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06

 渉からの連絡は思ったよりも早く、翌日の午後に“今から件の祠に来れないか”という趣旨のメールが届いた。

 期末試験は無事終わり、残る最後のレポートもほぼ書き終わっていた七緒は、すぐさま返事をし、稲荷が祀られている小さな祠へと向かった。

 小走りに道を行けば、数分と掛からない場所である。軽く息切れする前に見えてきた祠の脇には、一昨日見た車が停められていた。渉の車だ。そして小さな祠の前には二人の男の姿があった。

「あ、相模さん」

 七緒に気付いた渉が軽く手を挙げる。

「ごめんね、急に呼び出して」

「い、いいえ、特に何もしてなかったので」

 息を整えながら首を横に振り、傍にいた丁司に軽く頭を下げる。

 この場に渉と丁司もいるが、店は一体どうしたのだろうか。今日は店休日ではない筈だ。

「あの、お店は……」

「ああ、稲荷の目が覚めたって兄さんから連絡を貰ったからね。途中で閉めてきたよ」

 ちょうどお客さんも少なかったし、と渉は苦笑する。

「陵君がいたらデザートだけに切り替えて開けていられるんだけどね、陵君、今日はお休みで……」

「そうなんですね」

「それより、稲荷のことなんだけど……」

 渉は一度言葉を区切ると軽く辺りを見回した。

「裏で話そうか」

 そう言って祠の裏側へと歩いていく陵に、七緒も後に続いて入る。

 祠の裏手は空き地なのだろうか。雑木林のような敷地は明らかに人の手が入っておらず、表から見る以上に雑然としていた。

 祠裏には空き地のようなスペースがあるが、雑草や枯葉で埋もれており、鬱蒼と茂る周囲の木々の所為で薄暗い。普段なら絶対に足を踏み入れないような場所だ。

 木々に囲まれているからか、ひやりと冷たい空気に晒されながら七緒は辺りを見回す。

(意外と広い……)

 道路に面した祠が小ぢんまりとしているから、その奥に見える林は両隣の民家に植えられているか、もしくは反対側に公園でもあるのかと七緒は思っていた。

 民家との境には塀が設けられているから、雑木林一帯は祠の敷地なのだろう。

 そんな風に眺めていると、不意に視界の端から何かが飛び出してきた。

「あっ、こら!」

 渉が声を上げる中、目の前に迫って来た子供くらいの背丈のそれに、七緒は咄嗟に後退ろうとし踏鞴を踏む。

 辛うじて踏み止まれるかと思ったが、想像以上に足場が悪かった。よろめいて後ろに倒れそうになったところを、近くにいた丁司が支えてくた。

「あ、ありがとうございます」

「いや」

 ほっと息を吐く七緒の耳に、「どうか……」と下から懇願すようなか細い声が届く。

「どうか、そのオガタマを妾に与えてたもれ」

 えっ、と思いながら下を見れば、草臥れた着物を着た子供が七緒の足元で拝むように地面に手をついている。

 何処の子供だろうか、着物なんて珍しい、等と思ったのは一瞬で、子供の頭に犬のような大きな耳が付いているのに気付き、七緒の思考は数秒停止した。

(……耳? 付け耳……?)

 それにしてはやけにリアルで――。

 現実逃避をするかのように視線をずらせば、尻尾らしきものまで見えて、七緒の頭は更に混乱する。

「僕が話をするまで出てこないようにって言ったよね?」

 渉の窘める声に、ぴくりとその耳が動き、萎れるように伏せられた。それに合わせるかのようにくるりと尻尾も丸まる。

(耳、動いた……しっぽも……)

