1.西の離宮で
……何よ。これ。嘘でしょ?
魔法騎士の任命式に続く辞令交付式の最中、魔法騎士リィネヴェリア・フォルシスは怒りに震えていた。
真新しい魔法騎士の真紅の制服は、彼女のしなやかで丸みを帯びた体の線に合わせてあつらえられていた。身長は女性としてもあまり高い方ではないが、詰襟から覗く細い首はスラリと長く、小さな丸顔に意志の強そうな黒い瞳がアーモンド形の目の中で生き生きと光っている。伸ばせば背の中程まであるサラリと長い栗色の髪を二つに分けて編み込んで、邪魔にならないように後頭部で纏めていた。
周囲にいる同期の男性達が、怒りに震える彼女を刺激してとばっちりを食わないように距離を置いているのだが、自分の感情に囚われている彼女はそんなことに気付くはずもなかった。いや、元々冷静であっても、そんな周囲の反応にいちいち気を配るような性格ではないのだが。
……よりにもよって、配属先が西の離宮だなんて。
王立学院を卒業後、魔法騎士見習いを経て、ようやく魔法騎士になれたリィネの配属先は、王宮の一角にある西の離宮だった。つい最近まで、誰も利用するもののいない寂れた場所だったその離宮に魔法騎士が配属されるようになったのは、そこにヒューリットという名の王族が住まうようになったからだった。
だが、そのヒューリットなる王族は少々どころではないほどの訳あり人物で、ただでさえ希望していた配属先ではない、という不満を抱いているリィネを更に怒り狂わせているのだった。
三十年近く前、この国、マジカラント王国を内戦状態寸前にまで追い込んだきっかけとなった、獅子門前広場事件。その事件の遠因として挙げられるのは、前王による魔力を持つ者と持たない者を隔てる政策だった。そして、国がその政策を推し進めることになった原因、それはヒューリットの両親にあった。
ヒューリットの父である前王は、魔力を持たない一介の侍女と恋に落ちた。だが、その恋は許されるものではなかった。自らの意志か、それとも誰かの策略か、その侍女、つまりヒューリットの母は王宮から突如姿を消した。裏切られたと思い込んだ前王は次第に心を病み、自分を裏切った女と同じ魔力を持たない者を迫害する政策を推し進めることとなった。
やがて、獅子門前広場事件から内乱へと発展するのを止めたのは、前王を廃して王座に就いた現王と、現王を支持する貴族達だった。けれど、それから長い年月が過ぎ去っても、未だにこの国では、魔力を持つ者と持たない者が王都の壁に隔てられて暮らしている。
王都の外、ウィル自治区で生まれ育ったヒューリットは、昨年、前王の子であると認められて王宮に迎えられた。彼は現王に忠誠を誓い、西の離宮で生活をしている。
ヒューリットは、かつては反体制の一員として破壊活動にも手を染めていた、という黒い噂もある人物だったが、王族として認められた以上、その身を警護する必要がある。その為に、王宮内にある王族たちの住まいと同様、西の離宮にも魔法騎士が配属されていた。但し、ごく僅かな人数であったが。
……よりにもよって。
これほど納得できない人事があるだろうか。リィネは、拳と共に配属先が書かれた辞令を震えるほど握り締めた。
リィネの生家フォルシス伯爵家は、建国以来続く古い家柄で、当然のごとく保守派だった。保守派とは、血統を重視し、魔力を持つ者が優れているという価値観を持つ貴族の派閥のことである。だから、例え父親が前王とはいえ、生母が魔力も持たない一介の侍女だったヒューリットなど、王族として認めたくないというのがリィネの本音だ。
それなのに、リィネがよりにもよってヒューリットを警護しなければならないとは、何という皮肉だろう。……いや、これは誰かの嫌がらせに違いない、とリィネは察していた。
自分より明らかに成績が悪く、剣の腕も魔法力も劣る同期達が、華々しい表舞台である各師団へと振り分けられているというのに、なぜ自分はその枠から漏れ、離宮の警護などという、二流三流騎士が配属されるようなところへ配置されなければならなかったのか。
