはずは……。なにか証拠でもあるのか?」

「もちろん」


 そう言って、平間は懐から一つの封を取り出した。

 かつて梅乃から「隕鉄へ」と手渡された、あの手紙だ。

 それを平間は壱子に開いて見せる。

 壱子は手紙をまじまじと見つめると、一通り考え込んだ後に首をひねった。


「これは……詩か? ()は梅乃のものじゃが、あたりさわりの無い内容じゃ」

「実はそれを手渡したときに、梅乃さんはこう言っていたんだ」

「……ほう、何と?」

「『月があるところで読み始めること』、『壁にぶつかっても引き返さず、前にだけ進むように』って」

「一体、なんの話じゃ?」

「それと、『南西が吉』だってさ」


 平間が試すような視線を壱子に送ると、彼女は形の良い眉をひそめて再び手紙に目を落とした。

 その手紙には、縦に七文字、横に八文字の合計五十六文字が規則正しく記されていた。

 壱子は穴が開くほど手紙を凝視していたが、おもむろに目を見開いて顔を上げる。


「平間、暗号じゃな。『月があるところで読み始めろ』とは、この三行目第五字の“月”から『南西』、すなわち左下へ文字を拾っていく」

「そうすると、『月、夜、東』になるね」

「うむ。そしてこの三文字で下端に到達するが、そこは『引き返さずに前に進む』。すなわち一行左に進み、頭の字から左下に降りていく」

「『壁、北、(くさむら)』だ」

「ここで左端に着くが、相変わらず前に進み、今度は右端四文字目から読み進めると『道、在』となる。その先は特に意味を為さぬから、無視して良いじゃろう。そしてこれらの文字を全て繋げると、『月夜、東の壁、北の(くさむら)(みち)()り』となる」


「どうじゃ」と言わんばかりに、壱子は笑みを浮かべて胸を張る。

 得意げに目を輝かせる壱子に、平間は素直な賛辞を贈った。


「すごい! 僕と隕鉄さんで考えても一晩かかったのに、壱子は少し考えただけで答えを出すなんて!」

「そう褒めずとも、分かっておる。して、先ほどの文章はつまり、『屋敷の東側の壁のちょっと北に行ったところ草むらがあり、その中に抜け道がある』という意味なのじゃろうが、そんなものが本当にあったのか?」

「あったよ。実際、僕はその抜け道を通ってここにいるんだし」

「それは知らなんだな……。梅乃はどこで知ったのじゃろう」


 壱子が首をかしげると、平間が入って北側の障子が軽快な音を立てて開いた。

 反射的に、平間は壱子をかばうようにして立ち、身構える。


 障子の奥から姿を現したのは、梅乃だった。

壱子が纏ったそれと負けず劣らず艶やかな着物に身を包んだ彼女は、平間がこの部屋にいることを知っていたかのように、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。


「抜け道を知ったのは、屋敷に迷い込んできた野良猫を追いかけていたら、たまたま見つけちゃったのよ。そのうち修繕する予定だから、次からは使えなくなっているかも知れないわね」


 朗らかに言う梅乃とは対照的に、壱子の表情は硬い。


「梅乃、平間をここに連れてきたのは……」

「私の手引きよ。手助けをしたの。平間君から聞かなかった?」

「聞いた。しかし、梅乃が私を助け出そうとしているとは、どうしても納得できぬ」

「あら、なぜ?」

「なぜか、か。それは私の方が聞きたいところじゃ」


 壱子はそういって、視線を梅乃から横の障子に動かした。

 つられて平間もそちらを見ると、障子の奥には何者かが立つ影があった。

 その影を壱子は注視しながら、声を少しだけ震わせて言った。


「梅乃、お主の手引きで平間がここに来たと言ったな」

「ええ」

「ならば、なぜ父上がそこにいる?」


 壱子のその言葉と同時に、障子が勢いよく開く。

 姿を現したのは、黒衣の礼服に身を包んだ壮年の男だった。


 鋭い眼光をたたえた細面に、短く刈り整えられた顎髭(あごひげ)