 動いた? 本当に動いた? と自身の中で何度も確認をしていると、横から「大丈夫か?」と丁司に声を掛けられる。

「は、はい……え、あの、耳と、尻尾が……? 動いたような気がしたんですけど……?」

「ごめんね、相模さん。びっくりするだろうから、僕が説明してから出てきてって言ったんだけど……これが件の稲荷神だよ……」

 なるほど、だから犬のような耳がついていて、稲荷だから犬ではなく狐なのか、と七緒は混乱しながらも何かを納得する。

「お、お稲荷さんってやっぱり狐なんですね……?」

「あー、いや、偶々ここの稲荷は狐だったってだけかな? 狐とは限らないし、元々は狐じゃないから」

 はぁ、と七緒は生返事を返す。渉も丁司も平然としているが、やはり実家が神社だとこういうことにも慣れているのだろうか。

 漸く事態を飲み込めてきたところで、稲荷だという子供がそろそろと窺うように七緒を見上げた。

「あ、あの……オガタマを……」

「だからそれは僕が説明してからだって」

 渉に再度窘められ、稲荷はびくりと身を竦ませる。

「もうこんな調子だからさっさと説明しちゃうね」

「は、はい」

「今は兄さんに清めてもらったお蔭でこんな風に正気も取り戻して、辛うじて人の形も取れているんだけど、やっぱり神様としての力はほとんどないみたいなんだ。ただ、どうしても欲しいものがあるみたいで、それを手に入れるために相模さんが持ってるオガタマの飾りが必要だって言っててね……こっちからも色々と代替案を提案してみたんだけど、相模さんのオガタマじゃないと駄目だって聞かなくて……」

「えっと、欲しいものって……?」

「それがね、ずっと訊いてるんだけど言わないんだ。とにかくオガタマが必要だから欲しいんだってしか言わなくて、もう埒が明かないから相模さんに来てもらったというわけ」

 渉は呆れたように軽く溜め息を吐く。

「ただ御神木の一部が欲しいだけならこっちで何とか出来たんだけどね……」

「それはやっぱり、私の貰ったものが特別だからというやつですか……?」

「御神木そのものじゃ駄目みたいだから、相模さんの飾りに籠められた力の方が目的なんだろうね」

(飾りに籠められた力……)

 特別なものだというのはこの前渉から聞いたが、具体的にどのような力があるのかまでは聞いていない。

「いい加減、何が欲しいのか言ってもらえないかな? 君が望んだとおり、持ち主は呼んだでしょう?」

「あ、う……」

 ふるりと震えながら稲荷は再び七緒を見上げる。

「い、苺を……」

 稲荷の口から出た言葉は、七緒には少々予想外だった。

「苺……? 果物の……?」

 こくりと頷く稲荷に、隣で渉が「はあ?」と声を上げる。

「苺って、そんなの何処かで買ってくれば――って、そういう考えはないか……」

「苺は春だろう。まだ売ってないんじゃないか?」

「ああ、今はビニールハウス栽培が多いから、この時期でも売ってるんですよ。まだちょっと高いかもしれないけど……」

 二月の上旬だ。まだ少し苺の季節には早いかもしれないが、ケーキなどには載っているし、大きなスーパーに行けば手に入るだろう。

 七緒はしゃがんで稲荷と目線を合わせる。ぱっと見は人間の子供のようだが、瞳が人間のものとは違っていることに気付いた。

「あの、苺が欲しいなら、代わりに買ってきましょうか……?」

「あ……」

 違うのだ、と言うかのように稲荷は首を横に振る。

「わ、妾が、実らせるのじゃ……妾が……」

「自分で育てたいってことですか……?」

 七緒の問いに稲荷はこくりと頷く。

「あぁ、そういうこと……力をほとんど失くしてても“稲荷”ってことか……それで、オガタマの飾りって訳ね……」

 渉が納得が行ったように呟いた。どういう意味だろうかと七緒は渉を見上げる。

「稲荷神――正確には、宇迦之御霊神って言うんだけど、この神様は五穀豊穣の神様なんだ。ざっくりと言うと農業の神様ってとこかな。他にも商売とか司ったりしてるけど、メインはそっちだね。この稲荷も、稲荷神としてそういう能力があるんだろうね」

