2.思ってもみない客
「殿下のお部屋はここ。後は基本的に空き部屋で、来客があればどれかを使ってもらうことになるけれど、そんなことはまず無いだろうね」
廊下に出るなり、キースは本邸内の案内を始めた。
「ほら、一階に降りるよ」
階段を降りかけ、まだ呆然とヒューリットの部屋の前に立ち尽くしているリィネを振り返って、キースは苦笑する。さっきまで自信満々で、規律違反だとばかりに自分達の行いを責めていたリィネが、今はまるで迷子のような顔をしているのが可笑しくて仕方が無いのだった。
「……何なんですか、一体」
リィネはまだ、さっきヒューリットから言われたことが信じられなかった。
西の離宮を警備する為に配属されてきた魔法騎士に、好きにしろだなんて信じられない。しかも、その言葉通り、先に配属された魔法騎士達が、お言葉に甘えて好きにしているなど有り得ないことだ。
呆然自失から覚め、ありありと軽蔑の表情を浮かべたリィネの目の前で、キースはしれっと言い放つ。
「だから言ったよね? 俺達は職務を放棄した訳でも、サボっている訳でもないって」
「だからと言って、殿下のお言葉を鵜呑みにして、好き勝手していいという訳ではないでしょう!」
先に階段を下りていくキースの背に、リィネは怒りの籠った非難の言葉をぶつけた。その語気の粗さに、キースの顔にうんざりした表情が浮かんだ。
「あのね。何も知らない癖に、生意気なことばかり言うんじゃないよ。真面目なのはいいけれど、ここにはここの流儀っていうものがあるんだから」
「何が流儀ですか!」
リィネは、腹の底から怒りが沸々と湧いてくるのを、先輩魔法騎士であるキースに対して隠そうともしなかった。
これまで、リィネは魔法騎士になる為に、あらゆる努力をしてきた。腕力や体力で勝る男共がサボっている間も、非力な自分がどうやったら勝てるかと日々研鑽を怠らなかった。元々器用で何でも卒なくこなすリィネだったが、それに加えて人一倍の努力を重ねてきたからこそ、同期の中でも指折りの成績を修めてこられたのだ。
それなのに、ようやく魔法騎士になって初めての配属先で、働かずに好きにしてくれと言われてしまったリィネは、相当な衝撃を受けた。挙句、その言葉に従って行動する先輩に、何も知らないなどとコケにされては、リィネのプライドが許さない。
それに、仮にヒューリットの言葉に従い、この先輩魔法騎士達と同じように過ごしたとして、もしその実態が外部に漏れたらどうなるか。職務規律違反として罰せられ、将来の栄転は絶望的。それどころか、魔法騎士の称号を剥奪されてしまうかも知れない。
……冗談じゃないわ。私はガーラント師団長のお傍にお仕えするまでは、失態を犯すいかないのよ!
「殿下は、お好きなように、とおっしゃっていましたよね? だったら、私は私の好きなようにやらせていただきます!」
リィネがきっぱりとそう言い切ると、目を見開いて大きく息を吸い込んだキースは、長い溜息の後、ぽそりと呟いた。
「……ふーん。じゃあ、勝手にすれば?」
突き放すようなことを言っても、元々人がいいキースはリィネを放置することはなく、この西の離宮での生活についてあれこれ説明をしてくれる。別棟で共に過ごす使用人たちの紹介から、リィネが使うことになる部屋や生活における暗黙のルール、更に任務における注意事項にも話は及んだ。
「殿下が住まわれている本邸の警備だけど、来客等外部の人間がいる時以外はしなくてもいい。寧ろ、夜間などは別棟にある詰所か自室で過ごし、絶対に本邸へは近づかないこと」
「何故ですか?」
「俺達がいると、邪魔だからだよ」
それはどういう意味だろうか、とリィネは首を捻る。けれど、すぐにその言外の意味を察すると、顔に力を入れて、無表情を装った。
ヒューリットも男盛りの年齢だ。例え実質王位継承権を放棄した日陰の身であっても、彼の寵愛を得たいという女性は掃いて捨てるほどいるだろう。
こんなうらぶれた離宮まで忍んでくるなんてご苦労なことだとは思うが、さっき見たヒューリットの魅力的な深い蒼の瞳に夢中になってしまう女性の気持ちも分からなくもないリィネだった。
「それに、殿下はお一人で何でもできる方だ。本当なら、魔法騎士の警備なんて必要ないんだろうけど、王族に警備を付けないなんてできない。そこは殿下もこちらの事情を汲み取って、公務で出掛ける時には誰かを一緒に連れていってくださる」
つまり、表向きに、魔法騎士はちゃんと仕事をしていますよ、というアピールの為だけに同行させるというのだ。
