戯曲『夜叉ヶ池』 泉鏡花 現代語訳
本文は、青空文庫の内容を生成AIを使い現代語風に訳したものです。
夜叉ヶ池の伝説の後日談として、戯曲として書かれたものです。
本編「夜叉姫」にも、次章以降に、鏡花が登場するつもりで、
その予備知識として掲載いたします。
場所 越前国大野郡鹿見村琴弾谷
時 現代。――盛夏
人名 萩原晃(鐘楼守)
百合(娘)
山沢学円(文学士)
白雪姫(夜叉ヶ池の主)
湯尾峠の万年姥(眷属)
白男の鯉七
大蟹五郎
木の芽峠の山椿
鯖江太郎
鯖波次郎
虎杖の入道
十三塚の骨
夥多の影法師
黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者)
与十(鹿見村百姓)
その他大勢
鹿見宅膳(神官)
権藤管八(村会議員)
斎田初雄(小学教師)
畑上嘉伝次(村長)
伝吉(博徒)
小烏風呂助(小相撲)
穴隈鉱蔵(県の代議士)
劇中名をいうもの。――(白山剣ヶ峰、千蛇ヶ池の公達)
三国岳のふもとの村に、夕方六時を知らせる鐘が鳴る。――幕が上がる。
萩原晃は、このときすでに白髪まじりになっていた。彼は鐘楼の上に立ち、沈みゆく夕日を眺めている。鐘楼の柱には蔦が絡まり、長い石段には苔が生え、屋根には草まで伸びていた。
やがて晃はゆっくりと階段を下り、湧き水のそばで米を研いでいるお百合の後ろへ歩いていく。
晃 「水って、本当にきれいだな。何度見ても……きれいだ。」
百合 「ええ。」
水辺には菖蒲が二、三輪、小さく花を咲かせている。
晃 「澄んだ水だよ。」(微笑む)
百合(晃の白髪交じりの鬢にそっと手をやりながら)
「でも、白くなってしまいましたもの。」
晃 「そりゃ、米を研いでるから白く見えるだけさ。」
(縁側に腰を下ろす)
「台所仕事、ご苦労さま。せっかくきれいな手が水仕事で荒れちゃもったいない。少し手伝おうか。」
百合 「大丈夫ですよ。」
晃 「いや、手伝うっていうより……そうしている君の姿が、咲き残った菖蒲が水面に映ってるみたいで、なおさらきれいなんだ。」
百合 「知りません。」
晃 「褒めたのに、怒る人があるかい。」
百合 「からかっていらっしゃるんですもの。……それに旦那様が、こんな台所に出てくるものじゃありません。早く机のところへ戻ってくださいな。」
晃 「鐘をつく旦那なんて変だろう。いっそ権助にでも名前を変えて、さっさと飯にありつきたいよ。腹が減って仕方ない。さっき鐘をついた撞木が、杖代わりに見えるくらいだ。……居ながら催促って手もあるしな。」
百合 「ふふ、またいつもの調子。……すぐ夕飯にしますからね。」
晃 「手品じゃないんだから、今研いでる米がすぐご飯になるわけじゃないだろう。」
百合 「まあ、何をおっしゃるの。これは明日の朝の分を仕込んでいるんですよ。」
晃 「明日の朝の分か……なるほど、所帯持ちってそういうものだな。安心したと思ったら、余計がっかりして腹が減った。」
百合 「困った人ですねえ。……おかずも、あなたの好きな鴫焼きを作ってあげますから、おとなしく待っていてください。お腹が空いたなんて、人に聞かれたら笑われますよ。」
晃(縁側へ上がりながら)
「誰に遠慮することがある。笑うのは、なあ、お前くらいだろう。」
百合 「はい。」
晃 「お互い朝寝坊した時なんか――」
百合 「知りませんよ。」(にっこりしてうつむく)
晃 「やかましい藪蚊が寄ってきた。裏縁で煙に巻いてやろう。」
(納戸の方へ行き、振り向いて山を見上げる)
「……雲の峰を焼き落としたみたいに、三国岳が燃えて見える。西は近江、北は加賀、遠く美濃の山々まで、何万本もの松明を並べたように、日照りの炎で囲まれている。夜叉ヶ池にも映っているだろう。ちょうど水の上あたり、宵の明星まで赤い。……どうにも雨の気配がないな。」
百合 「……あの竜が棲むという夜叉ヶ池から、水脈が続いていると申します。この清水も、気のせいか流れがずいぶん細くなりました。このごろ村では大騒ぎなんです。……暑さも厳しいし……あなたのお身体にさわりはしないかと。食べるものにも不自由するこの山里では、私はそれが心配でたまりません。」
晃 「水の流れが細くなったって構わないさ。それよりお前こそ、夏痩せしないようにな。……お百合さん、その夕顔の花に、ちょっと触ってみないか。」
百合 「はい? どうしてですか。」
晃 「花にも葉にも、露があるだろう。」
百合 「ああ、冷たい。水仕事の手にも涼しいくらい、しっとり濡れていますよ。」
晃 「世間の人には金もいる、田んぼもいる、雨も必要だろう。だが俺たち二人が生きるには、百日照り続けても乾きはしない。……その露があれば十分なんだ。」
(外へ向いた障子を閉める)
百合 「あなた、暑くありませんか。開けておいても、もう人通りもありませんでしょうに。」
晃 「そんな改まって気にすることじゃないさ。……夕方に閉めてひとしきり燻しておけば、蚊もずいぶん楽になる。」
蚊遣りの煙がたなびく。
そこへ学円が現れる。日に焼けたパナマ帽、背広姿の落ち着いた男だ。風呂敷包みを斜めに背負い、脚絆に草鞋、杖代わりの洋傘をついて鐘楼の下へ来る。鐘を見上げて――
学円 「今朝、明け六つに橋を渡って、ここで暮れ六つの鐘を聞いた……。」
お百合は笊に米を移す。
学円 「やあ、よく働いておられますな。」
百合 「はい。」(振り向く)
学円 「途中、畦道の竹藪へ出ましてな……暗くなったところで、つい今しがたこの鐘の音を聞きました。時を告げたのは、この鐘ですかな。」
百合 「ええ、そうでございます。」
学円 「なんと尊い音だ……立派な鐘ですな。鐘楼へ上がって見ても差し支えありませんか。」
百合(笊を抱えて立ち上がる)
「ええ、かまいませんとも。でも、お客様、冗談でも杖なんかで叩いてはいけませんよ。」
学円「西瓜を買うんじゃあるまいし、決して叩きませんよ。」(笑う)
百合 「まあ、おっしゃいますこと。……いいえ、いたずらなさるようなお方には見えませんけれど、この鐘は明け六つ、暮れ六つ、それに夜中の丑三つ時に一度――一日に三度しか鳴らさない決まりでございますから。失礼とは思いましたが、ひと言申し上げたのでございます。さあ、どうぞご遠慮なく上ってご覧くださいませ。」
(夕顔の垣根の方へ入ろうとする)
学円 「ああ、ちょっとお待ちください。鐘も見たいのですが、こうして言葉を交わしたご縁です。ぶしつけながら、お茶でもお湯でも一杯ふるまってはいただけませんか。」
百合 「それくらい、たやすいことです。さあ、こちらへお掛けください。」
学円 「では、ご免ください。」
百合 「お見苦しいところでございますが。」
学円 「これは……寺の庫裏とも見えませんな。本堂は離れたところにありますか。」
百合 「いいえ。昔に焼けてしまったと申します。もう寺はないのでございます。」
学円 「鐘だけが残っている……」
百合 「はい。」
学円「鐘だけが……なるほど。ところで、さっきの西瓜の話ですが。」
(帽子を脱ぎ、ほとんど剃髪したような短髪の額をなでる)
「西瓜はなくとも、甜瓜の一つくらいありませんかな。……茶店でもなさそうですし。」
(あたりを見回す)
片山家の夕暮れ。低い茅葺きの納戸の障子に灯りが映る。
