5.夜会にて
――なるべく早く、戻ってきてくださいね。
ヒューリットの言葉が、何度も何度もリィネの脳裏を過る。
その願いに背くつもりなど全くなかったのに、こんな形で裏切ることになってしまった。本意ではないとヒューリットに伝えたいのに、リィネには今はもうその術さえ無い。
リィネは、実家から西の離宮に戻ったら、自分のとった勝手な行動をきちんと詫びて、今度は周囲の人達とも上手くやっていこうと思っていた。それに、ヒューリットとももう少しだけでいいから距離を縮めたい、彼の事をもっとよく知りたいと思い始めていた。
それなのに、まさか家族から突然、こんな仕打ちを受けようとは思ってもみなかった。
生まれ育った自分の部屋に閉じ込められ、脱走に利用できそうな魔導具は全て身の回りから排除されている。衣裳部屋にはドレスばかりで、身軽に動けそうな服は一着も無い。窓から外を見れば、あからさまに見張りがつけられていた。
家族はリィネの身を案じる余りにこんな手段に打って出たのだ。そう理解しようとしても、リィネはどうしてもその気持ちを受け入れることも、許すこともできなかった。
……いつか隙を見て、絶対にこの家を抜け出してやるわ。このまま、勝手に決められた相手と結婚などできるものですか!
そう決心し、じっとその時を待っていたリィネは、ある日部屋にやってきた父からある情報を伝えられた。
十六歳になった王太子殿下には、まだ婚約者がいない。これまで、派閥の対立が激しく、安易にどの派閥から王太子妃を迎えるということもできなかったのだが、ようやく政情が落ち着きを取り戻した今、ようやく王太子の結婚相手を決めようという動きが出てきた。
近く、王太子の誕生を祝う夜会が開催される。そこで、王太子と年齢の近い貴族令嬢を王宮に招いて、王太子妃候補を選定するのだという。
「お前の容姿なら、きっと王太子殿下のお目に留まる。期待しているぞ」
勝手なことをぬけぬけと言い放つ父親にリィネは猛反発し、またも親子喧嘩に発展してしまった。
「嫌よ。王太子妃? 冗談じゃないわ!」
「夜会への出席は王命でもあるのだぞ。我儘は許さん」
取り付く島もなく、父親はそう言い残して足音も粗くリィネの部屋を出て行く。
その後ろ姿がドアの向こうに消えるまで睨みつけていたリィネだったが、しかし、よくよく考えてみるとこれは好機だということに気付いた。
夜会に出席すれば、この屋敷を出られる上に、堂々と王宮へ行くことができる。うまくやれば、夜会の会場から抜け出して、西の離宮へ忍び込むことができるかも知れない。
例え、それが最後になるとしても、ヒューリットに一目会い、すぐに戻ってきてくれという彼の期待に添えなかったことを詫びたい。そして、魔法騎士を辞めることになったのは自分の意志ではなかったこと、本当はすぐに西の離宮に戻るつもりだったことを伝えたい。
一転、『王命』に折れた風を装ったリィネは、その日から夜会に向けて、着々と準備を進めていった。
リィネが夜会に出席する意志を見せたことで、家族との関係は改善されるかと思われた。だが、実はその後も、夜会までに家族とはひと悶着もふた悶着もあったのだった。
まず、夜会に着ていくドレスを選ぶ際、母がリィネの美しい胸元や肩を出すデザインのドレスを仕立てようとしたのだが、以前暗殺者から受けた傷痕が薄らと残っている為に断念せざるを得なかった。その傷痕を目にした母に、怪我はたいしたものではなかった、と言ったリィネの言葉が嘘だとばれ、父や兄まで部屋に乗り込んできて、またも大喧嘩に発展してしまった。
自分が勝手な行動を取った上に、実力不足で暗殺者に殺されかけたのに、まるで怪我の原因をヒューリットのせいにするような家族の言葉に頭に血が上り、リィネは夜会には出席しないとまで叫んだ。時間が経って冷静になり、それでは折角西の離宮へ忍び込むチャンスを失ってしまうと思い直したリィネは、不本意ながらも自分の発言を撤回したのだった。
しかし、夜会用の豪奢なドレスで会場を抜け出し、誰にも見咎められることなく西の離宮へ走るのは至難の業だ。夜会用のドレスは重く、夜会の会場となる大広間から西の離宮までは距離がある。
魔法騎士時代に得た体力を維持する為、リィネは侍女達の目を盗んでは身体を鍛え続けた。
そうして迎えた夜会の日、リィネはフォルシス伯爵家の馬車で王宮に向かった。
