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03

 頬を打つ冷たい風に、七緒は軽く縮こまり、首に巻いていたマフラーを少し上にあげる。

 一年で最も寒い時期ではあるが、ちょうど寒波がやってきているらしく、ここ数日は本当に寒い。

(何か温かいもの飲みたいな……)

 例えば、と考えて頭に思い浮かんだのは、最近よく行っているカフェのカプチーノだった。ふわふわのフォームドミルクの下の熱々のコーヒーに砂糖を少し入れてかき混ぜて――。

 いや、あそこは紅茶も美味しかった。柚子のシフォンケーキがまだあるかどうかは分からないが、シフォンケーキは大体メニューに載っている。軽いシフォンケーキと紅茶も良い。

 暖かい店内の窓際、店名通り陽だまりができる場所で温かいカプチーノか紅茶とケーキのセットを――。

 思い描いただけで頬が緩むのが分かる。

 ここ一、二週間は、期末試験やレポートの仕上げでゆっくりとカフェで過ごす暇もなかった。

(今から行こうかな……)

 そう思って時間を確認すると、午後四時を回ったところだった。

 カフェは午後五時までで、夜の営業はしていない。急いで行ってオーダーストップに間に合うかどうかといったところだ。

(うぅ、あんまりゆっくりできないけど……明日は確か定休日だし……)

 その後はいつ行けるだろうか、と考えて、今暖かい場所で温かいものが飲みたいのだと思い直す。

 善は急げだ、と七緒は駆け足で駅へと向かった。


 一番早い電車には間に合ったが、カフェ近くの駅で降りてからは二回も長い赤信号に捉まってしまった。

 途中で何度も時間を確認しながら足早にカフェへと向かい、漸く店の外観が見えてきて七緒はほっと息を吐いた。

 灯りが点いている。

 どうにか間に合ったようだ、と再度時間を確認すると、オーダーストップの三分前だった。

 ぎりぎりで滑り込むのは少し申し訳ない気もしたが、ここまで来たのだから、と残りの距離を小走りに駆けたが、店の入り口が見えたところで七緒は歩調を落とした。

(あれ……?)

 入り口のロールカーテンが下りている。営業中には表に出ている看板も見当たらない。そしてドアの取っ手には“Closed”と書かれた札が下げられていた。

(え、うそ……)

 七緒はもう一度時計を見たが、ぎりぎり間に合っている筈の時間だった。

 少し早いが客がいなかったので閉めてしまったのだろうか。

(間に合ったと思ったのに……)

 しばらく呆然と立ち尽くしていたが、寒い中入れない店の中に立っていても仕方ない。七緒はとぼとぼと駅へと向かって歩き始めた。

 次はいつ行けるだろうか、今日が駄目だった分、次はゆっくりしよう。そんなことを考えながら、電車に乗り、自宅へと向かう。

 予定の入ったカレンダーとにらめっこをしながら、この日は駄目、この日は微妙、などと考えている内に、自宅の最寄駅へと着いていた。

 暖かい車内にいたせいか、それとも更に気温が下がったのか、頬に当たる冷気が一層冷たくなっており、七緒は身震いをする。

(早く帰ろ……)

 カフェで温かいものを、と思っていたため、結局コンビニや自販機でもホットドリンクは買っていない。家に帰ったらすぐに何か温かい飲み物を淹れようと心に決め、人の疎らな道を歩く。

 大通りからは外れた住宅街とはいえ、帰宅時間なのに人が少なかった。普段はもう少し帰宅する学生や社会人が歩いている姿を見掛ける。

 金曜日でもないのに珍しい、と思いながら、それ以上は深く考えずに最近通る道を行く。いつも通る道は、先週から水道管の工事で通行止めなのだ。

 蛍光灯が寿命なのか、視界に入る街灯が明滅していた。

 ふと視線をそちらに向けると、その街灯が照らす下に小さな祠があった。

 鳥居などはなく、祠の前にはただ石柱が二本立っているだけである。

(こんな所に祠があったんだ……)

 この辺りは七緒の家がある地区とは別の地区になる。家も七緒が高校の頃に引っ越してきたため、自分の家の周りのことが多少分かる程度で、違う地区のことまではよく知らなかった。

(何て言うんだっけ、道祖神だっけ……?)

 受講している講義でそんな話があった筈、と講義の内容を思い返していると、ふっと街灯の灯りが消えた。

 一瞬の内に視界が暗くなり、七緒は足を止める。

(あれ、灯り……)

 他にも街灯がある筈なのに、真っ暗なのだ。

 暗闇に少しだけ目が慣れても、物の輪郭が分かる程度で、大半が宵闇に沈んでいる。祠の周りは高い木々のせいで一層闇が濃かった。

 蛍光灯が切れそうなのは一つだけだったのに、と思いながら、七緒は携帯を取り出し、灯り点ける。

 早く明るい道に出ようと足を進めようとしたが、その瞬間後ろから強く肩を引かれた。

「っ!?」

「止まれ。前に出るな」

「えっ!?」

 若い男性の、何処かで聞いたことのある声がした。

 驚きながら振り返れば、分厚い眼鏡にマスクを掛けた男性が七緒の肩を掴んでいる。

 不審者、という言葉が一瞬頭をよぎったが、表情が分からないほどの分厚い眼鏡には見覚えがあった。

(あれ、この人……)

