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翡翠王国 ― 緑玉に魅入られた者たち  作者: さざ波和音


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第十一部 緑玉の大いなる争い ― 山を奪う者、道を守る者 ―

 一 春の谷に忍び寄る影


 春の雪解け水が、白瀬の川を満たしていた。


 天を衝く白峰には、まだ白い雪が幾重にも残っている。けれども谷底では、雪の下から顔を出した草が柔らかな緑を広げ、山桜の花びらが風に乗って、川面をゆっくりと流れていた。


 長い冬を越えたヌナの谷に、春が戻ってきたのである。


 ヌナの邑では、朝から人々が働いていた。


 川沿いの田では、イツが稲の苗を見回している。去年より少し広げた水田には、細い水路から清らかな水が流れ込んでいた。水が多すぎれば苗は弱り、少なければ土が乾く。イツは泥に足を沈め、水の流れを指先で確かめていた。


 住まいのそばでは、女たちが籠を編み、男たちは屋根の傷んだところを葺き直している。子供たちは川辺で貝を拾い、年寄りたちは火のそばで、山菜の根を選り分けていた。


 アシナは、住まいの前に腰を下ろし、弓の弦を確かめていた。


 弦は、幾度も使えば伸び、雨に濡れれば弱くなる。アシナは指で張りを確かめ、傷んだ部分をほどいて新しい繊維をより合わせた。


 そばでは、ミヤが翡翠を磨いていた。


 石の表面に水を落とし、細かな砂をつけた磨き石を、ゆっくりと動かしている。朝の光が石の緑を透かし、奥深くに眠る白い筋を浮かび上がらせた。


「その石は、誰かに渡すものなの?」


 アシナが尋ねた。


「海辺の人が、緑の石を見たいと言っていたでしょう。だから、小さなものをひとつ磨いているの。でも、これはまだ渡すと決めたわけではないわ」


「そうか。おまえの手で、また新しい緑が生まれるのだな」


「いいえ。石は山の中にずっと眠っていたものよ。私は、その姿を見えるようにしているだけ」


 ミヤはそう言って、微笑んだ。


 二人は、共に暮らし始めてから、まだ幾度も季節を重ねてはいない。


 朝には水を汲み、夕には火を囲む。狩りから戻ったアシナのために、ミヤが魚を焼くこともあれば、ミヤの石磨きが長引いた日に、アシナが木の実を煮ることもあった。


 大きな言葉を交わさずとも、二人の間には、少しずつ確かな暮らしが育っていた。


 その穏やかな春の朝、谷の入口からひとりの男が走ってきた。


「カガを呼んでくれ!」


 男は息を切らし、邑の人々に告げた。


「山背の道で、荷を運ぶ者たちが襲われた。荷を奪われ、ひとりが傷を負った!」


 アシナは弓を置いた。


「誰に襲われた?」


「遠い水辺の邑から来た者たちだという。翡翠を探していたらしい」


 ミヤの手が止まった。


 磨きかけの緑の石に、水滴がひとつ落ちた。


 二 奪われた荷


 その日の昼過ぎ、カガが傷を負った旅人を連れて戻ってきた。


 旅人の名はヤシロといった。三十歳ほどの男で、肩に深い傷を負い、顔には疲れが刻まれていた。


