04
ぐっすりと眠れたのか、翌朝の目覚めは思ったよりもすっきりしたものだった。
目覚まし時計のアラームよりも早く目覚めた七緒は、カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光にほぅと溜め息を吐く。昨夜の闇の中での出来事を思うと、太陽の光を見ただけで心が落ち着くような気がした。
しかし、自分の身に何が起こったのか分からないまま帰らされたもやもやはまだ胸の中にある。
(今日、お店に行ったらちゃんと聞かないと……)
あの狐のような生き物のことや、七緒が見た色褪せた光景のことも全て――。
だがその前にまず期末試験だ。鞄の中に講義の資料をちゃんと入れたかもう一度確認しないと、と思いながら七緒はベッドから下りた。
身支度を整えて、朝ご飯を食べてから、家を出る。駅へと繋がる最短の道には相変わらず“全面通行止め”の看板が立てられており、少し憂鬱な気分になりながら、別の道を辿る。更に遠回りにはなるが、あの祠の前を通りたくなくて、別の道を選んだ。
昨夜のようなトラブルはなく、無事にいつも通りの電車に乗ることができ、大学まで問題なく辿り着いた。少し拍子抜けしたような気分にもなったが、これがいつもの日常だ。警戒し過ぎだ、と七緒は自分に言い聞かせ、期末試験に臨んだ。
初めは集中できるかも不安だったが、案ずるより産むが易しということだろうか。いつの間にか紙を捲る音やペンが走る音も気にならなくなっており、気付けば最後の問題の解答を書き終えていた。
試験は滞りなく終わり、七緒は晴れやかな気分で駅へと向かった。
試験で集中できたお蔭か、妙な不安のようなものは大分和らいでいる。今から話を聞きに行くと思うと少し緊張はするが、行き先はあの祠ではなく落ち着けるカフェだ。それを思うと幾分か気が楽になった。
しばらくしてやって来た電車に乗り、数駅のところで降りる。最近よく通うようになったが、まさか連日行くことになるとは思わなかった。
寒波が少し遠のいたのか、それとも昼間だからか、寒さの和らいだ道を歩く。昼時の人通りが多い大通りを抜けて一本裏の路地に入る。緑に囲まれた神社が見えてくればカフェはもうすぐそこだ。
昨日と同じように店の前に看板は出ていなかったが、入り口のロールカーテンは半分ほど開いていた。
店長は入って良いと言っていたのだから、と七緒はドアを開ける。
チリンとドアベルが鳴る中、ロールカーテンを持ち上げながら中に入ると、いつもよりも少し薄暗い店内に店長の姿があった。
「あ、いらっしゃいませ。わざわざ来てもらってごめんね?」
「いえ……」
七緒は緩く首を横に振りながら、何処に座ろうかと一瞬悩む。が、店休日でかつ店長に話を聞きに来たのだから外から見え難いカウンターが良いだろうと、この前も座ったカウンター席に座った。
「ちょっと待ってね。今、紅茶淹れるから」
「あ、いえ、お気遣いなく……」
今日は客として来ているのではない。
「わざわざ足を運んでもらったお礼代わりだから気にしないで。リラックスできた方がいいかなと思って紅茶にしたんだけど、良かった?」
「あ、はい。ここの紅茶好きなので」
「それなら良かった」
BGMも流れていない店内は静かだった。ただ店長が作業する音と火にかけられたポットから出る音だけが響く。
いつものカフェとは違う雰囲気だったが、生活音があるからか、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
紅茶を蒸らすのに使っていたと思われるタイマーが軽快な音を鳴らす。
ティーポットから別のティーポットに注がれる紅茶を見て、七緒の中にささやかな疑問が湧いた。
「一度移すんですか……?」
ポットサーブの紅茶が出てくる店にも行ったことはあるが、中に茶葉が入っていたからあの店では移し替えたりしていなかったということだろう。
「そのままにしておくと濃くなり過ぎたり渋みが出たりするからね」
店長は作業しながら答える。
「まぁ、人それぞれというか、お店によって違うと思うよ? イギリスじゃ、濃くなった時用にお湯が入ったポットを一緒に出すらしいし」
それで濃さを調整するらしい。
「茶漉しとかに茶葉を入れてそれを引き上げるやり方もあるけど、ポットの中で茶葉が自由に動けた方が良いんだって」
「へぇ」