 なるほど、と七緒は頷く。

「ただ、オガタマの飾りの力を欲しがってるところを見ると、苺を実らせるだけの力が無かったか……」

「あ、秋に植えたものは、枯れてしもうた……」

 今年の冬は特に寒さが厳しかったからその影響かもしれない。ビニールハウスなどで育てるならば冬も越せただろうが、そのようなものを稲荷が用意できたとは思えない。

「じゃが、そのオガタマがあれば……!」

「オガタマの飾りがあると大丈夫なんですか……?」

「うちの神社の祭神って、天照大御神なんだ。太陽の神様だけど、太陽は農耕にも影響を与えるから農耕神としての側面もあってね。相模さんが貰ったオガタマ飾りに籠められている力も同種のものだから、そういった使い方はできるかな」

 そんな力があるのか、と七緒はバッグから御守りを取り出して眺める。七緒には何も分からないが、稲荷にはこれが苺を実らせるだけの力があると分かるのだろう。

「もっとも、普通の人にはそんな使い方できないから、作ったひともオガタマの飾りに力を持たせる程度のことしかしてないんだけどね」

「飾りに力、ですか……?」

「オガタマって小賀玉とも書いてね、幸運を招く木なんだよ。だから、相模さんが持ってる時はただの幸運の御守りってことかな。もちろん、効力は本物だから、普通の幸運の御守りよりも強力だけどね」

 七緒は改めて手の中にある御守りを見つめる。幸運が訪れるようにとこれを作った人物の温かな気持ちが伝わってくるような気がした。

 ――他人があんたに礼をしたいってやった特別なものを、別の誰かにやんのかって話。

 先日の陵の言葉が脳裏をよぎる。

(ちゃんと、よく考えて決めないと……)

 そもそも、稲荷は何故苺を実らせたいのだろうか。油揚げが欲しいというならまだ分かるが、稲荷と苺というのがどうにも結び付かない。

「あの、何で苺なんですか? 貴女が食べるの……?」

「ち、違う……妾ではなく、苺が好きな者に……」

「苺が好きな人……」

 最近そんな人の話を見聞きした気がする、と七緒は記憶を辿る。

(誰だっけ……苺が好きだって、貰って喜んでた……)

 不意に、色褪せた光景が頭の中を埋め尽くした。ぐわん、と頭が揺さぶられたように視界が揺れる。

 眩暈だ、と悟った時には後ろから丁司に支えられていた。

「相模さん、大丈夫?」

「は、はい……ありがとうございます……」

 まだ少し気分の悪さは残っているが、大丈夫だと言って立ち上がる。

「あの、稲荷さん……苺が好きな人って、お婆さんですか? 祠の手入れとかをしてた……」

 額を手で押さえながら、思い出した光景で見た老婦人のことを尋ねると、稲荷の耳がぴんと立ち上がった。

「そ、そうじゃ! 知っておるのか!?」

「あ、いえ、知り合いではないんですけど……」

「相模さん、どういうこと? 何か知ってるの?」

「知ってるというか、あの夜に、なんかいきなりそういう光景が見えて……」

「詳しく説明してもらえる?」

 やけに真剣な声音で尋ねてくる渉に、七緒はあの時のことを説明した。

 突然周囲の景色が様変わりしたこと、妙に色褪せた光景の中で二人の老婦人が話していたこと、気分が悪くなって気付いた時には陵に支えられていたこと――。

「何だかよく分からなかったんですけど、苺が好きって言ってたから、もしかして稲荷さんの言ってる人なのかと……」

 説明を終えた七緒に、渉は盛大に溜め息を吐いた。

「いや、ごめん、今のは僕自身のミスに対しての溜め息だから……」

 渉はそう弁明してから話を続ける。

「昨日店に来てもらった時にもっと詳しく訊いておけば良かったね……」

「い、いえ、私も自分の見たものが幻覚だったかもしれないと思って、ちゃんと話せなくて……」

「いや、倒れたのは単に中てられただけだと思い込んでいた僕の責任だよ。相模さんはこういう経験したの初めてだったし。あと確認なんだけど、それが視えた時って、他に何かあった?」