 サナはすぐに湯を沸かし、傷を洗った。清らかな水で汚れを落とし、煮沸して乾かした布を当てる。薬草をすり潰し、傷の周りにそっと添えた。


「しばらくは腕を動かしてはいけないよ。傷が開けば、また血が流れるからね」


 サナの言葉に、ヤシロは小さくうなずいた。


 カガは、ゴウザ、オト、アシナ、ミヤらを火のそばに集めた。


「山背の道で、荷を奪われた。翡翠だけではない。塩も干し魚も、黒曜石も持っていかれたそうだ」


「誰がそんなことをしたのだ」


 オトが尋ねた。


「遠い水辺の邑にいる、タケルという男の仲間たちだ。あの男は稲を多く蓄え、青銅の武器を持つ者をそばに置いているらしい」


「なぜ、荷を奪う?」


 アシナが尋ねた。


 ヤシロが、痛む肩をかばいながら口を開いた。


「道を通るなら、荷の半分を置いていけと言われた。断れば、山へ入る道を閉ざすと。翡翠の山も、海へ抜ける道も、すべてタケルのものにすると言っていた」


 ゴウザの顔に、深い皺が寄った。


「山は、誰かが生まれる前からそこにある。誰かが死んだ後も、そこにある。人の手で囲めるものではない」


「けれど、あの男には多くの仲間がいる」


 カガが静かに言った。


「弓を持つ者、青銅の矛を持つ者。遠い邑から呼び集められた者たちだ。荷を守るだけでは、いずれ押し切られるかもしれない」


 オトは、火の中の薪を見つめていた。


「武器を持つ者が増えれば、皆が強くなるわけではない。武器を持たぬ者が、先に苦しむこともある」


「では、どうするの?」


 ミヤが尋ねた。


 ゴウザは、ゆっくりと顔を上げた。


「道を守る。山を守る。だが、先に刃を向けてはならぬ」


 その言葉に、カガはうなずいた。


「道を通る者たちと、もう一度話そう。海辺の邑にも、黒曜石の山にも知らせを送る。ヌナの谷だけで抱えることではない」


 アシナは、弓のそばに置いた黒曜石の鏃を見つめた。


 かつて、この谷には二十余りの住まいしかなかった。


 人々は獣を追い、木の実を拾い、川の魚を分け合って暮らしていた。


 今では、海から塩が届き、遠い山から黒曜石が運ばれ、川辺には稲が育っている。翡翠は海を越え、遠い土地の人々の手にも渡るようになった。


 人々を結んだ道が、いま、人々を争わせようとしていた。


 三 山を守る者たち


 翌朝、ヌナの邑から三人の使いが出た。


 ひとりは海辺へ向かい、もうひとりは黒曜石の産地を知るイワのもとへ。残るひとりは、谷の周辺に暮らす小さな邑々を訪ねることになった。


 ヌナの谷には、ヌナの邑だけがあるのではない。


 川の上流には、狩りと木の実採りを主にする小さな住まいの集まりがある。南の斜面には、木を切り、籠や舟の材を作る者たちが暮らしていた。川の下流には、田を持つ家々が少しずつ増えている。


 それぞれが、同じ谷の水を飲み、同じ山の恵みを受けていた。


 ゴウザは、その者たちを集めることにした。


 集まった人々の前で、ゴウザは白峰を見上げた。


「この山から、緑の石が出る。川から魚が上がる。森から木の実が落ちる。だが、それらはヌナの邑だけのものではない。上流の者も、下流の者も、山を越えて来る者も、分け合ってきた」