「あ、えっと、もしかして、陽だまりカフェの店員さんですか……?」

 名前はリョウだっただろうか。

 しかし、カフェの店員が何故こんな所にいるのだろうか。もしかして家が近くなのだろうか。

 七緒のそんな疑問を余所に、リョウと思しき男は「そう」と短く肯定すると何処かに電話を掛け始めた。

「あの……?」

「説明は後でする。取り敢えず、ここから動くな」

「は、はぁ……?」

 一体何なのだろうか。寒いから早く帰りたいのに――。

 そうは思えど、肩を掴まれたままで動くに動けない。

(い、意外と力強いな……)

 握り込まれてはいないため痛みはないが、結構な力で押さえつけられている。

 電話のコール音が小さくなる中じっとしていると、漸く電話が繋がったのか、リョウが軽く顔を上げた。

「もしもし、ワタルさん、やっぱり不味いことに――」

 リョウがそう言い掛けた矢先、それを遮るかのように突風が吹きすさぶ。

「ひゃっ」

 吹き付ける風は凍てつくように冷たく、ちりちりと頬が痛んだ。

 やはりこんな場所に留まっている場合ではない。早く家に帰ろう。

 眉をひそめながらそう思う七緒の視界にいつの間にか動物の影が現れていた。耳が少し大きい――、犬だろうか。輪郭は辛うじて分かるものの、ただ闇が蟠っているかのような黒々とした影で細部が分からない。

 そんな動物の影が、ちょうど祠の前に座ってこちらを見ている。

 何処かの家の飼い犬だろうか、と頭の中で考える一方で、何か異様だと不安のようなものが胸の中をよぎる。

 ――見ている……?

 ほとんど影のような輪郭しか分からないのに、何故見ていると分かるのだろうか。

 どくりと心臓が脈打った。

 それに拍車をかけるようにリョウの焦ったような声が聞こえた。

「ワタルさん、聞こえます? もしもし?」

 電話の向こうの相手に呼び掛けるが、反応がないのだろう。リョウは軽く舌打ちをした後、完全に引き込まれたか、と小さく呟いた。

 ――引き込まれる……? 何に……?

 じっとこちらを見詰めている動物から目を離せないまま、七緒はリョウに呼び掛ける。

「あの……何か、よく分からないんですけど……帰っても、大丈夫ですか……?」

「無理だな」

 リョウの険しい声が聞こえた。

 そろりと顔を見上げると、リョウもまた道を塞ぐように座っている動物の影に目を向けている。

(あれ、眼鏡……)

 いつの間に外したのだろうか。

 七緒が疑問に思っている合間にリョウは片手で付けていたマスクも外した。

(えっ、すっごい美形……)

