第19話 付き合う?
放課後の図書室は、いつもより少しだけ静かだった。
外では吹奏楽部の練習の音がかすかに響き、窓の外では夕陽がゆっくりと沈んでいく。
いつものように、資料室の扉を開ける。
中では未来がすでに座っていて、ノートを開いたままこちらを見上げた。
「空、お疲れさま。」
「おう、未来も。」
未来は軽く笑って「今日は特別な活動とかないよ」と言った。
いつものように机を挟んで座り、二人だけの空間ができる。
秘密クラブ――その名前を聞いたときの緊張も、今ではすっかり薄れた。
ここではいつも、本音で話せる。
でも、今日は少しだけ違う空気が漂っていた。
昨日の下校の時間が、どこか心に残っているせいかもしれない。
「ねぇ空、最近どう?授業難しくない?」
「うーん、相変わらずだな。なんとかついていけるって感じ。」
「なるほどねー。」
未来はペンをくるくる回しながら、柔らかく笑った。
そんな些細な仕草が、妙に印象に残る。
「未来はどうなんだ?」
「私は……まぁまぁかな。頑張ってるつもり。」
「つもりって言い方が怪しいな。」
「だって完璧じゃないもん。」
そんな他愛のないやりとりが続く。
話題は授業、部活、クラスメイトの噂――どれも特別なことではないのに、不思議と心が落ち着いた。
ふと気づけば、未来が机に肘をついて、じっと空の顔を見ていた。
「……どうした?」
「ううん、なんでもない。ただ、空と話してると落ち着くなって。」
その言葉に、一瞬呼吸が止まる。
未来の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。
その視線に、何かを探られているような気がして、思わず視線を逸らした。
「な、なんだよそれ。恥ずかしいだろ。」
「ふふ、照れた?」
「照れてない。」
「嘘だ。」
未来が笑い、空もつられて笑った。
部屋の空気が少しだけ柔らかくなった気がする。
◇
しばらくして、窓の外の光が薄れ始めた。
部屋の中にオレンジ色の光が差し込み、未来の髪を淡く染める。
「……なんか、こうして話してるだけで十分楽しいね。」
「そうだな。雑談するのもいいよな。」
「でも、これも恋の練習の一つかもよ?」
「雑談が?」
「うん。好きな人と話すって、きっとこういうことだと思う。」
未来の言葉に、空は一瞬何も言えなかった。
好きな人という単語が、あまりにも自然に出てきたからだ。
胸の奥が小さくざわつく。
まるで、自分に言われたような錯覚。
でも、それを確かめる勇気は空にはなかった。
沈黙が一瞬流れ、未来がふと笑顔を浮かべた。
「ねぇ、空。」
「ん?」
「……私たちさ、付き合ってみる?」
その言葉に、時間が止まった。
「……え?」
「冗談だよ?」
未来はぎこちなく笑い、机に頬杖をつく。
「ほら、秘密クラブの延長みたいな感じで。恋の練習の最終段階……仮の恋人ってどう?」
声のトーンが低い。
その瞳の奥には、冗談ではない何かが見えた。
空は息を飲んだ。
脳裏に、今までの活動の数々が浮かぶ。
名前呼び、SNS、相合傘、手つなぎ、プレゼント交換、デート。
全部が少しずつ特別で、少しずつ距離を近づけてきた時間。
――もし、ここでうんと答えたら。
それは、もう練習ではなくなる。
胸が強く鳴る。
けれど、同時に言葉が出ない。
未来は静かにこちらを見つめていた。
期待とも、不安ともつかない表情。
「……ごめん。」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「その……冗談でも、ノリでも、練習で付き合うのは、なんか違う気がするんだ。」
未来が瞬きをした。
驚いたような、それでいて納得したような顔。
「……そっか。うん、そうだよね。冗談でも、そういうの、良くないよね。」
無理に笑うその表情が痛々しかった。
その笑顔が作りものだとすぐにわかった。
「じゃあ、今日はもう帰るね。」
未来は立ち上がり、机に置いたノートを鞄にしまう。
その仕草がいつもより少し早い。
「またね、空。」
笑顔のまま言って、振り返らずに部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
その音が、やけに響いた。
◇
静まり返った部屋に、空だけが取り残される。
時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
未来の「付き合ってみる?」という声が、何度も頭の中で反響する。
そして、その笑顔。
冗談だよと言ったときの、あの少し震えた声。
――本当は、冗談じゃなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
罪悪感。
でも、それ以上に、別の感情が湧き上がってきた。
未来の笑顔が見たい。
また一緒に話したい。
あの穏やかな時間を取り戻したい。
そう思ったとき、ようやく気づいた。
自分は――もう、恋の練習なんかじゃない気持ちを抱いている。
未来の声を聞くたびに心が浮き立って、
笑顔を見るたびに安心して、
沈黙になると不安になる。
それは、きっと好きという感情なのだと思った。
◇
夕陽が沈みきり、部屋の中は薄暗くなる。
机の上には、未来が飲みかけたペットボトルの水が残っていた。
そのキャップに指を触れながら、空は小さく呟く。
「……俺、何やってんだろ。」
もう少し、ちゃんと話せばよかった。
ごまかさずに、ちゃんと向き合えばよかった。
そう思っても、もう未来はいない。
外では部活の音が止み、夕暮れの静けさが戻ってくる。
資料室の空気がやけに冷たく感じた。
「……未来に、会いたいな。」
声に出した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――これが、本当の恋なのかもしれない。
空はそっと目を閉じて、心の中で未来の笑顔をもう一度思い浮かべた。