「僕もカフェを始めようと思うまでは紅茶のこと何も知らなかったんだけどね。色んなお店を渡り歩いて、ここの紅茶美味しい! って思えたお店のマスターに色々教えてもらったんだ」
そう苦笑しながら店長は紅茶の入ったカップを七緒の前に置く。
「今日はお代わり自由だから」
「あ、ありがとうございます……」
今日は客としてきた訳じゃないからか、店長の言葉遣いもいつもより砕けている。
「あ、そうだ。自己紹介まだだったね。僕、日向渉って言います。この前も言ったと思うけど、隣の神社の息子です」
「あ、相模七緒と言います。近くの大学に通ってます」
「あと、ちょっと今裏で作業してるんだけど、昨日もいた背の高い人が丁司さんで、うちのカフェの料理人。で、もう一人の若い男の子がうちのアルバイトの境陵君」
紅茶飲んでいいよ、と店長に促され、七緒はカップを持ち上げて口を付ける。
この前の紅茶とは少し香りと味が違うような気がしたが、この紅茶も渋みが少なめで飲みやすい。
ふぅ、と軽く息が出て、七緒は自分が思っていた以上に緊張していたことに気付いた。
「それで、何から話そうか迷ったんだけど、まずはこの前相模さんに渡した御守りのことからかな」
(御守り……)
陵は、それが狙われたのだと言っていた。
「あの御守りがうちの神社で売ってる物だってのはこの前も言ったんだけど、あれだけはちょっと特殊でね……」
「特殊、ですか……」
七緒から見れば何処の神社にも売っていそうな普通の鈴の御守りだ。
「鈴の方は魔除けとか幸運を招いたりとか、まぁ、効果が普通のよりは良いんだけど、鈴自体は問題なくてね……問題は、一緒に付いてる桜の花の飾りなんだけど……」
七緒は鞄の中から鍵に付けた御守りを取り出す。りぃん、と変わらず綺麗な音が鳴った。
鈴の横には確かに桜の花の飾りが付いている。触った感じでは、木で作ったものに色が付けられているようだ。
「その桜の花の飾り、うちの神社のご神木の一部で出来ててね」
え、と七緒は顔を上げる。
「ご神木って、削ったりして良いんですか……?」
「意図的に切り出したりとかはしないんだけど、台風とか強風で折れたり割けたりした時には手入れの一環で切り落とすかな」
ああ、なるほど、と七緒は頷く。そういう場合は確かに切り落とさなければならないかもしれない。
「そうやって偶にご神木から出る材料があるんだけど、相模さんにお礼をしたいって言ったひとが、その、それを使う権限を持ってるひとでね……鈴にご神木の飾りを付けちゃったんだ」
“ご神木を使う権限を持っている”ということは、相当偉い人なのだろうか。一瞬、神社の神主かと思ったが、それだと渉の家族の可能性が高い。身内ならば、身内がお礼をしたいと言うだろうし、あの柴犬も渉の家の犬ということになるだろうから、それでは不自然だと七緒は思った。
「そういう訳で、鈴自体は神社でも売ってる御守りとそう変わらないんだけど、ご神木の飾り付きのちょっと他にはない物になってしまってね……」
渉の説明に、七緒は気軽に受け取ってはいけないものだったのかもしれないと少し顔を蒼くした。
「いや、それ自体は全然悪いことじゃないんだよ? ちゃんと効果がある御守りって実際はそんなに多くないし、何より、相模さんにお礼をしたいって言ったひとも感謝の気持ちで作ったし! ただ、あんまりない代物だから、欲しがっちゃうひとが出てきてしまってね……」
(欲しがる……)
あの真っ黒な、狐だという動物が何故そんなものを欲しがるのか。カラスが光物を集める習性があるように、そんな習性でも持っているのだろうか。
「陵君からも聞いたけど、相模さん、黒い狐が視えてたんだよね?」
「は、はい……」
確かに七緒は昨夜黒い狐を見た。最初は何の動物なのか分からなかったが、犬とかそれに近い動物は確かに見えていた。
「いきなりこういうことを言われてどこまで信じてもらえるか分からないけど、あの狐はすぐ傍にあった祠の稲荷なんだ」
「いなり……お稲荷さん、ってことですか……? 神社とかの……」
「うん、そう。あの祠は神社というには少し小さいかもしれないけど、ちゃんと神様が祀られてる祠でね、相模さんが視たのはあそこで祀られている狐だったんだ」
「え、じゃあ、あれは、神様ってことですか……?」
あんな黒い、神様とも思えないような神がいるのだろうか。
(普通、もっと神々しい感じがするんじゃ……)