勿論、リィネはそれだけの存在に甘んじるつもりはない。
別棟にある詰所の並びに開いていた一室を自室として使えるよう素早く整えると、早速本邸へと向かう。
本邸では、朝来た時とは違い、先ほどテーブルを囲んでいた下働きの男女が働いていた。夫婦だというこの二人は、主に本邸の掃除や洗濯等をしているという。
それにしても、殿下と呼ばれる立場のであるヒューリットが侍女もつけずに、下働きに身の回りの世話をさせていることに、リィネは驚きを隠せなかった。実家の伯爵家に帰れば、侍女数人を侍らせるリィネの方がよほど使用人達に傅かれ、贅沢な暮らしをしているといえる。
それに、さほど大きな屋敷ではないとはいえ、この本邸をたった二人の下働きで管理するなんてどう考えても不可能。事実、庭は荒れるに任せていて、建物の傷んだ箇所の修繕もお粗末なことこの上ない。
その疑問をリィネが口にすると、玄関ホールの床にモップをかけていた下働きのドリーが、額の汗を拭いながら顔に皺を寄せて笑った。
「殿下は、ご自分の身の周りのことは全てご自分でなされますので、これ以上人を増やす必要はないというお考えのようです。それに、使われていないお部屋がほとんどですしね。訪ねて来るお客様もいませんし、殿下もほとんどご自分のお部屋から出でこられませんから、朝のうちに急いで掃除を済ませておかなければならないという訳でもありませんし」
確かに、王宮でも一般的な貴族の屋敷でも、下働きは主が目覚めて活動を始める前から掃除等に取り掛かっているものだ。ここではその必要がないので、この下働き夫婦も朝から酒を呷る魔法騎士達に付き合って、ゆっくりと朝食を楽しむ時間があるのだ。
「でも、庭まで手が回っていないじゃないの」
荒れ果てた庭を指さし、リィネが事実を指摘すると、ドリーは悪びれる様子も無く、また間の抜けた笑顔を浮かべながら答えた。
「そうでございますね。ですが、殿下が庭まで手を入れる必要はないとおっしゃいますので」
「……は?」
何故、この西の離宮に勤める者は、ヒューリットに言われるがまま、しなくてもいいと言われたことをやらずにいるのか。リィネにはその思考が全く理解できなかった。
もしかしたら、この西の離宮にいる人達は、保守派貴族のリィネ以上に、ヒューリットを王族として見ていないのかも知れない。いや、リィネが自分で思っている以上に、王族であるという彼の身分に囚われ過ぎているのかも知れない。
いや、だとしても、リィネは「好きにしていい」というヒューリットの言葉に唯々諾々と従う気にはなれなかった。
リィネは、キースに一通り案内された本邸の周辺を、今度は一人で歩く。どこに何があるか、周囲に気を配りながら歩いてみると、改めてこの離宮の異様さが目についた。
下働き夫婦の努力で、物の少ない本邸の中はそれなりに清潔感が保たれてはいたが、庭は酷い有様だった。特に、本邸の裏は人の背丈ほどの草が生い茂り、それは遠くに見える王宮の中にある小さな森までずっと続いていた。
やはり、殿下は冷遇されているのだろうか、とリィネは手にした棒で雑草の首を刎ねながら思った。
ヒューリットは、母親の身分や生まれ育ちが良くないとはいえ、前王の子だ。現体制に不満を持つ勢力を取り込み、王位継承権を主張することもできる。だが、ヒューリットは現王に忠誠を誓い、極力表舞台に出ないよう慎ましく暮らしている。
そんなヒューリットに温情をかけ、現王は彼を王族として迎えたというのが、リィネがこれまで持っていた認識だった。けれど、現実はそう単純には割り切れない事情があるのかも知れない。
現王とは違い、後継者である王太子は、さほどカリスマ性がある訳でもない、凡庸な人物だと専らの噂だ。そう聞いていたからこそ、今朝会ったヒューリットの容姿と、にこやかでありながら凛として人を魅了してしまう彼の持つ魅力に、何やら薄ら寒さを感じたリィネだった。
「言ったでしょう? そんなことをする必要はないと」
本邸の周囲を巡回する途中、リィネがヒューリットにそう声を掛けられたのは、西の離宮に配属されて三日目のことだった。
夜間は本邸に近づくなというのは具体的な指示の為、リィネもそれに反する行動を取る訳にはいかないと諦めることにした。だが、昼間に本邸周囲を警戒することは禁止されていない。好きなように過ごせと言われたのだから、自主的に動いて何が悪いというのだろう、とリィネは開き直っていた。
「私の好きなようにさせていただいております」
