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十話「あやかしを訪ねに行きましょう」上


【皇紀五五年三月四日、昼】


 どうしてこうなった。


 勝未(かつみ)の森で、平間は呆然と立ち尽くした。

 後ろには賢明に突破口を探そうとする壱子(いちこ)

横にはいつもの笑顔を貼り付けながら硬直する沙和(さわ)


 そして眼前には、体長七尺をゆうに超える枯茶色(かれちゃいろ)の肉食獣がいた。

 黒い毛で覆われた体躯の胸元には、半月型の白い斑紋が浮かぶ。

 いわゆる、月輪熊(ツキノワグマ)だ。

 皇国の北西部に生息する(ヒグマ)と比べるれば、その大きさは一回り小さく、また比較的細身の身体付きをしている。

しかし、人にとって非常に危険な存在であることには変わりない。

 声を裏返しながら、壱子が口を開く。


「ひひひ平間(ひらま)、こういうときは死んだふりをするのではなく、背を向けずにゆっくりと後ろに下がっていくと良いらしいぞ。それと、この時期の熊は冬眠から目を覚ましたばかりで非常に気が立っておって、食欲も旺盛なのじゃ」

「後半の情報、今言う必要ある!?」


 思わず平間の声が大きくなる。

 が、それに反応するように、例の熊もびくりと身体を動かした。

 その仕草に顔の色をサッと青ざめさせた沙和が、小さく呟く。


「アタシも聞いたことある。熊はずんぐりしてるように見えるけど、走るとかなり速くてヒトは逃げ切れないって」

「有用だけど無慈悲な情報をありがとうございます……」


 肩を落としつつ、こんな時にこそ隕鉄がいれば、と平間は考えるが、もう遅い。

 三人は壱子の言うとおりに、とりあえず熊と目を合わせながら後ろに下がっていく。

 彼らと熊との間の距離はおよそ五間(九メートル)と少し。

 すぐさま手を出せる距離ではないが、追いかけられたらひとたまりもない程度には近い。


 少しずつ熊から遠ざかりながら、顔を引きつらせたままの沙和が口を開く。


「平間くん、こんな話があるのを知ってる?」

「なんですかこんな時に。役に立つ話なら聞きますけど」

「熊から逃げるときには熊より速く走る必要は無いんです。他の誰かより速く走ればいいっていう……」

「それってつまり……」


 平間と沙和が、チラリと壱子のほうを見る。

 この中で一番足が遅いのは、成長のための栄養をすべて思考回路に奪われたようなこの小柄な少女だ。

 二人の顔を交互に見た壱子は、その意図を察したのかハッと目を見開いた。


「お主ら、私を(おとり)にして、その間に逃げる気じゃな!?」

「はは、まさか~」

「気のせいだよ壱子。うん、気のせいだ」


 平坦に言う沙和に、平間も同調する。


「なぜ棒読みなのじゃ!? なぜ目を逸らす!」


 わめく壱子を尻目に、平間は視線を熊に戻した。

 熊はのっそりと、しかし決して距離を離すことなく等間隔を保ち続けている。


「ああもう、どうしてこんなことに……」


 そう呟くと、平間は自分の背に冷や汗が流れるのを感じた。


――



【その少し前、同日の朝】

 