 年老いた女が、杖をつきながら言った。


「山を囲う者が現れれば、私たちは木の実を拾うこともできなくなるのかい」


「そのようなことを許してはならぬ」


 ゴウザは答えた。


「だが、山へ入る者が増えれば、石を採りすぎて山肌を傷めることもある。誰でも好きなだけ持ち帰ればよいということでもない」


 ミヤが、一歩前へ出た。


「石を採るときは、山の姿を見なければなりません。大きな石を無理に割れば、ほかの石まで崩れることがあります。水の流れを変えれば、下の草木も枯れてしまう」


 石を磨いてきた者の言葉に、人々は耳を傾けた。


「だから、採る場所と量を決めましょう。山を荒らさず、必要な分だけを持ち帰る。石を運ぶ道も、誰かひとりのものにはしない」


 カガが続けた。


「荷を運ぶ者には、道を守る務めを分けてもらう。山道の崩れを直し、川の渡り場を整え、傷ついた旅人を助ける。道を使う者が、道を守るのだ」


 オトは、弓を持つ若者たちを見た。


「弓を持つ者は、道を通る者を脅してはならぬ。弱い者を守るために、その手を使うのだ」


 その日、人々は三つの約束を決めた。


 ひとつ、山の石を一人のものにしない。


 ひとつ、交易の道を塞ぎ、荷を奪うことを許さない。


 ひとつ、争いが起きたときは、まず話し合い、刃を抜くのは最後とする。


 それは、後の世にいう掟のようなものだったのかもしれない。


 だが、この日ここに集まった人々にとっては、明日も同じ川の水を飲み、同じ山の木陰で暮らすための約束だった。


 四 翡翠を求める男


 夏が近づいたころ、タケルの使いがヌナの邑へやってきた。


 男は四人の供を連れ、胸には青銅の飾りをつけていた。腰には青銅の小刀、背には弓を負っている。


 彼らの衣は、谷の者たちのものより厚く、染められた織物の帯には、赤や黄の色が鮮やかに残っていた。


 使いの男は、カガを見るなり言った。


「タケル様は、ヌナの谷の緑の石を求めておられる。山の石を差し出せば、これから先、誰もこの谷を襲わぬと約束しよう」


 カガは、すぐには答えなかった。


「差し出さなければ?」


「道を閉ざす。山へ入る者も、海へ下る者も、我らの許しを得なければ通れなくなる」


「それは、道を守ることではない。道を奪うことだ」


 使いの男は、鼻で笑った。


「道を守るには力がいる。力を持つ者が道を治める。それが当たり前だ」


 ゴウザが前に出た。


「おまえの足は、この山を作ったのか。この川を流したのか」


 男は答えなかった。


「山も川も、誰かが作ったものではない。誰かひとりが奪ってよいものでもない」


 使いは、ミヤの前に置かれた翡翠を見た。


「それを見せろ」


 ミヤは、翡翠を手の中に収めた。


「これは、私が磨いた石です。誰かの命令で渡すものではありません」


「女の手で磨いた石に、何の値がある」


 その言葉に、アシナの目が険しくなった。


 だが、ミヤは先に答えた。


「石を磨く手がなければ、緑の輝きは見えません。あなたがどれほど大きな荷を持っていても、この石の美しさを作ることはできないでしょう」


 使いの男は、しばらくミヤを見つめた。


 そして、口元を歪めた。


「いずれ分かる。力のない者が、力のある者に逆らえばどうなるか」


 男たちは帰っていった。


 その背中を見送りながら、アシナは弓を握りしめた。


「次に来たら、追い返す」


「追い返すだけで済めばよいけれど」


 ミヤは静かに言った。


「タケルという男は、翡翠だけを欲しがっているのではないわ。山も、道も、そこを通る人々も、自分の思うままにしたいのでしょう」


 ゴウザは、白峰の方を見た。


「欲は、腹のように満たされぬ。ひとつ手に入れれば、次を欲しがる」


 五 石の鏃と青銅の矛


 秋が近づくころ、タケルの一団が再び谷へ向かっているという知らせが届いた。


 今度は、使いではなかった。


 二十人を超える男たちが、青銅の矛や小刀を持ち、山背の道を進んでいるという。


 ヌナの邑では、若者たちが道具を整え始めた。


 オトは、弓の木を一本ずつ確かめていた。


 木目に割れがないか、しなりは十分か。弦は湿っていないか。弓を引く者の手に合っているか。


 アシナは黒曜石の鏃を選び、欠けたものを取り替えた。鋭く打ち欠いた鏃の根元に溝をつけ、木の矢柄へ当てる。植物繊維を巻き、獣の腱をほぐしたものを使って、しっかりと固定する。


