第一巻 緑の神が眠る谷 第一部 山河に生まれた緑の石
一 白峰の朝
山々が、まだ夜の名残を抱いていた。
幾重にも連なる峰の頂には、白い雲がゆっくりと流れ、朝の光がその稜線を淡く照らしている。深い森からは鳥の声が聞こえ、谷間を吹き抜ける風が、木々の葉を静かに揺らしていた。
その山々に囲まれた広い谷を、人々はヌナの谷と呼んでいた。
谷の中央には白瀬の川が流れている。雪解けの水を集めた川は、白い石を転がしながら、森を抜け、やがて遠い海へと向かっていく。
川の両岸には、栗や胡桃の木が枝を広げ、春には若葉が萌え、夏には濃い緑の葉が森を覆う。秋になると木の実が豊かに実り、冬には雪が静かに大地を包んだ。
この谷に、ヌナの邑があった。
二十余りの住まいが、川から少し離れた緩やかな土地に寄り添うように建っている。木の枝を組み、草や樹皮を重ねた屋根の下では、家族が火を囲み、眠り、食べ、語り合う。
邑の人々は、森から木の実を集め、川で魚を捕り、山へ入って獣を追った。
春には山菜を摘み、夏には川魚を焼き、秋には木の実を蓄え、冬には干した肉や保存した食べ物を分け合った。
一人で暮らすには厳しい山の中であっても、人々は互いに助け合いながら、季節を越えていた。
その朝、アシナは夜明けとともに目を覚ました。
十八歳になったアシナは、若者の中でも背が高く、肩幅の広い男だった。山道を歩き、獣を追い、川を渡る日々によって、その身体にはしなやかな力が備わっていた。
日に焼けた褐色の肌。肩ほどまで伸びた黒髪は、植物の繊維を撚った紐で後ろに束ねている。鹿の皮で作った上着をまとい、腰には石の小刀を差していた。
住まいの外へ出ると、冷たい朝の空気が頬に触れた。
「とう。今日は川の上へ行ってくる」
火のそばで弓の弦を確かめていた父のオトが顔を上げた。
オトは四十二歳。若いころから山を歩き、獣の足跡を追ってきた男である。今は足を痛め、以前のように長い狩りへ出ることは少なくなったが、風の向きや土に残されたわずかな跡から、獣の動きを読む目は衰えていなかった。
「上の川は石が滑る。水の深いところへ入るなよ」
「わかっている」
「わかっていても、流れは変わる。昨日まで浅かった場所が、雨ひとつで深くなることもある」
オトは弓をアシナに差し出した。
「それから、獲物を見つけても、すぐに追い立てるな。風を見ろ。獣の耳と鼻は、おまえが思うより遠くの気配を拾う」
「うん。風を背にしない」
「そうだ。おまえは小さいころから見てきたことだ。何度聞いても、忘れるな」
アシナは笑った。
「とうは、同じことを何度も言う」
「山は同じことを何度も教える。だから、何度聞いてもよいのだ」
その言葉に、アシナはうなずいた。
住まいの奥では、母のサナが木の実を選り分けていた。黒髪には少し白いものが混じり、後ろでひとつに束ねられている。
そのそばでは、妹のナギが、編み籠を抱えていた。
十三歳のナギは、細身で丸い顔をしている。大きな黒い目は、いつも何かを見つけようとするように輝いていた。
「兄ちゃん、帰りに赤い実を見つけたら持ってきてね」
「赤い実か。食べられるものならな」
「この前のは甘かったよ」
「おまえが先に食べて、甘いと言った実だろう」
「だって、おいしかったもの」
ナギは悪びれずに笑った。
サナが二人を見て、穏やかに言った。
「赤い実を見つけても、よく見てから食べるんだよ。鳥が食べる実でも、人の腹に合うとは限らないからね」
「うん、かあ」
アシナは編み袋を肩に掛け、弓を手に取った。
「行ってくる」
「気をつけておいで」
母の声を背に、アシナは白瀬の川へ向かった。
二 川辺の緑
朝の川は、澄んだ水をたたえていた。
水底の石がひとつひとつ見えるほど透明で、流れの緩やかな場所には小魚が群れている。岸辺では鹿の足跡が泥に残り、少し離れた砂地には鳥の細い足跡がいくつも並んでいた。
アシナは川沿いの道を歩きながら、森の様子を確かめた。
枝の折れ方、草の倒れ方、土に残る跡。幼いころから父に教わり、何度も山で確かめてきたことだった。
川が大きく曲がる場所まで来たとき、対岸の木陰から声がした。
「アシナ!」
振り向くと、サヌカが手を振っていた。
サヌカは十九歳。アシナより少し背が低く、頬にはまだ若者らしい丸みが残っている。短い黒髪を風に揺らし、首には獣の牙を通した飾りを下げていた。腰には編み籠がある。
「何をしている?」