尤も、七緒は今まで神どころか心霊鬼物の類も見たことがないため、普通がどういうものなのかは全く分からないのだが。
「うん、まぁ、神様かな? 稲荷信仰って色々と複雑なところがあるけど、そういう認識で良いと思うよ。稲荷神社で祀られている神様とは少し違うと思ってもらえればいいかな」
稲荷神社が巷でよく言われる“お稲荷さん”なのだから、祀られているのはどちらも同じ神様なのではないかと七緒は首を傾げる。
「詳しく知りたかったらまた今度話すよ」
渉はそう言って苦笑する。
「まぁ、とにかく、あの祠の稲荷が御守りの飾りを欲しがったんだ。理由までは、丁司さんが昏倒させちゃったからまだ訊けていないんだけどね……相模さん、あの狐を見て、神様に見えた?」
「いいえ、全く……」
「日本の神様って、和魂、荒魂って言って、穏やかな神様とそうじゃない神様がいるんだ。荒魂の方は最初から神様というよりも、人々に禍をもたらす怖い存在だから祀り上げて落ち着いてもらおうってことで神様になるんだけどね、神様ってちゃんと祀っていないと悪い影響を与えることもあるんだ」
ああ、そんな話を大学の講義でも少し聞いたな、と七緒は思う。
今までは馴染みのない話だったが、人文系の学部に進学し、文化人類学や民俗学などの講義で少しずつそういった話を聞くようになった。このカフェを見付けたのだって、元はフィールドワークで神社などを廻ったのがきっかけだ。
きっと今までの自分であれば渉の話を胡散臭いと思っただろうが、大学に通う内に少し視野が広がったのだろうか、ある程度すんなりと受け入れていることに気が付いた。
「あの祠はどうも管理する人がいなくなって暫く経つみたいでね、本来は悪い神様ではなかったかもしれないけど、ああやって相模さんに悪い影響を与えるくらい堕ちてしまったみたいなんだ」
「そう、だったんですか……」
渉の言葉を飲み込みながら七緒は頷く。
突拍子もない話ではあったが、取り敢えず何が起こっていたのかは大体把握できたような気がする。
「紅茶、冷めちゃったかな? 新しく淹れなおそうか?」
渉にそう声を掛けられて、七緒は慌てて首を振る。
「いいえ、そんな! 大丈夫です!」
すっかり忘れていた、と七緒は紅茶に口を付ける。大分温くなっているが、その分紅茶の味がよく分かるような気がした。
「正直、少し驚いてるよ」
「え……?」
「僕の話、少しも否定したりしないから」
渉は困ったような表情で微笑っている。
「こういう話をすると、大抵の人は、“何言ってるんだ、嘘も大概にしろ”とか“頭おかしいんじゃない?”とか言うから」
「あ、えっと……」
確かに、普通はそんな反応になるのかもしれない。
「昨日の感じだと、こういうことは初めてなんじゃないかなって思ったから、どうやって納得してもらうか色々考えてたんだけどなぁ」
「いえ、確かに、あんなのは初めてでしたし、神様どころか幽霊だって今まで見たことなかったですけど、でも、店長さんの話を全部否定したら、私が見たものも全部幻とか錯覚ということになりますし……流石に、自分の頭がおかしいとまでは思いたくないと言いますか……」
七緒は確かにあの時黒い狐を見たし、襲い掛かられた時に手に触れたものだって動物の毛皮のようだった。あれが何もかも嘘だとは思えない。
「それに、えっと、大学の授業で少し神様の話とか聞いたことがあるので、理解しやすかったと言いますか……」
「へぇ、思想とか宗教関係の授業?」
「えっと、文化人類学の概論の授業で、色んな国で神様がどう考えられてるのか比較の話が少し出て……」
「あぁ、なるほど。確かに、海外とかの考え方と比較すると日本はちょっと特殊かもしれないね」
「本当に少し触れられた程度だったんで、詳しい話はなかったんですけど、和魂とか荒魂って言葉はそこでも出てきたので……多分、そういう話を聞いたことがなかったら、もっと混乱してたと思います……」
「まぁ、普通はそうだよね……でも、僕が今説明した内容は、僕が自分で把握できてる範囲でしかないけど、決して嘘ではないから、そこは信じて欲しい」
渉の真摯な言葉に、七緒の中でまだ半信半疑に感じている気持ちが薄れていったような気がした。
「はい、分かりました」
「ありがとう」
渉が安堵したように相好を崩す。彼も彼で緊張していたのかもしれない。
七緒もどこかほっとしたような気持ちになっていると、奥のキッチンから男が出てきた。