学円 「この上、晩飯までねだるつもりはありませんが、どうにも腹が減りましてな。」
百合(くすりと笑って)
「筧の下に梨を冷やしてございます。お出ししましょう。」
(夕顔の陰へ回る)
学円(茶をがぶがぶ飲み、懐から扇子を出してあおぎながら、夕顔を見上げる)
「おお、咲きましたな。まるで、あなたのお顔を見るようだ。」
百合 「ええ?」(聞き返す)
学円 「いや、髪の色を見るようだ、と申したのです。」
百合 「もう、年を取りますと花どころではございません。早く干瓢にでもなれれば……そればかり待っております。」
学円 「小刀をお貸しください。私が剥きましょう。……お世話になるばかりでは気が引けます。旅暮らしゆえ、不器用ながら梨の皮くらいはうまく剥けますぞ。……おお、氷より冷たい。玉を削るとはこのことですな。」
百合 「旅のお方とお見受けいたしますが……お客様は、どちらからどちらへ?」
学円「さて、名乗るほどでもありません。見ての通り学校勤めの者でして、夏休みに見物半分、学問半分で歩いております。もっとも帰り道ですが。……涼しければ木ノ芽峠、名高い中河内か。峰の茶店に赤い前掛けの茶汲み娘がいるという話が本当なら、疱瘡神の建場でもかまわん。湯の尾峠を越えようとも思っています。……落ち着く先は京都です。」
百合 「では、お泊まりは? 今晩の。」
学円 「ああ、うっかり泊まりなどお尋ねにならぬほうがよろしい。言葉尻につけて、宿を頼み出すやもしれませんぞ。ははは。……冗談です、ご心配なく。しかし、その湯の尾峠の茶汲み娘は、今でも赤い前掛けですかな。」
百合 「山また山の峠の中で、嘘のように思われましょうが、本当でございます。」
学円 「谷の姫百合も緋色に咲くのなら、それも不思議ではない。だが、この重なり合う山々の頂を見れば……夕焼け雲が岩肌に燃え移るようだ。こりゃ赤い前掛けより、雪女の方が似合うかもしれん。何にせよ暑いことです。……ようやくここで一息つきました。」
百合 「里では人死にも出ております。ひどい日照りでございますもの。」
学円 「今朝から難行苦行のような道中で、八、九里は暑さに苦しみました。恐ろしいことに、水らしい水を見たのはここへ来て初めてです。これは清水ですな。」
百合 「裏の崖から湧く水を、筧で受けて落としております。細い流れではございますが、石に当たってりんりんとよい音がいたしますので、この谷を琴弾谷と申します。お客様、それは本当においしい冷たい水。……一杯お汲みいたしましょうか。」
学円 「今までどうして我慢できたものか。鐘楼を見る前に、この美しい水を見たなら、逆さとんぼのように口をつけ、手で掴んでがぶがぶ飲んでいたでしょう。」
百合 「まあ、私はどうしましょう。知らずにその水でお米を研いでしまいました。」
学円 「いや、白く濁った水も菖蒲の絞り汁、夕顔の化粧水になったと見える。下流へ行けばやはり水晶のように澄んでいた。……だが村じゅう飲み水にも困っているようなのに、この源まで来ぬどころか、流れを汲む者も見なかった。何か事情でもあるのでしょうか。」
百合 「あの、湧くのは裏の崖でございますけれど……」
学円 「はあ、はあ……。」
百合 「この水の源は、山奥の夜叉ヶ池という大きな池でございます。底には竜が棲むと申します。その池へ通じている水だといって、毒があると怖がるのです。……もう暗くて見えませんでしょうけれど、川の石には水がかかって、紫や緑、小さな紅玉のような粒まで混じって、とてもきれいなんです。それを池の主の眷属の鱗がこぼれたのだなどと申して、気味悪がるのでございます。」
学円 「きれいな石が毒蛇の鱗ですと? いやはや、がぶがぶ飲んでしまったのは豪いことをした。」
(扇子で胸を叩く)
百合(微笑んで)
「まあ。私どもはこの年まで朝夕飲んで、なんともございませんのに。人は勝手に疑うのでございます。」
学円 「もっとも、もっとも。疑うのは人の習いですな。私は今のお話で心配はいたしません。現に朝夕飲んでおられる――この年まで――」
(じっと見つめて)
「おいくつですかな。」
百合 「…………」
学円 「失礼ながら、おいくつで?」
百合 「ごめんなさいまし……忘れました。」
学円 「ははは。ことわざにもあります。婦人には“いつ死ぬか”と聞いてもよいが、“いつ生まれたか”とは聞くな、と。これは無遠慮でした。……では年は聞きますまい。ところで、おいくらですかな。」
百合 「おいくら、と?」
学円 「代金です。」
百合 「まあ、お代? 何のお代を……とんでもない。お茶代など頂くものではございません。」
学円 「茶だけではない。梨まで十分いただいた。商売でなくとも、ただでは心苦しい。旅の空の身とはいえ、見ての通り払えぬ風体でもない。きちんと請求してください。」
百合 「そこまでおっしゃるなら、少しお代を頂きましょうか。」
学円 「もちろんですとも。」
百合 「でも、お代と申しても、お金とは限りません。その代わり、短くてもよろしゅうございます。何かお話を一つ、聞かせてくださいませ。」
学円 「話をせい、と? 話とは?」
百合 「旅をなさって見聞きした、面白いこと、珍しいこと、不思議なお話でございます。」
学円 「その話を代金に?」
百合 「はい。お客様に限りません。薬売りの衆、行者、巡礼……この村へ来る方で、お代をとおっしゃる人には、皆さまお話を一つずつ伺います。たくさん聞かせてくだされば、お泊めすることもございます。」
学円(膝を打って)
「これは面白い。まさしく談話宿だ。では話しましょう。……だが急にと言われてもな。お茶代になるのだから、長崎の強飯のように重い話でもあるまい。……そうだ、しかもここは越前だ。」
そのとき、障子が細く開き、晃が中からのぞく。
小机に向かい、本を開き、筆を取って客の話を書き留めようとしていたらしい。だが学円と目が合うと、ふっと灯りが消える。
百合 「どんなお話です、お客様。」
学円 「……ところで、ここで話すのを、あなたのほかに聞く者はおりますかな。」
百合 「いいえ、ほかにはお月さまばかりでございます。」
学円 「なるほど。灯りが消えたわけだ。蚊遣りの煙でよく見えぬが、納戸に月が差しているらしい。……待ちなさい。今言いかけた越前の話というのは、縁の下で牡丹餅が化けた話でしてな。私が何か言うと、その通り縁の下で真似をする者がいる。村中集まって、狐かと聞けば違う、狸かと聞けば違う、獺か、魔か、天狗か、と聞いても違う。……しまいに牡丹餅か、と尋ねたら“おう”と返事をして消えたという話です。」
百合 「……。」
学円 「だが、まだ月が聞いていると言われるから、別の話にしましょう。これは一昨年の夏のこと。
私の親友に、各地に伝わる不思議な話を集めたいと志す男がおりました。日本中を歩くつもりでしたが、その夏は北国の深山を巡るといって東京を出た。……それきり行方知れず。親兄弟もある人物、できる限り探したが、跡形もない。友人仲間も、もうこの世にないと諦め、都を出た日を命日にする始末でした。新聞沙汰にもなり、世間も騒ぎました。
自殺か、事故か、変死か。だが姿を消す理由も、死ぬ理由もない男だった。世の中には妙なことがあるものですな。」
