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塩原

作者: ぜんぽん

 夢、というものを明確に持っていない。何かに挫折しただとか大層な理由を持ち合わせているわけでもなかった。

 幼少のころは周りと一緒に、やれスポーツ選手になりたいだの、宇宙飛行士になりたいだの、戦隊ヒーローになりたいだのと騒ぎ立てていた。当時は疑いもせずに将来の自分を夢想してはごっこ遊びに興じていたものだ。だが年を経るにつれて備わった一般常識や義務教育の知識が抱えていた自分の様々な夢を少しずつ、少しずつ削ぎ落としていった。


 部屋のテレビからニュースキャスターがスポーツについて取り上げているのが聞こえた。――とあるスポーツ選手が引退する、ということだった。

 記者会見の場で光るカメラのフラッシュに動じることなく一人の男性がインタビューに答えている。……彼を知らないものは、ほぼいないだろう。国民の多くが彼の活躍をリアルタイムで追いかけていた。もちろん私も例に漏れることはない。

 強く憧れを抱いていた彼の輝きは一切失われているように思えず、全盛期と噂されていたころよりちょっと顔に皺が増えているくらいに見えただけだ。

 彼は寄る年波には勝てませんでした、と苦笑いを一つ浮かべて記者に答えた。

 まだ二十八歳なのだが、やはりスポーツ選手の寿命は人それぞれだろう。彼は少し短かったのかもしれない。しかし現役を引退してもしばらくはテレビ局に引っ張りだこ、ゆくゆくはコーチとして、新人育成などに励む人生を歩むのではないだろうか。

 なんにしても、彼は夢を叶えたのだ。

 夢を叶えること自体は、不可能ではないように思える。その道のりに難度の差があったとしても。それでも夢を叶えた人たちは同じ道を志したほんの一握りでしかない。たゆまぬ努力か、超人的な才能か。それとも強靭な精神力か。突出した何かを持っていなくては自分の進みたい道を選ぶことはできない。……ああ、そんな言い訳染みた考えを持つようになったのはいつからだったか。

テレビで、記者の質問が再び聞こえる。

「引退は残念ですが……今までの感謝を伝えるならどなたに?」

「そうですね、挙げたらキリがありませんが。やはり妻に。それと私に夢を与え、支えてくれた親友に――」

 テーブルから乱暴にリモコンを取ってテレビを消した。咄嗟の行動で、自身が何をしたのか理解するのに時間がかかった。リモコンを力なく置く。コトン、という軽い音がやけに心に響いた。

 彼から感謝を言われる資格はない。逃げてしまった、私ごときには。


 彼に夢を与えたのは私……大袈裟だがそうとも言える。私が軽い気持ちで誘った部活の仮入部に彼が熱中し始めたのが発端だからだ。もともと行動力がある彼は悩む私を引き連れてすぐに入部し、さらにはトレーニングジムに通うまでになった。彼は新しい玩具を手に入れた子供のようにのめり込んでいく。近くで見ていたからこそわかる、彼の集中力には目を見張るものがあった。

 やがて先輩たちからは練習バカと揶揄され、あまり部活内では馴染むことはできなかったが、毎日帰り道が見えなくなる時間まで二人きりで練習に明け暮れた。

 日を追うごとに成長していく彼の姿は羨ましく、そして嬉しかった。最初は教えあい、やがて教えるようになり、最後は教わる形になっていった。別段悔しさはなく自分を高められるという理由でも彼には感謝をしていた。

 やがて、進学を考える時期に、彼は唐突にこう語った。

「プロを、目指そうかと思ってる」

 心を貫くような衝撃だった。彼がこの競技にどれだけ入れ込んでいるかも知っていたし、何度か予想したこともあった。それでも、たった三年間の経験で自分の将来を決定する心持ちはさすがと形容するほかなかったように思う。

 私は呆気にとられながらも彼を応援することにした。発端を作った責任感と、彼がどこまでいけるのか見てみたいという期待に似た感情が心を占めていた。


 こうして、私は私大に進学し彼はバイトをしながらプロを目指す道を歩み始めた。


 まともな試合に出られるようになるまでの期間はあまり生活に余裕がなかったようで、私が食事面ではカバーをするようになった。いつしか行き来が面倒になり男二人でのあまり見栄えのよくないルームシェアの生活が始まった。

 実家が小金持ちだった私は仕送りのおかげでバイトには行かず、学業と家事に尽力する日々。彼はひたすらに体を動かし続ける生活で、体力面にわずかな不安は抱いていたもののどうという問題は生まれなかったのが幸いだろう。

