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第一話 筋肉は嘘をつかない


「クラリス・ヴァン・ベルン! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」


 きらびやかなシャンデリアが輝く王宮の舞踏会。その中心で、王太子エドワードの声が響き渡った。

 音楽は止まり、華やかなドレスを纏った令嬢たちや、着飾った貴族たちの視線が一斉に突き刺さる。

 注目の的となった私、クラリスは、静かに手に持っていた扇を閉じた。


「……婚約破棄、でございますか。エドワード殿下」

「そうだ! 貴様のその、令嬢にあるまじき下品な趣味にはもう耐えられん!」


 エドワード殿下は忌々しげに私を指差した。

 私の趣味。

 それは、この貴族社会において「野蛮」で「無教養」とされるもの。

 ――筋肉の鑑賞と、その研鑽である。


「貴様、先日も近衛騎士団の訓練場を覗き見していただろう! しかも、あろうことか騎士たちに『もっと大胸筋を意識して剣を振りなさい』だの『広背筋の広がりが足りない』だの、破廉恥な言葉を浴びせたと聞く!」


 会場にクスクスという失笑が漏れる。

 令嬢たちが扇の影で「まあ、はしたない」「筋肉なんて、平民や獣の誇るものなのに」と囁き合っている。

 私は、心の奥底で熱い何かが脈動するのを感じた。


「殿下、それは誤解ですわ。私はただ、彼らのポテンシャルを最大限に引き出すためのアドバイスを――」

「黙れ! 貴様のその、令嬢らしからぬ『硬そうな』佇まいも気に食わない! 女ならばもっと、柳のようにしなやかで、守ってやりたくなるような儚さを持つべきだ。貴様の腕はどうだ? 細身を装っているが、触れずともわかる。それは……鍛え抜かれた者の質感だ! 気味が悪い!」


 気味が悪い。

 その言葉が、私の心臓を強くパンプアップさせた。

 私は深く、深く呼吸をした。横隔膜を押し下げ、腹圧を高める。


「……殿下。今、気味が悪いとおっしゃいましたか?」

「ああ、言ったとも! 筋肉など、努力を放棄した者が縋る野蛮な鎧に過ぎん。真の貴族は、血統と魔力、そして洗練されたマナーによって立つものだ!」


 私はゆっくりと、一歩前へ踏み出した。

 その足取りに迷いはない。踵から着地し、母指球へと体重を移動させる。大腿四頭筋とハムストリングスが、完璧な連動を見せて私の体を支える。


「殿下、貴方は大きな間違いを犯していらっしゃいます」

「何だと?」

「血統は選べません。魔力も才能に左右されます。ですが、筋肉だけは……筋肉だけは、努力した分だけ、裏切ることなく応えてくれるのですわ!」


 私の声が、舞踏会場の空気を震わせた。


「貴方は『下品』とおっしゃいました。ですが、この皮膚の下に刻まれた繊維一本一本に、どれほどの涙と汗が染み込んでいるか、考えたことがおありですか? 早朝のスクワット、深夜のデッドリフト……それらを経て得られた『バルク』こそが、この世で最も誠実な品格ではありませんの!?」

「狂ったか! やはり貴様は異常だ。追放だ! 今すぐ北の辺境、魔物が徘徊する荒野にある『ボロ雑巾騎士団』へ行け! あそこなら、貴様の好きなむさ苦しい男たちが腐るほどいるだろう!」


 追放。

 普通なら絶望し、泣き崩れる場面。

 だが、私の口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。


「……辺境、ですのね」

「そうだ! 二度と王都の土は踏ませぬ!」

「わかりましたわ。その宣告、ありがたく頂戴いたします」


 私は、窮屈なコルセットを締め上げていたドレスの背後に手を回した。

 そして。


「ふんぬっ!!」


 パァァァンッ!!