 背は平間と同じくらい、顔についた肉は少ないが、少しこけた頬が海千山千の老獪な印象を与えている。

 歳のほどは五十より若い程度か。

 壱子や梅乃の顔立ちが美しいのを鑑みると、その血を分けた彼は外見よりももっと年を経ているのかもしれない。


「私はね、壱子ちゃん。最高傑作である貴方には、お父様と戦ってもらわなくてはならないの」

「どういう意味じゃ?」

「私は貴方が大好きだという意味よ。貴方という逸材を育て上げ、その先にある景色をこの目で見るのが私の夢なの」

「……酔狂じゃな」

「そうかもね。でも、貴方にとっても悪い話じゃないでしょう? この場で上手くお父様を説き伏せることが出来たら――」

「説き伏せる? 何を馬鹿なことを」


 梅乃の言葉を、低い声が遮った。

 声の主は、彼女らの父、玄風だ。

 玄風は梅乃を鼻で笑うと、平間に大股で歩み寄る。

 そして無遠慮に顔を近づけて、品定めするように平間を眺めた。


「お前は、誰だ?」

「僕は、壱子と一緒に勝未村の――」

「ああ思い出した。そういえば梅乃がそんなことを言っていたな。なるほど、うむ。帰って良いぞ」

「……はい?」

「帰って良い。俺はお前に用が無い。目障りだ。帰れ」


 早口で言うと、玄風は平間の横をすたすたと通り過ぎようとする。


「待ってください!」


 恥と怒りに駆られて、平間は食って掛かる。

 しかし。


「帰れ、と言ったのだ」


 玄風はくるりと振り返り、温度の無い声で平間を射抜く。

 壱子と同じ色の、しかしずっと鋭い玄風の眼光に、平間は一瞬にして刃向かう気力を削がれた。


 その様子を見て、玄風はつまらなそうに鼻を鳴らす。

 そして歩を進め、平間同様に委縮した壱子に、平坦な声で問うた。


「で、お前はここを出たいのか?」

「……出たいです」

「では約を違えるということか? お前は私に、今後逆らわぬことを条件に外出することを(こいねが)ったのだろう?」

「はい。ですが――」

「ならば話は終わりだ。言いつけ通り、来月、春宮(とうぐう)のもとへ(とつ)げ」


 玄風(くろかぜ)は言うだけ言うと、さっさと踵を返して部屋を出ようとする。


 平間は憤った。

 玄風の立った一瞥で縮み上がった自分の小胆も腹立たしかったが、それは些細なことだ。

 最も平間の癪に障ったのは、玄風が相手の話を全く聞こうとしないことだ。

 その相手が平間ならまだしも、実の娘である壱子であるときもそうだというのが、何より腹立たしい。


 ふと壱子の方を見ると、彼女はすっかり意気消沈してしまっているらしい。

 うつむき、肩を落としたその姿は、目を背けたくなるほど痛々しかった。


 そして平間は気付いた。

 今いるこの部屋のつくりは簡素で、抜け出そうと思えば抜け出せるのに、なぜ壱子がそうしなかったのか。

「壱子を救い出してほしい」と平間に頭を下げた隕鉄が、なぜ力づくで彼女を連れ出さなかったのか。

 梅乃が(何を考えているかイマイチ分からなかったが)、なぜわざわざ玄風を壱子の前に連れてきたのか。


「壱子、僕は反対だ」

「……え?」


 消え入るような声を漏らして、壱子が顔を上げた。

 その細い肩を、平間は両の手でつかむ。


 壱子を捕らえているのは、とってつけたような物理的な牢ではない。

 この家に生まれて、過ごしていくうちに、少しずつ形を成していった心の檻なのだ。


 皿江の地下室で鉄檻に入った病犬を見た壱子は、力なく首を振っていた。

 平間の言えたことではないが、壱子はどこか諦めが早いところがある。

 完全無欠だと思っていた彼女の意外な弱点に、平間はなぜか元気づけられた心地がした。


 その不意に湧き出た勇気を胸に、平間は大きく息を吸って、


「僕は、壱子の結婚に反対だ!」


 頭に上ろうとする血液を気力で押し下げて、平間は壱子の眼を真っ直ぐに見つめた。

 その視線に、壱子も弱々しいながらも応じる。


「壱子だって、乗り気じゃないんだろ?」

「そ、それは……うむ。しかしな――」

「だったら止めれば良い。行きたいところがあるなら行けばいい。どんな所でも僕が連れていく。世間知らずで恥をかくのが怖いなら、僕が君の三歩前を歩いて行く……!」

「せせ、世間知らずは余計じゃ!!」

「ふふっ、そうかもね。で、壱子自身の気持ちではどうしたいんだ?」

「私の気持ちは……」


 平間の問いかけに、壱子は逡巡して俯く。

 しかし少しの間を置いて顔を上げると、力強い眼差しを平間に返した。


「私は、外の世界をもっと見てみたい。そして知らないものを観て、聴いて、感じてみたい……!!」

「ならぬ」


 声を弾ませる壱子の目に宿った輝きが、すうっと消えた。

 壱子が振り返ると、横目で冷たい視線を向ける玄風の姿があった。


「父上……」

「お前は私の娘だ。欲しいものは与えた。これ以上何を望む。人の欲は底なしだ。なまじ知りすぎて不孝になることもある」

「しかし父上、それでも私はやはり――!」

「くどいぞ!!」

「ッ……!」


 玄風の一喝に、壱子は涙目で黙り込む。

 その姿に、平間は腹の底が煮えるような心地がした。


 壱子は平間に振り向いて、ぎこちない笑顔を作ってみせる。


「平間、すまぬ。私はどうしても父上には逆らえぬようじゃ」

「……本当にそれで良いの?」

「良くない……良くないに決まっておろう! しかしどうすることも出来ぬではないか!」


 目に涙をたたえて、壱子は振り絞るように叫んだ。


「屋敷には警備の者が何人もおる! 仮にお主が私を連れ出したとしても、すぐに捕まってしまうのがオチじゃ。抜け道があったとしても、すぐに追手が来る……どうしようもない」


