愛されたかった子供はもういない〜娘を放置して王女を優先し続けた候爵夫人が孤独になった理由〜
マリアンヌ・フォン・ヴァルディアは、侯爵令嬢である。
侯爵家の一人娘として生まれ、何不自由なく育てられた――そう、誰もが思っていた。
けれど、実際のマリアンヌの幼少期は、ひどく寂しいものだった。
「お母様は?」
幼いマリアンヌがそう尋ねるたび、侍女たちは困ったように笑った。
「奥様は、第二王女殿下のお世話をなさっています」
それが答えだった。
マリアンヌの母、侯爵夫人エレオノーラは、第二王女の乳母を務めていた。
王家から信頼されるほどの役目なのだから、誇るべきことなのだろう。
けれど幼いマリアンヌにとっては、母が自分よりも別の子供を優先しているという事実でしかなかった。
熱を出しても母はいない。
誕生日にも母はいない。
初めて文字を書けるようになった日も、初めて乗馬ができた日も、母に見せることはできなかった。
そんなマリアンヌに、いつも声をかけてくれた人がいた。
「マリアンヌ、また一人でいるのか?」
「お兄様……」
侯爵家の跡継ぎとして親戚から迎えられたレオナルドだった。
血の繋がりはない。
けれど、マリアンヌにとっては誰よりも大切な兄だった。
「今日は庭に行こう。新しい薔薇が咲いたらしいぞ」
「でも、お兄様はお勉強が……」
「そんなものは後でいい」
そう言って笑う。
マリアンヌが転べば手を差し伸べ、泣けば背中を撫で、嫌なことがあれば代わりに怒ってくれる。
いつしかマリアンヌにとって、レオナルドは兄であると同時に、自分を守ってくれる唯一の家族になっていた。
そして時が流れ、マリアンヌは王立学園へ入学した。
侯爵令嬢という身分。
美しい容姿。
穏やかで優しい性格。
学園では自然と多くの令息から好意を寄せられた。
告白されたことも一度や二度ではない。
けれど、マリアンヌの心はどこか冷めていた。
誰と結婚するのか。
どこの家へ嫁ぐのか。
夫を支え、子を産み、家同士の関係を維持する。
その先には、自分の意思などほとんど存在しない。
そして父である侯爵から見れば、自分は侯爵家の利益になる相手へ嫁がせるための駒に過ぎない。
そんな未来を考えるほど、胸が息苦しくなった。
ある日の夕暮れ。
マリアンヌは、侯爵邸の書斎でレオナルドを訪ねた。
「お兄様……少し、ご相談があります」
「どうした?」
いつものように、レオナルドは優しく微笑んだ。
「私、この先どうすればいいのでしょう」
「……」
「学園を卒業したら、どこかの家へ嫁ぐのでしょう? でも、私は……」
言葉が詰まる。
「この家を出たくありません」
それは、侯爵家が好きだからではなかった。
ここにいれば、レオナルドがいるからだ。
「お兄様の補佐をして……この家で、ずっと働くことはできないでしょうか」
「マリアンヌ」
「もちろん、無理なのは分かっています。でも……」
「なら、簡単な話だ」
「え?」
レオナルドは立ち上がった。
そして、マリアンヌの前まで歩いてくる。
「俺と結婚すればいい」
「…………え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「俺はマリアンヌが好きだ」
「お兄様……?」
「兄妹としてではない」
心臓が、大きく跳ねた。
「ずっと好きだった。だから、誰かのところへ嫁ぐ必要なんてない。俺と結婚して、この家で一緒に暮らそう」
マリアンヌの目に涙が浮かんだ。
嬉しかった。
嬉しくて、仕方がなかった。
ずっと欲しかった言葉だった。
自分を必要としてくれる人がいる。
ここにいていいと言ってくれる人がいる。
「……私も」
声が震える。
「私も、お兄様が好きです」
その日から、マリアンヌは変わった。
世界が急に明るくなったようだった。
学園へ行けば、友人に嬉しそうに話す。
帰宅すればレオナルドを探す。
婚約や結婚という言葉すら、以前とは違う意味を持つようになった。
そして数週間後。
珍しく、侯爵家の家族四人が揃って夕食を取ることになった。
父である侯爵。
母である侯爵夫人。
レオナルド。
そしてマリアンヌ。
四人で食卓を囲むのは、何年ぶりだっただろう。
食事が進み、レオナルドが静かに口を開いた。
「父上、母上」
「なんだ?」
「俺は、マリアンヌと結婚したいと思っています」
父親は驚いたものの、すぐに頷いた。
「……なるほど」