……妬みか。女の身でありながら、王立学院の成績も、騎士団の採用試験も十本の指に入るほどの成績で、かつ見習い期間でも屈強な同期を寄せ付けない実力を発揮してきた私に対する嫉妬か。
そう思えば、少しだけ溜飲が下がる。けれど、そうしたところで、理不尽な人事が修正されるわけもなく、リィネは大きな不満を抱えながらも、下された命令に従うしかなかった。
マジカラントでは、女性の魔法騎士は極めて少ない。過去に数人前例があるだけで、現在、女性の現役魔法騎士はリィネただ一人だ。
……ふん、実力のない者が第三師団に配属されたって、あの御方のお役になんか立てるはずがないのに。
初出勤の朝、晴れがましさの中に緊張感を含んだ表情で、王宮にある騎士団本部から第三師団長の執務室へ挨拶に向かう同期の背中を見つめ、いや、睨みながら、リィネは唇を噛みしめる。
その強烈な視線を背中で感じたのか、振り向いた同期の魔法騎士はぎょっとした表情を浮かべると、何事かと後ろを振り返ろうとする仲間の肩を抱くようにして、そそくさと廊下の角を曲がった。
リィネが、貴族令嬢のドレスを脱いで、魔法騎士の世界に飛び込むきっかけとなった理由。それは、何と初恋だった。
当時、まだリィネは十歳だった。母や兄弟と連れ立って親類の貴族家へ出掛けた帰り道、魔法騎士団の追跡から逃げる反乱分子と、それを追ってきた魔法騎士との戦闘に巻き込まれたのは。
たった一人で、いとも簡単に反乱分子を倒していく、白銀の髪の魔法騎士。まだ少年らしい体躯ながら、しなやかな動きのなかに閃くような力強さがあり、自分より一回りも二回りも大きい相手を次々に屠っていく。
卑怯にも、リィネを人質に取ってその場から逃走しようとする反乱分子の男を、目にも止まらぬ速さで構えた魔導銃で、あっという間に仕留めてしまった。その時、その鋭い眼光に、リィネの心も同時に撃ち抜かれてしまったのだった。
その衝撃から我に返ると、すぐさまリィネは行動を開始した。自宅に戻るやいなや、早速父に白銀の髪の騎士の身元を割り出してもらったのだ。
アレックス・ガーラント。ガーラント伯爵家第三子。白銀の悪魔と恐れられている、魔法騎士団最強かつ最凶の男。
彼の年齢ならすでに婚約者がいるか、結婚しているだろうと思っていたのに、意外にも未婚で、かつ決まった縁談はないという。これ幸いと、末娘の特権をフル活用して父親にアレックスとの婚約をねだった。
ところが、その縁談は先方から丁寧にお断りされてしまった。どうやら、難点の多い性格ながら、魔法騎士団でも比類なき実力を持っているアレックスには、すでに数多くの縁談が押し寄せているらしい。が、何故かその縁談を、本人が全て断っているというのだ。
けれど、リィネは諦めきれなかった。そして、リィネは普通の貴族令嬢なら考えも及ばない、考え付いても実行しないであろう方向へ突き進んだ。
――縁談が駄目なら、魔法騎士になって、あの御方の側にお仕えするまでだわ!
そうして、血の滲むような努力を重ね、両親や兄弟の反対を押し切り、変わり者令嬢のレッテルを貼られながら、ただアレックスの傍にいたいという願望を果たす為に、リィネは死に物狂いで頑張った。
体格にこそ恵まれなかったものの、元々活発で、生来の素質もあったのだろう。リィネは同期の男性を押しのけ、優秀な成績で無事魔法騎士となることができた。
だが、リィネのそもそもの目的だったアレックスは、『真紅の魔導師』と同じ異能を持つという、ウィル自治区出身の平民と電撃結婚してしまった。それはもう、半年以上も前のことだ。
あまりに衝撃的な初恋の結末に、さすがのリィネもそれを知った夜は一晩中泣き明かした。けれど、例え恋が実らなかったとしても、命の恩人であるアレックスの傍でお役に立ちたいという思いは消えなかった。
いや、決して美しいとは言えないと噂の奥方から、あわよくばアレックスを奪ってやろうとさえ思っていた。だから、成績優秀者は希望通りの配属先に配置されるという話を信じて、女性らしい幸せや楽しみを捨てて、死に物狂いで努力し続けてきたというのに。
……私が女だからって、こんな扱い、許せないわ!
