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明るみ始めてきた空を見上げてアクアは深呼吸をした。早朝のひやりとした空気が肺に満たされ、僅かに残っていた眠気が消える。
聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきたので振り返ると、ガデスがストレッチをしているのが目に入った。無意識なのだろうか、朝に鳴く鳥を題材にした、誰もが知っている歌を何気ない様子で口ずさんでいる。
アクアも思わず歌いそうになり、慌てて口を閉じた。その側にいたエリックは釣られてしまったようで、地図に目を落としたまま鼻歌で輪唱している。こちらは確実に無意識だろう。
「ちゃんとルザルお兄様宛の手紙も置いてきましたし、お弁当も持ちましたから、いつでも出発できますわ」
宿から出てきたアルテミスがそう言いながら、布に包まれた荷物を掲げてみせる。早朝に出掛けるということで、昨日の内に買ってきたパンにハムなどを挟んだものだ。
「まずは森まで移動して、そこで朝食かー。飛んでる最中にお腹鳴るかもね」
「大丈夫だ--たぶん」
森までは飛んでいけば1時間程で到着できる予定だ。アクアとアルテミスは、ヴァインに乗せてもらうことになっている。
「--準備体操完了っと。全速力で飛ぼっか? 1時間切れるぞ、絶対」
「ごめん、それは追いつける自信ない」
「悪いが制御を誤って落ちる自信がある」
気合いの入ったガデスの提案を、フェリルとエリックが即座に断った。ヴァインが何も言わないのを見ると、ガデスの全速力に付いていけるのは彼だけのようだ。「精霊の女王」の異名は伊達じゃないらしい。
「ヴァインに乗せてもらうのも快適なんだが、自分で飛ぶとスピード出せてまた楽しいんだよなー」
「へー……あ、アクア一緒に飛んでみれば? きっと面白いよ」
「嫌な予感しかしないぞ、それは」
絶対嘘だろう、とアクアはフェリルの提案を断る。一瞬目を輝かせたガデスが舌打ちしたのは、聞かなかったことにした。
「抱えてもらうのなら、アルは嬉しいんじゃないか?」
「愛があっても受け入れられないものはありますのよ、アクア」
試しにアルテミスに矛先を変えてみたら断られた。拒否して正解だったのだと、アクアは確信する。
「まあ、冗談は置いといて。そろそろ行こうか」
「本気でも良いんだけどなー……あ、エリック、抱えよっか?」
「抱--あ、いや、断る」
話しながらアクア達は町の外に向かった。町中での竜化は通常認められていないからだ。
「八鱗連邦なんかでは、咎められませんのにね」
「まあ、人が行き交う中で巨大化すれば、騒動になるのは当然です」
アルテミスの言葉に答えながら、ヴァインが青い竜に姿を変える。確かに町中で変わられては迷惑な大きさではある。竜人族の国が8つ集まった八鱗連合内なら、竜化は日常茶飯事なのかもしれないが。
「どうぞ、乗って下さい」
「アクアは私の後ろ、いえ、やっぱり前でお願いしますわ」
掴まるか掴まれるか、どちらがいいか逡巡したようだ。アクアはアルテミスの言われたとおり、先に乗って手を貸してやる。
「えっと、どこに掴まればいいんだ?」
「鬣を。しっかり掴んで大丈夫ですから。--では、上昇しますね」
そう言うと、ヴァインは力強く翼を羽ばたかせた。巻き起こった強い風に煽られて、アルテミスがアクアの腰にしがみ付く。
「う、ぉ」
慣れない浮遊感に思わず声が出る。しかしその後はゆっくりと旋回しながら上昇してくれたので、さほど恐怖感はなかった。ヴァインは魚が水を泳ぐかのような滑らかさで、翼を広げたまま滑空する。
空を飛ぶ感覚に慣れたところで辺りを見回すと、少し下でフェリルが並んで飛んでおり、アクアの視線に気がついて手を振ってくれた。その後ろにはエリックがいるが、こちらは飛ぶことに意識を集中しているようだ。飛行魔法が一般的でないのは制御が難しいからなのだと、彼が話していたのを思い出す。「自分で飛ぶ」というイメージを上手く描けないと墜ちてしまうらしい。
「難しい顔してんなー。あいつならもっと上手く飛べそうなんだが」
声が聞こえてきた上方を仰ぐと、ガデスが後ろを見ながら飛んでいた。自分の翼で飛んでるかのような、気楽な様子だ。
「アクアにも今度教えようか? 慣れればすいすい飛べるぞ、たぶん」
「いや、いい。精霊魔法を使いこなす自信はない」
そもそも神聖魔法も使えなくなったのに、とは口に出さないでおいた。昔はともかく、今はそれほど嘆いてはいない。慣れただけかもしれないが。
「そういえば、風の女神の神聖魔法に飛行魔法はないのか?」
「ありませんわ。祈り続けつつ制御なんて難しいですし、どうしても飛ぶというのなら騎獣がありますもの」
「ああ、グリフォン使いとかワイバーン使いを頼めばいいのか」
ペルキアなどでは見かけないが、「魔獣使い」と呼ばれる者達がいる。彼らならグリフォンやワイバーンなどを飼い慣らして人を乗せることもできる。
「神霊協会には竜人族の方も少々いらっしゃいますけど、一緒に行動してもまず乗せてくれませんし」
「それは、まあそうだろうな」
個人差はあるものの、竜人族はプライドが高く、他の種族を下に見ている者も少なくない。ヴァインのように背中に乗せてくれる者は相当珍しい。
「……ヴァインは、人を乗せるのに抵抗ないのか?」
「仲間なら全然気にしませんね。良い景色も共有できますし」
そう答えながらヴァインが東の空を見る。アクアがそれに倣って東に顔を向けると、オレンジ色の陽光が目に飛び込んできた。
「まあ、日の出ですわ……!」
背後でアルテミスが感嘆の声を上げる。眩しさに目を細め、手で日を遮りながら見ると、日が出始めたところだった。昇るにつれて、大地が少しずつ照らされていく。
「--凄いな、こんな景色初めて見た……」
「なかなかでしょう。高い位置からでないと見れませんが。今度は海に沈む夕日でも見ましょうか」
「また乗せますよ」と言うヴァインに、アクアは夜明けを迎えた大地に見入りながら頷いた。
(6に続く)