 その言葉を、平間は不敵な笑みで受け止める。


「いや、それが意外と何とかなるんだ」

「お主、何を企んでおる?」

「今に分かる。……隕鉄さん!!」


 平間がその名を叫ぶと同時に、壱子の背後の壁が吹き飛んだ。

 舞い荒れる土煙の中から、見慣れた坊主頭が顔を出した。


「待ちくたびれたぞ、平間殿」

「ありがとうございます! さあ壱子、行こう!」

「し、しかし警備の者は……?」

「それがな、お嬢。どういうわけか皆、眠りこけておったのだ」

「眠っていた……? たしかに酒宴の声は聞こえたが、全員が酔いつぶれるほど飲むとは思えぬが……まさか!」


 壱子はハッとして、梅乃の方を振り向いた。


「正解よ~、壱子ちゃん」


 気楽に手をひらひらさせる梅乃に、横で目を丸くしていた玄風が声を荒げる。


「梅乃、なぜ私の邪魔立てをする!?」

「お言葉ですが、私はお父様の邪魔などしていません」

「ならばなぜ!?」

「言ったでしょう? 私は壱子ちゃんが大好きなの。あの子が屋敷を出たいと言うのなら、その手伝いをするのは当然で必然だわ。もちろん、お父様と話をつけるのが理想だったけれど、ご破算になってしまった以上、仕方が無いわね……。ま、そういうわけで、皆さんのお酒に眠り薬を混ぜておいたの。後でちゃんと謝っておくわ」


 梅乃はこれ以上なく楽しそうな口ぶりで言うと、壱子に向き直って口を開く。


「壱子ちゃん、行ってらっしゃい。いつでも帰ってきなさい」

「梅乃……恩に着る」

「あら、だったら私のこと『お姉ちゃん』って呼んで頂戴な」

「な、なんじゃそれは! まあ、分かった……じゃあの、お、おおお、お姉ちゃん」

「きゃー! 可愛い!! もう一回言って!」

「う、うるさい!!」


 一人で黄色い声を上げて、梅乃ははしゃいで玄風の肩を思いっきり叩いた。

 いまだに状況が呑み込めていないらしい玄風が、思いっきり顔をしかめる。


 それを見ていた隕鉄は苦笑して、平間に言った。


「さ、お嬢を連れていけ。門番には話を通してあるから、すんなりと抜けられるだろう」

「隕鉄さんは?」

「我は後片付けをしてから行く。それに、『婿殿(むこどの)』と教育方針の違いについて話し合わなければならぬのでな」

「はぁ……? まあ、分かりました。じゃあ壱子、行こうか」

「うむ! 頼む!」


 勢い良く頷いた壱子の手を、平間は力強く握った。

 そしてそのまま隕鉄の横を抜けて、壁に空いた大穴を潜り抜けていく。


 彼らを見送った後、梅乃は「じゃあ、二人でごゆっくり」と言い残し、そそくさと散らかり切った部屋を後にした。

 それからしばらくして、隕鉄は玄風に語りかける。


「大丈夫だ、『婿殿』。お嬢はこの世のものとは思えぬほど足が遅い。後からでもすぐに追いつける」

「白々しいことを……。壱子め、どこまでも母親に似おって」


 どことなくしょげた玄風を、隕鉄は豪快に笑い飛ばした。


「カカカ。いまの婿殿はまるで、沙依子(さよりこ)を嫁にやった時の我のようだ。娘を失う気持ちが、少しは分かりましたかな?」

「ふん、義父(ちち)上のように醜く泣きわめいてはいない」

「その呼び方はしない約束だろうが……まあいい。お互い苦労するな」

「梅乃も壱子も……どうしてこうもじゃじゃ馬に……」

「それは、親に似たのだろう」


そう言って、隕鉄はその野太い声で高らかに笑った。

玄風は苦虫を噛み潰したような顔で、壱子と平間が消えた穴を、ぼんやりと眺めていた。


――


 完全よりも少し欠けた月が、少年と少女を優しく照らす。

 生まれも育ちも違い、片や凡庸で、片や非凡な二人。

 彼らがこの先どこへ行くのか、それは彼ら自身にも分からない。

 しかし今の二人を見れば、化生の類も彼らの邪魔をする気にはならないだろう。


 夜の皇都を、涼風が吹き抜けた。


――


「わがまま娘はやんごとない!」 完


――

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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