百合 「ああ、お客様……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。」
(そっけなく言う)
学円 「そんなに礼を言うとは、茶代の代わりになりましたかな。」
百合 「もう十分でございます。」
学円 「それでは面白かったと?」
百合 「……面白かったのは前の牡丹餅の話。後のは、たくさんでございます。」
学円 「さて、本当の談話はこれからですぞ。今のは前置きだ。」
百合 「どうぞ、結構でございます。それにもう暗くなります。お宿を取るにもご不自由でしょうから……。」
学円 「いやいや。話の様子では、泊めることもあると申された。私も一つ泊めてください。この話には実がありますから。」
百合 「先ほどは、お客様、女の口から泊まりのことなど聞くなとおっしゃいました。言葉尻につけて宿をねだるかもしれぬ、と。……清らかなお方と思いましたのに、女ばかりいる家で宿を貸せとは。……私は気味が悪うございます。」
学円 「気味が悪いと? 牡丹餅が化けたわけでもあるまいに。」
百合 「こんな山家では、お化けより都の人のほうが恐ろしゅうございます。……さあ、お客様、どうぞ。」
学円 「これは追い出されるとはひどい。」
(しぶしぶ立つ)
百合(続いて出て、押しやるように)
「どうぞ、お立ちくださいませ。」
学円 「婦人ばかりとあっては、どうにも言えぬか。鉢の木ではないが、蚊を焚く柴くらいあるだろうに。……常世の宿なら、こう情けなくは扱うまい。雪でも降ればまだ慰めだが。」
百合「真夏土用の百日照りに、たとえ雪が降ろうとも……。」
(立ちながら納戸の方をじっと見て、学円へ視線を返す)
「ごきげんよう。」
学円 「失礼します。」
そのとき、晃が蚊遣りの煙の中から姿を現す。
晃 「山沢、山沢。」
学円 「おい、萩原! 萩原か!」
百合 「あれ、あなた!」
(駆け寄り、晃の胸に手を当てて引き留める)
晃(低声で)
「帰りやしない。大丈夫、大丈夫。……何とも言いようがない、山沢、まあこちらへ。」
学円 「私も何とも言えん。十に九つ君だろうと思った。さっき顔を見た時も、先ほどからの様子でもそう思った。だが、あまりに思いがけなくて……。第一、その頭はどうした。」
晃 「頭もどうかしていると思って、まあ許してくれ。」
学円 「埃だらけだが、失礼するぞ。」
(足を拭いて座に入る)
「いや、その頭もだが、白髪はどうした、白髪は。」
晃 「これか。谷底に棲んだからといって、大蛇に呑まれたわけじゃない。これはかつらだ。」
(脱いで投げ捨てる)
学円「ははあ……。」
(そっと百合を見る)
「もちろん、その……。」
晃「こちらは百合という。」
お百合は、座り直した晃の膝に伏してしがみついている。
学円 「お百合さんか。細君……いや、奥方も……。」
晃 「泣く者があるか。涙を拭いて、きちんと挨拶しな。」
そう言ううちに、百合は気まり悪そうに、さっと納戸へ隠れる。
晃 「君に背中を叩かれて、僕の夢が覚めて、東京へ帰るかと心配なんだ。」
学円(百合のやさしさにほろりとしながら)
「いや、私の顔を見たくらいで、この夢は覚めまい。……よい夢なら、無理に覚ますこともない。だが萩原、夢の中でも忘れてはなるまい。東京の君の家では、ご両親をはじめ――」
晃 「むむ。」
学円 「君のことで、寿命は多少縮めたかもしれん。だが皆、まず無事だ。」
晃 「ああ、そうか。ありがたい。」
学円 「私に礼はいらん。」
晃 「本当に、すまん。」
学円 「さて、これはどういうわけだ。」
晃 「夢だと思って聞いてくれ。」
学円 「もちろん、夢だと思って聞いておる。」
晃 「詳しいことは夜通し話すとして……知っての通り、僕は各地の物語を集めようとして北国を歩いていた。ところが今度は、僕自身が一つの物語になってしまったんだ。
魔法使いは山を海へ移し、人を木にも石にも変える。石を木の葉にし、木の葉を蛙にもするという。……君もここへ来たばかりで、もう物語の中の人になっている。僕はさらにその上、物語そのものになってしまった。」
学円 「薄気味の悪いことを言うな。では、君の細君は……」
(言いかけてためらう)
晃(納戸を振り向き)
「着替えているか、髪でも整えているんだろう。襖一枚向こうだから、裏口へ出たのさ。」
学円(背伸びして納戸越しにのぞき)
「おい、水でもあるのか。葦の葉の前に、櫛にも月が差している。かつらを外した髪の艶、雪国と聞くせいか、襟足も背筋も透けるようだ。……凄いほど美しいが、奥方は魔法使いか。」
晃 「かわいそうなことを言うな。まさか。」
学円 「ふむ。」
晃 「この土地、この里――この琴弾谷そのものが、一つの魔法使いなんだよ。
山沢、君はこの山奥の夜叉ヶ池のことを聞いたか。」
学円 「聞いた。しかも、その池を見るために今庄の駅から五里もわざわざ入ってきたのだ。」
晃 「僕も一昨年、その池を見ようと思って一人でこの谷へ入った。そのせいで、こういうことになった。……ここに鐘がある。」
学円 「ある。明け六つ、暮れ六つ、丑三つに一度、一日に三度鳴らす。それ以外は鳴らしてはならぬ、と聞いた。」
晃 「そうだ。しかも、それ以外は絶対に鳴らしてはならぬ代わりに、一日三度は必ず鳴らさねばならない。」
学円 「それはなぜだ。」
晃 「ここには伝説がある。昔、人と水とが争い、この里が滅びかけた時、越の大徳・泰澄が法力で竜神を夜叉ヶ池に封じた。
竜神はこう言った。
“人や土地を沈めぬため、我が自由を奪うのはやむを得ぬ。だがその代わり、鐘を鋳て麓に掛け、昼夜三度撞いて我を驚かせよ。さもなくば私は誓いを忘れ、水を北陸七道へあふれさせるであろう。人畜の命など数とも思わぬ。だが誓いは破らぬ。そのためにも、鐘を怠るな。”
――そう言い伝えられている。」
学円(身を乗り出して)
「面白い。」
晃 「いや、面白いでは済まない。ここでは大切なことなんだ。」
学円 「なるほど。」
晃 「その鐘を撞く男が誰だと思う。」
学円 「君か。」
晃 「僕だ。萩原晃が、その鐘撞きだ。」
学円 「なんと。」
晃 「ここに小屋があるだろう。」
学円 「うむ。」
晃 「鐘守の住む小屋だ。一昨年、僕が来るまでは、弥太兵衛という七十九の老人が一人で住んでいた。五十年間、一日も欠かさず、一日三度鐘を撞いてきた男だ。
僕が夜叉ヶ池を見に来た晩、暮れ六つの鐘が鳴った。老人に由来を聞き、翌朝池まで案内してもらう約束で泊めてもらった。
その夜、丑三つの鐘を撞き、鐘楼から降りると、老人はこの縁先で倒れていた。急病だった。死に苦しみながらも、死に切れぬという。
“わしが死ねば、誰も鐘を撞かぬ。一度でも忘れれば、この里は水に沈む。何千何万の命が失われる。”
そう呻いていた。骨と皮ばかりの老人が、五十年守ってきた信仰を命がけで語るんだ。鐘が自ら鳴るように、僕の耳に響いた。
せめて安心させようと、僕は言った。
“心配するな親父、鐘は俺が撞いてやる。”
するとあの世にも嬉しそうに笑い、拝みながら死んだ。その顔を今も忘れない。」
学円 「……。」
晃 「まさか一生ここで鐘を撞くとは思わなかった。明け六つの一度くらい代わるつもりだった。