「他に何か……いえ、本当に、黒い犬みたいなものが見えて、飛び掛かられたような感じで、手に毛皮のようなものが当たったくらいで……」

「ああ、それかな……相模さん、相当稲荷と相性が良いのかもね。丁司さん、清めてもらった方がいいと思います?」

 渉が丁司にそう投げかけ、七緒も丁司を見上げる。

 あの夜稲荷を捕まえていたのは丁司だが、丁司もそういったことに詳しいのだろうか。

「いや、俺が見る限りでは必要ない。オガタマが欲しいだけで、本人に対しての害意はなかったのだろう。守り鈴の効能もあったのだろうが、清めは不要だ」

「そうですか。良かった……」

 ほっと胸を撫で下ろしている渉に、七緒は「あの……?」と声を掛ける。

「相模さんが視たのは、多分稲荷の過去だよ。勿論、普通はそんなもの視えないし、偶にそういう能力を持った人もいるけど、多分相模さんの場合は、接触した時に偶発的に視えたんだと思う。そういうのが視えるくらいチャンネルが噛み合ってしまったという感じかな?」

「はぁ……」

「そういうのって、同調するだけでも身体に負担が来るものなんだけど、今回はましてや堕ちた神様だからね。場合によっては穢れとか良くないものが身体に残ってもおかしくはないんだ。相模さんの場合は、さっきも丁司さんが言ってくれたように心配はないみたいだけど」

 要するに自分はちょっと危ない状況だったかもしれないと、七緒は軽く納得する。眩暈や気分が悪くなったのも、同調したことによる負担が原因なのだろう。

「取り敢えず、オガタマが必要な理由は分かったけど、相模さん、どうする?」

「あ、えっと……御守りをくれた人に相談することってできますか? 陵さんにも言われて思ったんですけど、色々考えて作ってくれた御守りを他の人にあげることはできないな、って……でも、貸すだけなら、使い終わった後に返してもらえるなら、その人の気持ちも無駄にならないかと思って……」

 傍で不安げに視線を揺らす稲荷を見ながら、七緒は答える。

 どういう経緯であの老婦人に苺をあげたいと思ったのかは聞かなかったが、あんな風に祠の手入れをしてもらっていたのだ、感謝の印であることは訊くまでもないだろう。

 そのような稲荷の思いも、やはり無下にはできないと七緒は思ってしまった。

「えっと、もちろん、これをくれた人がそれでいいって言ってくれた場合の話なんですけど」

 七緒の言葉に渉は考え込むように顎に手を当てる。

「一応、君にそれを作ったひとには話をしていてね、君が望むとおりにしていいって言葉は貰ってるんだ。ただ、そう言いながらもあまり快くは思っていない感じだったかな……」

「そ、そうなんですか……」

「相模さんに使ってもらえることを前提で作っていたからね。それと、一つ注意しておくと、そのオガタマを稲荷に貸した場合、相模さんの所に戻ってくる頃にはオガタマに籠められた力は全部なくなってると思う」

「え……」

「稲荷がどういった使い方をするのかにもよると思うけど、ちょっとした幸運を招くのに使われる力と植物――生命を育むのに使われる力では、大分差があるだろうから」

 幸運を招くのに使われる力というのが一体どういうものなのか、七緒には分からないが、例えばおまじないを掛けるのと時期ではない苺を実らせるのとでは、確かに労力が異なる。

「あ……そうですよね……」

 七緒の中では、漠然とオガタマの飾りを貸してもそのまま戻ってくるというイメージがあった。

 自分のことを思って作ってくれたのなら、大切にしたいという思いはある。だが、力が完全に失われたオガタマを見たら、贈ってくれた人物は何と思うだろうか。

(でも、こんなに一生懸命なのに……)

 恐ろしい思いもしたが、それでも、少しでも稲荷の力になれたらと七緒は思う。

(他に何か方法は……)

