4.休暇、帰省、そして
肉体的にも精神的にも疲弊しきった上に、空腹が更に追い打ちをかけ、別棟に向かうリィネの足取りは覚束ない。
「急がないと、第三師団の連中が来るぞ。情けない姿を見せたくない奴もいるんだろう?」
先を行くキースが振り向き、引き返して来ると、急かすようにリィネの右腕を引く。
何で、とリィネは唇を噛んだ。
……どうしてこの人は、こっちの心情を読み取ったかのように気を回してくれるのだろうか。
魔法騎士になろうと決めてから、周囲の男に敵愾心を燃やし続けてきたリィネは、ヒューリットやキースの優しさに戸惑うばかりだった。
リィネは、キースの制服の上着を羽織っている。リィネはさっきまで全く気付いていなかったのだが、最初に受けた攻撃で、シャツの胸の部分が焼き切れ、肌が露わになっていた。それを隠すために、彼はリィネに自分の上着を貸してくれたのだ。
その上着が意外に大きかったことで、リィネは細身で頼りなげな奴だと侮っていたキースが、自分より力の強い存在なのだという現実を突きつけられたような気がしていた。
キースは、リィネがこれまで見下してきた同期に、今の哀れな姿を見られたくないだろうと、自室に戻る許可をヒューリットから得てくれた。更に、まだ蒼白な顔で足元が覚束ないリィネを、別棟まで送り届けようとしてくれている。
「殿下をお一人にしていいのですか?」
素直ではないリィネは、ついそんな正論を吐いて、照れくさい気持ちを誤魔化そうとする。すると、キースは呆れたように深い溜息を吐いた。
「君は、あれを目にしても、殿下がどれだけ強いか分からなかったとでも言うのかい?」
「……いえ」
分からない訳がなかった。リィネが敵わなかった暗殺者を二人ほぼ同時に屠ってしまったヒューリットが、見た目からは想像もつかないほど強いということを嫌でも見せつけられてしまった。
本邸内の状況をリィネは見ていないが、五人がかりで駄目だったという暗殺者の言葉から推測するに、累々たる暗殺者達の死体が転がっているのは容易に想像できた。
リィネの腕を掴むキースの手に力が籠る。
「寧ろ、我々がいたら殿下の邪魔になる。だから、夜は本邸に近づいてはいけないと言っておいたはずだけど?」
「ちゃんとその理由を教えてもらっていたら、どんなことがあっても従っていました」
リィネの口から、ついそんな生意気な言葉が飛び出してしまう。情けない言い訳だ、本来ならその場で理由を確かめておかなかった自分が悪いと項垂れるリィネを、キースは叱るでもなく苦笑しただけだった。
「そうかい? 確かに、全てを話さなかったこちらも悪いけど、そうしていたところで君が素直に聞き入れたかどうか甚だ疑問だけどね」
そう言いながら、キースは別棟のドアを開けた。そこにはすでに明かりが灯っていて、下働きのドリーが眠そうな顔で鍋を火にかけているところだった。
「お帰りなさいませ。随分と早かったのですね」
「いや。俺はすぐに本邸に戻る。それより、リィネヴェリアに何か食べさせて、休ませてやってくれないか」
キースの後ろにリィネが立っているのに気付いたドリーの目が、ほぼ倍の大きさに見開かれた。
「……まあ、……まあっ! 御可哀想に、大変な目に遭われたのですね。さあ、こちらに掛けてください。リィネヴェリア様の分にと取っておいた夕食があります。スープも温めなおしますから、少し待っていてくださいね」
そうしてドリーがリィネを椅子に腰掛けさせ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている間に、いつの間にかキースの姿は消えていた。
一体、何がどうなっているのか知りたいと思っていたのに、リィネは腹が満たされるとすぐに眠気に襲われ、ドリーに付き添われて自室に戻ると、すぐに眠りに落ちてしまった。
目が覚めるとすでに日は高くなっていて、あの出来事は夢だったのではないかと、リィネはぼんやりする頭で考えた。けれど、何気なく胸元に添わせた指が裂けたシャツの感触を捉えた瞬間、リィネは慌てて飛び起きた。
鏡を覗き込み、シャツの裂け目から傷を改める。右肩の傷も、鎖骨と胸の間に走る傷も、赤い蚯蚓腫れのようになっていて、すでに傷口は塞がっていた。
すぐに桶に水を汲んできて、裂けて血で汚れたシャツと下着を脱ぎ、身体を拭って清潔なものに着替える。盥に予めとっておいた綺麗な水で顔を洗うと、乱れた髪も丁寧に梳いて編み込みなおした。