だが村人を呼んでも、誰一人引き受けない。伝説を語れば笑う。若い者はもちろん、年寄りも、和尚までが昔話だと言う。
腹が立って、“勝手にしろ”と谷を出て帰ろうとした。
その時、鹿見村はずれの土橋の袂、榎の木の下に立って、しょんぼり見送っていたのが――あの女だ。」
(声を落とす)
学円 「お百合さんか。」
晃 「そうだ。
その日の暮れ六つの鐘さえ、子どもらが指さして笑う中、僕が撞いた。
もし村が滅びるような嵐でも来たら……他はともかく、あの娘の命もない。そう思って二、三日守るつもりが、四、五日、半月、一月……早いものだ、もう足掛け三年だ。
君に会うまで、それさえ忘れていた。忘れるために昼は白髪のかつらを被り、老いさらばえた者のふりまでしていたんだ。」
学円(黙って見つめる)
晃 「そんな顔で見るな。恥ずかしい。」
学円(しばらく考え)
「すると、あのお百合さんのために、ここへ残ったのだな。」
晃 「……ますます恥ずかしい。」
学円 「恥じることはない。だが、奥方を連れて東京へ帰るわけにはいかぬのか。」
晃 「この村、この里、この麓の命を見捨てて、二人だけ去れと言うのか。」
学円 「萩原。」
(寄って)
「君は本当にそれを信じるのか。」
晃「信じる。信じるようになった。萩原晃としては知らぬ。だが越前三国岳麓、鹿見村琴弾谷の鐘楼守、百合の夫としての二代目弥太兵衛は、確かに信じている。」
学円(膝に手を置き)
「もう何も言わん。そう信じよ。固く信じよ。
奥方の、人離れした美しさを見るにつけても、天がこの村のためにお百合さんをここへ置き、鐘守を据えたのかもしれぬ。君たち二人は村の神だ。とりわけ、お百合さんは女神だな。」
そのとき、お百合が行灯を手に、黒髪もあでやかに現れる。
百合 「私、どういたしましょう。」
学円 「おお、これは……。」
百合 「お客様、先ほどは失礼を。」
学円 「いやいや、お初にお目にかかります、奥さん。」
百合 「まあ……。」(恥じらう)
晃 「これ、“まあ”ではない。ちゃんと挨拶しな。兄のような人だ。」
百合(黙って手をつく)
学円 「はいはい、挨拶は十分です。ところで、くしゃみは出ませんでしたかな。」
晃 「うっかりくしゃみすると、蚊が飛び出す。」
百合 「あれ、たくさんからかってくださいまし。」
晃 「そんなに白粉までつけて。」
百合 「またそんなことばかり。」
(やさしく睨んで顔を隠す)
学円 「何にしろ、仲睦まじい。……ところで、ご実家やご親類は?」
晃 「山沢、何もない。孤児なんだ。鎮守八幡宮の神官の一人娘で、その父親も亡くなった。叔父がいて、今は神官の代わりをしているが……あまり感心しない男でな。」
学円 「それはそれは。」
晃 「姪のお百合に執着して回る難物さ。」
百合「本当に頼りない身でございます。何も存じません、不束かな者ですが、お客様、どうぞご憐れみくださいまし。」
(三つ指をついてしんみりと言う)
学円(思わず涙ぐむ)
「立派なお心だ。他人とは思えません。」
晃(胸が詰まりつつ)
「さあさあ、親類と言ってくださるなら遠慮はなしだ。名物の鴫焼きで一杯やってくれ。これからゆっくり話そう。山沢、野菜も食わせたいぞ。甘くてうまい。」
学円 「奥方、立たなくてよろしい。……だが萩原、私はこれから夜を徹して夜叉ヶ池を見に行くつもりだ。不思議な話を聞いたら、なおさら見たくなった。飯はありがたくいただくが、酒は勘弁だ。一滴も飲めぬのは知っておろう。」
晃 「なるほど、池を見に来たのだったな。明日にしてくれと言いたいが、道は一里余りでも険しい。暑い時分だから夜がいい。しかし四、五日は帰さんぞ。明日の晩ではどうだ。」
学円 「いや、学校がある。勝手には休めん。遊び過ぎて懐も苦しい。」
晃 「それは困った。……分かった、では案内がてら一緒に行こう。」
学円 「君もか。」
晃 「すぐ出かけよう。」
学円 「それでは奥方にすまんぞ。」
晃 「つまらんことを。」
百合 「いいえ……。」
(しおしおと)
「すぐにとおっしゃって……お支度は……。」
晃「土橋の煮染屋で竹の皮包みでも買えば早い。鰊の煮びたし、焼き豆腐でよかろう、山沢。」
学円「結構だ。」
晃 「決まったら早いほうがいい。草鞋を出してくれ。」
学円 「面白い。奥さん、帰りにはまた寄せてもらう。私は味噌汁が大好きだ。青菜を入れて食わせて送り出してくれ。……さて帰りはいつになるかな。」
晃 「夜は短い。明け方になるかもしれん。」
学円(草鞋を履きながら)
「待て待て。一緒に飛び出して、今夜の丑三つの鐘はどうする。」
晃 「百合が心得ている。先代弥太兵衛のような仙人ではない、生身の人間だ。病気もする。百合が時々代わるんだ。」
学円 「では池のあたりで聞こう。――奥方、しっかり頼みますぞ。」
百合(涙声で)
「はい。お家のことはお忘れなさいませんように。私は一生懸命に。」
晃 「……おい、弥太兵衛譲りの家宝の瓢箪を出せ。酒も買う。それから鎌を貸せ。熊笹くらい切らねば通れまい。……早くおし。」
百合 「はい、はい。」
学円 「おお、ずいぶん鋭く研いだな。」(鎌を見る)
晃 「月明かりでもこの通り光る。俺だって鎌の研ぎ方くらい覚えたさ。――ほら、こっちだ。」(先に立って歩く)
百合 「どうぞお気をつけて。」(涙声で見送りながら、袖に小さな人形を隠している)
晃 「ん? なんだ、それ。」(振り返る)
百合 「太郎が、お見送りしたいんですって。」(袖口を押さえながら)
「おじちゃんも早く帰ってきてくださいね。坊やが寂しがりますから。」
(そう言いながら学円の顔を見つめ、小屋の中を指してうつむき、ほろりと涙ぐむ)
学円(かばうように手を上げ、こちらも涙ぐむ)
「もっともなお気持ちです。しかし大丈夫。あなたは私に会ったせいで晃まで里心がついて、そのまま帰ってしまうのではと心配しておられるのでしょう。」
百合(気まずそうに、さっと後ろを向く)
晃 「ああ、だからさっきから様子がおかしかったのか。ばかだな、子どもじゃあるまいし。」
学円 「何だい、出かける前にキスくらいしてもいいだろう?」
晃 「旦那衆じゃあるまいし。俺はただの鐘つき弥太兵衛ですよ。」
(二人、連れ立って去る)
百合
「まさかとは思うけど……ねえ坊や、お父さんたちちゃんと帰ってくるわよね。」
(子どもの目を閉じさせ、うなずかせる)
「まあ、かわいい。」
(頬ずりしながら)
「坊やはお乳を飲みなさい。母さんは一人じゃ夕飯もいらないわ。早く片づけて留守番しましょう。ひとりだと分かると村の人たちがうるさいから。月は明るいし、灯りを消して戸を閉めて……」
(雨戸を端から閉めていく。最後の戸が閉まり、鍵がガチリと下りる。やがて納戸の明かりもふっと消える)
(どこからか妖怪たちの歌声)
一つ目小僧、見越し入道、河童に獺、海坊主、化け猫、古狸の腹鼓――
ポコポン、ポコポン、コリャ、ポンポコポン。
笛は雨を呼び、女はけたけた笑い、里の男はのっぺらぼう――
与十(竹笠に大きな鯉をのせ、にやにや笑って現れる)
「でかしたぞ。旱魃の年は魚が当たり年ってな。沼が干上がって浅瀬をバシャバシャ泳いでたところを、ひょいとすくってやった。」
(鯉が跳ねる)
「おっと! 銀の鱗がぴかぴかだ。ずっしり重い、四貫目はあるな。こりゃ自分で食うより、村会議員の髭の旦那に売ったほうがいい。」