 例えば、一緒に育ててみるとかはどうだろう、と七緒の中で考えが浮かぶ。

「私、苺とかを育てたことはないんですけど、ここに小さいビニールハウスみたいなものを作って苺が育ちやすくするとかでは駄目ですか……?」

「あーうん、僕達だったら普通はそうするよね……でも多分、それでは問題が解決しないかな……?」

 渉が苦笑しながら言う。

「土が畑にするのに向いてないとかそういうことじゃなくてね、多分稲荷が自分の力を使いながら育てないと意味がないんだよ」

 七緒は首を傾げた。確かに、稲荷は自らが育てることにこだわっている気がするが、自分で世話をして実らせられればそれで良いのではないだろうか。

「何を例にしたら分かりやすいかな……例えば、そう、ここに効能が確かな御神酒があるとします」

「御神酒……」

「ただ御神酒と書かれた単なるお酒じゃなくて、神事にも使えるレベルの厄を祓える特別な御神酒です。そんな御神酒を、相模さんは簡単に作れると思う?」

「作り方とかは分かりませんけど、何か特別なことをしないと作れない気がします……」

「うん。そういう特別なことをしないと作れない苺を、稲荷は作ろうとしてるんだよ。苺が育ちやすい環境を整えても、稲荷自身にほとんど力がない今、どこからか力を借りてこないとそういった苺は作れないかな」

 ああ、そういうことなのか、と七緒は心の中で納得する。

 神様だという存在が見えたり不思議な体験をしたりして、それを受け入れたつもりだったが、それが特別な力を持った存在だということがまだよく分かっていなかった。

(それだけ特別な苺を、あのおばあさんに食べさせてあげたいんだ……)

 それが、稲荷ができる精一杯の恩返しなのかもしれない。

 七緒は再びしゃがんで稲荷と目を合わせる。

「どうしても、苺を育てたいですか……?」

「そ、育てたい! 勿論じゃ!」

 必死に言葉を返す稲荷に、七緒は小さく微笑った。

「分かりました。じゃあ、オガタマを貸します。でも、使い終わったら返して下さい。オガタマに籠められた力が無くなっていたとしても、私には大切ものですから」

「あ、相分かった!」

 七緒は握っていた御守りから、桜の飾りだけを外し、稲荷に手渡す。御守りをくれた人物のことが一瞬頭をよぎったが、七緒はそれを振り払うかのように立ち上がった。

「店長さん、あの、お願いがあるんですけど、いいですか?」

「僕にできることなら」

「御守りをくれた人に、もう一度ありがとうございましたって、伝えて欲しいんです。オガタマの飾りは貸しちゃいましたけど、私のことを思って作ってくれた気持ちはちゃんと伝わってますから、ありがとうございます、それからごめんなさいって……」

「うん、分かった。必ず伝えるよ。こっちこそ、悩ませるようなことをしてごめんね。でも、多分一番良い解決方法はきっとこれだったから……」

 申し訳なさそうに言う渉に、七緒は微笑ってみせる。

「私もそう思います」

 七緒がそう言うと、渉もほっとした顔で微笑った。

「寒い中、来てくれてありがとう。身体が冷えるだろうから、そろそろ帰ろうか」

 渉の言葉に頷き、七緒は「はい」と踵を返す。

 帰る前に、と稲荷に目を向けると、稲荷はぴんと耳を立てて姿勢を正した。オガタマを大事そうに両手で握ったまま、頭を下げる。

 人間と変わらない仕草に少し呆気に取られたが、七緒は“頑張って”という意味を込めて稲荷に手を振り、その場を後にした。

 雑草や枯葉を踏みしめながら、表の通りへと出る。

「じゃあ、相模さん、また。もし何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくれていいから」

「ありがとうございます」

 七緒が軽く頭を下げると、渉と丁司は車に乗り込み、帰っていった。

 自分も家に帰ろうと、七緒は自宅のある方向へと足を向ける。が、すぐにふと気になって足を止め、祠に目を向けた。

 どれだけ放置されているのだろうか。

 中に置かれている瓶子はいつ置かれたのか、罅が入っているし、生けられただろう花は枯れ果てて何の花だったのかも分からない。

 あの夜見た色褪せた光景の中の祠の方がもう少しマシだったと七緒は思う。

(あのおばあさん、どうしたんだろう……)

 七緒が見た光景は一体いつのことだったのか。判断できるようなものは何一つないが、ただ少なくとも、あの時点で老婦人が既に高齢だったことだけは分かる。

 怪我か病気か、それとも、それ以外の何か――。

 あまり良くない想像をしていると本当に起こりそうで、七緒はあれこれと考えるのをやめて、誰もいない道を一人歩いた。


お読みいただき、ありがとうございます。

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