 サヌカは石槍の柄を確かめていた。


「この槍なら、まだ獣の胸まで届く」


「獣を狩るときと、人を相手にするときは違う」


 オトが言った。


「獣は腹を満たすために仕留める。だが、人に刃を向ければ、その後ろに家族がいる。悲しむ者がいる。命を奪うことを、軽く考えるな」


 サヌカは、いつもの冗談を口にしなかった。


 ミヤもまた、石細工の場で手を動かしていた。


 翡翠を磨く道具とは別に、石鏃を作るための石を選び、割れた鏃を直していた。細かな石片が飛ぶたび、彼女は目を細め、指先で形を確かめる。


 そのそばでナギが、矢を束ねていた。


「姉さま、これも持っていくの?」


「ナギ、それは狩りの矢よ。人を傷つけるためのものではないわ」


「分かっている。でも、もし誰かが襲ってきたら?」


 ミヤは、妹の顔を見た。


「そのときは、身を守るために使うこともあるでしょう。けれど、矢を放つ前に、逃げられる道がないか考えなさい。争いを避けられるなら、その方がよいの」


 ナギはうなずいた。


 一方、カガは海辺の邑から届いた知らせを皆に伝えた。


 ハルやトヨたちが、塩と干し魚を運ぶ道を守るため、数人の若者を送り出すという。


 イワも、黒曜石の産地から仲間を連れてくると知らせてきた。


 遠い土地の人々が、少しずつヌナの谷へ向かっていた。


 山を奪おうとする者たちに対し、道を守ろうとする者たちが集まり始めたのである。


 六 白瀬の川の攻防


 風が冷たくなり始めた朝、タケルの一団がヌナの谷の入口に現れた。


 先頭に立つタケルは、四十歳ほどの大柄な男だった。


 肩幅が広く、太い腕には青銅の腕輪が光っている。髪は後ろで束ねられ、胸には獣の牙を連ねた飾りを下げていた。


 その後ろには、弓を持つ者、青銅の矛を持つ者、木の盾を持つ者が続いていた。


 タケルは、川辺に並んだヌナの邑の人々を見渡した。


「最後に聞こう。翡翠の山を渡せ。道を我らに預けよ。そうすれば、ここに住む者たちの命は守ってやる」


 ゴウザが前に出た。


「この谷に住む者たちは、おまえの下に入るために生まれたのではない」


「ならば、力で従わせるまでだ」


 タケルが手を上げた。


 そのとき、川の向こうから声が響いた。


「待て!」


 現れたのは、海辺の邑から来たトヨたちだった。


 彼らは舟を使い、川の下流から回り込んできたのである。続いて、山道からイワと黒曜石の産地の仲間たちが姿を見せた。


 タケルの一団は、思いがけない人々の数に足を止めた。


 カガが前に進み出る。


「この道を使う者たちは、ヌナの邑だけではない。海辺の者も、山の向こうの者も、この谷の水を飲む者もいる。おまえひとりの許しで、通る道ではない」


 タケルは笑った。


「弱い者が集まっても、強い者には勝てぬ」


「強いとは、何をいうのだ」


 オトが尋ねた。


「青銅の矛を持つことか。人を従わせることか。荷を奪うことか」


「勝った者が強い」


「ならば、おまえは何度勝てば満足する。今日この谷を奪い、明日は海を奪うのか。次は山の向こうか」


 タケルの顔から笑みが消えた。


「黙れ!」


 男たちが前へ出た。


 弓を持つ者たちが、矢をつがえる。


 ヌナの邑の若者たちも弓を構えた。


 白瀬の川を渡る風が、草を大きく揺らした。


 最初に動いたのは、タケルの側だった。


 一人の男が川辺へ駆け出し、木の盾を掲げて進んできた。


 その足元に、アシナの放った矢が突き刺さった。


 男は驚いて足を止めた。


 矢は、男の身体を狙ったものではなかった。


「これ以上、進むな!」


 アシナの声が川辺に響いた。


 だが、別の男が青銅の矛を振り上げて走り出した。


 サヌカが石槍を構え、その前に立ちはだかった。


 矛と槍がぶつかり、乾いた音がした。


 サヌカは押されながらも足を踏ん張った。


 そこへ、トヨたちが横から回り込み、男たちの進路を塞いだ。


 川辺は一瞬にして騒がしくなった。


 矢が飛び、盾に当たり、石槍が地面を打つ。


 青銅の刃が光り、黒曜石の鏃が陽の光を受けた。


 けれども、誰もが相手を倒そうとしていたわけではなかった。


 ヌナの邑の人々は、川の浅瀬へ進もうとする男たちを押し戻し、傷ついた者を見つければ、敵味方を問わず川辺から離すようにしていた。


 そのとき、タケルの一団の若者が、足を滑らせて川へ落ちた。


 流れは速く、若者の身体は下流へ押し流されていく。


 タケルは叫んだ。


「助けろ!」


 アシナは一瞬、弓を置いた。


 そして、川へ飛び込んだ。


 冷たい水が胸まで達し、足元の石が滑る。アシナは流される若者の腕をつかみ、岸へ向かって泳いだ。


 サヌカが手を伸ばし、二人を引き上げる。


 若者は激しく咳き込み、川の水を吐いた。


 タケルは、その様子を見ていた。


「なぜ助けた」


 アシナは濡れた髪をかき上げた。


「川に落ちた者を、見捨てる理由はない」


 その言葉に、タケルの一団の中で、動きを止める者が出た。


 彼らの多くは、タケルに従って遠い土地から集められた者だった。家には年老いた親がいて、幼い子がいる者もいた。


 彼らは、翡翠を奪うために生まれたのではない。


 腹を満たし、家族を養い、明日も生きるために歩いてきたのだった。


 タケルは、青銅の矛を握りしめたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、後ろにいた男が声を上げた。


