陽炎の午後
「出て…ねえ出てよ…」
絞り出すようにつぶやく美沙の耳に、途切れる気配のないコール音が聞こえている。
もう何度目だろう。
いくらスクロールしても足りないほど、スマホの発信履歴は同じ名前で埋め尽くされている。
「お願いだから出て…」
樹が行方不明になってから、もう一週間以上が経っていた。
付き合い始めて1年、メッセージのやり取りが3日と空いたことのなかった彼からの最後のLINEが8月6日。
返信に既読がつかず電話をしても繋がらないことがだんだん不安になり、彼の部屋へ様子を見に行ったのが10日。
合鍵を使って入ったアパートの部屋はむっとした空気が充満していて、ここ数日彼が帰ってきたような痕跡は見当たらなかった。
折悪しく大学は夏休み。
学科やサークルなどの共通の知り合いにも連絡を取ってみたが、誰も6日以降の彼の消息を知る者はいなかった。
虚しく鳴り続ける呼び出し音を止めると、画面の時刻表示が目に入った。
「8月15日(水)14:26」
全国各地で酷暑日となっている真夏の午後。
窓の外では、熱せられたアスファルトの上で空気が揺らぎ、景色が歪んで見えていた。
(樹…お願いだからいい加減電話に出てよ…)
美沙が縋りつくようにスマホを握りしめたその時、突然それが震え出した。
驚いて取り落としそうになったスマホを持ち直し美沙が画面を見ると、そこには樹の名前が表示されていた。
美沙が慌てて電話を取る。
「も、もしもし!樹?!」
「うっわ、耳いてえよ。どうしたの、そんな大きな声出して」
久しぶりに耳にした樹の声に、美沙の心に安堵が広がる。
「どうしたのって…どうしたもこうしたもないわよ、あたしがどれだけ心配したと思ってるの?」
「心配?いや、美沙ほんとにどうしたんだよ、ちょっと落ち着けって」
「落ち着けじゃないわよ、あんた一週間以上も音信不通だったのよ?」
「…は?えっ、待てよ、何、これなんかのドッキリとか?」
美沙の胸中にざわめきが戻ってくる。
樹の様子が変だ。彼は本心で戸惑っているように思えた。
「ねえ樹、あんた今どこにいるの?ずーっと連絡が取れなかったんだよ?」
「だから何言ってるんだよ。美沙、さっきまで一緒にいただろ?」
「…え?」
美沙の思考が停止した。
「さっきまで一緒にいた…?」
電話の向こうで樹が苦笑している。
「そうだよ。さっきまで二人で映画観てただろ?美沙が観たいって言ったあのホラーの。で、ご飯食べてついさっき別れたじゃん」
「ホラー…」
ホラー映画は確かに観た。
有名な監督の新作で、とても楽しみにしていたやつだ。
それを観に行った日って…。
美沙の胸を打つ音が激しくなる。
いつのまにか口の中に溜まっていた唾をごくりと吞み込んで、美沙がゆっくりと尋ねる。
「ねえ樹?変なこと訊くけどさ。樹は今、今日が何日だかわかる?」
美沙は、手のひらがじわりと汗ばむのを感じていた。
緊張を静めようと窓の外へ目をやると、視界が陽炎を捉えた。
また気温が上がったのだろうか。外の世界が一段と歪んで見えている。
電話の向こうで樹がまた笑う。
「ほんとに変なこと訊くね。今日は6日の月曜日だよ?せっかく夏休みだし平日の方が映画館空いてるんじゃない?って話して映画観に行くの月曜にしたんじゃん。ま、同じこと考えてる学生がいっぱいいて、逆に混んでたけどな」
樹が嘘や冗談を言っているとは思えない。
そんな演技ができるほど彼は器用じゃない。
樹が苦笑いする声を聞きながら、美沙は手のひらから滑り落ちそうになるスマホを必死に握りしめていた。
どうして過去に繋がってるの…。
樹は、どこに行ってしまったの…。