制服をきっちり着込めば、いつもと変わらない魔法騎士リィネヴェリア・フォルシスが出来上がる。
部屋を出れば、別棟にはすでに人の気配は無かった。リィネが急いで本邸に駆けつけると、庭の片隅に布に覆われた人間ほどの塊が六つ並べられていた。
「よう。具合はどうだ」
その傍らに、制服の上着を脱ぎ、シャツの腕を捲りあげたサムエルが立っていた。額に髪が汗で貼り付いていて、顔には疲れの色が浮かんでいた。
「もう平気です。……その、ご迷惑をおかけしました」
リィネが言い慣れない謝罪を無理矢理喉の奥からひねり出すと、サムエルは太い眉の片方を吊り上げた。
「ふぅん。殊勝なことも言えるんだな。ま、お前のせいで作戦がおじゃんになったんだから、反省して貰わんとこっちとしてもたまったもんじゃないが」
「……作戦?」
そう言えば、昨夜キースもそんなことを言っていたような気がする、とリィネが首を傾げると、サムエルは苛立ちを隠そうともせずに、目の前の塊を蹴りつけた。
「殿下は、意図的に逃げる奴らを追わなかった。その後を第三師団が追って、黒幕を突き止める為にな」
リィネは愕然とその場に立ち尽くした。自分が仕出かしてしまったことの重大さに、今頃になって気付いたのだ。
ヒューリットは、リィネの命を助ける為に、一度見逃した暗殺者の息の根を止めた。そのせいで、暗殺者を差し向けた黒幕に辿り着くことはできなくなってしまった。それはつまり、再度の暗殺計画を未然に防ぐ手立てを失ったことになる。
「俺たちの役割は、殿下のお邪魔をしないこと。そして、後片付けをすることだ」
暗殺者の骸を覆った布を踏み付けながら、サムエルが吐き捨てる。呆然としながらリィネがふと視線をやれば、キースが下働きのボブと共に割れた二階の窓ガラスを取り換えているところが目に入った。
「……まあ、こんな汚れ仕事をさせたくはねぇなって、敢えて黙っていた俺らにも責任はあるんだが」
ぽつりと呟いたサムエルの声にリィネが振り向くと、彼はうっとおしいものを追い払うかのように手を振った。
「殿下が、お前の具合を心配していたぞ。さっさといって、安心させて差し上げろ」
彼の顔が、大柄な暗殺者の骸六体を運んだ労働のせいとは違う理由で赤くなっているのを、リィネが気付くはずもなかった。
「怪我をしたそうだが、もういいのか?」
リィネが本邸の玄関ホールを入ると、ヒューリットと話していたベージュ色の髪の魔法騎士が振り返る。それが、第三師団で副師団長を務めるフレドリックという人物だということを、リィネは知っていた。何故なら、アレックスの一番近くで仕えるなら、最大のライバルになる人物に他ならないのだから。
「はい。大したことはございませんでしたので」
半分強がりでそう言い切ると、フレドリックは楽しそうに笑った。
「はは。頼もしいな。だが、君の父上や兄上は、大層心配していたぞ」
「……えっ」
フレドリックが何故そんなことを言ったのか、リィネには何となく察しがついた。
末っ子に妙に甘い父と兄は、元々リィネが魔法騎士になることに諸手を挙げて賛成してくれていた訳ではない。それどころか、魔法騎士になりたいというリィネの夢を、どうせすぐに諦めるだろうと思っていた節があり、本当に魔法騎士になることが決まった時にはかなり不服そうだった。そんな二人の事だから、きっと昨夜の事件を聞きつけて、魔法騎士団本部に乗り込んでいったに違いない。
「休暇をとって、家族に無事な姿を見せてくるといい。よろしいですよね、殿下」
柔和な顔に人好きのする笑みを浮かべてそう提案するフレドリックに、ヒューリットは一瞬、考え込むように沈黙した。
「リィネヴェリアがそうしたいのでしたら、引き留める理由はありません」
まるで、お前などいてもいなくても同じだと言わんばかりの、どこか突き放すようなヒューリットの冷たい声が、リィネの心を抉った。
確かにその通りなのだ。ヒューリットは、自分の身は自分で守れるほど強い。西の離宮に魔法騎士が配属されているのは、王が彼の存在を王族として認めているという体裁を取り繕う為だということは、今回の事でリィネにもよく分かった。
おまけに、リィネのせいでヒューリットの命を執拗に狙う黒幕を捕える手立てを失ったのだ。役立たずどころかとんだお邪魔虫だ、いっそいなくなってくれた方がマシだと思われても仕方が無い、とリィネは唇を噛んだ。