(鯉を見つめる)
「値になれ、金になれ。」
(また跳ねる)
「……銀の鱗か。そういやこの小屋にいる神主の娘さんも、昔は背中に蛇の鱗が八枚あったって話だ。夜になると白蛇が寝床を取り巻いて、火を吹いたのを見た者もいるとか……」
「だが鐘つき先生は無事らしい。まだ生きてる。じゃあ今夜こっそり覗いてみるか。」
(忍び足で戸の隙間へ近づく)
そこへ蟹五郎登場。赤毛頭、山伏姿、巨大な蟹のように横歩きで近づく。
鋏で与十のすねをがっちり挟む。
与十「いてぇっ!」
(のけぞり、笠ごと鯉を投げ出す)
「うわっ、藪沢の大蟹だ! 人殺し!」
(悲鳴を上げて逃げる)
蟹五郎は横歩きで追いかける。
夕顔の陰から鯉七現れる。鯉の精である。
鯉七(大きく口をぱくぱくさせてため息)
「ああ……水を失う苦しみが、今になって身にしみる。さっきは助けてくれてありがたい、大蟹。」
蟹五郎 「お互いさまだ。しかし滝登りするような鯉が、なんで笠の上なんかに乗せられてた?」
鯉七 「近道しようとして浅瀬を無理に通ったら、岩にひれを取られた。そこをばっさり捕まったのさ。」
蟹五郎 「こいつのせいか。」
(落ちた笠を鋏で押さえる)
鯉七 「まったく難儀させやがって。」
(笠を踏む)
笠の中の声 「俺じゃねえ! 俺じゃねえ!」
鯉七 「まあ、こいつのせいでもないか。行け。稲が実ったら案山子にでもなれ!」
(放すと、笠はばたばた飛んで逃げる)
蟹五郎 「人の首が飛んだみたいだったな。で、これからどこへ行く?」
鯉七 「里へ使いだ。最近の旱魃で、人間どもが夜叉ヶ池に押しかけて雨乞いしてる。しかも鉄釘だの錆び刀だの、犬猫の首まで供え物に持ってくる。汚くてたまらん。」
「だから姫様の乳母、万年姥から伝言だ。
“雨は降る時まで降らぬ。これ以上汚い物を撒き散らしたら許さぬ”
そう里へ触れ回れってさ。」
蟹五郎 「ご苦労なことだ。」
(二人、月夜の道を並んで歩きながら歌う)
「山を川にしよう、山を川にしよう――」
やがて遠くから、黒衣の旅僧のような者が現れる。
それが鯰入だった。白山・剣ヶ峰千蛇ヶ池から、夜叉ヶ池の姫へ文を届けに来た使者である。
鯰入 「ようやく着いた……旱魃で道中ひどい目にあった。しかし峰には水気が立っている。夜叉ヶ池は近いな。」
鯉七 「何者だ!」
蟹五郎 「ここは山の関所。名乗れ。」
鯰入 「白山・剣ヶ峰千蛇ヶ池の若君より、夜叉ヶ池の姫君へ文を届けに参った者じゃ。」
鯉七 「おお、それは!」
だが鯰入は急に立ち止まり、青ざめる。
鯰入 「この文箱……池に近づいた途端、急にずしりと重くなった。」
鯉七 「恋文の重みでしょう。」
蟹五郎 「それとも褒美でも入ってるか?」
鯰入 「いや……ひょっとすると、
“この坊主を輪切りにして、すっぽん鍋にせよ”
などと書いてあるのでは……!」
(震え出す)
鯉七と蟹五郎、顔を見合わせて囁く。
鯉七「それなら封を切って中を確かめたほうがいい。」
鯰入「頼む! それが聞きたかった!」
三人、文箱を開ける。
鯰入 「あっ!」
鯉七 「うわっ!」
蟹五郎 「なんだこれは!」
鯰入 「中は……水ばかりだ!」
その瞬間、箱から清らかな水があふれ出す。
鯉七 「あれあれあれ……姫様が!」
鯰入はっとして、そのまま腹ばいになり、水の中を泳ぐような格好になる。蟹五郎はひざまずき、手をついてかしこまる。そこへ舞台がせり上がり――
現れたのは、夜叉ヶ池の白雪姫。
雪のように白い薄衣に、水色の地へ紅い炎の模様を重ねた豪華な装束。黒漆に銀で鱗模様を描いた帯を締め、長い黒髪は身丈を越えて流れる。銀の靴を履き、腰には玉のように光る鉄の杖を差している。両手に広げた恋文をさっと読み下ろし、地面に垂らした。
右には乳母の万年姥。針のような白髪に、枯葉色の着物、赤い前掛け。
左には侍女の奥山椿。萌黄色の紋付に高島田、髪には赤い椿の花。
ちょうど十五夜の月が昇る。
白雪姫は言った。
「手紙を読むには、月明かりでは物足りない。」
姥が答える。
「姫様ご自身のお身体が光っておりますれば、それで十分でございます。」
白雪姫は袖の炎の模様を灯り代わりにして文を読み終えると、うっとりとため息をついた。
「懐かしい、優しい、嬉しい――あの方からのお便り。……姥、私は行くよ。」
「どちらへ?」
「剣ヶ峰へ。」
一同がどよめく。
「剣ヶ峰へ!?」
白雪姫は胸に文を抱きしめる。
「千蛇ヶ池のあの方のもとへ決まっている。」
だが姥は厳しく言う。
「ここには鐘がございます。姫様がお住まいを移せば、山も川もあふれ、人も獣も何万と命を落とします。あちらのお方もこちらへ来ることは叶いませぬ。約束なのです。」
白雪姫は鐘楼をにらみつける。
「そんな理屈、人間の味方でもするつもりかい。」
姥は鼻で笑った。
「尾のない猿どもなど、かばう気はございませぬ。ですが約束は約束。破ってはなりませぬ。」
白雪姫は悔しげに唇を噛む。
「この鐘さえなければ……」
そして眷属たちを呼び集める。
眷属たちが、左右からばらばらと現れて居並ぶ。
皆それぞれ武器を持ち、格好も思い思いで、鎧を着た者もいれば、頭に髑髏を載せた者もいる。まるで百鬼夜行のような有様である。
虎杖入道
鯖江ノ太郎
鯖波ノ次郎(この二人は兄弟だと名乗る)
十三塚の骨寄鬼
蟹五郎は「藪沢のお関守はすでに先ほどから来ております」と告げる。
椿はさらに、
「そのほかにも大勢の道祖神、木霊、魑魅魍魎どもが集まっております」と言う。
影法師たちも混じっている。
同じ姿の者が大勢いて、目も鼻もなく、頭から灰色の布をかぶっている。
影法師が
「影法師どもも参っております」と名乗ると、あちこちに鬼火がちらちら燃え、明滅する。
鯉七が
「一族の者ども、皆そろいました」と報告する。
鯰入も
「僭越ながら、この法師もここにおります」と言う。
白雪姫は満足げに、
「遠いところご苦労でした。すぐ返事をいたしましょう。そのために皆を呼んだのですよ」
と言う。
姥 「え、あちらへ返事をなさるために、皆をお呼びになったのですか。
いったい何を命じるおつもりです?」
白雪 「姥、どう言われても私は行く。剣ヶ峰へ行かねばならない。
あの鐘さえなければ、盟約など無いも同じ。
皆であの鐘を引き落として、粉々に砕いてしまいなさい。」
姥 「なんと恐ろしいことを……。
皆が本当に動いてしまいますぞ。一族を集めて命じれば、冗談では済みません。
天の神々にも聞こえてしまう。
数多くの人間の命を絶つことになります。どうかお慎みください。」
白雪 「人間の命がどうなろうと、私の知ったことか。恋のためなら、自分の命さえ惜しくない。
姥、お願い、行かせておくれ。」
姥 「おいたわしい……しかしなりません。
もう少し辛抱なされば、三十年、五十年も待たずとも済みましょう。
今の世は信仰も約束も衰えております。
鐘を吊っている絆も、今にも切れそうなもの。
その時までどうか耐えてください。」
白雪 「そんな気の長い話ばかり。恋しく慕う心は、冥土の関所があっても一夜すら待てようか。
よい、皆が承知しないなら私が自分でやる!」
椿 「ああ、お姫様!」