アシナが声をかけると、サヌカは籠を持ち上げた。
「木の実を探していた。だが、見つけたのは小さな実ばかりだ」
「まだ早いのだろう」
「そうかもしれぬ。腹が減っているから、木々が実を隠しているように見える」
「木々は、おまえの腹など知らない」
「ならば、知ってもらわねばならぬな」
二人は声を立てて笑った。
しばらく川沿いを歩いたあと、アシナは水辺の石を眺めた。
白い石、灰色の石、黒い石。流れに磨かれた石は、どれも角が丸くなっている。
その中に、ふと目を引くものがあった。
白い石の間に、緑色の筋が走っている。
アシナは腰を下ろし、水の中へ手を伸ばした。
石を持ち上げると、水滴が指の間を流れ落ちた。
それは、手のひらに収まるほどの大きさだった。表面には白い部分と深い緑の部分が入り交じり、濡れたところには、森の奥に差し込む光のような柔らかい輝きがあった。
「何だ、それは?」
サヌカが近づいてきた。
「石だ」
「石なのは見ればわかる」
「では、何に見える?」
サヌカは石を覗き込んだ。
「森の色が入っているようだな」
アシナは石を傾けた。
光の当たる角度によって、緑の色合いが少しずつ変わって見える。
「山の中にも、こんな石があるのだろうか」
「あるかもしれぬ。だが、俺は見たことがない」
「ゴウザなら知っているかもしれないぞ」
その名を聞いて、アシナはうなずいた。
ゴウザは、ヌナの邑の人々の中でも、とりわけ山に詳しい男だった。五十を越えた身体には深い皺が刻まれ、白髪の多い髪と短い髭を蓄えている。
どの尾根に水が湧くか。どの岩場に石が露出しているか。雪が消えるのはどこからか。森の獣がどの道を通るか。
長い年月を山とともに過ごしてきたゴウザは、誰よりも多くのことを知っていた。
「持っていこう」
アシナは石を編み袋にしまった。
「そんな石が、何かになるのか?」
サヌカが尋ねた。
「わからない。だが、見ていると気持ちがよい」
「食べられぬし、弓の矢にもならぬぞ」
「おまえは何でも食べ物に結びつけるな」
「腹が減っているからな」
また二人の笑い声が、川の流れに重なった。
三 緑を見つめる娘
昼近くになり、アシナは邑へ戻った。
住まいのそばでは、女たちが木の実を乾かし、子供たちが小枝を集めていた。火のそばでは、朝に獲れた魚が焼かれ、香ばしい匂いが風に乗っている。
アシナはゴウザを探したが、山へ出ているらしく姿がなかった。
その代わり、サエの住まいの前で、ミヤが石を磨いていた。
ミヤは十七歳。すらりとした体つきで、長い黒髪を後ろで束ねている。明るい褐色の肌と切れ長の目が印象的な娘だった。
彼女の前には、いくつかの石と、粒の粗い砂、細かな砂、平らな磨き石が並んでいた。
ミヤは石の表面を確かめ、少しずつ手を動かしている。
「ミヤ」
呼ばれて顔を上げると、彼女の目がアシナに向いた。
「アシナ。川へ行っていたの?」
「うん。おまえに見せたいものがある」
アシナは編み袋から、先ほどの石を取り出した。
ミヤは手を止めた。
「これは……」
石を受け取ると、両手でそっと包み、日の光の下へ持ち上げた。
「緑のところが、光を受けているわ」
「川の石だ。白い石の間にあった」
ミヤは石を裏返し、指先で表面をなぞった。
「硬そうね。けれど、よく見ると白いところと緑のところで、少し違って見える」
「磨けるだろうか」
「すぐにはわからないわ。石にも、それぞれ違いがあるもの。硬い石もあれば、割れやすい石もある。磨く前に、よく見なくては」
ミヤの声には、石を扱う者ならではの慎重さがあった。
彼女は以前から、石や貝、骨などを使って小さな飾りを作っていた。石を打ち欠き、形を整え、砂で磨く。穴を開けるときには、細い石錐を使い、少しずつ時間をかけて進める。
小さな傷ひとつで、石は割れてしまう。
そのことをミヤはよく知っていた。
「この石は、山から来たのかしら」
「川にあった」
「川は山から流れてくるもの。山のどこかに、同じ色の石があるかもしれないわね」
「ゴウザに尋ねてみよう」
ミヤは石を返さず、もう一度光にかざした。
「ねえ、アシナ。この緑は、森の色に似ているわ」
「そうだな」
「でも、葉っぱとは違う。葉は風に揺れるけれど、この緑は石の中で眠っているよう」
アシナは、彼女の言葉を聞きながら石を見つめた。
石の中に眠る緑。
その言葉が、胸の奥に静かに残った。
四 山を知る老人
夕暮れが近づいたころ、ゴウザが邑へ戻ってきた。
