11
僅かな暗転の後、着地と同時に周囲が見慣れぬ景色に変わる。
アクアの襟首を離し、ルザルファスは辺りを見回した。川からは離れたようだがまだ森の中だ。先程の場所より霧が濃いのは、発生源に近付いたからだろうか。
「転移した……?」
「ああ。……ひとまず距離を取っただけだが」
「帰還の書」を取り上げただけでは駄目なのか、あれだけやってすぐに復活されるとは思わなかった。
ならば今のうちに本を破壊しておこうと、ルザルファスは本を置き、火の魔法をぶつける。炎は本を飲み込み、しかし焼け跡一つ付けられずに消えた。今度は短刀を突き立ててみるが、刺さらずに弾かれる。アクアの剣を借りて試してみたが、やはり同様だった。
「破壊できない、のか?」
「--一筋縄ではいかないらしいな。だからこそ封じられてたのか」
仕方なく本を懐に仕舞い、ルザルファスは耳を澄ませながら考えを巡らせる。
アクアは剣を支えにして、浅く荒い呼吸で座り込んでいる。その脇腹は赤く染まっており、背中の火傷も酷い。昏倒しないのが不思議な程だ。だがルザルファスが使えるのは簡単な攻撃用と物への付加用の魔法だけで、神聖魔法はもちろん、精霊での回復魔法も制御が難しすぎて使えない。
一番良いのはアルテミス達と合流することなのだが、犬笛はダンドルグにも聞こえるために使えない。方向にあたりを付けて進むか、動かず待つかしかなさそうだ。
「ひとまず応急手当をして休憩を--」
しよう。とルザルファスは言いかけ、突如頭上で膨れ上がった殺気に跳び退いた。
上方から黒い陰が降り立ち、その鈎爪がルザルファスの半身を抉る。裂かれた懐から落ちた「帰還の書」を掴み、ルザルファスは後方に転移し距離を取った。
「本が主を呼ぶとは思わなかったのか? その道で生きてきたにしてはツメが甘いな」
挑発するようにダンドルグが鋭く伸びた爪を打ち鳴らす。全身に纏った黒い炎が獣の毛皮のように揺らめいている。
「……どの道のことだか知らないが、一端死んだ人間に説教される筋合いはないな」
不意打ちを許したことを悔やみながら本を腰のベルトに挟み、ルザルファスは短刀を左手で構える。抉られた右肩は傷口が焼けているために出血が抑えられているものの、腕に力が入らない。
その様を見て、ダンドルグは軽く手を打った。
「--ふむ。一つ、提案しようじゃないか。このまま続けるのは君自身にとって無益だろう?」
無言のまま、氷のように冷めた目で睥睨するルザルファスに構わず、ダンドルグは微笑む。背後で座り込んでいるアクアを一瞥し、振り返った。
「彼の身柄とその本を、君の命と交換しないか? その手腕を失うのはもったいない」
「……」
ルザルファスは答えず、ダンドルグ越しにアクアを見た。
少しずつ後ずさりながら、アクアはダンドルグの背中を睨み続けている。
視線をダンドルグに戻し、ルザルファスは構えを解いた。短刀を地面に放ると、襟から手を入れ右肩の傷をさする。
「……確かに、片腕が使えないのは厳しいな--」
背中に左手を遣ると、ダンドルグが一歩前に出た。
ルザルファスは微笑を浮かべ、密かに懐から取り出した犬笛をくわえ、鋭く鳴らした。ベルトに差していた棒手裏剣を投げつけながら、短刀を蹴り上げる。
「とはいえ、仕事だから断るが!」
浮かせた短刀を掴みつつダンドルグの背後に転移し、その首を切りつける。ダンドルグが振り返りざまに振るった爪を、ルザルファスは再び後方に跳んで回避した。
「義理堅いことだ。いや、引け目があるのかな? 昔、君が仕事を投げたときには、仕立て上げた犯人が無駄になってバーゲルが大層慌てていたが」
「昔の、仕事……?」
ダンドルグが懐かしそうに語るのを聞き、アクアの脳裏に一昨晩のルザルファスの話とフェリルとのやり取りがよぎる。
「それは--」
「人違いじゃないか? 死人に知り合いはいない」
アクアの言葉を遮り、ルザルファスは転移で一気に距離を詰めた。
ダンドルグの懐に飛び込み、太股に刀を突き立てる。身を翻してダンドルグの爪をかわしながら、脇腹を切る。2歩下がって転移し、背後にまわって腰に短刀を滑らせ、距離を取り直した。
「まいったな。よくそれだけ連続で転移できるものだ」
反撃をことごとく躱され、ダンドルグの表情が苦笑にかわる。