姥 「何をなさるんです。もし捨ててもかまわないような鐘なら、お姫様のお手をわずらわせるまでもありません。身内に命じる必要すらない。この痩せた私でも、指でつまんで放り投げられましょう。ですが重いのは鐘そのものではなく、そこにかかった義理と約束なのです。」
白雪「義理だの掟だのは、人間が勝手に作って、自分で自分を縛っている縄みたいなものよ。鬼だの、畜生だの、夜叉だの、毒蛇だのと言われるこの私には、恋の道をふさいで止める袖も裾も、雲ひとつない。先祖は先祖、親は親。約束も誓いも、勝手な都合で決めたことでしょう。人間だって、時がたてば約束なんて平気でないがしろにするじゃない。私が少し早く破って、何を遠慮することがあるの。ああ、恋しい人からの手紙を抱いて、私はもう心が乱れてしまった。姥、お願い、許して。」
姥「なるほど、お気持ちが乱れておいでですな。朝六つ、暮れ六つ、そして今夜の丑三つ――そのどれか一度でも人間どもが鐘を撞くのを怠れば、その時こそ一瞬で終わります。お姫様をこの私がおぶって、靴に雲ひとつつけず剣ヶ峰までひと飛びでお連れしましょう。人が死のうが、溺れようが、山が崩れようが、里が埋まろうがかまいません。ですが、この鐘が鳴っているうちに誓いを破れば、神も仏もただちに祟ります。それをどうなさるのです。」
鯉七 「この国には板取川、帰る川、九頭竜川が集まり、日野川という大河があります。」
蟹五郎 「美濃の国には名高い揖斐川があります。」
姥 「その二つの大河をお支配なさるお方なのです。」
椿 「百万石のお姫様なのですよ。」
姥 「わがままは……」
一同 「なりません。」
姥 「お身体を……」
一同 「大切になさってくださいませ。」
白雪 「ああ、うるさいわね、あなたたち。義理も仁義も大事にして、長生きしたいなら勝手にしなさい。命のために恋を捨てたりなんかしない。どきなさい、どきなさい。」
一同が入り乱れて止めようとするが、白雪は振り払い、すり抜け、ついには真ん中で取り囲まれる。
白雪 「どきなさいと言っているでしょう!」
そう叫ぶと鉄の杖を抜く。銀色に月光を受けて輝き、一同ははっとして退く。
白雪はするすると進み、石段を駆け上がり、柱にすがって鐘をにらみつける。
白雪 「神も仏も知ったことか。天罰を受けてもかまわない。この白雪の身が、朝日の光の中、愛の水に溶けてしまえるならそれで嬉しい。体が粉々に砕けようと、八つ裂きにされようと、恋しい人への思いに燃えるこの魂は、たとえ小さな蛍の光になっても、剣ヶ峰へ飛んで行ってみせる。」
そう言って杖を高く掲げた、その時――
遠い月夜の彼方から歌声が聞こえてくる。
「ねんねんよ、おころりよ。ねんねの守りはどこへ行った。山を越えて里へ行った。里のおみやげ何もらった。でんでん太鼓に笙の笛――」
白雪姫の手が止まる。
姥 「社にいるお百合でございます。」
白雪 「ああ、あの美しいお百合さんか。いったい何をしているのだろうね。」
姥 「恋人の晃が留守のあいだ、人形を抱いて、気をまぎらわせるために子守唄を歌っております。」
白雪 「恋しい人と離れている時は、歌でも歌えば気が紛れるものなのかい。」
姥 「おっしゃる通りでございます。」
一同 「姫様も、どうかそうなさってご覧くださいませ。」
白雪 「思い詰めていて、つい忘れていた。……私がこの村を沈めてしまえば、あの美しい人も命はないだろう。鐘を撞くのは憎いけれど……」
(そう言って石段を静かに下りながら)
「この家の二人は、妬ましいけれど、うらやましくもある。姥、私もおとなしくして、あやかることにしようか。」
姥(涙をぽろぽろ流して)「なんと嬉しいことでございましょう。」
白雪(椿に向かって)「お前も歌えるのかい。」
椿 「はい、いろいろ存じております。」
鯉七 「いや、お腰元衆、いろいろ知っているのは結構ですが、近ごろ流行りの――
『池の鯉よ、緋鯉よ、早く出て麩を食え』
などという、からかうような歌はおやめください。失礼千万、姫様のお気を悪くします。」
椿 「まあ……勝手なことを言う人だねえ。」
一同、どっと笑う。
白雪 「人形を抱いて、私も歌おう……剣ヶ峰への使いに返事もしなくてはね。椿、文箱を持っておいで。皆もご苦労だった。」
一同、うやうやしく頭を下げる。
遠くから、
「でんでん太鼓に笙の笛、起き上がり小法師に風車――」
と歌声が聞こえる中、眷属たちは左右に分かれ、次々と去っていく。鬼火もすっかり消えた。
残るのは月明かりだけ。遠くで犬が吠え、近くでは五位鷺が鳴く。
そこへお百合が息を切らし、裾を乱して逃げ帰ってくる。小さな家へ駆け込み、身を隠す。
そのあとを追って、
村長の畑上嘉伝次
村の有力者・権藤管八
小学校教員・斎田初雄
村人たち
が追いかけて現れる。
さらに別の方角から、
神官代理・鹿見宅膳
小力士
小烏風呂助
村人五人ほど
が、烏帽子や礼装、雑役姿に身を包み、一頭の真っ黒な牛を引いて現れる。牛の手綱は小力士が持っている。
村人一 中へ逃げ込んだぞ、家の中へ隠れたぞ。
村人二 真っ暗だ。
初雄 灯りを消したくらいで、虫けら一匹だって逃げられやしない。
管八 踏み込んで引きずり出せ。
(村の者四、五人がばらばらと家へ飛び込む。中から悲鳴が上がり、雨戸が激しく外される。)
(やがて、お百合が中央に引き出され、左右から押さえつけられる。)
百合 何をするんです、人の家に勝手に入って。
管八 人の家も自分の家もあるものか。この鹿見郡六ヶ村全部の一大事なんだ。
初雄 このままでは土地は焼け、野原は焦げついてしまう非常事態なんです。
宅膳 (進み出て)これ、お百合。見苦しく騒ぐでない。さっき道々でも言って聞かせただろう。お前に白羽の矢が立ったのだ。嫌だと言っても聞かれん。六ヶ村は水不足で苦しんでおる。米にすれば五万石、八千人の命のために、お前には雨乞いの生け贄になってもらう。
子どもの頃から知っておろう。どうにもならぬ日照りの時には、村一番の美女を裸にして――
百合 ええ……。
(震える)
宅膳 黒い牛の背に、鞍もつけず荒縄で縛りつける。もっとも、素直に覚悟して乗るなら縛らずともよい。
そうして山道を登り、夜叉ヶ池の竜神へその供物を捧げるのだ。命までは取らぬ。代わりに、美女を乗せたまま池のほとりで牛を屠り、その角ある首と尾を供える。
その肉を皆で取り、冷酒とともに食えば、たちまち空は黒雲に覆われ、三日三晩雨が降り注ぐ。田畑は生き返る。昔から一度も効き目がなかったことはない。
お百合、それだけのことだ。我慢して、村長様の前で立派に務めを果たせ。さあ、立て、行くぞ。
百合 叔父さん、何も逆らいません。どうか……晃さん、旦那様がお帰りになるまで待ってくださいまし。皆さん、どうか許してください……。手を合わせてお願いします。そ、そんなことが、どうして私に……。
管八 何だと?
初雄 あなた、お百合さん、何を言っているんですか。
百合 叔父さん、お願いします……晃さんが帰ってくるまで待ってください。
宅膳 また旦那様か。晃だ晃だと、あきれた娘め。潮の満ち引き、月の巡り……今夜の丑三つ時は逃せんのだ。さあ立て、行くぞ。
管八 言うことを聞かないなら、縛り上げるぞ。
嘉伝次 村と郡のためだ、仕方あるまい。気の毒だがな。
管八 神官様、もういいですな?
