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二十二話「己が正義と戦いましょう」上

 

 ――


 皿江は意外にも、嫌がるそぶりも無く平間と壱子を離れに連れて行った。

 日はすっかり落ちていて、皿江が点けた行燈の火だけが頼りだ。


 途中で中庭を通る折に、外で待機していた隕鉄が壱子に目くばせしたが、彼女は黙って首を振った。

 引き続き外で待っているように、ということだろう。

 平間の身体に力が入る。


 離れは、一言でいえば紙に埋もれていた。

 棚に丁寧におさめられた書物や、机に積まれた紙束。

 バラバラになっているものも紐で綴じられているものもあるが、そのいずれにも文字がいっぱいに書き込まれている。

 壱子はその中から一枚の紙を手に取った。


「これは実験の観察記録か。死亡が七日前の日付で、対象は……『マルイ、七十八号』? 犬の観察結果か?」

「詳しく教えても良いが、知りたいのはそんなことではあるまい」

「ふむ……」


 皿江の問いに壱子は少し考え込んで、手に取った紙を元に戻した。


「……そうじゃな。で、実験場はどこにある?」


 壱子の問いかけに、皿江は不敵な笑みで返す。

 何か企んでいるのか。

 あまりにも協力的すぎるような……。


 突如として猛烈な不安に襲われた平間は、せわしなく周囲を見回した。

 そんな平間の手に、何か柔らかく温かいものが触れる。

 見ると、壱子が平間の手を取り、強く握っていた。

 驚いた平間は思わず、小声で尋ねる。


「壱子?」

「平間、黙って握っていてくれ。私が戻れるように」

「どういう意味?」

「私の考えが正しければ、皿江と私は似ていて、皿江もそのことに気付いておる。私もあやつも、知ることに対する執着が強く、手段は選ばぬ。だから離さないでおくれ、私が変わってしまわぬように」