大広間はすでに多くの人で埋め尽くされていた。王太子の婚約者選定という夜会の趣旨は公にはされておらず、表向きは彼の十六回目の誕生祝いで、かつ先月誕生した現王の孫にあたるデュラン侯爵子息のお披露目の場とされている。
その為、国内のほぼ全ての貴族が顔を揃えているのではないかと思われるほどの人数が、この大広間に集結しているのだった。
会場の至る所に、真紅の制服を身に付けた魔法騎士が立っている。普段つけない勲章や煌びやかな装飾を身に付けているのは、彼らも貴族であり、出席者でもあるからだ。同時に、彼らは会場の警備も担っている。
その中には、リィナと同期の者や、見習い時代にさんざんリィナを生意気だと陰口を叩いていた魔法騎士もいた。彼らは目を丸くして、リィナを穴が空くほど見つめている。就任直後にあっさりと魔法騎士を辞め、貴族令嬢としてぬけぬけと夜会に出席している変わり身の早さに呆れているのだろうと思うと、リィネは悔しくて仕方がなかった。
彼らをライバルとしか認識したことのなかったリィネは、気付くはずもなかった。彼らが、リィネの愛らしさの中に気高さを感じさせる美しさに魅了され、彼女が自分と同期のリィネヴェリア・フォルシス伯爵令嬢だと気付かずに見惚れていただけだということを。
浴びせられる視線から逃れるように、リィネはすぐに壁際に避難した。
これだけの招待客、しかも王太子の誕生祝いと王女の第一子のお披露目となれば、ヒューリットもこの夜会に出席しているのではないかと、淡い期待を胸に会場を見回したリィネだったが、どこにも彼の姿を見つけることはできなかった。多方面に敵を作ってしまったヒューリットは、やはりこういう表舞台には遠慮して出て来ないのだろう、と溜息を吐く。
……やっぱり、隙を見て西の離宮へ行くしかないわね。
出席者が多い分、人に紛れて密かに行動することは可能だが、この会場の厳しい警備を突破して西の離宮へ向かうのは難しい。それほど、配置されている魔法騎士はリィネの想像よりもはるかに多かった。
……おや?
リィネの視界に、壁際に置かれた長椅子に腰を下ろし、浮かない顔をしている女性が映る。赤い髪を結い上げ、コルセットで締め付けないタイプのゆったりとした薄緑色の柔らかそうな生地のドレスを纏った、どこかで見たことのある女性だった。
「失礼いたします。ガーラント師団長夫人でいらっしゃいますか?」
リィネが近づいていって声を掛けると、女性は長椅子から腰を浮かして目を瞬かせた。
「ええ、そうですが」
「先日、西の離宮でお会いしました、リィネヴェリア・フォルシスと申します」
リィネが誰なのか気付いていない様子の師団長夫人にそう名乗ると、彼女は驚いたように目を見張った。
「まあ。あの時とはあまりに印象が違い過ぎて、どなたか分からず、失礼いたしました」
微笑む師団長夫人は、西の離宮で会った時よりも華やかだった。というより、以前会った時は貴族の夫人にしては化粧も薄く飾り気がなかったから、リィネの目には凡庸に映ったのだろう。今は、この華やかな場にいても不自然ではない程度に美しい。だが、リィネには彼女がどこか元気がなさそうに見えた。
「失礼ですが、もしや具合が悪いのですか?」
「……ええ。お分かりになります? 実は、こんなに大勢の方が出席する夜会は初めてで、人に酔ってしまったようなのです」
それだけではないのではないか、とリィネは眉根を寄せた。
ウィル自治区出身の平民だった彼女は、ガーラント師団長夫人となった今も、多くの貴族から邪険に扱われている。その上、身重だというのに、そんな彼女をこんな所に引っ張り出した挙句一人きりにして、夫は何をやっているのだ、とリィネは怒りに駆られた。
「もしや、お一人なのですか?」
「ええ。夫は任務に就いておりますので」
リィネが目を凝らして会場を見回してみると、確かに国王の傍らで鋭い目を周囲に光らせているアレックスの姿があった。
「お辛いのなら、ご自宅に戻られたほうがいいのではないでしょうか。大事なお身体でもありますし」
「……ええ。でもまだ、王太子殿下やデュラン侯爵夫人にもお祝いを述べていないのに、帰るなんてできません」
気丈に首を横に振るものの、師団長夫人はハンカチで口元を押えながら、苦しげにそう溜息を吐く。
……ああっ、もう!