西の離宮へと伸びる緑豊かな小道を歩きながら、真新しいブーツの爪先で小石を蹴っ飛ばす。
今回、西の離宮に配属される新人はリィネ一人なので、誰もそんな彼女の無作法を見ていない。それをいいことに、血色のいい頬を膨らませ、込み上げてくるがままにブツブツと不満を垂れ流す。
確かに、過去、女性で魔法騎士となった人物達も、後宮の警護等、反乱分子との戦いの最前線に出ることのないよう、配慮された人事がなされていた。
しかし、リィネはこれまでの女性魔法騎士とは違い、男性魔法騎士と比べても遜色ないどころか、何もかも秀でているのだ。女性だからなるべく危険のない、体力的にも精神的にも負担の無い人事が行われたとするには、余りに不自然だった。
……全く。一体、誰の策略よ。
リィネには、思い当たる節が多過ぎた。
魔法学院時代に馬鹿にしてきた連中の中に、親が魔法騎士団に所属している者や公安省に勤めている者が幾人かいたこと。騎士見習い時代、訓練時に先輩騎士を何人も打ち負かしたこと。魔導銃の射撃訓練で、教官よりいい成績を出して、調子に乗ってその自慢話を吹聴したこと……。
けれどリィネは、自分にも非があったなどと反省して、泣き寝入りするような性格ではなかった。
こんな陰湿な仕返しするなんて、誇り高き魔法騎士団も堕ちたものね。女の私に負けて腹が立つのなら、実力で見返せばいいのよ。
そういう性格だから損をしていることに、気付くはずもないリィネだった。
あまり丁寧に手入れがされていない小道を進むと、木立の向こうに建物が見えてくる。王族が住まうには、あまりに質素なその邸宅に、リィネは唖然として足を止めた。
西の離宮は、代々、政治の表舞台から排除された王族が、幽閉されて暮らす場所となっていた。直近の住人は、もう二十年以上も前に亡くなった前王……ヒューリットの父親だった人物と、正妻である元王妃と、その嫡子。
前王が亡くなった後、元王妃は王宮を出て、生家であるガーラント伯爵家に戻った。嫡子ユーリ殿下は、現在は王宮内にある魔法科学研究所の一室に移り住み、一研究者と変わらない暮らしをしている。
本邸の一階の窓まで届こうかというほど伸びた雑草は、所々踏み荒らされたように倒れている。白い外壁は欠け、塗装は剥げ、木製の玄関扉は煤けたように変色していた。
ジャリ、とリィネのブーツの底が何かを踏み付る。慌てて足を退けると、割れたガラスの破片が地面に散乱していた。さすがに修繕されたのか、どこを見回してもガラスが割れたままになっている窓はなかったが。
……それにしても。
朝早いとはいっても、もうそろそろ通常の勤務が始まる時間帯だ。それなのに、建物内に人の気配がないどころか、玄関扉の前に警備の姿もないとはどういうことだろう。
西の離宮には、主である王族が住まう本邸の横に、警備に当たる魔法騎士の詰所と、使用人が寝起きする部屋のある別棟があると聞いていた。
突然、本邸に乗り込んで、主であるヒューリットに挨拶をするという訳にはいかない。先に配属されている先輩魔法騎士にまず挨拶をして、ヒューリットへの挨拶に同行してもらうのが順序というものだ。
リィネがその別棟に足を向けると、中から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
嫌な予感に襲われながらドアを叩くと、ノックに応える声を待たずにリィネはドアを開けた。
「……え?」
「誰? この人」
ドアを入ったところにある大きめのテーブルを囲んで、五人の男女が朝っぱらから酒を酌み交わしている。格好から推測するに、下働きの男女に調理人、それから、白いシャツを着た二人の男。
その二人の椅子の背には、真紅の制服が掛けられていた。よく見れば、穿いているズボンの色もリィネと同じ真紅だ。
「……ああ。そういや、今日だったかな。新人が入るのは」
気まずそうに顔を顰めた髭面の男は、目の前のコップを煽ると、億劫そうにボサボサの頭を掻いた。眠そうに半分閉じた目と、上手く回らない口調からして、この時間からかなりの量を飲んでいることは、一目見ただけでリィネにも容易に推測できた。
……これは一体、どういうこと?
