↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
翡翠王国 ― 緑玉に魅入られた者たち  作者: さざ波和音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/25

第三部 潮風が運ぶ白い恵み ― 山と海を結ぶ最初の取り交わし

 一 山を下る旅人


 山の木々が、春の風に揺れていた。


 白峰から流れ出す雪解け水は、白瀬の川を満たし、谷の石を洗いながら下っていく。川辺では若草が伸び、森の奥からは鳥のさえずりが聞こえていた。


 ヌナの邑では、朝から人々が忙しく動いていた。


 女たちは木の実を選り分け、干しておいた魚を確かめている。男たちは弓の弦を張り直し、石鏃の欠けたものを取り替えていた。子供たちは川辺で小さな魚を追いかけ、年寄りたちは火のそばで道具を修理している。


 その一角で、交易人のカガが旅支度を整えていた。


 カガは三十歳。中肉で、山道を歩き慣れた足腰をしている。日焼けした顔には旅の風雨が刻まれ、黒髪は首の後ろで束ねていた。丈夫な獣皮の上着をまとい、腰には小さな袋を下げている。


 袋の中には、交換に使う石の飾りや、よく乾かした獣の皮、木の実などが入っていた。


 彼はヌナの谷と遠い土地を行き来し、異なる土地に住む人々が何を求め、何を持っているのかを見てきた男だった。


「カガ、もう出るのか」


 声をかけたのはゴウザだった。


「今日は山を越えて、西の大海へ向かう。海辺の者たちと会ってみたい」


「海へ行くのは久しぶりだな」


「そうだ。山の者には山の恵みがある。海の者には海の恵みがある。互いに欲しいものがあれば、取り替えられる」


 ゴウザはうなずいた。


「海辺には、どんなものがある」


「魚、貝、海藻。それに、白い塩を作る者がいると聞いた」


「塩か」


「そうだ。獣の肉や魚を長く保つのに役立つ。山では手に入りにくいものだ」


 ゴウザは少し考えた。


「塩を作るには、海水と火がいるのだろう」


「おそらくな。だが、どのように作るのか、わしもまだ詳しくは知らぬ」


 カガは、腰の袋を確かめた。


「海辺の者たちが、どんな暮らしをしているのか見てくる。向こうの話を聞き、こちらのことも伝えよう」


「気をつけて行け。山道は雨の後に崩れることがある」


「わかっている」


 ゴウザは、カガの肩に手を置いた。


「道は、人が歩いて初めて道になる。だが、歩く者がいなければ、道は草に覆われる。遠くへ行くなら、帰ってくることも忘れるな」


 カガは笑った。


「必ず戻る。海の風と、白い塩の話を持ってな」


 そう言って、彼は山背の道へ足を踏み出した。


 二 海の匂い


 山道を越えると、空の広がりが少しずつ大きくなった。


 森の木々は背丈を低くし、ところどころに草地が現れる。川の流れは緩やかになり、湿った土の匂いに、かすかな潮の香りが混じり始めた。


 カガは歩みを進めた。


 道中では、木の実を拾い、湧き水で喉を潤した。夜は風を避けられる場所を選び、火を小さく燃やして休んだ。


 山の獣の気配に耳を澄ませ、夜明けには鳥の声を聞いて進む。


 何日か歩いたころ、木々の間から、見たことのないほど広い光景が開けた。


 海だった。


 空と海が、遠くでひとつにつながっている。


 波は白い泡を立てながら浜へ寄せ、引いていく。潮風は山の風とは違い、少し湿り気を帯び、唇にかすかな塩の味を残した。


 カガは、しばらくその場に立っていた。


「これほど広い水を、山の水は流れていくのか……」


 彼は、遠くに見える川の河口を眺めた。


 山で生まれた水が、森を抜け、谷を流れ、やがてこの大きな海へたどり着く。


 ゴウザの言葉が思い出された。


 山も、川も、海も、ひとつにつながっている。


 浜へ下りると、海辺の人々が働いていた。


 男たちは舟を浜へ引き上げ、女たちは貝を選り分けている。子供たちは浅瀬で小魚を追い、年寄りたちは網のほつれを直していた。


 その中に、ひときわ目を引く女がいた。


 背は高くないが、肩と腕がよく鍛えられている。海風にさらされた肌は日に焼け、長い黒髪を後ろで束ねていた。


 彼女のそばには、土器や木の器がいくつも並んでいる。


 カガが近づくと、女は顔を上げた。


「見ぬ顔だね。どこから来た」


「山の向こう、ヌナの谷から来た。名はカガという」


「私はハル。ここで暮らしている」


 ハルは、カガの衣服や荷物を眺めた。


「山の者か。何を持ってきた」


「獣の皮と木の実、それに石の飾りだ。海辺のものと取り替えられればと思ってな」


 ハルは、少し笑った。


「海には、山にはないものがある。まずは、こちらの暮らしを見ていくとよい」


 三 白い恵みを生む浜


 ハルは、カガを浜の奥へ案内した。