リィネは正直、イラッとしていた。
こんな風に、辛いのにいじらしく我慢している姿を見ていると、胸がムカムカしてくる。大体、我慢することで、もしお腹の子に悪影響を及ぼすようなことになれば、アレックスは勿論、ヒューリットも悲しむことになるのに、と思うと、リィネは居ても立っても居られなくなった。
「少し、待っていてくださいね」
リィネは苛立ったように長椅子から立ち上がると、貴族令嬢にあるまじき勢いで人混みに突っ込んでいった。
傍にいる国王には目もくれず、ガーラント師団長の目の前に立ちはだかる。
「失礼いたします」
何事かと一斉に集まる周囲の視線を一身に浴びながら、リィネはアレックスの氷の様に冷ややかな視線を恐れるでも無く受け止めた。
「奥方様の体調が優れぬようで、お知らせにまいりました。」
「メウルが?」
リィネの視線を追うように妻の姿を目にしたアレックスは、眉間に深い皺を寄せた。
すぐにアレックスは国王に何か耳打ちし、リィネに短く礼を言うと、すぐに妻の元に駆け寄る。その手を取って立ち上がらせると、渋る彼女を説得するように話しかけながら、会場から姿を消した。
国王のすぐ近くまで寄っておきながら、そのまま何も言わずに姿を消すことはできない。リィネは先程の非礼を詫び、国王に型どおりの挨拶をした。先日、突然リィネが魔法騎士団を辞したことを耳にしている国王から、興味深げな質問が投げかけられる。
――辞職なんかしたくはなかったのに。どうして、家族が勝手に出した辞表を受理したりするのよ。国王陛下の権限で、撤回してくれないかしら。
言いたいことは山ほどあったが、リィネは辛うじてそれを飲み込み、「結婚前の花嫁修業」が理由だったと当たり障りなく答えた。自分の実家の事情を国王の前で暴露するような愚かな真似は、さすがに導火線の短いリィネだってしない。
「そうか。ヒューリットは、自分のせいではないかと気に病んでいたようだったが」
違うのなら良かった、と口元を綻ばせる国王を前に、リィネは唖然として二の句が継げなかった。まさか、自分の辞職をヒューリットがそんなふうに誤解し、気に病んでいるなんて思いもしなかったのだ。
こうなったら、どうしても西の離宮へ辿り着いて、誤解を解かなければ、とリィネは決心を固めた。
その後、リィネは話し掛けてきてはダンスに誘おうとする男性達を適当にあしらい、バルコニーに出る振りをして庭に出た。勿論、夜の闇に紛れて、この会場から離れる為だ。
すると、少し離れた場所で、馬車が来るのを待っているらしい二人が、何やら揉めているのが見えた。
「せめて、フィリア様にお祝いを申し上げたかったのに」
「それなら今度、我が家に招待すればいいだろう」
「でも、それじゃあ……」
「どうせ、今夜はゆっくり話も出来ないんだ。こんなことなら、お前を出席などさせなければよかった」
「何よ、それ」
何やら、雲行きが怪しくなっているガーラント師団長夫妻の様子に、リィネは慌てて声を掛けた。
「申し訳ありません、メウル様。私がでしゃばったばっかりに」
勿論、リィネは言葉とは裏腹に、余計なことをしたとは全く思っていなかった。あのまま師団長夫人が体調不良を我慢し続けることは、誰の為にもならないことは明らかだった。
「いいえ、とんでもありません。ありがとうございます」
師団長夫人は、顔を赤くしながら目を伏せる。それに笑みを浮かべて応えながら、何だ、放っておかれた腹いせに、夫にじゃれていただけか、とリィネは内心毒づいた。
そんなリィネに、アレックスが声を掛けてきた。
「リィネヴェリア嬢。申し訳ないが、妻が馬車に乗るまで付き添っていてくれないだろうか。私は任務中の為、あまり長く陛下のお側を離れる訳にはいかないのだ」
「ええ、私でお役に立てるのなら、喜んで」
笑顔を浮かべて頷きながら、リィネは長年ずっと思い続けていた相手の眼差しを正面から受け止めても、胸が高鳴らない自分に少し驚いていた。先程、目の前で夫婦喧嘩とも呼べないじゃれ合いを見せつけられて、若干冷めた気持ちになっていたからかも知れない。
「では、よろしく頼みます。メウル、屋敷に戻ったら、私の帰りなど待たずに先に休むのだぞ」