「――話は粗方終わったか?」
「丁司さん。はい、最初の説明は大体……」
「そうか」
丁司は一つ頷くと、七緒の方を見る。
昨日一応顔は合わせているのだが、七緒は変な光景を見たせいか気分を悪くしており、また暗がりでもあったから、こうして顔をまともに見るのは初めてだった。
料理人だと説明を受けていたからか、顔を見て最初に思い浮かんだのは“気難しそうな料理人”という言葉だった。
本当にそういう人柄なのか、「こんにちは」と軽く頭を下げる七緒に対し、丁司は軽く頷き返すだけだ。
洋食を作りたくてこのカフェで働いているらしいが、本当に意外としか思えない。
そんな七緒の感想をよそに、丁司は「昼は食べたのか?」と七緒に問うてくる。
「いえ、まだです……」
「そうか。なら少し待ってろ」
丁司はそう短く言って再びキッチンへと戻ってしまった。
「ちょっと不愛想に見えるかもしれないけど、悪い人じゃないから」
七緒とのやり取りを見た渉がそう弁明するが、正直なところ、ちょっとと言える程度ではないだろう。
困惑しながらも言われた通りに待っていると、丁司は両手に皿を一つずつ持って戻って来た。
「昼食だ」
その言葉と共にテーブルに置かれたのは、トマトクリームのパスタだった。具は鶏肉ときのこが入っている。
「結局、パスタになったんですね、余ったトマトソース」
「まだ作ったことがなかったからな」
何気なく出されたが、普通にランチでも出されるようなパスタだ。
「あの、私、今日そんなにお金持って来てなくて……!」
「賄いのようなものだ。気にせず食べろ」
丁司はそう言って奥のキッチンに引っ込んでしまった。
賄いとは従業員が食べるものであって、客や店休日に来た人間に出されるものではない。
「トマトクリームパスタ、嫌い?」
「い、いいえ! 嫌いという訳では……!」
「じゃあ、遠慮しないで食べてあげて? 相模さん、美味しいもの食べてる時の反応が良いから、丁司さんも嬉しいんだと思う」
そんな分かりやすい反応をしているのだろうか、と七緒は少し顔を赤くする。
「多分もう人数分作っちゃってるだろうし、相模さんが食べなかったら捨てないといけなくなるかな?」
「わ、分かりました……流石に捨ててしまうのは申し訳ないですし、食べます……」
「うん、そうしてくれると僕も助かるよ。冷めない内に食べちゃおうか」
渉はカウンターの向こう側に置いてあった椅子に腰掛けてパスタを食べ始める。
七緒も、頂きます、と手を合わせてから皿に載せられていたフォークを取った。
くるくるとパスタをフォークに巻き付けて一口。
「ん……」
口に入れた瞬間にトマトクリームソースの濃厚な旨味が広がる。
クリームは重すぎず、トマトの良い酸味を消さない程度の絶妙さでまろやかにしている。
味付けには一体何を入れているのだろうか、ただトマト缶を使っただけでは出せないほど旨味が詰まっているように感じた。
これは具などなくてもソースだけでいくらでも食べられる。
「美味しい……!!」
思わず口に出した七緒に、渉が微笑う。
「良かった。美味しいって言ってもらえるくらいだから、今度ランチメニューに入れてみようかな」
「絶対そうした方がいいと思います」
七緒は力強く言う。この味は、また食べれるなら是非とも食べたい。
フォークを動かす手は止まらず、今度は鶏肉と一緒にパスタを食べる。
先程は具がなくても美味しいと思ったが――いや、具がなくても美味しいことには変わりはないのだが、硬くならない程度に火が入れられた鶏肉はとてもジューシーで、ソースに更に旨味が追加された。
(いや、本当美味しい……)
七緒は心の中で感嘆する。
丁司は和食の料理人だったということだが、出される洋食は決して和食風にアレンジされている訳ではない。洋食を作りたいと思ってちゃんとその味を勉強して作っているのだろう。
渉の話では本人はまだ納得していないということだったが、料理人でも何でもない七緒からすれば何度でも通いたくなるような品ばかりだ。
本当に、何故もっと早くランチを食べに来なかったのかと悔やまれる。
昼を過ぎていてお腹が空いていたということもあってか、パスタはあっという間に七緒の胃の中に収まることとなった。
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ブクマもありがとうございます。