表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

47/60

十九話「心を強く持ちましょう」三


 壱子の口ぶりからは、傲慢や自尊や虚栄の色は見えない。

 しかしそれでも、平間には壱子のいう事がにわかには信じられなかった。


「医事方の記録は壱子の頭の中にあるってこと……?」

「うむ。ちなみに記憶する者は他にも何人かいるらしいが、それぞれがずべてを覚えることを義務付けられている。なぜ分散させずに全員に全てを覚えさせるのかまでは知らぬ。恐らく記憶違いとか、記憶者の急逝に対応するためじゃろうとは思うが」

「でも、それなら普通に記録した方が良くないか」

「そうとも言えぬ。竹簡などは酷くかさばるし、紙だとさっき言ったように『無粋』なものになる。それに対し、記憶に頼るなら扱うべきは人だけじゃ。覚えさせると、持ち運びが楽になる。処分も含めてな」


 壱子は薄く、自嘲気味に笑う。

 彼女の言う「持ち運び」「処分」の意味はぼんやりとしか分からなかったが、恐らく良い意味ではないのだろう。

 深く触れるべきではないのかもしれないと、平間は話題を変える。


「つかぬ事を聞くけど、医事方の記録ってどれくらいあるの?」

「皇国自体がまだ若い国じゃから、諸王国(まえの)時代から引き継いだ記録が多少あるが、大した量ではないよ」

「そうじゃな、これくらいの厚さの紙の本が――」


 そう言いつつ、壱子は親指と人差し指で隙間を作る。

 それはおおよそ一寸(いっすん)(三センチメートル)ほどだ。


「――だいたい二万冊くらいじゃな」

「にまん……?」

「二万じゃ。一万の二倍のことで、一万は千の十倍、千は百の――」

「それは分かる! そうじゃなくて……二万って可能なのか? その、人間の能力的に……」

「可能なのじゃろう。現に、私は覚えている」


 平然と言う壱子に対して、平間は何を言うべきか迷う。

 あまりに突拍子の無い話だ。

 すると平間は、壱子がこちらにどこか不機嫌そうな視線を送っていることに気づく。


「……平間、もしやお主、疑っておるのか?」

「正直、まあ、少し」

「言っておくが、私は人間じゃぞ。何を以って人とするかは議論の起こるところであるが……例えば、母親の胎内から身体が全部出たら人間とするとか、いや一部だけでも良いとか、では身体が全く出来ていない未熟な赤子はどこまで人間なのか、というような話もある。しかしいずれにせよ、私は人間じゃ。慣用表現として才能が突出した子供を鬼子(おにご)ということもあるし、私もそう呼ばれたこともあるが、それはあくまで表現の一つ出会って、人間であるかどうかについて言及しているわけでは……」

「分かってる! 壱子が人間かどうかを疑っているんじゃないよ」

「ん、そうか? では何が疑問なのじゃ?」


 本当に分からない、と言うように、壱子は不思議そうな表情を浮かべて平間を見やる。

 それと同時に、平間も不思議に思った。

幅広い知識を持っているのに、壱子は今のように本当に的外れなことを言うことがある。

もちろんそんなことはあまり無いのだが。


庶民である平間と大貴族の娘である壱子。

 この二人の間にある生活環境の違いが、今回のような会話の齟齬を生むのかもしれない。


「壱子、僕が疑っているのは壱子が人間なのかどうかじゃなくて、二万冊の知識が本当に一人の頭に入るものなのかってことだよ。それに、医事方の記録となれば、よほど正確に覚えておかなきゃいけないだろ? 正確に、かつ大量に覚えておくことなんて……」