 その日、平間の目を覚まさせたのは、意外にも壱子だった。

 朝の弱い彼女としては珍しくハキハキとしていて、まだ眠気にうずくまる平間の布団を剥ぎ取ると、急かすように森へ行く準備をさせた。

 そのいかにも浮かれている様子が気になって、平間は壱子に尋ねた。


「ずいぶん楽しそうだね」

「そうか? 別に遠足気分になって浮かれているわけではないぞ。水筒に着替えに……あ、おやつも必要じゃな」

「完全に遠足気分じゃないか……」


 平間の呆れた声も耳に入らないのか、壱子はいそいそと風呂敷に荷物をまとめていく。

 ……そんな駆け足をする必要など無いだろうに。それほど森に行くのが楽しみなのだろうか。

 正直なところ、平間としてはあの怪しい噂の絶えない森に足を踏み入れるのは気が進まなかった。

 そういう懸念を抱かないで、ああも楽しそうにしていられるのは、壱子が外界に人一倍興味を惹かれているからか。

それとも壱子にはまだ何か考えがあって、森に入っても危険は無いと確信しているのだろうか。


 なんてことを考えながら、平間はまだ回りきらない頭を掻いて壱子の後について行く。

台所を見てみれば、既に隕鉄と沙和の二人もいた。

 この日最後に起きたのは、どうやら平間だったらしい。

 良い香りを漂わせる鍋を火にかけながら火加減を調整している隕鉄と沙和に、平間が声をかける。


「二人とも早いですね」

「ああ、我はこの後用事がある。それの準備もしなくてはならないのだ」

「用事、ですか?」


 隕鉄の予想外の返答に、平間は思わず聞き返した。

 その問いに、壱子が変わりに答える。


「ああ、私が隕鉄に頼んだのじゃ。だから隕鉄は森には行かん」

「そういうことだ。だから平間殿、お嬢をよろしく頼む」


 二人のその言葉に、平間は思わず眉をひそめた。


「壱子、言っちゃ悪いけど、危険じゃないか?」


 そう、明らかに危険だ。

 ヌエビトがいるかもしれない森に行くにも関わらず、この三人ではヌエビトに遭遇しても対処できない。

壱子は頭が回るが、それだけで未知の存在に対応するのは無理がある。


 それだけではない。

ただでさえ未開の森なのだ。

ヌエビト以外にも、どんな危険があるか分からない以上、可能な限り人員を分けるべきではない。

多方面に万能な隕鉄なら特に一緒に行動してほしい。

少なくとも平間はそう考える。


 そして平間が思い至るくらい初歩的なことを、あの壱子が理解していないはずが無い。

 ならば、壱子はあえて自らを危険に晒してまで、隕鉄に何かをさせようとしているということだ。

 不思議に思う平間に、壱子はその子猫のような漆黒の瞳を向ける。


「お主の言わんとすることも分かるが、どうしても隕鉄にはやってもらわなければならないことがあるのじゃ。分かってくれ」


 そう言われても、やはり平間には釈然としない。

 平間のその考えを見越してか、壱子が話題を変えた。


「それと、昨日沙和が鈴と遊んでいる間に、村人から色々と情報収集してくれてな」

「え、そんなことまでしていたんですか?」

「そうだよ。商人にとって情報収集は基本中の基本だからね。あ、もしかして(りん)ちゃんとただ遊んでいただけだと思った?」

「はい、ただ遊んでいるだけだと思っていました」

「うん、平間くんは私に対する考え方を改めたほうがいいね」

「……検討してみます」


 ちなみに、役人の言う「検討する」は検討しない。

そして平間は、端くれとはいえ役人だ。


「それで、どんなことが分かったんです?」

「ふふ、聞いて驚かないでよ?」


 沙和が得意げに話し始めた内容は、こうだ。

 まず勝未の森は、おおむね三角形をした低い平地だ。

 このうち二辺は川に接していて、その川は勝未村の近くで合流し、また残る一辺は崖になっている。

 ゆえに、勝未の森は川と崖に囲まれて隔絶されていることになる。

 広さはおよそ七町ほどだという。


「つまり、『小中規模の孤立した森』ということですか」

「そうなるね。だから周囲の環境との動物の行き来は無いんじゃないかって話だよ」


 沙和がうなずくと、壱子が口を開く。


「その孤立した森じゃが、おそらく広さからして狼のような肉食獣の群れが生息することはできないと思う。だから隕鉄がいなくてもおおよその問題は無い」

「でも、ヌエビトがいるかも知れないじゃないか……そりゃあ、あんまり信じてないけどさ」

「ヌエビトについても、祓魔(ふつま)の用具の一切は揃えてある……揃えたのは隕鉄じゃが。しかし祝詞(のりと)の書かれた札や清めの塩、それに木彫りの仏像などもあるぞ。好きなものを選ぶといい」


 壱子はそう言うが、平間にはやはり釈然としなかった。

 何かがおかしい。

……そうか、壱子らしくないんだ。


 札や塩に仏像? そんなものでヌエビトに備えていることになるのか?

