07
昼のランチタイムが終わり、最後の客を見送った渉は深く息を吐いて近くにある椅子に座った。
今週は臨時休業もあったため、客足が伸びるのは良いことだが、この慌ただしさはなかなか慣れない。
暫くは椅子に座っていたかったが、グラスやデザートの皿を片付けなければならない。あともうひと踏ん張りだと、自分を叱咤してテーブル席を回って食器を回収する。
「渉さん、まかないできたって」
ランチプレートなどの奥で洗うものを洗い終えたのか、陵が涼しい顔でキッチンから出てきた。
「ありがとう。そこ置いといてー」
今日のまかないは何だろうか。デミグラスソースのような匂いは先程からしているが、今日のランチにはデミグラスソースを使ったものはなかった。
また丁司が何か新しい料理に興味を持ったのだろうか。
想像と期待を膨らませながらも、先にやるべきことを終えようと、台拭きでテーブルを拭いて回ってからカウンターへと戻った。
「カレー、じゃないね……ハヤシライス?」
カウンターの裏、渉の定位置の作業台に置かれている皿には、艶のあるブラウンのソースが掛かったご飯が置かれている。
「ですね。トマト缶で作ったトマトソース、味が濃くて使い辛かったみたいで……」
「ああ……」
先日の手作りトマトソースは確か生のトマトを使っていた。時期ではないので少々痛い出費だったのもあってか、トマト缶でも作ることにしたらしい。
結局、丁司の望む味ではなく、こうしてハヤシライスになったようだが。
「丁司さん、何でいきなりトマトにハマり始めたんですかね……?」
「和食だとあんまり使わないからかなぁ? 全く使わないってこともないんだろうけど、どちらかというとトマトが入ってると創作和食に見えるよね」
「あぁ、確かに……」
「昔は食用じゃなくて観賞用だったって言うし、使ってみたいんじゃない? 洋食って意外とトマトソース多いし」
一旦、回収したグラスと皿を流しに置き、先に食べてしまおうと渉は椅子に座った。
いただきます、と手を合わせ、ハヤシライスを一口頬張る。
トマトの酸味は確かに感じられるが、バターのコクとまろやかさで程よく中和されている。煮込み料理だと肉は硬くなりがちなイメージがあるが、この牛肉はとても柔らかい。――今日のメニューにも使われていなかった牛薄切り肉の出所が気になるが、今は気にしないでおこう。
「うん、美味しい。流石、丁司さん。これなら定期的に食べたくなるかな。ハヤシライスってあんまり食べる機会ないんだよねぇ」
「俺も小学校の給食以来ですね」
「そんなに前!?」
何年前なんだ、と思わず突っ込んでしまったが、陵の生い立ちを考えるとそれも仕方がないのだろう。
「丁司さんがオーケー出してくれたら、定期的にメニューに出そうか?」
「いや、別にそう頻回に食べたいわけじゃ……まぁ、お客さんは喜ぶと思うんで、出していいと思いますけど」
「ああ、確かに。相模さんとか喜びそう」
本人の好みを聞いた訳ではないのでかなり偏見ではあるが。
「そういえば、稲荷の方はどうなったんですか?」
「一昨日目が覚めたから、行ってきたよ。やっぱり“あのオガタマが欲しい”の一点張りで、理由もちゃんと言わないから相模さんにわざわざ来てもらったよ。まぁ、そこで理由は判明したんだけどね」
「へぇ」
「なんでも苺を誰かにあげるために育てたかったらしくてさ、でも稲荷自身はそんな力、ほとんど残ってなくて、結局相模さんがオガタマを貸すことになったよ」
「貸す? アレ、そのまま戻ってくるような代物なんですか? というか、許可は?」
「一応事情は説明して、承諾はしてもらったよ。もうあげてしまったものだから、どうするかは彼女次第だって。ちょっと不機嫌になってたから焦りはしたけど……」
「まぁ、そうでしょうね。気紛れだろうけど、滅多にお礼とかしないだろうし」
「相模さんも結構悩んでたよ。最終的には貸すことになったけど、御守りのお礼をもう一度伝えて欲しいって頼まれてね。それで多少は機嫌も戻ってたから、そっちは大丈夫だと思う」
「そうですか」
陵は淡々とそう返して、再びハヤシライスをスプーンで掬って口に運ぶ。