「反対はしませんか?」
「マリアンヌは侯爵家の娘だ。お前が本当に望むなら、悪い話ではない」
マリアンヌの胸が高鳴った。
けれど。
「お待ちください」
母の声が、それを打ち砕いた。
エレオノーラは険しい顔をしていた。
「レオナルド。その結婚だけは認められません」
「なぜです?」
「あなたには、もっと相応しい相手がいるでしょう」
「誰ですか?」
「第二王女殿下です」
空気が凍った。
「王女殿下は近いうちに臣籍降下なさる予定です。そうなれば、侯爵家の跡継ぎであるあなたの妻として――」
「母上」
レオナルドの声が低くなる。
「俺はマリアンヌと結婚したいと言った」
「ですが、マリアンヌでは侯爵家を支えられません」
「……」
「そもそも、マリアンヌにはこの家も、あなたも贅沢すぎるのです」
マリアンヌは瞬きをした。
意味が分からなかった。
「私には……贅沢、なの?」
「そうです」
母は迷いなく言った。
「あなたは十分に恵まれているでしょう。何不自由なく侯爵令嬢として暮らし、将来は良い家へ嫁ぐ。それだけで十分ではありませんか」
「…………」
「あなたには分からないでしょうけれど、王女殿下には私が必要なのです」
その瞬間。
マリアンヌの中で、何かが崩れた。
幼い頃。
母を待っていた。
母が帰ってくる日を待っていた。
母に抱きしめてもらえる日を待っていた。
けれど母は、ずっと別の少女のところにいた。
そして今。
母は自分より、その少女を選んだ。
「……そう」
マリアンヌは小さく呟いた。
「お母様にとっては、そうなのですね」
誰も答えなかった。
その夜。
マリアンヌは高熱を出して倒れた。
何日も眠り続けた。
そして、その夢の中で――前世の記憶を思い出した。
日本。
満員電車。
毎日残業。
上司の理不尽な叱責。
休日も鳴る電話。
自分を大切にすることを忘れていた、ひとりの会社員。
そして、夢の中で自分は何度も考えていた。
どうして私は、こんなに頑張っているんだろう。
どうして大切にされない人を、大切にし続けているんだろう。
目が覚めた時、熱は下がっていた。
頭の中は驚くほどすっきりしていた。
そして、ひとつの言葉が浮かんだ。
――機能不全家族。
「……そうか」
マリアンヌは天井を見つめた。
親だから。
母だから。
家族だから。
だから大切にしなければならない。
そんな決まりはない。
自分を大切にしてくれる人を、自分も大切にすればいい。
自分を傷つける人からは、離れていい。
「お母様に愛されなかったからって、私の価値が低いわけじゃない」
初めて、そう思えた。
それからマリアンヌと母の間で静かな冷戦が始まった。
挨拶はする。
必要な会話もする。
けれど、それだけ。
以前のように母の顔色を窺うこともない。
母が王女の話を始めても、興味を示さない。
レオナルドがそばにいてくれる。
それだけで、十分だった。
そんなある日。
国王から重大な発表がなされた。
「第二王女殿下と、隣国の公爵家当主との婚姻が正式に決定した」
侯爵邸に衝撃が走った。
エレオノーラは愕然とした。
「そんな……」
第二王女が臣籍降下し、レオナルドの妻になる。
その未来を、彼女は当然のものだと思っていた。
しかし現実は違った。
王女は隣国へ嫁ぐ。
そしてエレオノーラも、乳母として王女についていくことになった。
「お母様……」
出発の日。
マリアンヌは玄関で母を見送った。
「マリアンヌ」
エレオノーラが呼ぶ。
けれど、マリアンヌはただ静かに頭を下げた。
「お気をつけて」
それだけだった。
馬車が遠ざかる。
マリアンヌは追いかけなかった。
母も、振り返らなかった。
――はずだった。
隣国へ渡ったエレオノーラは、必死だった。
王女の身の回りの世話。
食事の管理。
衣服の準備。
寝室の整頓。
何もかも完璧にしようとした。
けれど、隣国の文化は彼女が知るものとは大きく違った。
料理も違う。
言葉も違う。
生活習慣も違う。
やがて身体を壊した。
それでもエレオノーラは王女のそばを離れなかった。
「殿下のおそばにいなければ」
けれど、第二王女は困ったように笑った。
「もう大丈夫ですよ」
「しかし……」
「こちらの侍女たちは優秀ですし、公爵様も私を大切にしてくださっています」
実際、その通りだった。
公爵は王女を大切にした。
食事も衣服も、何一つ不自由させなかった。