宅膳 引っ立ててかまわん。
管八 来い。
(村人たちがお百合に取りつく。お百合は逃げ惑う。)
風呂助 まどろっこしいな。わしに任せなされ。
(大きく出て、お百合をたやすく抱え上げて捕まえる。手下たちも手伝い、牛の背に仰向けに乗せる。)
百合 ああっ。
(苦しんでもがく。)
(胴に縄を巻きつけ、ぐるぐると縛り上げる。お百合は身をよじって顔を伏せる。黒髪がさっと乱れ、長く牛のひづめのあたりまで垂れる。)
嘉伝次 宅膳どん、このまま着物を着せたままでいいのかい。
宅膳 はい。社の森へ着いてから、儀式どおり本支度をいたします。社務所には、近ごろこのあたりの大地主になられた代議士様をはじめ、お偉方が皆、村人のことを心配なさって、雨乞いの様子をご覧になるためお揃いです。
嘉伝次 そういうことか。
初雄 皆さん、急ぎましょう。
管八 諸君、励めよ。はははは。
(一同、どやどやと進みかける。)
晃 (突然現れ、行く手に立ちはだかる。仕丁たちを左右へ突き飛ばし、鋭くにらみつけると、牛の鼻面をつかんで向きを変え、手綱をぐいと締め、そのまま自分の家の前まで引いてくる。腰の鎌を抜くや否や、無言でお百合を縛る縄を一刀で断ち切る。)
百合 (一目見るなり)ああ、晃さん。
(転げ落ちるように晃の後ろへ隠れ、腰にすがりつく。)
旦那様、なんていいところへ。あなた、どうしてまあ、こんなに早く帰ってきてくださったの。
晃 (お百合を背後にかばい、鎌を逆手に持って大勢をにらみながら、落ち着いた声で)ああ、夜叉ヶ池へ向かっていたんだ。山道を三分の一ほど登ったあたりで、峰の向こう、遠く池があると思われるあたりから、子どもをあやす子守歌が聞こえてきた。
その歌声が、この月夜に白玉の露をつないだように響いて、草むらまで綾を織ったように青く見えた。連れの山沢がたいそう心を打たれてな。山沢には三つになる子どもがいる。里心がついて、知らぬ土地へ月夜の山道をさまようのは、また来年の旅立ちにしようと言い出した。
帰り風がさっと吹くと、身体まで寒くなったと言う。俺も胸騒ぎがしてな。すぐ引き返して帰ってきたんだ。
(穏やかにお百合へ言い終えると、ひょうたんを逆さにして月を仰ぎ、ごくりと飲む。)
(お百合は背伸びして、晃の首に掛かった笠を取り、ひょうたんを受け取って家の上がり框に置く。そして鎌を取ろうとするが、晃は手を振って放さない。お百合はその鎌を握る晃の手にしっかりすがりつく。)
晃 帰れ。お前たち、何をしている。
初雄 改めて申し上げますがね。君には気の毒だが、もうこの村を出て行ってもらいたい。
晃 俺をこの村に置かないと言うのか。
初雄 その通りです。ご承知でしょうが、もし分からないなら馬鹿と言わねばならん。この干ばつです。旱魃です。一滴の雨でも千金、いや万金の価値がある。
君が信じているその鐘は、一度でも鳴らさなければ村が湖になると言う。湖になる? けっこうじゃないですか。むしろ望むところです。
だから今夜から鐘を撞かないことにしたいのです。鐘を撞かないとなれば、鐘撞きの君――権助という名かどうか知りませんが――ええと……。
村人たち ひやひやするなあ……。
村人たちはざわつきながら言う。
「ひやひやするなあ……」
別の村人たちは怒鳴る。
「鐘つき野郎! 丸太棒め!」
初雄が咳払いして、もったいぶって言った。
「えへん。君はこの村において、肥料のカスにもならない。まったく何の役にも立たない人間です。
ゆえに、我々一同は、君が鐘をつくことをお断りし、同時にこの村から立ち去るよう宣告するのであります。」
村人たちも口々に賛成する。
「そうだ、その通りだ!」
晃は冷静に答えた。
「望むところだ。鐘を守れと言われたから義理で守っていただけだ。鳴らすなと言うなら、誰が好きこのんで鐘なんかつくものか。もちろん、すぐにここを出て行く。」
村人たちは一斉に叫ぶ。
「出て行け! 出て行け!」
晃は百合に向かって言う。
「百合、行こう。」
百合があわてて身支度しようとするのを見ると、晃は続けた。
「支度なんかいらない。裸足のままで来い。茨の道でも、俺がおぶって進む。」
そう言って百合の手を引く。
百合は晃に守られながら、大勢の村人の前を進んでいく。
その様子を陰から見ていた学円が、この時そっと姿を現した。
すると管八が低い声で呼び止める。
「おいおい、待て。」
晃は無視してそのまま歩く。
管八が怒鳴る。
「待て、こら!」
晃は振り返って鋭く言った。
「何だ。」
管八 「お前だけ行け。村のものは置いて行け。」
晃 「塵ひとつ持って行くつもりもない。」
管八 「その女は村のものだ。一緒に連れて行くことはできん。」
晃 「違う。この百合は俺の妻だ。」
村長の嘉伝次が言い放つ。
「黙れ。百合は村のものだ。」
晃は言い返した。
「誰のものだろうと関係ない。百合は来たいから一緒に来るんだ。残りたければ残ればいい。ほら見ろ、俺にしがみついて離れないだろう。」
そう言って微笑む。
「置いて行けば、百合は死ぬ。人間は、自分の心のままに生きなきゃならない。お前たちにはわからないだろう。さあ、行こう。」
すると宅膳がゆっくり前へ進み出た。
「これこれ若い者、思慮のないことは身のためにならん。
わしの姪は、この村だけの女ではない。一郡六か村、八千人の命そのものだ。雨乞いの生贄として選ばれたのだ。
その犠牲の女を連れて行くということは、八千人の命をお前が奪って行くのと同じこと。百合を置いて行かねば、ここは一歩たりとも通さん。百合は八千人の命なのだ。……さあ、どうする。」
そこへ学円が声をかけ、晃と百合の間に立った。
「少し待ちなさい。その返事は萩原にはしにくいだろう。代わって私が言おう。
確かに、お百合さんは村の命だ。だからこそ、名門伯爵家の息子である萩原が、たった一人の女性のために、一生鐘守りをしているではないか。
もっとも、すでにこの人を手込めにし、牛の背に縛りつけて辱めた諸君に、理屈を言っても無駄かもしれん。
だが、大勢が見ている前で淑女の衣服を奪い、月夜の中を引き回すなど、親や主君を殺した極悪人を裁く場合でも、東西の歴史に聞いたことがない大罪だ!」
さらに学円は続けた。
「たしかに雨は降るかもしれん。黒雲も湧くだろう。だがそれは、黒牛の背に乗せられた犠牲の惨状を見るに忍びず、天が泣くからだ。月が顔を隠すからだ。
天を泣かせ、月の光を隠して、それで諸君は生きられるのか。稲は育っても人の心は飢える。水は湧いても人は渇く。
しかも、こんな無法を働き、萩原夫婦を追い出し、鐘を撞く約束まで破って、もし土地が泥の海になったらどうする。
六か村八千人というその多くの命は、諸君自身が失うのだ。
迷信だと言うなら言えばよい。だがこの夫婦が仲睦まじく、一生世に埋もれて鐘楼を守っていても、誰の心も傷つけず、世間に何の害もないではないか。」
管八が怒鳴った。
「黙れ、うるさい! 勝手なことをぬかすな!」
初雄も尋ねる。
「いったい君は何者なんですか。」
学円は胸を張った。
「私か。私は萩原の親友だ。」
宅膳が吐き捨てる。
「どこから出てきた坊主め、何をぬかす。」
学円は平然と答えた。
「その通り、坊主だ。本願寺派の僧侶であり、文学士、京都大学の教授でもある。山沢学円という者だ。名乗るのも気恥ずかしいが、この地は真宗信仰のゆかりの地だ。同じ宗門のよしみで同情してくれる方もおられようと思って言うのだ。」
そして次々と村人に呼びかける。
「先生、あなたも教育者ならわかるだろう。
神官殿、あなたも教えの道にある方だ。
村長さん、その名声にすがりたい。
それに力士殿、天下の力士は侠気ある男と見受けた。
どうか、雨乞いの犠牲だけはお許し願いたい。」
その言葉に村人たちはしばらく迷った。
そこへ、代議士の穴隈鉱蔵が葉巻をくゆらせながら悠々と現れた。
「そいつらはペテン師だ。いや、たとえ本物でも華族が何だ、学者が何だ。飯はどうする? 命はどうする?