 そこには、海水を入れた木の器や、乾かした海藻、土器が並んでいた。


「これが、塩を作るためのものだよ」


 ハルは、海水を汲んだ器を持ち上げた。


「海の水には、白い塩が溶けている。でも、そのままでは水ばかりだ。水を減らして、塩を集める」


「どうやって水を減らすのだ」


「まず、海水を浅い場所に広げて、日と風に当てる。日差しの強い日には水が少しずつ減る。海藻や砂の上に残った塩気を含む水を集めることもある」


 ハルは、浜に広げた海藻を指さした。


「この海藻にも、海の水がついている。乾かしたものを洗えば、塩気のある水が得られる。土地によっては、砂や海藻を使うやり方もある」


「それから、火にかけるのか」


「そう。塩気の濃くなった水を土器に入れ、火にかける」


 ハルは、火のそばに置かれた土器を示した。


 その中では、白く濁った水が静かに煮立っていた。


「火が強すぎると、土器が割れることがある。弱すぎても、なかなか水が減らない。火を見ながら、薪を足していく」


 カガは土器の中を覗き込んだ。


 水面には小さな泡が浮かび、縁には白いものが少しずつ現れ始めていた。


「これが塩になるのか」


「そうだ。水が減ると、白い塩が残る。最後は焦がさぬように気をつける」


 ハルは、火のそばに置かれた木の枝を手に取った。


「土器が熱くなっているから、素手で触れてはいけない。動かすときは、枝や木の道具を使う」


「土器を使うのだな」


「そう。海水を煮るには、割れにくく、火に耐える土器がいる。土の選び方や焼き方も大切だよ」


 カガは、土器の表面を眺めた。


 ヌナの邑でも土器は使われている。木の実を煮たり、魚を煮たり、食べ物を保存したりするために欠かせないものだ。


 しかし、海辺の人々は、海水から白い塩を得るためにも土器を使っていた。


 同じ土器でも、土地によって使い方が違う。


「海の水から、白いものが生まれるとはな」


 カガが言うと、ハルは火を見つめながら答えた。


「海がくれたものを、火の力で取り出すのさ。火を粗末に扱えば、塩も土器も失う。だから、火のそばでは目を離さない」


 四 塩の味


 やがて、土器の中の水はほとんどなくなった。


 底には白い結晶が残り始めている。


 ハルは火を弱め、土器を少し冷ました。


 それから、木のへらで白いものをそっと集めた。


「これが、塩だよ」


 カガは、差し出された少量の塩を指先に取った。


 口に含む。


 舌に広がったのは、はっきりとした塩辛さだった。


「これは……」


「どうだい」


「山では、この味を得ることはできぬ」


 ハルは笑った。


「海には、いつもあるものだ。けれど、塩にするには手間がかかる。海水を汲み、濃くし、火にかけ、土器を見守る。薪もたくさん使う」


「それでも作るのか」


「作らなければ、海の恵みを長く保つのが難しいからね」


 ハルは、浜に干してある魚を示した。


「魚は傷みやすい。たくさん捕れた日に、食べきれないこともある。干したり、燻したり、塩を使ったりして、長く食べられるようにする」


「山でも肉を干す。煙に当てることもある」


「それなら、わかるだろう。塩があれば、食べ物を保つ方法が増える」


 カガは、塩の小さな山を見つめた。


 山の邑では、狩りがうまくいかない日もある。木の実が少ない年もある。冬が長引けば、食べ物の蓄えが心細くなる。


 塩があれば、獣の肉や魚を保存する工夫ができる。


 それは、山の暮らしにも大きな助けとなるだろう。


「この塩を、少し分けてもらえぬだろうか」


 カガが言うと、ハルはうなずいた。


「何と取り替えるつもりだい」


「獣の皮と木の実。それに、山で見つけた石の飾りがある」


「石の飾り?」


 カガは腰の袋から、小さな石の飾りを取り出した。


 それは、ヌナの谷で拾われた石を簡単に磨いたものだった。緑色ではないが、滑らかな表面に柔らかな光が浮かんでいる。


 ハルはそれを受け取り、光にかざした。


「山には、こんな石があるのか」


「山にも川にも、さまざまな石がある。今、谷では緑色の美しい石を磨く娘がいる」


「緑の石?」


「そうだ。山の奥から見つかった石で、磨くと深い緑が現れる」


 ハルの目が輝いた。


「いつか見てみたいものだね」


 カガは、笑みを浮かべた。


「その日が来るかもしれぬ」


 五 海の人々の暮らし


 カガは、その日から数日間、海辺の邑に滞在した。


 海辺の人々の暮らしは、山の邑とは大きく異なっていた。


 朝早く、男たちは舟を海へ出す。


 舟は、一本の大きな木をくり抜いたものや、板を組み合わせて作ったものなど、土地によって形が違っていた。木を選ぶときには、幹の太さや曲がり、木目を確かめる。舟の底は水を受け、舷は波を越えるために形を整えられていた。


