開幕
幻想郷。
それは、現実ではないもうひとつの世界。この世にあらざるものとして追いやられた者達──妖怪や神様が暮らす、文字通りの『幻想』郷だ。
この世界を創ったのは、たったひとりの大妖怪『八雲紫』。
彼女がこの世界を創り上げた実の理由は、誰にも解らない。彼女の言い分通りに「妖怪や人間が互いに争わない、共存可能な世界が創りたかったから」なのか、はたまた別の思惑があるのかは定かではない。幻想郷一の賢者にして管理者である彼女の真意を理解するというのは、至難を通り越して妄言の域だろう。
幻想郷は、あらざるもの達にとっての理想郷だ。故に住人の大半は人外である。が、極少数ながらも、この世界にも人間が存在する。彼らが住む場所は『人里』と呼ばれ、人間に対して友好的な妖怪達は気ままに訪れては交流を深めたり、教師として子供達に学問を教える者もいる。
無論、妖怪達から見れば人間は弱者だ。それこそただの食糧としか見なさない連中もいる。
だが、そんな人間の中にも強大な力や特殊な力を持った者がいる。
例えば、博麗神社の巫女。彼女達は幻想郷で起こる、妖怪や神様が引き起こす異常現象、通称『異変』を解決するという役目が課されている。その為に、歴代巫女は幻想郷の管理者が、或いは当代の巫女自身がその役目に足る素質を持つ後継者を見付け、その役目を存続させている。
例えば、洩矢神社の巫女。これは歴史ある役目ではなく、幻想郷に於いての果たすべき義務があるわけでもない。この神社が祀る二柱の神、『八坂神奈子』と『洩矢諏訪子』の信仰を護る為に『外』から招かれた少女だった。
例えば、紅魔館のメイド長。吸血鬼に魔女に悪魔が巣食う館で、唯一の人間の少女だ。広大な館の管理を任されるメイド長に選ばれていることが、しかもその館の主が吸血鬼であることが、何より彼女の力を匂わせる。
──幻想郷は様々な種族が共存する世界だ。妖怪、妖精、神様、人間、悪魔、天人、吸血鬼、亡霊、鬼、鴉天狗──数え上げれば、それこそ多岐に渡る種族が各々のテリトリーで暮らし、交流を持っている。
それらを踏まえた上で、『外来人』という概念を知っておく必要がある。この物語を記し、読み進める都合上絶対に必要なものだ。
外来人とは、幻想郷の『外』、直接的な物言いをすれば『現世』だ──生と死が区別された世界、怪異を天変地異と見なし畏れ敬い、神様や妖怪の概念を生み出した世界、人間の世界、と自虐的な揶揄をする妖怪もいるが──つまり妖怪やらが存在を許されない世界からの迷い人である。
『来るもの拒まず』が基本理念の幻想郷では、外来人というものは珍しいものとして扱われる。動物園のライオンのようなものか。つまり『物珍しい』のだ。
彼らが迷い込む(これを『幻想入り』という)理由は大きく分けてふたつ。
ひとつは幻想郷を隠す結界を何らかの理由でくぐり、そこから迷い込んでしまうこと。
もうひとつは管理者である八雲紫当人が招き入れること。『外』では神隠しとして知られる現象だ。前述の博麗神社の巫女は(代ごとに異なるが)それに該当する。
外来人が持て囃される要因として、『外』の知識がある。幻想郷は入ってくる者はいても出ていける原住民はいない。よって、幻想郷の文化水準は『外』と比べて遅れ気味であったりする。その為、貴重な『外』の知識を持つ外来人は歓迎される。
しかし、何事にも例外はある。それは外来人という概念に関しても同様だ。
外来人は基本的に幻想郷が招く、もしくは迷い込むもので、能動的に入る者はいない。そもそも『外』の人々は幻想郷の存在自体を知覚できない。自ら入り込むなど不可能なのだ、本来は。
しかし、何事にも例外はある。それが、大妖怪・八雲紫に匹敵する……いやそれ以上の力を持つ者ならば、幻想郷への道を抉じ開けることもできるだろう。
そして今。
その『例外』が起ころうとしていた。
◆◆◆◆◆
ザリ、と枯葉を踏む音が起きる。それは断続的に、森の中央へ近付いていく。
「……もうすぐですか?」
「うん。あと少しで『裂け目』に着くよ」
「やっと、貴方の目的が成就されるのですね……」
「おいおい、まだたどり着いてもいないのにそれは早いぞ?」
流麗な女性の声に、のんびりとした男性の声が答える。場所が深く暗い森で、怪しげなワードが飛び交ってなければ、カップルのほのぼのした会話にも聞こえただろう。
やがて、足音が止まる。彼らの目の前には、根元に洞が空いた巨大な樹が聳えていた。
片割れの青年はその樹を見上げ、何かを確かめるようにしきりに頷いている。
「……よし、間違いない」
やがて満足したような笑みを浮かべると、後ろに控えていた少女に振り返り、手のひらを差し出す。
「さあ、行こうか?」
「はい」
それに少女も凛々しい表情を僅かに緩め、嬉しそうな笑みを返してその手を握り返す。
青年がもう片方の手を洞に向けてかざす。探るように指を動かし、やがて何かを掴み取る動きをする。
「転」
青年が少女に呼び掛ける。少女は黙ったまま、握った手に力を込める。
その手が妖しく輝く。纏った金色の光が徐々に繋がった青年の手を伝い、腕、胴体、かざした手に宿る。
それを認めた青年は微笑を得て、掴み取った何かを一層強く握る。そして、
「さあ、行くとしようか。因縁を清算しに」
何かを引き裂くように、手を勢い良く振り下ろした。