傷は再生するものの、治りきらずに浅く残っている。グランアルシア大神殿の聖泉に漬け込んでもらっただけという、急ごしらえの対アンデッド加工だが、効果は一応あるようだ。ルザルファスはワイヤーにも頼まなかったことを悔やむ。特殊な武器ゆえに人目には付けたくなかったのだ。
息を整えながら転移地点をイメージし、ルザルファスは再び跳ぶ。身を屈めて右臑を切りつけ、立ち上がりながら鳩尾を突く。ダンドルグの爪が脇腹を掠めたが構わず跳び、背中を切りつける。下がりながら反撃を避け、振り向きざまに後頭部に短刀を突き立てる。刃を捻りながら抜き、1歩下がる。
その腕を、ダンドルグが掴んだ。捻られながら引き寄せられ、ルザルファスの肩が鈍い音を上げる。
手から落ちた短刀を蹴り飛ばし、ダンドルグはルザルファスの首を片手で掴み上げた。鋭い爪が食い込み、纏った炎が皮膚を焼く。蹴り上げようとした足を受け止められ、地面に叩きつけられた。
立ち上がれないルザルファスを足で転がし「帰還の書」を取り上げたダンドルグが、哀れむように見下ろしてルザルファスの胸を踏みつける。少しずつ重みをかけてくるのは、弄ぶつもりだからだろう。
「暗殺者らしからぬ義理立てなどせず、見捨てた方が良かったんじゃないかね? 容易に扱える状態で彼を拾えたのはバーゲルを結果的に追い込んだ君のお陰だからと、見逃すつもりだったのだが」
「戯、言を……ッ」
顔面に石でも投げつけてやろうとしたが、意思に反して両腕が動かない。ルザルファスは歯噛みしながら、足掻くために利用できるものを探して視線を走らせる。
ダンドルグ越しに、アクアの姿が見えた。右手で剣を逆出に握り、左手を木についている。ダンドルグの背中を凝視する目に、剣呑な光が見えた。
アクアは剣を杖代わりに、木で体を支えながら立ち上がった。火傷をした背に激痛が走るが、無視して木に寄りかる。立ち上がったアクアに気が付いたダンドルグが、苦笑を浮かべた。
「君には、無力に座り込んでるのがお似合いだと思うが。後で蘇生させるとはいえ、あまり損傷を増やさないで欲し--」
「黙れ」
低く唸るようにダンドルグの言葉を遮り、アクアはダンドルグをねめつけた。
「昔っから思い通りだったんだから今更背くな、と? いい加減にしろよ、人を散ッ々好き放題に振り回しやがって……!」
操られ、襲われ、取引に使われる。今もなおダンドルグから逃れられないという屈辱が、強い怒りを湧き上がらせる。
アクアは聖印を握り、鎖を引きちぎらんばかりに力を込めた。
「上等だ……命を賭けてもアルシア様がお前をぶった切らせないのなら、この聖印ぶん投げ捨てる!」
殆ど脅しのような祈りの言葉を吠え、剣を構える。
その背中を、暖かい何かが触れた。
アクアは小さく頷き、懐かしい感覚に背中を押されるまま1歩踏み出した。ダンドルグが感心したような声を上げる。
「ほう、意地が成せるのかな。よくそれで--む?!」
言葉の途中で、ダンドルグの表情が驚愕に変わった。踏み込んできたアクアの剣撃に大きく跳び退く。
胸元を掠めた切っ先が、三日月のように傷口を開いた。
アクアはダンドルグを睨みつけたまま、ルザルファスを起こしてやる。手を掴まれたルザルファスが、僅かに目を見開いた。
「……放っておかれるかとも思ったが」
「あんたは別だろう。--後で聞きたいことはあるが」
腕の感触を確かめているルザルファスを背に、ダンドルグに向き直る。再生されない傷口を押さえ、ダンドルグは嬉しそうに笑った。
「これは侮っていたな。まだそんなに動けたか」
「お前を死人に帰すまで、死んでられないんだよ!」
そう吐き捨ててアクアは地面を蹴る。羽毛のように軽くなった体は、易々とダンドルグを間合いに捉えた。振り降ろした剣が、その肩を抉る。
ダンドルグは後退しながら呼び出した陰の狼をけしかけた。飛びかかった狼がアクアの左肩に食らいつく。アクアは狼の鼻を片手で掴んで力ずくで引き剥がし、地面に叩きつけた。
虚脱感にアクアは片膝を着いた。牙が深く食い込んだ肩は、赤い染みがじわじわと広がっている。
「まだ、立ち上がるかね?」
ダンドルグが陰の狼を2体呼び出す。
アクアは答えず、剣を握ったまま左肩に手を遣った。ダンドルグを見据えながら、迷いなく言葉を紡ぐ。
「--恵み与えし我らが母、大いなる大地司る女神アルシアよ。傷付きし汝の子に慈悲を」