 舟を動かす者たちは、風と潮をよく見ていた。


 風が強すぎれば海へ出ない。波が荒ければ浜にとどまる。潮がどちらへ流れているかを知り、帰る道を見失わないようにする。


 浜では、女たちが網を直し、釣り針を作り、貝を選り分けていた。


 釣り針には骨や貝が使われることがあり、網には植物の繊維が撚られていた。


 魚が戻る季節、貝が多く採れる場所、海藻を集める時期。


 海辺の人々は、海の変化を身体で覚えていた。


 ある日、カガは浜で大きな魚を解体する様子を見た。


 トヨという男が、魚の腹に石の小刀を入れ、手際よく身を分けていた。


 トヨは四十歳ほど。太い腕と日に焼けた肌を持ち、短い黒髪をしている。舟や網の扱いに詳しく、魚の動きにもよく通じていた。


「山の者は、魚を食べるのか」


 トヨが尋ねた。


「川魚を食べる。海の魚は、ここへ来て初めて食べた」


「海の魚は、川の魚とは違う。脂の多いものもあれば、身の締まったものもある」


 トヨは魚の身を分けながら説明した。


「これは今日食べる。こちらは干す。骨のそばに残った身も捨てぬ。よく煮れば、うまい汁になる」


「山でも同じだ。獣の肉だけではない。骨も角も皮も使う」


「そうか。山にも海にも、捨ててよいものは少ないのだな」


 カガはうなずいた。


 山では獣を余すことなく使う。


 海では魚や貝、海藻を暮らしに取り入れる。


 土地は違っても、自然の恵みを無駄にしないという思いは同じだった。


 六 山の品、海の品


 数日後、カガはハルとトヨに、交換の話を持ちかけた。


「山の邑では、塩があれば助かる。こちらでは、獣の皮や木の実が役に立つかもしれぬ」


 ハルは、干してある魚を確かめながら言った。


「獣の皮は、寒い季節に使えるね。木の実も、こちらでは採れないものがある」


 トヨも加わった。


「山の者が持ってくる石も見てみたい。舟の重しに使える石や、道具に使える石があるなら、海辺でも役立つ」


 カガは荷を開いた。


 獣の皮は、毛を残したものと、ある程度なめしたものに分けてあった。木の実は乾燥させ、湿気が入らぬよう編み籠に入れている。


 そのほか、木の枝を削って作った道具や、小さな石の飾りもあった。


 ハルは獣皮を手に取り、厚みと柔らかさを確かめた。


「これはよいね。風を通しにくそうだ」


 カガは、塩の量を確かめた。


 すぐに大量の交換をするのではなく、まずは互いに持ち帰って使える分を取り替えることになった。


 獣皮と木の実を渡し、塩を受け取る。


 さらに、干した魚と貝を少し分けてもらう代わりに、山で使う丈夫な木の柄を渡した。


 品物を交換するとき、双方はそれぞれの品を手に取り、傷みや量を確かめた。


 どちらかが損をするような取り替えでは、次の旅は続かない。


 カガは、ハルに言った。


「次に来るときは、もっとよい獣皮を持ってこよう。塩を作る手間に見合うものを持ってくる」


 ハルは答えた。


「こちらも、よい塩を用意しておく。海の恵みを、山の者にも分けよう」


 トヨは笑った。


「今度は山の魚の話も聞かせてくれ。川には、どんな魚がいるのか知りたい」


「よい。次に来たときに話そう」


 その日、山と海の間で、初めての小さな取り交わしが結ばれた。


 七 海辺に届いた緑の話


 滞在の最後の日、カガはハルに、ヌナの谷で見つかった緑の石について詳しく話した。


「その石は、川の中で見つかった。白い部分と緑の部分が入り交じり、磨くと深い色が現れる」


「誰が磨いているのだい」


「ミヤという娘だ。石を見つめ、砂を選び、少しずつ磨いている。初めは欠けさせたが、今は石に合った磨き方を探している」