 それでも、絶対に優しいとは言えない練習と追い打ちをかけるようなバイト生活に対して金銭的な話を持ちかけたところ「自分の勝手なわがままで迷惑はかけられない」といった旨で断固として一銭も受け取らず、家賃をはじめとした生活費もろもろはほぼ均等に支払う体制をとっていた。私に、奇妙な罪悪感が芽生えた。

 しばらくして彼が選手として成功を納めつつあると同時に私は焦りを抱えるようになった。

 ベルトや楯が部屋に飾られ、彼の嬉しそうな報告を聞きながら本心で喜べなくなっていたのだ。私の大学での成績は上の下程度で、そこそこの生活を送れていたが確固とした展望は掴めておらず、ないものを必死で探し求めるような焦りだった。

 眩しくて仕方がなかった彼への憧れは褪せなかったがその憧れが常に自分の心を刺した。

 それから、私は彼から距離を置くようになった。もっともらしい理由をつけてルームシェアを解消し、やがて一年もすると彼に彼女ができたので私は時々連絡をとるだけで徐々にフェードアウトするように心がけた。

 夢を持ち、それに向かって邁進(まいしん)する彼の存在は私のような平々凡々な人間には毒にしか感じられなかった。彼の成功を彩る華々しい成果は全て自己嫌悪へと変わっていき、いつしか「私はこのままでいいのか」と思い詰めるようになったのが彼から逃げたきっかけだった。

 日本のテレビ局が彼の特集を組み始めるころには私は一般の会社でサラリーマンとして勤めていた。ただ、ルーチンワークを繰り返すだけの機械にでもなってしまったような……つまらない生活だ。

 ちょっとした転機を迎えたのはつい最近のこと。一言でいうと倒産、だった。あまり景気が良くないなか光明を見出そうと新しい分野に手を出したのが失敗。あれよあれよといううちの結果だ。社長は金の工面で首が回らず、再就職先の面倒が見られることはなかった。今は貯金を切り崩しながら就職先を探している。

 彼に会って昔のように話がしたいと頭をよぎるものがあったが、自分の心に巣食う情けなさがすぐにその気持ちを飲み込んでしまい、また現れることはなかった。


 数日後、彼の引退報道も鳴りを潜めた。職安から帰ってきてテレビをつける。知名度が高いバラエティ番組が放映されている。実際のところ映像はほとんど見ないで、BGM代わりに流しているだけなのだが。

 ノートパソコンを立ち上げて、求人情報を自分なりに再び探す。三十路手前の男など、簡単に雇ってくれるところはないのだろうな、と諦観したように液晶を見つめ続けた。目の疲れを自覚したときには、時間は日付が変わる直前にまでさしせまっていた。テレビ番組も海外の旅番組へと移っている。あまり好きではない雰囲気のお笑い芸人が南米の方でリポートをしている。「ボリビア」という国らしい。名前を聞いたことがあるくらいで、それ以外の情報は全く持っていない。しかも国の町並みなどをリポートするはずの芸人は自分よがりの喋りを繰り広げて、ただ馬鹿騒ぎしているだけだ。不快な気分になって、テレビを消そうとした直後、場面が大きく移りかわった。手が止まる。

 真っ白な、大地。雪のようにも見えたが空は快晴で、あまりに平坦な土壌はその考えを遠くにやってしまった。騒ぎ立てていた芸人もその場に立つと言葉を失ったように見惚れていた。すると映っていた景色がナレーションの声と共にパッとさし変わる。私も、言葉を失った。

 何から語ればいいのか、わからなかった。現実とは思えない何かが脳裏に強く、焼き付く。十数年ぶりに、心に熱が宿った気がした。自分のこの目で、見てみたい。そう願わずにはいられなかった。


 彼から学んだ行動力が効を奏した。旅行会社に問い合わせて、現地入りするまでにそう時間はかからなかったと思う。大学で培ったなけなしの英語を振るって観光案内のガイドを雇い、片道十時間の道のりを車に揺られ続けた。

 目的地は「ウユニ塩湖」。標高三七〇〇メートルに位置する塩の大地――まぎれもない秘境だ。

 ひたすらに長い道を越え、塩湖に着く。車窓から見渡せる全てが白に染まっていて、強い日差しを浴びて目が眩むほどの塩の結晶が世界を作っていた。ある意味これだけでも来たかいがあったのかもしれないが、真の目的にはほど遠い。脳裏に焼き付いて離れない、あの景色を見なくては。

 あちこちの塩を加工して建てられた塩の宿でガイドに尋ねると雨が降るかどうかはその日でないと分からないと告げられた。運が悪ければ向こう二週間は降ることすらないだろう、と。それほどの備えをしていない私には長期の滞在は不可能で、与えられた猶予はたったの二日しかない。

 一日目は、清々しいほどに晴れた。雲が少なく、青が濃い空を仰ぐ。色そのものはのっぺりとしているのに、太陽と空気が透明感を感じさせる不思議な場所を醸していた。

 ガイドと共にGPSを用いて絶好のスポットを探す。車を数十分走らせると三六〇度視界を遮るものはないスペースにたどり着いた。あの景色を頭の中で貼り付けると、思わず笑みが溢れる。ここまで、胸が躍ったことがあっただろうか?