長らく口にしていなかった詠唱の言葉に応えて、暖かい光が傷を包む。何かが優しく触れる感触とともに、左肩から痛みが消えた。
その様子を目の当たりにして、ダンドルグが目を見開いた。
「この状況で加護を取り戻したのか! やはり君に執着して正解だったな」
ダンドルグが楽しそうに興奮した声を上げる。
アクアは力強く立ち上がり、剣を構えなおした。襲いくる狼たちを切り捨て、ダンドルグに詰め寄る。
剣を回避しようとしたダンドルグが目を見開き、動きを止めた。「帰還の書」を持った左腕が上から吊られたかのように上がり、動作を阻んでいる。ダンドルグの耳に、金属の摩擦音が届いた。視線を走らせると、先程まで膝を着いていたルザルファスの姿が消えている。
アクアが切り上げた剣がダンドルグの腕を切り断ち、跳ね上げた。腕は塵に変わり、本だけが宙を舞う。ダンドルグの背後に回っていたルザルファスが本を奪い返そうと見上げる。
転移をする寸前、霧の中から金色の狼が飛び出した。本を咥え、音もなく降り立つ。
初めて笑みを引っ込めたダンドルグが本を奪い返そうと金狼に迫り、氷の壁に阻まれた。狼はそれを踏み台に高く跳躍して本を霧の向こうに投げつけ、着地とともに少女の姿に戻る。
「良いタイミングだね、アル」
「ふふふ、淑女はここぞという時に間に合うものですわ」
レースがあしらわれた法衣の裾を摘み、アルテミスが不敵な笑みでお辞儀をしてみせる。
アクアはそちらを一瞥し、ダンドルグに切りかかった。ダンドルグは剣を躱しながら、本が投げられた方を見る。
不意に強風が巻き起こり霧を散らした。視界が開け、風の主であるガデスの姿が露わになる。アクアの姿を認め、ガデスが目を細めた。
「よう、久しぶり。見た目に反して元気そうだな」
「いや、さっきぶり、だと思うんだが……」
軽い挨拶をしながら上げられたその手には、赤茶色の革表紙の本が握られている。本に気が付いたダンドルグの目が、鋭さを増した。
「--その本は、そうそう簡単には破壊できんよ?」
「ほほう? そんでもそれだけ焦ってんだ。破壊する術を知ってんじゃないか? ……お互いにな」
ガデスの言葉にダンドルグは喉の奥で笑い、黒い狼に姿を変えた。降ってきた氷の槍をジグザグに避けながら、矢弾のような速さで迫る。
平然とそれを眺めるガデスに飛びかかり、躍り出たヴァインの長剣とフェリルの大鎌に阻まれる。跳び退き再び飛びかかろうとして、死角から放たれた水晶の針に前足を縫いつけられた。
「やっと捉えたか。制御の練習をし直さねばな」
眼鏡を直しながら、うんざりした様子でエリックが木の陰から現れる。
ダンドルグは力尽くで足を外そうともがきながら、本を見た。ガデスが本を抱きしめるように抱えている。
そっと表紙を撫で、慰めるような優しい声色で告げた。
「さあ、もう還れ」
その言葉に応えるように、本はガデスの腕の中で白い砂に変わり崩れていく。砂は風に流れ、煌めきながら散っていった。
ダンドルグは動きを止めてその様を凝視していたが、やがて笑いだした。
「……そうか--こういうことか! これは実に良い、最高だ! ならば応えねばな!」
前足が黒い塵となり始めていることを気にとめず、心の底から愉快で仕方がないといった声を上げる。
消えゆく前足を水晶の針から抜き、ダンドルグは人狼に姿を変える。高らかに吠え声を上げ、地面を蹴った。突進するその先にはアクアが立っている。
アクアは聖印に触れると、剣を構えて地面を踏みしめた。弾丸の如く向かってくるダンドルグを見据える。
アクアが剣を、ダンドルグが爪を振るい、交差した。
剣を落とし、アクアが赤く濡れた腕を押さえる。その背後で、ダンドルグはゆっくりと膝を着いた。断ち切られた上半身が落ち、下半身が黒い塵と化す。
治癒をするために駆け寄ろうとしたアルテミスを手で制し、アクアはダンドルグに歩み寄った。ダンドルグの体は少しずつ黒い塵となって消えつつある。だがダンドルグは気に止めず、笑みを浮かべた。
「……死者を断つ魔剣に、呪われた本を還せる最後の女王、そして女神の加護、か。--この巡り合わせが"神の報い"というものなのだな。長年識りたかったことを、最期に垣間見れるとは」
満足げに言うダンドルグを、アクアは複雑な思いで見下ろす。
