10
力を振り絞り、川から這い上がる。
アクアは鉛のように重くなった体を引きずり、手近な木に背を預けて座り込んだ。
「泳ぎ方を教わっておいて良かった……っつ--」
ペルキアの船乗りたちに感謝しつつ、呼吸を整える。
落ち着いた途端に、脇腹の痛みが戻ってきた。苦痛に身を丸め脇腹を手で押さえると、僅かに脈打っているように感じる。その度に痛みが増し、頭がざわつく。
赤く血が滲んだシャツを捲り、恐る恐る痕を見てみる。いつの間にかに傷が口を開き、奥で何かが蠢いていた。予想以上の惨状にアクアは息を飲んで凍り付く。だが痛みに耐えかね、覚悟を決める。
深呼吸をしてから、アクアは思い切って傷に指を突っ込んだ。歯を食いしばり、唸りながら傷口をまさぐる。
「--ぐ、ぎ、ぃぅ、ぐ、ぐ--ぅあ゛あ゛痛ったいんだよこの野郎!」
痛みのあまり涙目になりながらも、沸き上がってきた怒りにまかせ、ほじくりだしたものを投げ捨てる。
びちゃり、という音をさせて地面に叩きつけられたのは、親指ほどの大きさの赤い固まりだった。数回痙攣して動かなくなったそれは、芋虫のようにも見える。
アクアは上げかかった悲鳴を飲み込み、固まりから目を逸らした。
異物を取り除いたお陰か、痛みは大分引いており、頭もすっきりしている。
寄生虫の一種だったのかもしれない。ダンドルグに脇腹を刺されてからずっと中に潜んでいたのか、傷は擬態か何かで隠していたのだろうか、などと考え、気分が悪くなって中断した。
それよりも重要なことがある。
「大丈夫、か--?……そう簡単に負けるとも思えないが」
アクアが川に飛び込む直前、魔神は2体残っていたはずだ。皆回復して態勢を立て直していたようだが、不安は拭えない。
「……というか崩したの俺だよな--もし、このまま俺が死んだら…………いや、無意味だな」
償いになるのではないか。そう考えかけたが、ただの独りよがりだと思い直す。
アクアは応急手当を済ますと、木を支えにして立ち上がった。ゆっくりとならば歩けそうだ。合流できたら仲間に、とくにエリックとヴァインに謝らなければならない。
寄りかかりながら進もうと、次の木に手を伸ばす。
「……君は存外しぶといんだな」
声が聞こえたのと同時に、黒く半透明な狼が飛びかかってきた。とっさに腕を盾にして噛み付かせ、地面に叩きつける。
狼は霧散して消えたが、強烈な倦怠感に襲われてアクアは崩れ落ちた。意識はしっかりしているのだが、体に力が入らない。
「くそ、「影の狼」か……!」
体力を奪う狼に襲われた、というガデスの話を思い出す。声がしたほうを見ると、ダンドルグが赤茶の革表紙の本を手に立っていた。その胸には剣が深々と突き刺さったままだ。
「なかなか面白い剣を持ってきたものだ。これは君でないと抜けないのか?」
ダンドルグは楽しんでいるかのような口調で問いかける。無言で睨みつけるアクアを見下ろし、何かを納得したように頷いた。
「--ふむ、やはり君は弟に似ているな」
唐突にそう言うと、訝しげに見上げるアクアから視線を外し、遠い目をする。
「真面目で頑固な子でね。同業者に殺されても神を信じ続けるような、一途な神職者だった。そんなところが、私は----嫌いでな」
変わらない口調の中に酷く歪んだものを感じ、アクアの背筋が冷たくなる。
「とはいえ、面白いと思ってね。同じ神を信じながら一方は無意味に殺され、殺した方は加護を受け続ける。ならばどこまで許されるのか、試してみたくなったんだ。子供のいたずらのようなものだな」
「……そんな理由で、今までのことを--?」
ダンドルグは答えず、アクアの首元に手を伸ばした。掛けている聖印を手に取り、呆れたように笑う。
「天罰などというものが本当にあるのか。禁呪とは禁じるほどのものなのか。異なる生物を合成するとどんなものになるのか。--弟と同類の君がどこまで神を信じられるのか、興味があった。まあ、それだけさ」
愚直さが特に似ていると言いながら、ダンドルグは聖印から手を離した。アクアから少し離れ、影の狼を呼び出す。
「ちなみに今一番興味があるのは、君がアンデッドになったらどんな反応をするか、だな。今度は自我を残してあげるから、安心するといい」