「では、一つ見せるものがある」


 そう言うと壱子は立ち上がり、チラリと沙和の亡骸を見やる。

 それから何かを短く小声で呟いたかと思うと、障子を開けて部屋を出た。

 平間は戸惑ったが、壱子が通った障子の隙間が開けっ放しになっているところを見ると、どうやら「付いて来い」と言っているらしい。


 平間も立ち上がり、つい沙和のほうを見る。

 布団に横たわる彼女の表情は安らかで、眠っているといわれても違和感は抱かないだろう。

 そう思えば思うほど、平間には沙和がなぜ命を落としたのか疑問に感じざるを得ない


 つい数日まで健康だった人が、突然帰らぬ人となることがある。

 それは平間だって分かっていた。

 しかしそれが身近な人間で起こるとは思っていなかったし、それがまさか沙和のような若い娘だとは想像もしていなかった。


 そして今の壱子は、平間から見てどこかおかしい。

 いや、だいたい何時(いつ)もどこか言動などがおかしいのだが、今はそうではなく、もっと漠然としたおかしさだ。

 もしかしたらそれは、何時も以上に彼女が何を考えているのか分かっていないからかも知れない。


 廊下へ出た壱子の後を平間が追うと、壱子は自分に割り振られている部屋に入っていく。

 そして部屋の片隅に積まれていた本の一冊を取って、平間に寄越す。


 その本の表紙には「丙四〇二二、三」と書かれている。

表題だろうか。

 そして表紙の下辺には割印(わりいん)が二つ。

 それだけしかない表紙は、ずいぶんと味気ない。


「これは?」

「医事方の仮記録じゃ。私が覚えるために渡されたもので、覚え終えたら返却するように言われておる」

「医事方の記録って……え、こんなもの持ち出していいの!?」

「ダメに決まっているじゃろう。しかしまあ、色々対策はしているらしい。開いてみよ」


 壱子の言うとおりに、平間は本の中身をぱらぱらとめくってみる。

 中にはぎっしりと文字が書かれていた……のだが、その文字は奇怪で、見たことの無いものだった。


「読めない」

「それはそうじゃろう。医事方で使われている暗号じゃ。(いにしえ)の神代に使われていた文字から作ったらしい」

「なるほどね。ちなみに、これって僕が見てもいいの?」

「ダメに決まっている。医事方の人間が見たら、ただでは済まぬぞ」


 平間は顔をしかめて、即座に本を閉じた。

 とんでもないものを何でも無いように見せないで欲しい。

 押し付けるように本を壱子に返すと、ふと平間の頭に疑問が浮かぶ。


「ていうかさ、医事方の記録って言うのは、それ自体が機密なんだよね」

「ああ、その通りじゃな」

「で、壱子はその医事方の記録を暗記しているんだよね」

「その通りじゃ。しかしまだ完全ではない。九割がた、と言ったところじゃ」

「だとしたら、壱子は機密の塊みたいものになるよね」

「そうとも言えるな」

「だったら、君がこんな所に居ていいの?」


 平間の問いかけに、壱子は目を丸くした。

 そしてすぐに、こらえるように笑い始める。

 つられて、平間も曖昧な笑みを作った。


「ふふふ、平間、お主もおかしなことを聞くのう」

「そうだよね。ダメならこんな所にいるわけが――」

「いやいや、ダメに決まっておるじゃろう。むしろ皇都から出ることはもちろん、屋敷から出るのも禁じられておる。なんなら、私を連れ出した者は大逆罪に準じた罰を受けるぞ」


 悪びれずに、真顔で言ってのける壱子。

 対照的に、平間は作り笑いのまま表情をこわばらせたままだ。


「ん、どうかしたか?」


 小首をかしげて言う壱子に、平間は声にならぬ声を上げて髪をかきむしる。


「壱子、おかしくないか!? どうして外に出たらいけない君が外に出ているんだ!?」

「確かにおかしいよ。私もそう思った。しかしまあ、私を連れ出したのは梅乃だし、そんなことを言われても困る」

「ああ、梅乃さんか……。ん、壱子?」


 平間はふと、壱子の表情が寂しげなのに気付いた。


「……あ」


 そうか。

 先ほどの自分の言葉を、平間は思い出す。

 

『どうして外に出たらいけない君が外に出ているんだ』


 言った平間にとっては何気ない一言だったが、壱子はそれをどう聞いていたのだろう。

 皇都や、関から勝未村までの道のりで、周囲の景色を目を輝かせて見ていた壱子の顔を思い出す。

 自分で恥じ入るほど、あまりに配慮に欠けた言葉だ。


「こめん壱子、変な意味で言ったんじゃないんだ」

「大丈夫じゃ。私のことは私が一番よく分かっておる。梅乃とて、そのことを分かっているからこそ、私をお主と引き合わせたのじゃろう」


 つまり梅乃は、屋敷の中という狭い世界しか知らない壱子に、広い世界を見せてやろうとしたのだ。

 出会った時の壱子の話から考えると、恐らくそれは梅乃の独断だと思われる。

 だとすれば、梅乃は壱子の外出をうまく隠してくれているのだろうか。


 しかしそうだとしても、壱子が屋敷と皇都を離れてから、もう二週間以上経っている。

 どこまで誤魔化しきれるのかは分からないし、あるいはもうバレてしまって壱子の追っ手が放たれていることも考えられる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