分厚いレンズの眼鏡越しでは、陵が何を思っているのかまでは読み取れない。だが――。
(普段の陵君なら、ここまで気にしないんだよね……)
他人とあまり関わりたがらない陵が、自分から誰かを気にかけるような話題を持ち出すこと自体が珍しいと渉は感じている。
(厄介事って言っても、今回はうちと相模さんの問題で、陵君自身が直接関わってるわけじゃないし……)
「相模さん、陵君にも言われたからよく考えたって言ってたよ」
「……そうですか」
「多分、相模さんが良く考えずにオガタマを貸してたら、あの方の機嫌も戻らなかったと思うんだよね」
「それはそうでしょう。基本的に気難しいんだし。御守りの説明をちゃんとしてるなら兎も角、色々と伏せて説明したんだから、こっちが期待するような返答をしろっていうのは無理がありますよ」
「うん、そこは僕の責任でもあるからさ、ぼかしながらも相模さんが簡単に決めてしまわないように色々と助言をしたんだけどね。でも、陵君の言葉が一番効いたみたい。ありがとう」
「いえ、思ったことを言っただけですから……」
陵は軽く視線を背けると、再び食事に集中し始めた。
照れているのか嫌がられているのか、陵とはもう一年近くの付き合いになるが、未だにそこは分からない。
「あとは、あのオガタマが形だけでもそのまま戻って来ると良いんだけどね……」
スプーンでハヤシライスを掬いつつ、独り言のように渉は言う。
「力が完全に失われるのは仕方ないとしても、流石に壊れて返ってくると相模さんも悲しみそうだし……」
最悪壊れてしまう可能性があることまでは、渉は言わなかった。七緒が躊躇しすぎると、稲荷の精神状態が再び悪くなる可能性があったのだ。
穏便に進めたかったとはいえ、酷いことをした自覚はある。
「もし割れてたりしたら、お詫びに新しい物を用意しようとは思ってるんだ。形だけになるけど」
「……最終的に本人が決めて貸したんなら、それでいいんじゃないですか? 渉さん達としては、アレを稲荷にやって丸く収めたかったんでしょうし」
「それが一番無難だったからね」
渉よりも食べて進めていた陵は、最後の一口を口に運んでしまうと、「買い出しに行ってきます」と言ってすぐに皿を持って席を立った。
一人になった渉は、スプーンを口に運びながら最近の陵の行動を思い返す。
“渡さない方がいい”といった忠告は兎も角、嫌な予感がしたからといってわざわざ跡を追うというのは陵らしくない。
陵は丁司のように稲荷を相手取れるような能力を持っていないのだ。危険だと分かった時点で自分や丁司に連絡をして大体の位置を伝えるだけでも十分だった筈だ。
だが陵は、身を挺して七緒を庇っていた。
(やっぱり妙に優しいんだよねぇ、陵君にしては。わざわざ温かい飲み物買いに行ってたし)
態度や声の掛け方は他の女性に対するものと変わらないが、普段の陵ならそういったさり気ない気遣いなどは一切しないだろう。
陵本人は七緒の跡を追ったことについても、“家のある方角が同じで使っている電車も同じだったから”等と言っているが、たとえ方角が真逆だったとしても、陵は跡を追っていたのではないかと渉には思える。
あれこれと考えている内に皿は空になっており、渉は席を立って奥のキッチンへと向かう。
「丁司さん、ごちそうさまでした」
渉の言葉に丁司は「ああ」と短く返す。
考え事をしているのだろう。丁司は腕を組んだまま、トマトソースの入った鍋をじっと見詰めている。
「味は?」
「ハヤシライスですよね? 美味しかったですよ。丁司さんが良いって言ってくれたら、定期的にメニューに載せたいです」
「そうか」
多少は納得できたのだろうか。あまり多くを語らない丁司に苦笑しながら、渉は持ってきた皿を軽く洗って食洗器の中に入れる。
「丁司さん」
「何だ」
「陵君って、やけに相模さんのこと気にしてると思いません?」
ずっと鍋を見ていた丁司が、渉の方を見て怪訝そうに眉を顰める。
「お前がそう感じるのなら、そうなのだろう」
「陵君にしては珍しくないですか?」
「あいつの顔を見ても動じていないようだったから、そこが気に入ったのだろう」