「タケルよ。もうよい。これ以上、血を流すことはない」


 別の男も続いた。


「我らは、道を通る者の荷を奪うために来たのではない。家に帰ろう」


 タケルは振り返った。


「おまえたち、誰に食わせてもらっていると思う!」


 だが、男たちはもう、彼の言葉に従わなかった。


 タケルは歯を食いしばり、青銅の矛を地面へ突き立てた。


「今日のところは退こう。だが、これで終わったと思うな」


 そう言い残し、彼は一団を連れて谷を去っていった。


 白瀬の川には、折れた矢と、欠けた石の鏃が残されていた。


 七 傷を癒やす火


 争いの後、ヌナの邑では傷ついた者たちの手当てが続いた。


 サナは湯を沸かし、布を煮て、傷口を洗った。


 海辺から来た女たちは薬草をすり、イワの仲間たちは折れた弓の修理を手伝った。


 タケルの一団にいた若者のうち、数人は谷に残り、傷の手当てを受けることになった。


 その中に、川へ落ちた若者もいた。


 名をハヤトといった。二十歳ほどで、頬にはまだ幼さが残っていた。


「なぜ、俺を助けた」


 ハヤトはアシナに尋ねた。


「おまえが川に落ちていたからだ」


「俺は、おまえたちを襲いに来た」


「そうだな」


「それでも助けるのか」


 アシナは、火のそばに座り、乾かしていた弓の弦を手に取った。


「おまえが俺の家族を傷つけようとしたなら、俺は止めただろう。だが、川に落ちた者を見殺しにするのは違う」


 ハヤトは、しばらく火を見つめていた。


「タケルは、翡翠を手に入れれば、遠い邑の長のようになれると言っていた。多くの稲を蓄え、青銅の武器を持ち、道を支配すれば、誰も逆らえなくなると」


「それで、おまえは豊かになれるのか」


 ハヤトは答えなかった。


「おまえの家に、稲はあるのか」


「少しだけだ。母と妹がいる。妹はまだ小さい」


「ならば、妹のもとへ帰れ」


 ハヤトの目に、涙が浮かんだ。


 その夜、ヌナの邑では、敵であった者にも食事が分けられた。


 焼いた魚、木の実を煮た汁、稲を炊いたもの。少しの塩を添えた鹿肉もあった。


 争いの後の火は、いつもより静かに燃えていた。


 八 緑玉の約束


 秋が深まるころ、白峰の頂には再び雪が降り始めた。


 争いの傷跡は、少しずつ消えていった。


 ヌナの邑では、稲の収穫が終わり、籾が住まいの中に蓄えられた。木の実も乾かされ、魚は燻され、肉は塩と煙の力で冬に備えられた。


 山の石を採る者たちも、約束に従って採取する場所と量を決めた。


 交易の道には、いくつもの邑から人が出て、道の崩れを直し、川の渡り場を整えた。


 カガは、海辺の邑、黒曜石の山、遠い水辺の邑を結ぶ道筋を、木の皮に刻んで残そうとした。


「道は、目に見えぬものだと思っていた」


 カガは、ゴウザに言った。


「だが、人が歩き、荷を運び、言葉を交わすたびに、道は太くなる。誰かが塞げば、また別の道を探す者が現れる」


 ゴウザはうなずいた。


「道は土の上にあるだけではない。人の心にもある。ひとたび心を閉ざせば、近くに住んでいても遠くなる。心を開けば、海の向こうの者とも手を結べる」


 そのころ、ミヤは一つの翡翠を仕上げていた。


 淡い緑の中に、白い筋が流れる小さな勾玉だった。


 彼女は穴を開け、磨き、指先で何度も確かめた。


 そして、アシナの前に置いた。


「これは、誰かに渡すためのものなの?」


 アシナが尋ねた。


「あなたと私のためよ」


 ミヤは、もうひとつ、同じ石から形を整えた小さな勾玉を取り出した。