そして、いつも王女のそばにいるエレオノーラを、次第に疎ましく思うようになった。
「侯爵夫人」
ある日、公爵は冷たく告げた。
「あなたには帰国していただきたい」
「ですが、私は殿下の乳母です」
「殿下はもう成人している。あなたがいなくても問題ない」
「そんな……」
「むしろ、あなたがいることで殿下が新しい生活に馴染めていない」
エレオノーラは何も言えなかった。
そして、一人で帰国した。
侯爵邸へ戻った彼女を迎えたのは、以前とは違う静かな家だった。
「マリアンヌは?」
「お嬢様なら学園へ」
その答えを聞いた瞬間。
エレオノーラの胸が締め付けられた。
かつて、自分がいなくても平気なのだと思った。
第二王女のそばにいることこそが、自分の存在価値なのだと思っていた。
けれど。
帰国して初めて気づいた。
王女は自分がいなくても幸せに暮らしている。
笑っている。
夫に愛されている。
新しい国で、新しい人生を歩んでいる。
「……私がいなくても」
エレオノーラの目から涙が落ちた。
「大丈夫なのね……」
それは当然のことだった。
けれど、彼女には耐え難かった。
自分がいなくても大丈夫な存在。
その現実が、胸に刺さった。
そして。
「マリアンヌ……」
今度は娘の名前が口から出た。
自分を必要としてくれるかもしれない。
今度こそ、娘を大切にしよう。
そう思った。
翌日から、エレオノーラはマリアンヌに声をかけるようになった。
「マリアンヌ。今日は一緒にお茶を飲みませんか?」
「結構です」
「では、明日は――」
「予定があります」
「……そう」
何度話しかけても、マリアンヌは拒絶した。
ある日、エレオノーラは耐え切れずに尋ねた。
「どうして……そんなに冷たいの?」
マリアンヌは静かに母を見た。
「冷たい?」
「私はあなたの母親なのよ」
その言葉を聞いて、マリアンヌは少しだけ悲しそうに笑った。
「だから何ですか?」
「……」
「お母様が私の母親であることは、否定しません」
マリアンヌは淡々と言った。
「でも、それだけです」
「マリアンヌ……」
「私はずっと、お母様に振り向いてほしかった」
その言葉に、エレオノーラの顔が強張った。
「寂しかった。何度も泣きました。熱を出した時も、お誕生日も、お母様が帰ってくるのを待っていました」
「……」
「でも、お母様には第二王女殿下の方が大切だった」
「違うの!」
初めて、エレオノーラが声を荒らげた。
「違うわ。私は、殿下を守らなければならなかっただけで――」
「分かっています」
マリアンヌは遮った。
「お母様にとっては、そうだったのでしょう」
その優しい言い方が、かえって残酷だった。
「だから私も、自分にとって大切な人を大切にします」
マリアンヌは隣に立つレオナルドを見た。
レオナルドは何も言わず、彼女の手を握った。
「私はもう、お母様に愛されるために生きるつもりはありません」
エレオノーラの目から涙が落ちる。
「私は……母親なのよ」
「はい」
「あなたを産んだのよ」
「はい」
「それなのに……」
マリアンヌは静かに首を横に振った。
「産んでくれたことには感謝しています」
そして、はっきりと言った。
「でも、私の人生まで、お母様のものではありません」
エレオノーラは何も言えなかった。
その夜。
マリアンヌはレオナルドの部屋を訪れた。
「……お兄様」
「どうした?」
「私、間違っていないでしょうか」
レオナルドは首を横に振った。
「間違っていない」
「お母様を許せない自分は、悪い娘でしょうか」
「そんなことはない」
レオナルドはマリアンヌの頭を撫でた。
「お前はもう十分苦しんだ」
「……はい」
「これからは、自分が幸せになることだけ考えればいい」
マリアンヌは目を閉じた。
幼い頃からずっと欲しかったもの。
母の愛ではなかったのかもしれない。
ただ、自分を必要としてくれる誰かが欲しかった。
そして今。
その人は、目の前にいる。
「お兄様」
「なんだ?」
「私、幸せになりたいです」
「ああ」
「お兄様と一緒に」
レオナルドは微笑んだ。
「俺もだ」
その日。
マリアンヌは初めて、自分自身の人生を選んだ。
母に選ばれなかった少女は、母を選ばないことを決めた。
そして、誰かのための駒ではなく。
侯爵家の娘という肩書でもなく。
ただ一人の女性として。
自分を大切にしてくれる人と、これからの人生を歩んでいくのだ。