「……怒りとか、恐怖とか--悔いとか、あんたにはないのか」
「そうだな--君は、弟とは違った。死んだ弟と、女神が微笑んだ君との差がなんだったのかは気になるが……まあ、全ての事象を識るということは不可能だ。女神の好みだったのだと思っておこう」
頷きながら、何かに気付いたようにダンドルグはアクアを見上げた。
「--もしや、悔い改めて欲しいのかね、私に?」
困ったような笑みを浮かべる。
「生憎と、罪悪感などというものは全くなくてね。私はただやりたいことを思うがままにやっただけで、ひたすら満足感しかない。……まあ、形だけでも謝罪を求めるというのならば、応えても良いが」
「--ッ、あんたの……!」
アクアはダンドルグの胸ぐらを掴み、奥歯を噛みしめた。
感情を押し殺すように息を吐いて、手を離した。傷口を押さえた手に、力が篭もる。
「--あんたのせいで、人生が変わった……酷いもんだったよ。自分がやったことを思い出しては、死ねれば良いのにってずっと考えていた--あんたには理解できないんだろうが」
「それは申し訳なかった--、とでも言えばいいのかな? 君には良いものを見せてもらって感謝しているから、できうる範囲でならば期待に応えて上げよう」
「謝罪はいらない。所詮形だけなんだろう?」
悪びれもせず頷くダンドルグを見下ろしながら、アクアは聖印に触れた。視界には入っていないが、仲間が気遣わしげにこちらを見ているのが、気配で分かる。
「--失ったものは大きいが、得たものも大きかった。この先俺は、あんたには関係なく生きて、あんたには関係のない、自分の罪を償う」
アクアの宣言に、ダンドルグが笑みを深くした。心底嬉しげに、笑い声を上げる。
「くくっ--なるほど、祈り嘆くだけだった弟とは、やはり違ったな。--いや、本当に愉快だった! 「帰還の書」を試して生き返ってみたかいがあったというものだ!」
一頻り笑い、ダンドルグは満足げに目を閉じた。黒き塵の浸食は、いよいよ頭部にまで迫っている。
「アクア、私の酔狂に付き合ってくれた君に感謝を。私は死者の国を見に逝くとしよう」
そう言い終わると同時に、ダンドルグは黒い塵となって消え去った。
アクアはしばらく地面を見つめていたが、フェリルに名前を呼ばれて顔を上げる。
「……アクア。そろそろ傷を治さないと」
「え? ーーああ、そうか。そうだな……」
見れば流れ出た血が地面に小さな水溜まりを作っている。アクアは僅かに逡巡し、躊躇いながら祈りの言葉を呟いてみた。暖かい感触とともに痛みが消えていく。アクアは安堵のため息を付き、感謝を述べながら聖印に触れた。目を丸くしているフェリルに気付き、はにかむ。
「いや、えっと、覚悟を決めたら、またちゃんと使えるようになったというか--って、ああ!」
説明の途中で大事なことを思い出し、アクアは声を上げた。エリックの前に立ち、勢いよく頭を下げる。
「すまない! 止めようとしてくれたのに、酷いことを……」
「うん? ああ、大したことじゃない。結果的にダンドルグを引き離してくれたお陰で、魔神が楽に倒せたしな」
気にするな、とエリックは首を振る。アクアはおずおずと顔を上げると、ヴァインに向き直って再び頭を下げた。
「ヴァインも、すまない。--止めてくれて、ありがとう」
「いえ、私はむしろ……嬉しいんです」
ヴァインはアクアに顔を上げさせ、優しげに微笑んだ。
「あなたが無事で、本当に良かった」
それだけで十分だと言われ、アクアは照れ笑いを返した。ガデス達にも順番に頭を下げ、アクアは最後にルザルファスの前に立つ。ルザルファスが不思議そうに首を傾げたのに合わせ、紫水晶を思わせる髪が揺れた。
「助けてくれてありがとう、ルザル。お陰で生きて勝てた」
ルザルファスは意外そうな顔をしてから、目を逸らした。
「仕事だったから、気にしないでくれ」
言葉は素っ気ないが、声色は柔らかい。アクアはもう一度礼を言ってから、剣を拾い上げた。もう一度ダンドルグが倒れていた場所を振り返る。
何も残っていない地面を暫し見つめていたが、思いを振り切るように剣を振り、鞘に戻す。
「……さて、帰るか」
アクアの言葉に全員が頷く。
いつの間にか森は明るさを増し、指してきた陽光がやさしく揺れていた。
(12に続く)