リィネは率直に答えたつもりなのだが、つい本音が混じった生意気な口調になってしまった。
これが本来の職務だ、私は間違っていない、と言わんばかりの口調に、ヒューリットは苦笑する。
「そう。無理はしないようにしてくださいね」
まるで、無能な癖に張り切る部下を宥めるようなその口調に、リィネは思わずカチンときた。
「殿下。何故、殿下は私に、……いえ、私達に、本来果たすべき職務をさせまいとなされているのでしょうか」
許されることではないが、リィネはヒューリットに突っかかるようにそう訊ねた。
無礼だとは思わなかった。これは、確認しておくべき重要なことで、ヒューリットには納得のいく説明をして貰わなければならない。そして、そう思う自分は正しいと、リィネは信じて疑わなかった。
睨むように見つめるリィネの視線を受け止めて、ヒューリットは困ったように眉を下げた。
「そう。そんな風に受け止められているとは思いませんでした」
「それこそ心外です。殿下は、まるで私達を信用しておられない。無能な者になど期待していないとおっしゃっているように、私は捉えました」
リィネが自分の思ったことをはっきり伝えると、目を丸くしたヒューリットは、懐かしいものを見るように目を細めた。
「……あなたを見ていると、ある人を思い出します」
その表情や、慈愛に満ちた目の輝きに、リィネはドキッとした。
その眼差しが、自分に向けられたものではなく、自分を見て思い出された人物に対する愛情に満ちているのだと分かっていても、冷静でいられなくなるほど胸が高鳴る。
「だからこそ心配なのですよ。行動するのなら、単独ではなく三人で協力してくださいね」
そう言い残して、ヒューリットは本邸の中へ戻っていった。
はぐらかされ、訊いたことに答えて貰えなかったとリィネが気付いて地団太を踏んだのは、それからしばらく経ってからのことだった。
それからも、リィネは単独で本邸内の巡回を続けた。
ヒューリットに、三人で協力してと言われた以上、サムエルやキースにも協力して貰うべきかとも思った。だが、彼らが素直にリィネの言葉に耳を傾けてくれるとは思えなかった。どうせ、またお決まりの、『殿下が好きにしろとおっしゃった、しなくてもいいとおっしゃっていた』という言葉が返ってくるに違いない。
大体、リィネの提案に乗って真面目に仕事をするような者達であるならば、リィネが配属される前からとっくにそうしているだろう。事実、リィネが一人、本来の任務を果たそうとしている姿を目にしているにも関わらず、サムエルもキースも見て見ぬふりをしている。
リィネは何も、好きで雑草だらけの本邸周辺をウロウロしている訳ではない。こうやって自分一人でも仕事をしていますという態度を示しておかないと、いずれこの異常事態が発覚した時、他の二人と同様に罰せられるかも知れない。そういう事態になることだけは御免被りたかった。
ならば、先輩後輩など関係なく、後の二人の尻を叩いて仕事をさせればいいのだが、そんな無駄な労力を使おうという気力がなかった。
これが、もしアレックス率いる第三師団でのことなら、リィネはどんなに他人から疎まれてでも、どんな事でもしてアレックスの役に立とうとするだろう。けれど、こんな打ち捨てられたような寂れた離宮で、警護対象のヒューリットに望まれてもいないのに、そこまで頑張る意欲が湧かないというのがリィネの本音だった。
そんなある日、本邸に客人が来るので、お迎えする準備と当日の警護をするようヒューリットから命じられた。こんなことは初めてだ、と何度も言い交わしながら、サムエルとキースは嬉々としてシャツの腕を捲り、魔導剣の衝撃派で小道の脇に生い茂る雑草を薙ぎ払っていく。
さすがに、退屈で堪らなかったんだろうな、と妙に張り切る先輩魔法騎士達に侮蔑の視線を送りながら、リィネは庭に散乱していた窓ガラスの破片を拾い集めた。
玄関ホールの奥にある食堂の隣にある客間に、仕舞い込まれていた家具を引っ張り出してきて配置し、それらを磨き上げ、清潔なテーブルクロスをかけて花を飾り、何とか体裁を整える。それから調理場で魔法騎士の制服の上着を脱いでエプロンを掛け、シャツの腕を捲り上げて焼き菓子の生地を煉る。調理人の指示通り、あれやこれやと動き回って、汗まみれ粉塗れになる。
……なぜ、この私が侍女みたいなことをしなければならないのよ。だから下働き二人では仕事が回らないと言ったじゃない。侍女を配置して貰えばいいのよ、侍女を!