「な--! ぐっ、冗談じゃない……ッ!」
必死に立ち上がろうとするアクアを見下ろし、ダンドルグは笑みを深めた。手にした「帰還の書」をゆっくりと持ち上げる。
金属が擦れる甲高い音とともに、その腕が地面に落ちた。
不思議そうに腕を見るダンドルグの足が、腰が、首が少しずつずれていく。
「な……?!」
言葉を失うアクアの目前で、ダンドルグは声もなく分断した。転がった首が、アクアが手を着こうとしていた木の根元で止まる。
その傍らに、音一つ立てずに男が降りてきた。
闇のような黒い髪と目は魔族の特徴だ。顔立ちは女性的だが表情は冷淡で、ひどく酷薄そうに見える。深緑色の装束に黒革の手袋を身につけており、その右手にはワイヤーが握られている。ダンドルグを切断したのはそれのようだ。
男はワイヤーを袖口にしまい込みながら、ダンドルグの死体に近付いた。「帰還の書」を拾い上げると、胴体に足をかけて剣を引き抜く。死体に油を掛けて火を着けてから、男は振り返った。
氷のように冷めた目が、呆然と見ていたアクアと合う。
「--大丈夫か?」
「……へ? あ、いや、しばらく休めば歩ける、と思う、が……」
男は頷き、僅かに表情を和らげた。戸惑うアクアに手を貸して座らせ、剣を返す。
「……あれ? ルザルファス、か?」
「ああ。--ルザル、でいいよ。長いだろう」
雰囲気どころか、髪と目の色も全く違うので気が付かなかった。そう素直に告げると、ルザルファスは僅かに笑みを浮かべて頷いた。
「魔族だってことは隠していた方が面倒がないからね」
「ああ、そうか。なるほど……」
かつては迫害されていた種族だ。姿を偽るのも無理はない。
ルザルファスは懐から銀の笛を取り出して吹いた。音は鳴らず、代わりに耳鳴りのようなものが聞こえる。
「犬笛……?」
「アルは耳が良いから、聞こえると思う」
聞けばアルテミスたちと合流し、先行してきたのだという。気がかりだった魔神2体は、ダンドルグが離れたことで崩れさったらしい。
余りにあっけない。傷の痛みがなければ夢を見ているのだと疑っていただろう。
アクアは剣を杖代わりに立ち上がり、火を覗き込んだ。ダンドルグの死体は蝋のような臭いを発しながら静かに燃えている。肉の焼ける臭いでないのは、すでに死んでいた体だからなのだろうか。
ルザルファスに視線を移すと、転がっていた首を拾い上げるところだった。無造作に髪をつかみ、持ち上げる。
アクアと目が合い、ダンドルグの表情が笑みに変わった。
「ッ?! っが、ぁ゛……ッ!」
息を飲んだ瞬間、背後から地面に押し倒された。呼吸ができないほどに強く圧迫された背中が熱くなり、すぐに痛みに変わる。
激痛と息苦しさに喘ぎながら首を捻ると、人型の黒い炎が見えた。
ルザルファスが首を捨て、ワイヤーを伸ばす。アクアを踏みつけているものに絡みついた鋼の糸は、甲高い摩擦音を立てながら易々とそれを断ち切った。だが切断された部分の炎が絡み合い、すぐに元の姿に戻る。
ワイヤーを短刀に持ち変えつつ、ルザルファスは魔法を詠唱した。
「激しき水、疾き弾丸、敵を貫け!」
水が球体を型取り飛来する。
人型の炎は跳躍してそれをかわし、ルザルファスの背後に降り立った。打ち捨てられた首を拾い上げ、元の場所に据える。炎が傷を覆いつくし癒着させた。
「はは、まいったな。この火は暫く消えなさそうだ」
全身が黒い炎で覆われたまま、首を取り戻したダンドルグは笑みを浮かべる。言葉に反して動じている様子は全くない。
ルザルファスは短刀を後ろ手に構えながら、視線だけで背後を伺う。アクアが剣を支えに立ち上がろうとして、叶わずに座り込むのが見えた。
「……俺には、構わなくて、いい……」
どう動くか思案していることを読んだのだろう、アクアが掠れた声で逃げるよう促す。
その言葉を無視して、ルザルファスは地面を蹴った。ダンドルグの間合いに入る直前で横に跳ぶ。
視界が一瞬暗転し、次の瞬間にはアクアの背中を映した。ダンドルグの目に捉えられる前に、ルザルファスはアクアの襟首を掴み再び跳んだ。
(11に続く)