背には山で採った木の実や薬草を入れた籠を負い、手には細長い杖を持っている。
アシナは、ミヤとともにゴウザのもとへ向かった。
「ゴウザ、見てほしい石がある」
アシナが差し出すと、ゴウザは黙って受け取った。
彼はすぐには何も言わなかった。
石を手の中で転がし、緑の部分を指でなぞり、光に透かすように眺めた。
やがて、低い声で尋ねた。
「どこで見つけた」
「白瀬の川の上流寄りだ。水の中にあった」
「川の底か」
「そうだ」
ゴウザは石を見つめたまま、しばらく考えていた。
「これは、ただの緑色の石ではないかもしれぬ」
「山にあるのか?」
アシナが尋ねた。
「山の石が、長い年月をかけて川へ運ばれてきたのだろう。だが、この石がどこから来たのかは、まだわからぬ」
ゴウザは石をアシナに返した。
「明日、山へ入る。おまえも来るか」
「行く」
「ミヤも、石を見る目があるなら来るとよい」
ミヤは少し驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。
「私も行きたいわ」
ゴウザは、二人の顔を見比べた。
「山は、欲しいものをすぐに与えてはくれぬ。歩き、見つめ、待たねばならぬ。石を見つけても、すべて持ち帰ってよいわけではない」
「どうしてだ?」
アシナが尋ねる。
「山の石は、山が長い年月をかけて育てたものだ。必要な分だけをいただく。山を傷めれば、やがて山は人に恵みを返さなくなる」
ゴウザの目は、遠くの峰を見つめていた。
「木も、獣も、水も、石も、みな同じだ。人だけのものではない」
アシナは、手の中の緑の石を見た。
それは小さな石だった。
しかし、山の奥深くから長い年月をかけて川へ運ばれてきたものだと考えると、手のひらにある重みが、少し違って感じられた。
五 火のそばの願い
夜が訪れた。
ヌナの邑では、いくつもの火が赤く燃え、住まいの間から人々の声が聞こえていた。
夕餉には、焼いた魚と木の実を煮たものが並んだ。サナは栃の実を丁寧に灰汁抜きし、柔らかく煮ていた。干した肉は小さく切り、土器の中で煮込まれている。
ナギは、兄が持ち帰った緑の石を何度も眺めていた。
「これが山の奥から来たの?」
「そうかもしれない。明日、ゴウザと確かめに行く」
「私も行きたい」
「おまえは、かあの木の実拾いを手伝うのだろう」
「でも、山の石を見るのも大事だと思う」
「山は逃げない。今度、連れていってやる」
ナギは少し頬を膨らませたが、やがて笑った。
ミヤも火のそばに座っていた。
彼女は緑の石を見つめながら、小さく言った。
「この石を、いつか飾りにできたらよいわね」
「できると思うか?」
「まだわからない。でも、できるなら、きれいに磨いてみたい。緑がいちばん美しく見える形を探したいの」
アシナはうなずいた。
「おまえなら、きっとできる」
ミヤは少しだけ目を伏せた。
「石は、急いで磨くと傷つくの。人の手も同じかもしれないわね」
「人の手?」
「急がず、少しずつ。大切に扱えば、よいものが生まれることもあるでしょう」
火の明かりが、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
アシナは、その言葉を胸にしまった。
その夜、彼は住まいの奥で眠りにつく前に、もう一度、緑の石を手に取った。
火の光を受けた石の中で、深い緑が静かに輝いていた。
それは、まだ誰の名も持たない石だった。
誰かの首を飾るものでもなく、遠い土地へ運ばれるものでもない。
ただ、山の奥で生まれ、長い年月を経て川へたどり着いた、小さな緑の石だった。
けれど、その石を見つけた若者と、その石を磨こうとする娘、そして山を知る老人の出会いが、やがて多くの人々を結びつけていくことになる。
山の恵みを求める者。
美しい石を磨く者。
遠い土地へ運ぶ者。
そして、その石に特別な願いを託す者。
まだ誰も知らない。
この谷で見つかった小さな緑が、幾つもの山を越え、川を渡り、海の彼方へと旅立っていくことを。
その始まりは、白瀬の川辺に落ちていた、ひとつの石だった。
第一部 了
次回 第二部「石を見る娘、緑を磨く手」
ミヤは、緑の石を磨くための砂と道具を選び始める。ゴウザはアシナたちを山の奥へ導き、翡翠の石が生まれる場所を探す。やがて人々は、石を見つけることと、それを美しい勾玉へ変えることが、まったく別の知恵と手仕事を必要とするのだと知る。