「山から来た石は、ひとつ。でも、二つの形になった。どちらかが、もう一方のものになるのではないわ。二人がそれぞれ身につけて、同じ山を思い出せるようにしたいの」


 アシナは、しばらく言葉を失った。


 やがて、ミヤの手から一つを受け取り、自分の首にかけた。


「この石を見れば、おまえを思い出す」


「私は、あなたが帰ってくる道を思い出すわ」


 二人は、火のそばで静かに笑った。


 その夜、ヌナの邑では、秋の実りを祝う小さな祭りが開かれた。


 青銅の小さな鐘が鳴らされ、澄んだ音が夜の谷に広がる。


 女たちは頬に赤土を添え、貝殻や翡翠の飾りを身につけた。若者たちは歌い、火の周りを踊った。


 海辺のカイは、腕に刻まれた波の文様を見せながら、ナギに海の話を聞かせていた。


 ナギは、海の向こうにどのような島があるのか、いつか自分の目で見てみたいと語った。


 ミヤは、そんな妹の姿を見て微笑んだ。


「ナギは、遠くへ行きたいのね」


「姉さまも、いつか海を渡りたいと思ったことがあるでしょう?」


「あるわ。でも、今はこの谷が好き」


 アシナがそばに来た。


「俺もだ。ここには、おまえがいる」


 祭りの火は、夜更けまで燃え続けた。


 九 山は誰のものか


 冬の訪れとともに、ヌナの谷は白い雪に包まれた。


 人々は住まいの中で火を囲み、干し魚や木の実を分け合いながら、春の訪れを待った。


 争いは終わったように見えた。


 だが、カガのもとには、遠い土地から新たな知らせが届いていた。


 タケルは一度退いた後も、別の邑で人を集めているという。


 稲を蓄え、青銅の矛を作る者を呼び、海を渡る舟を増やしている。翡翠だけでなく、塩と黒曜石、鉄の道にも目を向けているらしい。


 そして、タケルの背後には、さらに大きな力を持つ者がいるという話もあった。


 カガは、その知らせをゴウザに伝えた。


「一度退いたからといって、欲が消えたわけではない」


 ゴウザは火に薪をくべた。


「そうだな。山を奪おうとする者は、また来るだろう」


「次は、もっと多くの者を連れてくるかもしれない」


「ならば、こちらも道を守る者を増やす。だが、武器を増やすことだけを考えてはならぬ」


 ゴウザは、火の向こうにいるアシナとミヤを見た。


「この谷に生きる者たちが、なぜ山を守るのか。なぜ道を守るのか。それを忘れれば、我らもタケルと同じになる」


 アシナは、首にかけた翡翠の勾玉を手に取った。


 冷たい石の感触が、掌に伝わる。


 この石は、山の深いところから生まれた。


 長い年月をかけて地の奥で形づくられ、雨や川に運ばれ、人の手に届いた。


 誰かが欲しがったからといって、山がその者のものになるわけではない。


 誰かが強いからといって、道を歩く者の自由を奪ってよいわけでもない。


 アシナは、火の向こうの人々を見た。


 父オト、母サナ、妹ナギ、友のサヌカ、妻となったミヤ、ゴウザ、カガ、海辺の者たち、山の向こうの者たち。


 この谷には、守るべき暮らしがある。


 それは、翡翠よりも深く、青銅よりも重いものだった。


 雪の降る夜、白瀬の川は静かに流れ続けていた。


 山は誰のものでもない。


 道は誰かひとりのためにあるのではない。


 そして、緑玉は、人々の手を結ぶことも、欲に狂わせることもある。


 その輝きの向こうに、まだ見ぬ大きな争いが待っていた。


 第十一部 了


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