 という、乾いた、それでいて重厚な破裂音が会場に響き渡った。

 私の背中の筋肉――広背筋が怒涛の勢いで膨らみ、最高級のシルクと、それを縛っていたクジラの髭のコルセットを内側から粉砕したのだ。


「な、何事だ!?」

「あ、あ、背中が……令嬢の背中が割れている!?」


 貴族たちが驚愕に目を見開く中、私は破れたドレスを脱ぎ捨てた。

 下に着込んでいたのは、自作の機能的な運動着。

 露出した私の肩は、メロンのように丸く盛り上がった三角筋が主張し、腕には美しいストライエーションが走っている。


「殿下、愛は移ろい、言葉は風に消えます。ですが、刻んだ筋肉きずなだけは決して私を裏切りません。さようなら、軟弱な王太子。貴方のその細腕では、次に襲い来る時代の荒波を――いえ、ベンチプレス四十キロすら支えきれないでしょう!」


 私は優雅に、かつ力強くカーテシーを決めた。

 それは、もはや令嬢の挨拶ではなく、ボディビルのフロントラットスプレッドに酷似した「美しき宣戦布告」であった。


 こうして、私は王都を後にした。

 馬車に揺られること三日。

 持ち物は、最低限の着替えと、自作のプロテイン粉末、そして十年に及ぶ研究の結晶である「解剖学的筋力増強理論」を記した分厚い日誌のみ。


 道中、欲に目がくらんだ野盗たちが襲いかかってきたこともあった。

 彼らは私を見て「上等な女だ」と下品な笑いを浮かべたが。


「無駄な脂肪が、精神の弛緩を物語っていますわね」


 私は馬車を降り、構えた。

 剣など必要ない。

 拳を握り、下半身のパワーを体幹を通じて拳へと伝える「キネティック・チェーン(運動連鎖)」を意識する。


「チェストォォォ!!」


 放たれた一撃は、野盗のリーダーの胸板を捉え、その背後の大木ごと彼を吹き飛ばした。

 残りの野盗たちは、「化け物だ!」と叫びながら散り散りに逃げ去っていった。

 私は乱れた髪を整え、ふうと息を吐く。


「少し、フォームが崩れましたわね。やはり実戦は最高の有酸素運動ですわ」


 そしてようやく、目的地である北の辺境へと到着した。

 そこは、灰色の空と冷たい風が吹き抜ける、不毛の地。

 目の前には、崩れかけた石壁の駐屯地。

 そこを守るはずの「ボロ雑巾騎士団」の面々が、覇気のない様子で屯していた。


 私は馬車を降り、彼らを一瞥した。

 ……絶望した。

 彼らの腕は細く、肩は内側に入り、腹はだらしなく突き出ているか、あるいは飢えでへこんでいる。

 バルクがない。カットがない。何より、筋肉への愛がない。


「……信じられませんわ」


 私は震える拳を握りしめ、誰にともなく宣言した。


「これほどまでに美しい素材たちが、磨かれもせずに放置されているなんて。これは、神に対する冒涜、そして筋肉に対する大罪ですわ!」


 一人の男が、不思議そうにこちらを振り返った。

 ボロボロの鎧を纏っているが、その体格だけはいい。ただ、使い方がわかっていないだけだ。

 彼こそが、この騎士団を率いる団長だろう。


「あんたが、王都から来たっていう『筋肉狂いの令嬢』か?」

「失礼ですわね。私はクラリス。筋肉の、そして努力の導き手です」


 私は彼に歩み寄り、その細い上腕二頭筋を指先でなぞった。


「貴方の筋肉は泣いています。もっと重いものを持ち上げたい、もっと熱く燃え上がりたいと……。安心なさい。私が来たからには、ここを世界最高の聖域ジムに変えて差し上げます」


 ここから、私の、そして彼らの「筋肉革命」が始まる。

 王太子よ、見ていなさい。

 貴方が切り捨てたこの「下品な趣味」が、いつかこの国を救う唯一の力となることを。


 私は大きく息を吸い込み、辺境の冷たい空気を肺いっぱいに満たした。

 ――さあ、トレーニングのお時間ですわ!

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