「まぁ、確かに眼鏡もマスクも外してましたけど、あんな状況だったから、相模さんも見惚れてる余裕がなかったんじゃないかと。というか、わざわざ跡を追ったりとか、顔見せる前からなんか気にしてる感じがするんですよね」
ふむ、と丁司は少しが納得が行ったように軽く頷く。
「ああいう、邪気のない娘を気に入るというのは、分からんでもない」
「丁司さんも、何気に気に入ってますよね」
「俺の料理を美味そうに食べるからな」
「僕とか家の皆も美味しいと思って食べてますけど……?」
特に母や兄嫁などは丁司が夕飯当番の時は、よく美味しい美味しいと言って食べている。
「喜ばれているのは分かるが、あの娘の場合はまた少し違うな」
丁司も上手く言い表せないようだが、七緒の食べている姿を思い返してみると、何となく分かる気がした。
(本当に、幸せそうに食べるもんなぁ、相模さん)
そういう意味では、“邪気がない”という言葉がしっくりくるかもしれない。
(陵君も意外とそういうところに絆されてたりするのかな……)
あの陵が、とは思うが、あまり人と関わりたがらない陵が親しい相手を作るのは良いことだ。
暫く見守ってみよう、等と考えているとドアベルの鳴る音が聞こえ、渉は表へと戻った。
◇
大学で最後のレポートを提出し終えた七緒は、何をしようか、と考えながら家に向かっていた。
本格的に春休みに入ったのはいいが、この一年程で仲良くなった面々は、サークル活動だったり帰省だったりと、それぞれに予定があるようで、何処かに遊びに行こうという話にはならなかった。
七緒も当初は、春休みにはアルバイトをして過ごそうと考えていたが、居酒屋のアルバイトで酔った客に何度も絡まれた所為で、アルバイト自体が少し億劫になっている。
(うーん、でも、お小遣いくらいは自分で稼がないとなぁ)
居酒屋のアルバイトは、期末試験を口実に年明け前に辞めた。
バイト代はまだ残っているし、遠くに遊び行く予定もないので大金は必要ないが、気兼ねなく服や本を買ったりカフェに通ったりする為にもある程度はお金を貯めておきたい。近い内にいいアルバイトを見付けたいところだ。
(あんまり絡まれないバイトとかないかな……)
本屋の店員などがあれば良いのだが、求人情報を見ても飲食店やアパレルなどの求人が大半でなかなか見付からない。
そんなことを思いながら歩いていると、ふと、道の脇にある神社が目についた。
七緒の脳裏にあの稲荷の祠が浮かぶ。
陽だまりカフェの隣にある神社よりは小さいが、ちゃんと管理する人間がいるようで、あの祠のように荒れ果てているということはない。
恐らく、最初は何らかの御利益が欲しくてあのように祠を建て、稲荷を祀ったのだろうが、それも廃れてしまえば、見向きをする人間もいなくなり、放置されてしまう。
稲荷の心情を考えれば、それは寂しくもあり、悲しくもあり、そして人間が少し身勝手だと思う。そう考えるのは七緒だけだろうか。
(苺を食べて欲しい、って気持ち、分からなくもないな……)
あの老婦人は、他の人々が見向きをしなくなっても、一人で祠の掃除をしてくれていたのだ。
老婦人が何処に行ってしまったのかは分からないが、あの荒れ具合からして、他の誰も祠の管理をしていないことは明白だ。
(決めた。あそこに行こう)
どうせ春休みの予定などは何も立っていないのだ。
苺がちゃんと実るのかも気になるし、祠の掃除や草取りくらいなら七緒にもできる。
善は急げだ、と言わんばかりに、七緒は駅までの道を走った。
家に帰った七緒は、箒に軍手、ごみ袋を手に稲荷の祠へと向かった。
あの夜の翌日には祠に近寄ることも怖かったが、稲荷の願いを聞いてからはそんな感情もどこかへと行ってしまった。
祠は数日前と変わらない様子でそこにあった。
誰かが掃除してくれていないかという期待もほんの僅かにあったのだが、やはりそう上手くはいかないのだろう。
七緒は、自分が来た甲斐があった、と頭を切り替えて祠の裏へと回る。一応、稲荷に掃除をしてもいいか尋ねることにしたのだ。
民家の塀と細い木の間を通り抜けて足を踏み入れ、七緒は微かな違和感を覚えて立ち止まった。
(あれ……? なんか、暖かい……?)