 ガイドの説明は、脳が適当に処理を施したせいであまり上等な知識として残らなかった。ただ、極上の一言だけは覚えている。

「今日の深夜ごろから大量の雨が降りそうですよ」

 

 二日目。日が昇る前に前日定めた地点へ移動することにした。熱帯圏に属するとは思えないほどに冬の朝は凍えるもので、歯を細かく鳴らしながら、車のエンジンと水を跳ね飛ばす音をしっかりと聞いていた。眠気はなく、思考もはっきりと冴えている一方、頭の中では夢にまでみた景色が流れている。車が止まると一つ深呼吸をしてドアに手を掛けた。一歩、車外に踏み出すと吸収されずに貯まった雨水が私のくるぶしの高さまで沈める。長靴を履いていなければ大惨事であったろうか。

 ガイドと分担して携帯用の椅子を運び出し、腰を据える。日の出まで少し時間はあったが、隣にいるガイドに話しかける余裕はなく、体を強張らせてその時間を待ちわびた。

 

 何度腕時計を覗いたのか。長針はあまり動いているように見えなかった。落ち着け、と自分に言い聞かせながらまた覗く。反射板が光を映した。 弾かれるように顔をあげると、黒いキャンパスに横一閃、朱が割り込んできた。鮮烈な、朱。筆で荒々しく塗りつけたように存在感を放っている。

 徐々にその朱色は地平線に沿って丸みを帯び、領域を広げていく。しばらくすると朱は黄色がかった赤へと変わり、ぼんやりとした光が空の青と雲の白さを浮かび上がらせていく。人の手では到底作り出せず、二度と同じものが現れない神秘的なグラデーションが闇を晴らしていく。

 それは、地平線を基準とした対称。

 正に、「天空の鏡」と評されるここでしか臨むことのできない景色だった。

 波打つ雲が全く同じ形で反転し、地平線を境に交わっている。塩の大地一帯に貯まった雨水が、すべての景色を映しこむ。

 そこから世界が拓けていくような圧倒的、幻想的な威圧感に気圧されて椅子を離れ立ち尽くしていた。鳥肌は収まることを知らない。

 自分が呼吸する音も、心音さえ。雨のにおいも、風の音も。一切の感覚が消え失せて、それらの神経が全て視覚に使われている……私が、目そのものになったようだ。まばたきをしたのかどうかもわからない。ただ、遠くを見つめていた。


 空が、足元にも広がった。雲の上に立っているような錯覚は、自分の平衡感覚を壊してしまいそうになったがなんとか耐えた。

 日は昇りきり、今は周りの全てが青と白で彩られている。

 太陽は上と下に二つ浮かんでいて、ちょっとだけ目が痛くなった。


 私はあの風景を忘れることはないだろう。帰りの飛行機で感慨深く思い返していた。写真を撮ることを失念していて、気付いた際は失意にまみれそうになったが、ガイドが気を利かせて撮影していた写真を貰うことができた。この感謝を伝えきることはできそうにない。代わりにチップをこれでもかと弾み、言い表せる最大級の謝辞を述べることが精一杯だった。

 それにしても、思い返すたびに、写真を眺めるたびに。この感動を人に伝えてみたくなる。だが、自分の貧弱な語彙ではあの素晴らしさを語り、十分に伝えることはできないだろう。どうすればいいか。

 ――それなら。

 ふと、思いつく。私が、あの場所へと案内をすればいいのか。百聞は一見にしかず。そのほうが感動もひとしおだろう。

 他にも、この世界に心を震わす景色があるのかもしれないと考えると、こみ上げる嬉しさを制御することはできなかった。

 旅行会社? それとも現地での観光ガイドか。ようやく、自分のやりたいことを見つけられたような、そんな心地がする。彼――かつての親友――を見習って、自分の夢とやらを追いかけてみるのも悪くはない。

 そうと決まれば、予行練習に彼を巻き込んでしまおう。生活が落ち着いた時期に夫婦旅行。いいシチュエーションだ。私の客第一号として絶対に協力してもらわなければ。

 今度は私の夢を支えてもらっても、罰はあたらないだろう。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 表現力が素晴らしいです。一つの光景をさまざまな言い表しで表現し、いかに自分が感動したいか、そしてどう思ったのかをとても鮮明に書いていて感動を覚えました。 [気になる点] 自分には文句のつけ…
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