「……ですが、そう長い間は許可できませんよ」
「は……?」
「なるべく早く、戻ってきてくださいね」
そう言って微笑むヒューリットの目元が潤んでいるように見えて、リィネの心臓がドキッと跳ねた。
……な、……なな、な、何なのっ。
まるで、遠くに行ってしまう恋人との別れを惜しむかのようなヒューリットの表情と台詞に、リィネは顔が赤くなっていくのを感じ、慌てて敬礼をすると踵を返した。
去っていくリィネの後ろ姿を見送りながら、ヒューリットは浮かべている笑みを消し、小さく溜息を吐いた。
「……戻ってくることは、彼女の為にはならないのですがね」
「あのようなお言葉を掛けていただいて、彼女は嬉しかったと思いますよ。ああ見えて、きっと、自分のせいで殿下にご迷惑をお掛けしたと気に病んでいたでしょうから」
フレドリックにそう言われ、ヒューリットは小さく首を横に振る。
「気にする必要はないのですよ。元々、警護担当の魔法騎士に、手を出すななどと我儘を言っているのはこちらなのですから」
自分が多方面から命を狙われていることを、ヒューリットは自覚している。母の出自のせいで保守派から嫌われ、利用して裏切った革新派の恨みを買い、王太子の立場を脅かすと穏健派から警戒されている。更には、かつて身を置いていた反乱分子からも命を狙われる理由があった。
ヒューリットは、物心ついたときには反乱分子の組織内にいて、魔導兵器に魔力を補充する為の奴隷として扱われていた。成長すると、自ら戦う術を叩きこまれ、自分達以外の人間は全て悪だと洗脳されていた。
その世界が変わったのは、アレックスの妻、メウルに命を救われたからだった。当時、ウィル自治区の治安維持組織、特警隊の隊員だったメウルは、反乱分子の掃討作戦によって大怪我を負って死の淵にあったヒューリットを助けてくれた。その時、ヒューリットは決めたのだ。自分は、一度死んで生き返ったのだ。助けてくれたメウルを命を与えてくれた母と思い、この人の為に生きようと。そうして、特警隊員となったヒューリットは、反乱分子から裏切り者として命を狙われることになった。
ある日突然、メウルがアレックスによって突然王都へ連れていかれた時には、怒りと絶望で頭が真っ白になった。いっそ、その怒りに任せて特警隊も魔法騎士団も壊滅させて、メウルを取り戻そうとまで思った。
それを思いとどまったのは、その時特警隊本部に駐留していた革新派出身の魔法騎士から、先王の遺児の話を聞いたからだった。年齢や生まれ育った境遇からして、ヒューリットがその遺児である可能性が高いと聞かされた時、彼はそれを利用して王都へ行き、メウルを取り戻せるだけの権力を手に入れようと決心したのだった。
だが、『真紅の魔導師』と呼ばれる伝説の能力者と同じ異能を有しているというメウルは、ヒューリットが王都に辿り着いた時には、すでに穏健派の重鎮リーディア伯爵家の庇護下にあった。このまま革新派についていてもメウルの力にはなれない、それどころか敵になってしまうと判断したヒューリットは、革新派が隣国と裏取引をしているという情報を手土産に、穏健派へ鞍替えした。革新派から命を狙われるようになったのには、そんな理由があった。
どんなにヒューリットが現王に忠誠を誓おうとも、彼の母親が魔力を持たない平民だったという理由で、保守派からは王族とは認めないと反発を受けている。そして穏健派は、現王の手前一応王族と認めてくれてはいるが、ヒューリットがいつか王位を望むのではないかと神経を尖らせている。その中から、いっそ殺してしまえと実力行使に出る者がいてもおかしくはない。
別に、ヒューリット自身は誰がどんな理由で自分を消そうとしようが構わなかった。ただ、自分が王宮にいて現王を支持することで、己の父が犯した過ちから続くこの国の歪が少しでも解消されれば、それによってウィル自治区出身のメウルが貴族社会で少しでも生きやすくなる。そう信じて、ヒューリットはこの西の離宮で慎ましく暮らしているのだ。
だが、そんな自分のせいで警護にあたる魔法騎士が命を落とすようなことになれば、その魔法騎士の出身家から不満が出る。だから、暗殺者の襲撃には一切手を出さないよう、特に夜間は自分が住まう本邸に近づかないよう、ヒューリットは警備担当の魔法騎士に指示を出していた。