不満たらたらなリィネだったが、本来器用な彼女は的確に自分がやらなければならないことを次々にこなしていく。
来客を迎える準備が整うと、リィネは別棟の自室に飛んで帰って身支度を整える。粉と汗にまみれたシャツとズボンを着替え、乱れた髪を整え、はげかけた化粧を直して、制服の上着をキッチリと着込んだ。鏡を覗きこんで完璧なのを確認して部屋を出る。
別棟の入り口から程近いところにあるダイニングテーブルの傍まで来ると、サムエルとキースが汗だくの格好ままへばっていた。
「早くしないと、お客様が到着してしまいますよ」
尻を叩くようにそう声を掛けると、リィネは一足先に本邸へ戻る。
本邸の玄関の前まで来た時だった。すっきりと見通しの良くなった小道の向こうから、歩いてくる人影が見えたのは。
……えっ。
リィネは、思わず目を疑った。
これはもしかして、自分の思いが強すぎて、幻を見ているのかも知れない。その場で目を擦ったり頬を抓ったりしたい衝動を、リィネは必死で抑えた。
けれど、それは夢でも幻でもなく、間違いなくリィネが長年想い続けていたアレックス・ガーラントその人だった。
リィネは、ヒューリットを訪ねて来る客人というのが誰なのか、はっきりとは知らされていなかった。ただ、彼の旧知の人物で、とても大切な人だから、贅を尽くす必要はないけれど丁重にもてなしたいと言われていた。
だから、もしかしたらその人は、以前リィネを見て懐かしそうに思いを馳せていた人物ではないだろうか、とは思っていた。
……まさかその人が、ガーラント師団長の奥方だなんて。
癖のある赤毛に、冴えない緑色の瞳の、ややふっくらとした女性。顔立ちも凡庸で、お世辞にも美しいとは言えない。それなのに、アレックスは普段氷のように無表情な顔に幸せそうな笑みを浮かべて、まるで彼女がこの世で最も大切な宝物であるかのように手を取り、身を屈めて何かを囁いている。
「もうっ。またそんなことを言って」
奥方が頬を膨らませ、それを見て声を上げて笑うアレックス。
まるで、魔導銃で胸を撃ち抜かれたかのような衝撃がリィネを襲った。それは、十歳の時、アレックスに命を救われ恋に落ちた時の衝撃とは比べものにならないほど痛くて、辛く悲しいものだった。
「やあ。よく来てくれましたね、メウル」
幸せそうな笑みを浮かべて玄関を出て客人を出迎えたヒューリットは、その隣に立つアレックスを見てあからさまに表情から笑みを消した。
「あなたまで来るとは聞いていませんでしたが」
「これは失礼いたしました、殿下。しかし、大事な身である妻に何かあってはいけませんので」
「……そうなのですか? メウル」
目を丸くしたヒューリットに、頬をほんのりとピンクに染めたメウルが頷く。
「それを、ヒーリィに伝えたくて来たの」
ヒューリットの表情に、満面の笑みが浮かぶ。
「そうだったんですか。さあ、入ってください。ゆっくり話ができるなんて、いつ以来でしょうか」
嬉しそうにそう客人たちを招き入れるヒューリットの顔が、まるで泣き顔のように見えるのは自分の気のせいだろうか、とリィネは思った。
失恋の傷に塩を塗り込まれるような場面を見せつけられて、自分が辛いからこそ、同じ立場にいるヒューリットも笑顔を装ってはいるものの、本当は同じように辛いはずだ。そう思っているから、そういう風に見えたのかもしれない。
やっと着替えて別棟から駆け付けてくるサムエルとキースに表の警備を任せると、リィネは邸内の警備及び給仕をする為に、先にサロンへ入った主と客人を追いかけた。