呆然としたのは一瞬。すぐにリィネは状況を把握した。
この西の離宮に配属されている二人の先輩魔法騎士は、職務を放棄して朝から酒を飲んでいる。人事に不満だなんて暢気なことを言っている場合ではない。自分はとんでもない所へ配属されてしまったのではないか、とリィネはその場で頭を抱えたい衝動を必死で抑えた。
「殿下へ紹介しないとな。……おっと」
立ち上がろうとした髭面の魔法騎士は、よろめいてテーブルに手を着き、酒臭い息を吐き出した。
「いい。俺が代わりに行こう」
そう言って立ち上がったのは、もう一人の魔法騎士だった。こちらはやや酒の臭いがするものの、顔色にも口調にもあまり酔いを感じさせない。細面でどこか少し気が弱そうな、リィネが魔法学院時代や見習い時代に散々馬鹿にしてきた同期が五年歳をとったらこうなるだろう、という感じの男だった。
彼は、リィネの背を押すように別棟の外へ連れ出した後で、慌てて椅子の背に掛けてあった制服の上着を取りに戻る。リィネの予想通り、うっかり者であまり頭の良くない男のようだ。
……堕落し過ぎて、魔法騎士としての誇りすら忘れたの? 情けないわね。
その背を、侮蔑を込めて睨みつける。
こんな愚かな者達とこれから一緒にやっていかなくてはならないのか、と思うと、リィネは焦燥感に駆られ、きつく拳を握り締めた。
西の離宮に配属されている魔法騎士のうち、髭面の方がサムエル、そして自分はキースという名だと、本邸に向かうまでに、リィネは細面の魔法騎士から説明を受けた。
「ああ、それから、言っておくけど」
本邸の玄関扉を開けようとして、キースは背後にいるリィネを振り返った。
「我々は、決して職務を放棄した訳でも、サボっていた訳でもないからね」
「とても、そのようには思えませんでしたが」
先輩だろうがお構いなく、リィネは率直に非難がましい視線を向けた。
いくら、日蔭の身であるヒューリットとはいえ、仮に誰かに暗殺でもされた日には、その責任はリィネにも降りかかってくるのだ。こんな愚かな先輩共のせいで、自分の魔法騎士人生を台無しにされたくはない。
不躾なリィネのあからさまな批判を受けて、キースは苦笑いを浮かべた。
「これはね、……ああ、でもいいや。自分の目と耳で直接確かめたほうが、君も納得できると思うから」
それはどういう意味だと目を細めるリィネを余所に、謎の言葉を残したままキースは玄関扉を開ける。
本邸は、外観とは別の意味で、これが王族の住まいなのかと驚かされるような質素さだった。華美な家具や家具はおろか、普通の貴族家に当然あるような物すらなく、ガランとしている。
玄関ホールから二階に伸びる階段の手摺りは破損して、板が添えられて一応修繕されてはいたが、一目見て分かるほど明らかなやっつけ仕事だ。他にも、壁の一部が変色したり、新しく塗り直されたらしい箇所がムラになったりして見苦しい。
まだ魔法騎士団本部の方が、よほど手入れも行き届き、王宮内の施設たるに相応しい体裁を保っているのではないか。余りにどうでもいい有様に、リィネは呆れて物も言えなかった。
「殿下は、公務の無い時には、ずっとご自分の部屋で過ごされている。これからご挨拶に行くけれど、くれぐれも無礼の無いように」
そう子供に言い聞かせるような注意を受けて、リィネは思わずムッとする。
……警備の任務を果たさず、昼間から酒を飲んでいるあなた達の方が、よほどヒューリット様とやらに無礼なんじゃないの?
そんな不満がだだ漏れの仏頂面を引っ提げて、リィネは警護対象となるヒューリットの部屋へ入室した。
キースがノックをすると、中から若い男性の声が返ってくる。名乗って入室する旨を伝え、キースは二階の一室のドアを開けた。
「失礼いたします」
キースに続いて入室したリィネは、窓から差し込む朝日を浴びて佇むその人物を一目見て、一瞬、息をするのも忘れて見入ってしまった。
青みがかった白い髪が、ゆったりと背に流れている。抜けるように白い肌と、深い蒼の瞳。凛とした美しい容貌と、長身ながらスラリとした体躯。穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれたヒューリットは、リィネが抱いていた『どこの馬の骨とも知れない平民の女が産んだ男』という先入観をいとも簡単に打ち砕いてしまった。
「殿下。こちらが、新しく配属された魔法騎士です」
キースに紹介され、リィネは急に襲ってきた緊張感を振り払うように、ビシッと背筋を伸ばして敬礼した。
「リィネヴェリア・フォルシスと申します」
すると、ヒューリットは切れ長の目をやや見開いて、ほんの僅かに息を吐いた。
「そうですか。もう一人魔法騎士が増員されるとは聞いていましたが、……まさか女性とは」
穏やかな表情で、穏やかな口調で、あからさまに女性だという理由で落胆されたことに、油断していたリィネはかなり大きなダメージを受けた。
……何? その、要らないのに、とでも言いたげな口調は。
だが、リィネのプライドは、傷つけられたからといって削れるほどヤワではなかった。
「お言葉ですが、殿下。私は確かに女ではありますが、男性にも劣らない実力があると自負しております。職務におきましても、必ずや殿下のご期待に添える働きをしてみせます」
新人ではなかなか言えないだろうことを自信満々に豪語したリィネだったが、それを聞いたヒューリットは、苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「そう気負うことはありません。先からいる二人と同じように勤めて貰えば結構です」
「えっ……?」
リィネは思わず耳を疑った。
同じように、とは、まさか、表玄関の警備にも立たず、朝っぱらから酒を飲んで過ごせという意味だろうか。
「公務に出る時には随行してもらうこともあるでしょうが、基本的には好きにして貰って構いません。細かいことは、キースに説明して貰ってください」
「では、これで失礼します」
あまりのことに開いた口が塞がらないリィネの腕を掴むと、キースは引き摺るようにヒューリットの部屋を後にした。