サムエルもキースも、当初は戸惑い、そんな訳にはいきませんと食い下がってきた。けれど、ヒューリットの実力を目の当たりにした彼らは、一転してヒューリットの望みを素直に聞き入れてくれるようになった。
だが、リィネヴェリアはなかなか頑固そうで、一筋縄ではいかないと警戒していた。それでも、サムエルやキースからきちんと説明を受けて、夜間の警備拒否についてはちゃんと理解してくれているものと思っていたのに、とヒューリットは指で疼くこめかみを押えた。
昨夜、久しぶりに暗殺者の襲撃があった。いつものように寝入った振りをして迎え撃ち、逃げる一人を予定通り逃がして、後は難なく息の根を止めた。だが、何気なく二階の窓から逃げる暗殺者の姿を確認しようと裏口付近を見下ろした時、リィネヴェリアが裏口の外で暗殺者と対峙しているのを見て、ヒューリットは心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
ヒューリットは、暗殺者の一人ぐらい、生きて捕えることができなかった訳ではない。ただ、大怪我を負ったリィネヴェリアを早急に治癒する為には、暗殺者を生きたまま捕えるなどという悠長なことをしている場合ではなかった。
……いや、彼女をあんな目に遭わせた者を許せなかったというのが正しいのかも知れない、とヒューリットは一人苦笑した。
「暗殺者の身元を調べ、黒幕が誰かを突き止めるよう出来る限りの努力はいたしますが……」
フレドリックが馬鹿正直に弱気な発言をするのを見て、ヒューリットは微笑む。
「お願いします。師団長にも、よろしくお伝えください」
どうせ、アレックスのことだ。ヒューリットのせいで当初の作戦を変更せざるを得なくなったことで、怒り狂っていることだろう。この人のいい副官が胃を悪くしなければいいが、と心配になるヒューリットだった。
翌日、久しぶりに実家のフォルシス伯爵家に帰ったリィネを待っていたのは、過去に見たことがないほど不機嫌な父と、青ざめて目に涙を浮かべている母と、怒りで顔を引きつらせている兄だった。
「怪我は? 大丈夫なの?」
母に両肩を掴まれ、リィネの右肩にピリッとした痛みが走る。傷自体は塞がったが、完全に痛みが引くにはもう少し治癒を継続するか、時間をおくより仕方が無い。
「たいしたことはないわ。それに、治癒していただいたから、もう大丈夫よ」
「リィネ」
突然、これまで聞いたことがないほど低い声で父に名を呼ばれ、リィネは嫌な予感に襲われながら振り向いた。
「なあに? お父様」
「もう二度と、西の離宮へ足を運ぶことは許さん」
リィネは目を見開き、怖い顔で脅そうとしている父親を笑い飛ばした。
「まあ、何を言っているの。これは魔法騎士団の人事なのだから、お父様が許すも許さないもないわ。私は魔法騎士として西の離宮に配属されているのだから……」
リィネの言葉を、途中で兄が遮った。
「もういい、リィネヴェリア。今朝、フォルシス伯爵家として、魔法騎士団にお前の辞表を提出してきた」
「……今、何て言ったの? お兄様」
あまりのことに愕然とするリィネに、兄は縋るような視線を向ける。
「もうこれ以上、父上や母上に心配をかけるのはやめてくれ」
「私はなりたくて魔法騎士になったのよ。お父様だってお兄様だって許してくれたじゃない。それなのに、私に黙って勝手にそんなことをするなんて酷いわ! 私がどんなに必死に努力して魔法騎士になったのか、知っているでしょう!?」
「もういい! もうこれ以上、そなたの我儘を捨て置く訳にはいかん」
父に落雷のように轟く声で一喝されて、リィネは凍り付いたように立ち尽くした。
「わしが、そなたの結婚相手を早急に決める。そなたは縁談がまとまるまで、淑女らしくなるよう己を磨いておれ」
リィネは、そんなふうに有無を言わせない口調で、父に命令されたことなどこれまで一度もなかった。
「そんな。嫌よ! 私は戻らなきゃ……」
ヒューリットの微笑みが脳裏に浮かび、首を横に振って父に抗うリィネに、母が縋り付いてくる。
「リィネ。お願いだから、そんな我儘を言わないで」
「我儘? これが我儘なの? いきなり勝手に魔法騎士を辞めさせるような横暴な真似をしておいて、私が我儘ですって?」
「いい加減にしろ、リィネ。もう、お前は西の離宮へは戻れない。辞表は受理された」
兄の言葉に、リィネは目の前が真っ暗になった。