万事この俺が引き受けた。やれ、お前たち。裸にしようが骨を抜こうが、女一人と八千人の民、どちらが重いか論ずるまでもない。雨乞いを断行しろ!」
力士を先頭に、村人たちが一斉に動き出す。
学円は上着を脱ぎ捨て叫んだ。
「そこまで言うなら、私を縛れ! 牛に乗せろ!」
晃もからりと鎌を捨てた。
「いや、身代わりなら俺を縛れ。八つ裂きでも構わん。牛に乗せて夜叉ヶ池へ連れて行け。犠牲で雨が降るというなら、俺が竜神に談判してやる!」
百合も叫ぶ。
「晃さん、お客様、私が行きます! 私を行かせてください!」
晃はきっぱり言った。
「だめだ。命にかけても女房は売らん。竜神が何だ、八千人がどうした。神にも仏にも、この恋は売らん。
たとえお前自身が納得して望んだとしても、俺が止める。」
鉱蔵は杖を叩きながら近づき、高笑いした。
「気でも狂ったか。馬鹿もほどほどにしろ。
国のためには妻子を刺し殺してでも戦争に出る、それが男の本分だ。これぞ我が国の精神、武士道だ。
人を救い、村を救うのは国家に尽くすことだ。
国のために尽くすのに、一晩女房を牛に乗せるくらいで何が情けない。
鼻たれ小僧め。気の早い者ならお前を国賊と呼ぶぞ。
この俺、鉱蔵などは、村どころかここにいる民衆のためなら、いつでも命を捨てる覚悟だ!」
その言葉に村人たちは敬礼し、村長はあごを撫で、有志たちは得意げな顔をした。
その瞬間、晃が叫んだ。
「死ね!」
落ちていた鋭い鎌を拾い、鉱蔵へ突きつける。
鉱蔵は思わず叫び、後ずさった。
晃 「死ね、死ね、死ね。民のためだと言うなら、お前がまず死ね。立派に死んでみせたら、俺も死んで、そのあとで百合を渡してやる。どうした、死なないのか。」
晃がじりじりと迫るたびに、鉱蔵は情けなく後ずさる。
百合は晃の腕にしがみつき、震える声で言った。
百合 「……それができないなら、決闘してください。」
村人たちは慌てて二人の間に入り、押しとどめる。
晃 「近寄るな。口まで腐ってる連中め。お前たちは、その成金に金で買われたんだな。
昔も同じことがあった。白雪という、この里の娘だ。権力で脅し、嫌がる彼女を無理やり捕まえて、裸で牛に縛りつけ、夜叉ヶ池へ連れて行った。
娘は悔しさと恥ずかしさと無念さで、生きて村へ戻るつもりなどなかった。
追われる牛にも言ったんだ。同じ命なら、お前にもやる、と。牛の鼻先をなでながらな。
そして一晩中刈り集めた芝草を牛の背に積み、石を打ち合わせて火をつけると、鞭などなくても牛は駆け出した。
白雪が白い手をあげて麓の村を指さすと、牛は雷のような勢いで駆け下り、片っ端から村を焼いた。
麓に赤い炎が立つのを見て、白雪は笑いながら夜叉ヶ池へ身を沈めたという話を知らないのか。忘れたのか。
俺たちに指一本でも触れてみろ。雨など降らず、この鹿見村は炎に包まれるぞ。愚かな連中め。」
鉱蔵 「世迷い言をぺらぺらしゃべるな、小僧。村はもう旱魃の炎で焼けている。そのための雨乞いだ。
おい、みんな、手ぬるいぞ。やれ、やれ!」
村人たちがためらっているのを見ると、鉱蔵は怒鳴った。
鉱蔵 「埒が明かん。伝吉ども、来い!」
博徒の伝吉が長ドスを光らせ、子分たちも武器を振って現れる。
伝吉 「まとめて片づけろ!」
子分 「合点だ!」
晃 「山沢、危ないぞ!」
晃は百合を抱き寄せるようにして、三人で鐘楼へ駆け上がる。
学円は奥へ、晃と百合は入口で互いに盾になろうと争う。
やがて晃が二人を押しのけ、堂々と立ち、鎌を高く構えた。
博徒たちは下から取り囲む。百合は晃の振り上げた腕にしがみつく。
村人たち 「やれ! やっちまえ!」
学円 「言語道断だ! こんな愚かで残虐な民を見たことがない!
天よ――銀河の水を白い滝のように落としてくれ!」
晃 「大事な体だ、山沢は逃げろ、逃げろ!」
そう叫びながら、先頭で石段を上がってきた伝吉と斬り結ぶ。
金属音が稲妻のように響き、伝吉は退く。
その時、誰かが石を投げた。
晃 「っ!」
額を切られ、晃は鎌を落とす。
百合はすぐにその鎌を拾い上げた。
百合 「皆さん、私が死ねば文句はないでしょう。」
そう言うより早く、自分の胸を深く切り裂いた。
晃 「しまった!」
晃は慌てて鎌を取り返す。
百合 「晃さん……ご無事で……晃さん……」
百合はそのまま崩れ落ちた。
村人たちは青ざめ、呆然と立ち尽くす。
晃 「誰にも渡さない。茨の道でも背負って行く。冥土で待っていろ。」
百合を抱き上げ、学円と顔を見合わせる。
晃 「今、何時だ。」
学円 「二時三分。」
晃 「……ちょうど丑三つ時だな。山沢、俺はこの鐘を撞かないつもりだ。どう思う。」
学円 「……ああ、撞くな。百合さんのためにも、撞くな。」
晃は鎌を振り上げ、撞木(しゅもく、鐘を撞く棒)を切り落とした。
その瞬間、凄まじい轟音が響く。
「地震だ!」
「山が鳴っている!」
「夜叉ヶ池の上を見ろ!」
真っ黒な雲が湧き、雷が絶え間なく走る。
村人たちは立っていられず大混乱。牛は暴れて人々を蹴散らし、走り去る。
鉱蔵 「鐘を……鐘を撞け――!」
嘉伝次 「助けてくれ! 鐘を撞いてくれ!」
宅膳 「お救いください! 助けてください!」
二人は逃げ回りながら叫ぶ。
天地は真っ暗になり、何人かの村人はよろめきながら石段を這い上がってくる。
晃はそれを斬り払い、突き落とすと、少しも動じず、峰の方を向いて学円と並び、二人はまるで彫像のように立っていた。
晃 「……波だ。」
その言葉と同時に、学円はとっさに地に伏した。
晃は自ら喉を斬り、そのままうつ伏せに倒れた。
その時、白雪がひときわ激しい雷光の中に現れる。
一度、小屋の屋根の上に姿を見せ、すぐ闇に消える。
次の凄まじい稲妻の光の中、今度は鐘楼に立っていた。
白雪はすっと立ち、鉄の杖を振るうと、下から高く手を伸ばして鐘に触れる。
巨大な鐘はゆらゆらと揺れ、傾き始めた。
村人たちは混乱し、正気を失って右往左往する。
そこへ万年姥と眷属たちが襲いかかり、一人残らず皆殺しにしてしまう。
白雪 「姥、うれしいな。」
眷属たち 「お姫様!」
白雪 「人間たちは?」
姥 「みな魚になりました。もう泳いでおります。田螺やどじょうの姿も見えます。」
一同はどっと笑う。
白雪 「この新しい鐘ヶ淵を、あのご夫婦の住まいにしましょう。みんな、おいで。
私は剣ヶ峰へ行くよ。……もう行き来は思いのまま。
お百合さん、お百合さん、一緒に歌いましょうね。」
たちまちまた闇になる。
やがて巨大な鐘は水の中に沈んでいる。
その中で、晃と百合が二人並んでいた。
晃は龍の飾りに頬杖をつき、
百合はその下で裾を水に流し、体を反らせて手をつきながら、晃を見上げている。
二人はじっと見つめ合い、にっこりと笑っていた。
高い鐘楼には学円が一人立ち、深く一礼して合掌する。
その時、月の光は明るくあたりを照らす。
――幕。
大正二(一九一三)年三月
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 卷二十五」岩波書店
1942(昭和17)年8月31日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2002年2月22日公開
2015年4月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
本文は、上記の青空文庫の内容を生成AIを使い現代語風に訳したものです。