 彼女がお祓いなどの霊的なものの論理で動き、そして納得するような人種だとは、平間にはどうしても思えなかった。


「壱子、何を考えているんだ?」

「何を考えている、とは? おぬしが何を言いたいか分からぬが……」

「……いや、なんでもない」


 無意識に壱子にばかり頼ってしまっていたことに、平間は気付いた。

 平間はいつの間にか、何か物事を決める上で、目の前で不思議そうに首をかしげる少女に全面的に依存していた。勝未に来てからは特にその傾向が強い。

 そもそも壱子が平間に付いてくることにしたのは、彼女が平間から様々なものを学ぼうとしたからだ。

 平間自身は壱子に何か教えられるようなものがあるとは思っていないが、しかし壱子がそういった主体的な姿勢を見せている以上、平間もそうするべきだと思う。

 いずれにせよ、平間も独立して考えるように心掛けなければなるまい。

でなければ、平間がここにいる意味も、壱子が平間に付いてきたことの意味も無くなってしまう。


 平間は、沙和が隕鉄から離れたのを見計らって彼の方に歩み寄って、小声でささやいた。


「隕鉄さん、ヌエビトって倒せますか……?」

「ほう、面白いことを聞かれるな」


 目元のシワを深くしながら、隕鉄が言う。

いかにも面白がっている風だが、平間は真剣だった。


「笑い事じゃありません。隕鉄さんが別行動しているときにヌエビトが出てきたら、僕たちだけで何とかしないといけないじゃないですか」

「確かにその通りだ。しかし、平間殿はヌエビトを始め、妖怪の(たぐい)は信じてはおるまい?」

「それはそうですけど……。でも『信じないこと』と『存在しないと断定すること』とはまた別のことでしょう」


 そう言ったところで、ふと平間は自分の台詞に既視感を覚えた。そしてそれの正体が、かつて壱子に言われたことだと気付く。

 湧き出たざらりとした感情を押し殺して、平間はさらに続ける。

 

「だから隕鉄さん。ヌエビトの倒し方を教えてください」

生憎(あいにく)だが、(われ)は妖怪と戦ったことなど無い。……なにゆえそんなに意外そうな顔をしている?」

「いえ、隕鉄さんなら妖怪の一つや二つ、退治したことくらいあるんじゃないかと」

「平間殿、真面目そうな顔をしているが意外と抜けているな。よかろう、それではこれを貸そう」


 言うと、隕鉄は懐から何かを取り出し、平間に差し出した。


「これは……」

「皇都から西、迦具山(かぐやま)のふもと、伊瀬(いぜ)の名工の打った短刀である。平間殿はまだ本格的に剣術を学んだことは無いだろう。しかしこれなら扱いやすく、しかも丈夫で粘り強い。それに魔を祓う祈祷も済ませてある。まあこれは気休めだろうが」


 平間は短刀を受け取ると、少しだけ鞘から抜いてみた。

 小気味良い金属音と共に現れた刀身は、なるほど流麗に波打つ様が美しく、朝の陽光をまばゆく反射していた。

 (いち)少年である平間は、短刀とはいえその見事な刀身に思わず気分を高揚させた。


「ありがとうございます! あ、でも、これだけだとどうしても心許ないというか……」

「その気持ちも分かるが、長い刀を慣れぬうちに扱っては、逆に怪我をしてしまう。なに、お嬢も言っていたが、肉食獣はいないようだし、下手なことをしなければ安全であろう。なに、万が一のときにお嬢にも良いものを預けてある。大丈夫だ」

「良いもの、ですか?」

「うむ、良いものだ。平間殿は大船(おおぶね)に乗ったつもりで()れば良い」


 こうも自信ありげに隕鉄が言うのなら、平間も頷くしかない。

 

「まあ、大丈夫か」


 そう呟いた平間は、そのしばらく後に“全く大丈夫ではない事態”に陥ることになる。



――


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