白く大きな手で妻の頬を包み込み、唇に軽く触れる程度の口づけを落とすと、アレックスは名残惜しそうに振り返りながら広間へと戻って行った。
「大層愛されておいでですのね」
羨望でも厭味でもなく、ただ素直な感想がリィネの口から滑り出ていた。
師団長夫人から何の反応も返ってこないので、もしや厭味だと捉えられたのではないかとリィネが慌てて顔を覗き込むと、彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。
「どうされました? そんなに具合が悪いんですの?」
「いえ。……どうにも、あの人のああいう不意打ちには、未だに慣れないものですから」
何だ、照れているだけか、とリィネは呆れて溜息が漏れそうになるのを必死で堪える。
と同時に、言い知れない苛立ちがリィネを襲う。
アレックスとその妻の熱愛ぶりを見せつけられる度、脳裏をヒューリットの顔が過ぎるのはどういうことなのか。
――彼女は私にとって、かけがえのない存在です。誰と結ばれていようが関係ありません。
そう怖いくらい真剣な表情で言い放ったヒューリットが、哀れで仕方が無かった。叶わない恋がどれだけ辛いものか、それを諦められずに縋り付いていることがどれだけ惨めか、リィネにはよく分かる。
「それより、ヒーリィは元気かしら」
師団長夫人の口から、あまりにタイミングよくその名が出たことに驚いて、リィネは目を見張った。
ヒューリットをそう愛称で呼ぶのは、師団長夫人しかいない。それもリィネには何故か腹立たしかった。
「……さあ。私も、もうひと月ほどお会いしていませんので」
「えっ……?」
師団長夫人の顔から笑みが消えた。リィネはそれを見て、彼女はリィネが魔法騎士を辞職したことを知らなかったのだと気付いた。
「うそ。どうして?」
あまりにショックだったのか、師団長夫人は貴族らしく取り繕っていた外面が剥がれ落ちてしまい、素の自分に戻っている。
「ああ、やだ、ごめんなさい。また余計なことを聞いてしまって」
師団長夫人が慌てて自分のした質問を取り消したのは、以前、リィネに個人的な質問をして、気まずくなったことを気にしているのだ。
「実家に顔を出したら、家族に勝手に辞表を出されていたのです」
「え?」
「おまけに、早々に結婚相手を決めるから、さっさと嫁ぐようにと言われまして」
国王の時とは違い、師団長夫人にフォルシス伯爵家の体面など気にする必要も無い。リィネが事実を簡潔に理由を説明すると、あんぐりと口を開けたまま聞いていた師団長夫人は、ワナワナと唇を震わせた。
「何よ、それ。酷い!」
「やはり、そうですよね?」
怒る師団長夫人とは逆に、リィネは段々と可笑しくなってきた。人間、不条理に晒され続けていると、仕舞いには笑わずにはいられなくなるのだろうか。
「笑いごとじゃないわ。もし、私に何かできることがあれば言ってちょうだい。勝手に魔法騎士を辞めさせるだなんて。女性で魔法騎士になるなんて、並大抵の努力じゃなかったでしょうに」
本気でリィネの為に怒ってくれている師団長夫人を見ていると、リィネは胸が熱くなるのを感じた。
魔法騎士になりたいというリィネの動機は、師団長夫人が知ったら驚くほど不純だった。けれど、その願望を叶える為に積み重ねたリィネの努力は本物だった。それを察して評価してくれたのは、彼女が初めてだった。彼女も、かつて特警隊という、女性には過酷な職業に就いていた。だからこそ、リィネの気持ちを理解してくれているのだろう。
その時、軽やかな蹄の音と車輪が鳴る音が聞こえてきて、リィネたちの前にガーラント伯爵家の家紋が彫られた馬車が停まる。
「ああ、ようやく迎えが来たのね。ありがとうございます、リィネヴェリア様。もし宜しければ、うちにお誘いしても構わないかしら。一度、ゆっくりお話してみたいのだけれど」
「ええ。是非」
リィネが、貴族の間でよくあるような社交辞令を返し、師団長夫人がそれを真に受けて嬉しそうに微笑む。
そうして、彼女が馬車に乗る為に、手を貸そうとする御者に視線を移した時だった。
「……あなたは」
師団長夫人の驚いた声と、無表情だった御者の顔に憑りつかれたような殺意が湧くのとが同時だった。
華やかな夜会に酔いしれる王宮に、不似合いな悲鳴が響き渡った。