 ハルは、海を眺めながら聞いていた。


「その娘は、石が好きなのだね」


「そうだ。石の中に眠っている緑を起こすのだと言っていた」


「よい言葉だね」


 ハルは、浜辺に落ちていた小さな貝を拾った。


「海にも、きれいな貝がある。波に洗われて、形が整ったものもある。けれど、それを拾って飾りにするには、穴を開けたり、紐を通したりしなければならない」


「山でも、石を磨いて飾りにする」


「いつか、その緑の石を見せてほしい」


 カガはうなずいた。


「ミヤが磨いたものを持ってこよう」


 ハルは、貝をカガに差し出した。


「これは、海からの贈り物だ。山へ持って帰るとよい」


 カガは貝を受け取った。


 白い貝殻の表面には、薄い桃色の筋が走っていた。


「ありがとう。ミヤも喜ぶだろう」


「山の娘に伝えておくれ。海には、海の石や貝がある。いつか、互いの手で作ったものを見せ合いたいね、と」


 カガは、貝を大切に袋へしまった。


 八 山へ帰る道


 カガは、塩と干した魚、貝、そして海辺の人々から預かった小さな品を荷にまとめた。


 帰り道は、来たときと同じ山背の道を通る。


 しかし、荷は重くなっていた。


 彼は歩みを急がず、休みながら山を越えた。雨の後には斜面を避け、川を渡るときには水の深さを確かめる。


 夜は火を焚き、荷を濡らさないようにした。


 山の風が吹き始めると、海の潮の匂いは少しずつ薄れていった。


 やがて、白峰が見えた。


 カガは、ヌナの谷へ戻ってきた。


 邑の人々は、彼の姿を見ると集まってきた。


「帰ったか、カガ」


 ゴウザが声をかけた。


「帰った。海の話を持ってきたぞ」


 カガは荷を下ろし、塩の入った包みを開いた。


 白い塩が、木の皮の上に少しずつ広げられる。


 人々は、その色を不思議そうに眺めた。


「これが、海の水から作ったものか」


 オトが尋ねた。


「そうだ。海水を濃くし、土器で煮詰める。火加減を見ながら水を減らし、最後に白い塩を集める」


 サナが塩を少し指につけた。


「これで、魚や肉を長く保てるのかい」


「干したり、煙に当てたりするのと合わせれば、役に立つ。海辺の者たちは、魚を塩で扱うこともある」


 サナは、塩を指先で確かめた。


「少しずつ使ってみよう。食べ物の味も変わるだろうね」


 カガは、海辺の人々の暮らしについて語った。


 舟を造る木の選び方。潮を読む者たち。網を直す手。魚を干す浜。貝を集める子供たち。火のそばで塩を作るハルの姿。


 人々は、目の前に海が広がるように、彼の話に耳を傾けた。


 九 白い塩と緑の石


 その夜、カガはミヤに海辺の貝を渡した。


「ハルという女が、おまえにと持たせてくれた」


 ミヤは貝を両手で受け取った。


 白い殻に桃色の筋が走り、表面は波に磨かれて滑らかだった。


「海の貝なのね」


「そうだ。海辺の者たちは、貝を飾りにすることもある。ハルは、おまえが緑の石を磨いていると聞いて、いつか見たいと言っていた」


 ミヤは貝を光にかざした。


「私も、海辺の人たちの飾りを見てみたいわ」


「今度、磨いた石を持っていこう」


「この緑の石を?」


「そうだ。海の者たちにも、山の石を見てもらいたい」


 ミヤは、そばに置いてあった磨きかけの石を手に取った。


 まだ表面には細かな傷が残っている。


「この石が、海まで行くのね」


「いつか、な」


 アシナも近くに座っていた。


「山の石が海へ行き、海の貝が山へ来る。川がその間をつないでいるのだな」


 ゴウザが火のそばでうなずいた。