 平間は、壱子の言うことをすべて理解することはできなかった。

 しかし彼女の切実な声に、一も二も無くうなずく。


「頼むぞ」


 それだけ言って、壱子は再び視線を皿江に向ける。


「皿江殿、では見せてもらおう」

「……良いのか? 見たら最後、後戻りは出来ないだろう」

「くどい。戻るかどうかは私が決めることじゃ」

「ふ、どうだろうな」


 薄く笑うと、皿江は足元に手を伸ばした。

 すると乾いた耳障りな音を立てて、床の一部が盛り上がっていき、地下へ通じる入口が現れた。

 かすかな埃の臭いが、平間の鼻をつく。

 皿江は行燈を振りながら尋ねる。


「先に行くか?」

「いや、遠慮しておこう。私とて、そこまで命知らずではない」

「そうか、では付いて来い」


 皿江はまるで厠を案内するような気軽さで言うと、地下室への階段を下っていく。


「僕が先に行くよ」


 平間がそう言うと、壱子は返事代わりに、平間の右手を握っている指先に力を込めた。

 階段は石張りの頑丈なもので、平間が足を置くたびに硬質で乾いた音を上げる。

 しっかりとした造りの石段とは対照的に、壁は申し訳程度に材木で枠のようにして支えられているだけだ。

 その間から覗く土壁から来た湿気のせいだろうか、もともと肌寒かった空気は、降りていくにつれてさらに冷たく、じめじめと重たくなっていった。


「ここだ」


 振り向かずに皿江は低い声で言うと足を止める。

 彼の持つ行燈の光がゆらゆらと揺れて、平間にはそれが妙に不気味に思えた。


 ぎりり、ぎぃ……。


 木材の軋む音。

 皿江が地下室の扉を開けたらしい。

 次いで、ぼんやりとした光が漏れ出て、平間の顔に生暖かい風が当たる。


「平間殿、出来るんだよ」

「……?」


 返答に迷っている間に、皿江は歩を進める。

 平間は思わず逡巡する。

 素直に平間たちを招き入れた皿江の態度は底知れぬ不気味さがあったし、平間自身が地下室に入るのは初めてだったからだ。


 何か巨大なものに掴まれているかのように、手足を自由に動かせないような心地がする。

「これがヌエビトなのか」と思うと、腹の奥まで疼き始めた。

 悪い想像だ。

 平間は首を振ってその想像を振り払おうとするが、不安は消えるどころか増すばかりだ。


「平間、私たちも行こう」

「……うん、そうだね」

「案ずるな、私も地下室は初めてじゃ」


 図星を突かれてぎょっとした平間は、目を丸くして振り返る。

 後ろに立つ壱子は、いつも通りの悪戯っぽい笑みで平間に目を向けていた。

 するとなぜだろう。

 さきほどまで平間の身体を押さえつけていたものが、気が付けば綺麗に消えてしまっていた。


 急に心が軽くなった平間は思わず苦笑いして、


「人の考えを読むのは悪趣味だよ。それと、ありがとう」

「ん? ふむ、どういたしまして……?」


 きょとんとした壱子の手を引いて、平間は力強い足取りで地下室の中に入る。

 そこは薄暗いながらも意外に暖かく、先ほどまでの湿気も感じられない。

 不思議に思った平間が見回せば、奥に排気口らしき筒の付いた暖炉があり、煌々と火がともっていた。

 あれがおそらく、この部屋を暖めているのだろう。

 もしかすると、土に覆われている分、一度温めてしまえば暖気が逃げにくいのかもしれない。


「平間、あれを」


 壱子が小声で示した方を見ると、壁に沿うように四角くて黒い物が並んで置かれていた。

 平間が近付いてみると、その黒い物は高さ三尺(およそ九十センチメートル)ほどの檻だった。


 触れるとヒヤリとして氷のように冷たく、ところどころ赤黒い錆が浮いている。

 檻の格子と天板は鉄製で、見るからに頑丈そうだ。


 その時ふと、平間はかすかに何かの息づかいを感じた。

 気配のした方へ平間が視線を動かすと、そこには茶と黒の毛皮に覆われた獣がいた。

 犬だ。


 アオォォーーン……。


 檻の中で切なげな声を上げると、その犬はせわしなく狭い檻の中をせわしく走り回った。

 乾いた爪と鉄檻がこすれ合って、神経質そうな音が響く。

 平間の眼が暗さに慣れてくるにつれ、檻の中がよく見えるようになってくる。

 檻には簡素なエサ入れと水の入った皿のほかには何もなく、犬の横腹には肋骨(あばら)が浮いていた。

 後肢(うしろあし)に付いた肉も細く薄い。


 今にも衰弱して死んでしまいそうな気がして、平間が檻に近付こうとすると、


「よせ平間!!」

「ッ!?」


 大声で叫んだ壱子は、平間の腕を渾身の力で引く。

 その顔は青ざめていて、必死の形相だ。


「たわけ、死ぬつもりか!」

「え……?」

「ここを何処か忘れたか? 皿江(あやつ)が何をしていたか忘れたか!?」

「え? あ、ああ、狂犬病の……」

「そうじゃ。良いか、見ておれ」


 凄まじい剣幕でそう言った壱子は、手近に転がっていた(まき)を掴むと、それを檻の中に放り込む。

 放物線を描き、鈍い音を立てて落下した薪に、瞬く間に犬が噛みついた。


 美味くもないだろうに、犬は痩せた身体を震わせながら薪を噛み、噛み、噛んで、噛み続ける。

 牙が食い込み、(きし)む音。

 その姿は文字通り病的で、文字通り狂気に満ちていた。


 檻の中で、粘稠な唾液が飛び散る。

 あの唾液が身体に入ると……。

 そう考えて思わず身震いした平間に、壱子が声を潜めて言う。


「狂犬病に罹っておる。もし檻の中に手を入れてでもみよ、すぐさま噛みつかれて、後にはあの世行きじゃ」

「……でも」

「でも?」

「あの檻の中で過ごすなんて、可哀そうだ」

「その通りじゃ。しかしもう助からぬ。ああなってしまっては見守ることしか――」

「いや、そうでもないぞ」


 目を伏せて言う壱子を、しわがれた声が遮った。

 振り向いた壱子と目が合うと、皿江は緩やかに口角を上げる。


「方法ならある」

「……はて、いかな悪趣味な方法じゃろうか」


 怒気を抑えようとしない壱子を、皿江は鼻で笑う。


「そう身構えるな、簡単なことだ」


 平間は皿江の後ろに、中身のない(ひと)際おおきな檻があることに気付く。

 その用途を察して、平間は顔を引きつらせる。

 皿江の顔が、妙に大きく見えた。


実験体(モノ)を、モノとして見れば良いのだ。簡単だろう?」


 皿江は得意げに笑い、さらに続ける。


「言っただろう平間殿、こんなところでも実験はできるのだよ」

「やはり、悪趣味極まりないな」


 壱子は吐き捨てるように言った。

 そして皿江の後方に視線を向けて、


「平間、確信したぞ。洞窟で見つかった大量の人骨。その死因も沙和と同じく、狂犬病じゃ」


 その視線は、皿江の後ろにある巨大な――人間用の檻をまっすぐに見つめていた。


 ――


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