偶に寒気が和らぐこともあるが、まだ二月の上旬、冬真っただ中である。七緒もコートにマフラーを巻いているし、通りを歩いている時には確かに寒かった。
(この前は、裏側の方が寒かったのに……)
七緒は空を見上げる。
周囲は木々に囲まれているが、中心はぽっかりと空いていて、そこから陽が差している。
陽当たりの良い場所は多少暖かくなるかもしれないが、表よりも暖かいというのは少しおかしい気がした。
(色々と分かる前だったからかな……)
あの夜の出来事を思い出して、勝手に寒気を感じていたのだろうか。
どこか釈然としないものを感じながらも正解が分からず立ち竦んでいると、視界に白っぽいものが入って七緒は我に返る。
稲荷だ。この前と同じく、子供のような姿で和装を身に着けている。
「そ、そなた……オガタマを返せと言いに来たのか……?」
大きな耳を伏せて、不安げな表情で尋ねてくる稲荷に、七緒は慌てて首を横に振った。
「い、いえ、違うんです! その、お手伝いというか、あのお婆さん、お掃除とかに来れてないみたいなので、代わりにお掃除とかしてもいいか訊こうと思ってですね……」
七緒の言葉に稲荷はぴんと耳を立てた。
「祠を清めてくれるのか!?」
「あ、いえ、清めるとか大袈裟なことはできないと思うんですけど、ごみとか掃いたり、雑草を取ったりくらいはできるかと思いまして……」
「それでも十分じゃ!」
稲荷は嬉しそうに目を輝かせながら七緒の方に駆け寄ってくる。ふさふさの尻尾がぶんぶんと横に揺れているのを見るあたり、本当に嬉しいようだ。
どこか幼い子供を見ているのかのようで、七緒も思わず目を細めて微笑う。
「良かった。触っちゃいけないものとかあったら教えて下さいね」
「扉の奥のものに触れなければそれ以外は問題ない」
祠の小さな扉の中にあるものだろう。大抵そこには御神体が祀られていると聞く。
「分かりました。じゃあ、少し掃除してきますね」
「ああ、頼む!」
早速取り掛かろうと、七緒は表へと戻る。やはり表の方が少し寒いのを感じながら、祠の周りの落ち葉やごみから集め始めた。
箒で掻き集めては持ってきたごみ袋へ入れ、粗方落ち葉やごみが無くなったところで、枯れている雑草を中心に引っこ抜いて回る。
祠に飾ってあった何の花かも分からなくなった花も捨てた。
生けてあった瓶の水も腐っていたため、排水溝に流して別のごみ袋に入れる。これは洗っても完全には綺麗にならないだろうから、何か新しいものを見繕った方が良いだろう。
飾りがなくなった祠は物寂しく感じられるが、纏っている空気がどこか清々しくなったような気もした。
祠周りはこんなものだろうか、と一息吐いていると、祠の裏手から白いものが覗いているのが見えた。
奥にある木の幹に半分身を隠しながら、稲荷が何かを言いたそうな様子でこちらを見詰めている。
触ってはいけないと言われたものには触っていない筈だが、と七緒は内心首を傾げながら奥に入った。
「稲荷さん、どうかしました?」
「そ、そなたのお蔭でだいぶ良くなった! 感謝する!」
どうやら礼を言いたかっただけのようだ。七緒は、「お役に立てて良かったです」と返しながら、そういえば、と気になったことを口にする。
「苺の方は大丈夫ですか? 育ちそうです?」
その言葉に、稲荷はぴんと耳を立て、空き地の中でも陽当たり良い場所へと駆けていく。
「ここに植えた!」
稲荷はそう言って地面を指さした。七緒のいる位置からは分かりにくいが、雑草や枯草の中にぽつりと一か所だけ空いた場所がある。
七緒は生い茂った草や枯草を踏み分けながら、稲荷の傍へ向かった。
植える場所だけは雑草などを取り除いたのだろう。茶色い地面の真ん中には、苺らしき苗が一つ植えられている。緑の葉は瑞々しく、元気に育っているようだ。
「苺の苗、あったんですね」
「秋に植えた苗の最後の一つじゃ。枯れかけておったが、大神様のお蔭で息を吹き返した」
他の苗は全部駄目だったそうだ。この苗も、冬を越せるか怪しかったそうだが、稲荷が寝床で守っていたという。
そう言われて七緒はもう一度苺の苗に目を向けた。とても枯れかけていたようには見えないが、よく見ると根本の方に枯れて萎れた苺の葉がいくつか落ちている。
(……えっと……?)
七緒が稲荷にオガタマを貸したのはほんの二日前のことだ。
苗が枯れかけていたのは事実のようだが、苺とはたった二日でこんなに成長するものなのだろうか。
七緒は疑問を抱きながら空を見上げた。
確かに陽当たりは良い。祠の裏手に入った時から少し暖かいと感じていたが、ここは春の初めくらいの陽気を感じる。
(お、大神様の力……?)
この陽気をもたらしているのがその大神の力だったとして、果たして苺の成長をこれほど早くすることができるのだろうか。
(これはもう、考えても分からないやつだ……)
七緒は湧いて出た疑問を全て頭の中から追い出し、不思議な力ってあるんだなぁ、と自分を納得させた。
お読みいただき、ありがとうございます。