「山の水は川となり、川は海へ向かう。人もまた、その道を歩く。山だけを見ていては、山の恵みの行き先はわからぬ」


 カガは、塩の包みを見た。


「海の者たちは、山のものを欲しがっていた。獣皮や木の実だけではない。山で作られた石の飾りにも興味を持っていた」


 ミヤは、緑の石をそっと掌に包んだ。


「ならば、もっと美しく磨きたいわ」


「焦るなよ」


 サエが笑った。


「石は逃げない。手を傷めぬように、少しずつ磨きなさい」


 ミヤはうなずいた。


 十 道の始まり


 数日後、ヌナの邑では、海から届いた塩を使い、魚を保存する試みが始まった。


 サナは、川で捕れた魚を洗い、余分な水を切ってから、塩を少しずつまぶした。


 別の魚は、煙の上がる場所に吊るした。


 塩を使ったものと、使わないもの。どちらが長く食べられるか、どのような味になるかを、家族で確かめることにしたのである。


 オトは、狩りで得た獣の肉にも塩を試してみた。


 ただし、塩があれば何でも長く保てるわけではない。肉を傷めないように処理し、よく乾かし、湿気を避けることも大切だった。


 人々は、海辺の知恵を自分たちの暮らしに合わせて取り入れていった。


 一方、カガは次の旅の準備を始めた。


 今度は、ヌナの邑から持っていくものを増やすつもりだった。


 獣皮、木の実、石の道具。そして、ミヤが磨いた緑の石。


 まだ完成した勾玉ではない。


 けれど、緑の石が山から海へ運ばれれば、海辺の人々はその美しさを知るだろう。


 海の塩が山へ運ばれれば、ヌナの邑の人々は、これまでとは違う食べ物の保存の仕方を知るだろう。


 交換されるのは、品物だけではない。


 山の者は海の暮らしを知り、海の者は山の暮らしを知る。互いの知恵が行き来することで、知らなかった道具や食べ方、ものの見方が少しずつ広がっていく。


 夕暮れ、白瀬の川は金色に輝いていた。


 アシナは川辺に立ち、流れる水を眺めていた。


 山から来た水が、遠い海へ向かっている。


 その流れに、いつか緑の石も乗っていくかもしれない。


「アシナ」


 ミヤが隣に立った。


「どうした?」


「海の貝を見ていたの。波に磨かれて、こんなに滑らかになったのね」


 彼女は、ハルから贈られた貝を見せた。


「山の石は、川に磨かれる。海の貝は、波に磨かれる。自然の手は、どちらも優しいのね」


 アシナは、遠くの山を見た。


「そして、人の手がその続きをする」


 ミヤはうなずいた。


「ええ。山と海の恵みを、これからも大切にしたいわ」


 川の流れは、止まることなく海へ向かっていた。


 その流れのように、人々の行き来もまた、少しずつ始まった。


 山からは木の実と獣皮が運ばれ、海からは塩と魚と貝が運ばれる。


 そして、いつかこの小さな取り交わしは、幾つもの山を越え、幾つもの川を渡り、遠い土地の人々を結ぶ道へと育っていく。


 まだ、その道に名はなかった。


 ただ、山の人々と海の人々が、互いの恵みを分け合った。


 それが、始まりだった。


 第三部 了


 次回 第四部「火を操る人々 ― 炎の恵みと天の怒り」


 ヌナの邑では、土器づくりの仕事が続いていた。土を選び、砂や細かな繊維を混ぜ、形を整え、乾かし、火で焼く。土器は食べ物を煮るだけでなく、木の実を灰汁抜きし、魚や肉を保存するためにも欠かせない。人々は炎の力を知り、火を扱う知恵を深めていく。だが、ある日、空から落ちた激しい光が森を焼き、火の恐ろしさを改めて知ることになる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。