 一瞬寒さも異様な空気も忘れてしまう程に、綺麗に整った顔立ちに、七緒は唖然とリョウを見上げる。

 こんなに綺麗なのに、何故あんな顔がよく分からなくなる分厚い眼鏡を掛けているのだろうか。

「おい、あんた、呆けてる場合じゃないぞ。あの狐、見えてるか?」

 リョウは険しい目で影を睨み付けたまま言う。あれは犬ではなく狐なのか。

「は、はい、見えてます……」

 狐ってこんな住宅街に住んでいる生き物だっけ、と疑問が浮かぶ中、リョウが七緒を庇うように前に出た。

「いいか、何を言われても答えるなよ?」

 答える? と七緒の中で疑問が浮かぶ。

 何を言われても、と言われたが、ここには七緒とリョウの二人しかいない。

 そう思う七緒の耳に、か細い声が聞こえてきた。

 ――そ……むす……。

 途切れ途切れの声は、何と言っているのか判別が付かない。

 耳を澄ましてじっとしていると、今度ははっきりと、否、耳元で声が聞こえた。

「そこな娘」

 ぞわりと首筋が粟立つ。

 いつの間にか、前方にいた影が消えていた。

 ちっ、とリョウが舌打ちをし、何かを振り払うように七緒の右側を腕で払う。何か、影のようなものが霧散したのが見えた。

「おい、勝手に近付いてんじゃねぇ」

 怒気の籠った声が聞こえる。それに気圧されたのか、リョウの雰囲気が先程までとは違って感じられた。

 ただそれだけのことなのに、どうしてか、彼から目が離せない。

「邪魔を、するでない……」

 どこか震えたような声がし、再び祠の前に影が集まり獣の形を作る。最早あれがただの動物ではないことは七緒にも分かった。

 影はふるりと身体を震わせながら、七緒達の方へとにじり寄る。近付き難いのを無理に進んでいるようにも見えた。

「娘、オガタマの根付けを……」

「やっぱりそれが目的か」

「オガタマの、根付け……?」

 何だろうかそれは。先程から分からないことばかり見聞きしている。

「店長があんたに渡しただろ。鈴が付いた御守り。あれのことだ」

 ああ、それなら家の鍵に付けて持ち歩いている。

 それがどうかしたのだろうか、とバッグの中から取り出そうとすればリョウに険しい声で止められた。

「出すな。あいつはそれが狙いだ」

 七緒は反射的に手を止めたが、その行動で御守りが何処にあるのか知れてしまったようだった。

 そこか、と声が響いた時には、影がゆらりと揺れて消えていた。

 身構える間もなく、七緒の手に生温かい何かが触れる。毛皮のような感触だった。狐、と七緒の頭にその言葉が浮かぶ。

 何が起こったかも分からないまま、目の前の景色が歪んだのだけが分かった。

「おい、あんた……!」

 切羽詰まったリョウの声が聞こえると同時に手を握られた。強い力で手を引かれて漸く、倒れそうになっていたのだと悟った。

 視界が車にでも揺られているかのように揺れている。気分が悪い。

 下を向いていると余計に吐きそうで、七緒は顔を上げた。そうして何かがおかしいと気付く。

 自分がいるのは街灯の消えた、宵闇に包まれた住宅街の路地だった筈だ。

(明るい……?)

 昼間のような明るさとも、電灯に照らされた明るさとも違う。色褪せたセピア色の写真でも見せられているかのような気味の悪い明るさだ。

 自身の目がおかしくなったのだろうか。七緒は緩慢な動作で辺りを見回した。

 同じ住宅街の路地であることは間違いないようだった。小さな祠は変わらずそこにあり、老婦人が独り祠の前を掃除している。

 季節はいつなのだろうか。老婦人は長袖は着ているものの、七緒のようにコートや防寒着のようなものは着ていない。

 ――あら、武藤さん。いつも精が出ますねぇ。

 何処からともなく現れた女性が老婦人に声を掛ける。こちらも高齢のようだが老婦人よりは若いように見えた。

 ――あらぁ、こんにちは。お久しぶりねぇ。

 ――農家をやってる親戚から苺が届いたんですよ。たくさんあって食べきれないから、少しいりませんか?

 ――まぁ、本当? 私、苺が大好きなのよ。

 皿に盛られた苺を、老婦人は嬉しそうに受け取る。

 春なのか、と七緒はぼんやりした頭で考える。まだ冬の筈なのに、やはり何かおかしい。

 苺を渡した女性が立ち去るのを何となしに目で追うと、白っぽい何かが目に映った。

 祠の横を囲む垣根の傍、薄汚れた白い狐が佇んでいた。人が近くにいるのに逃げることもなく、ただじっと見守るかのように掃除をする老婦人を見詰めている。

(きつね……さっきのも、きつね……?)

 視界が歪む前に手に触れた何か――。

 あぁ、駄目だ。乗り物にでも酔ったかのように気分が悪い。

 誰か――。

「――おい! しっかりしろ!」

 頬を軽く叩かれて、七緒ははっとした。暗がりの中、見たこともないほど顔立ちの整った男が視界にいる。

「あ……リョウ、さん……」

「大丈夫そうかな……?」

 リョウとは違う男性の声が聞こえてきて、七緒は視線をそちらに向ける。

 陽だまりカフェの店長だ。

「店長、さん……」

「遅くなってごめんね。思った以上に道が渋滞しててね……」

 店長は労わるかのように七緒の額を撫でる。寒さで冷え切っていたのか、温かい店長の手が心地良かった。

(あ、れ……私、何して……?)

 尻に感じる冷たく硬い感触はアスファルトだろうか。だが背中側はそんな感触はなく、頭側にはリョウの姿が――。

 リョウに凭れ掛かるように座り込んでいるのだと気付き、七緒は慌てて身体を起こす。

「あ、いきなり起きたら――」

「っ……」

 先程の乗り物酔いのような気分の悪さが一気に襲ってきて七緒は頭を抱えた。

「かなり中てられてたみたいだから、すぐには動かない方がいいよ」

 店長の言葉を聞きながら、七緒は、あてられてた? と頭の中で疑問符を飛ばす。さっきから本当に何のことなのか意味が分からない。

 先程見た光景も、一体何だったのか――。

 吐き気に近い感覚が少しずつ収まってきて、七緒はゆっくりと目を開ける。

 色褪せた写真のような光景は何処にもなく、いつも通りの夜の路地だった。蛍光灯が切れた筈の街灯もいつの間にかちゃんと点いている。

 その光景にほっと息を吐いていると、不意に街灯の傍にある祠から背の高い男が出てきた。

 手には見覚えのある鞄、そしてもう一方の手で、黒ずんだ獣の首根っこを掴んでいた。獣は意識がないのか、だらりと四肢を垂れている。

(あ……バッグ……)

 七緒は辺りを見回し、自身の鞄がなくなっていたことに漸く気が付いた。

「テイジさん、大丈夫でした?」

 店長が男にそう声を掛ける。

 歳は店長よりも少し上くらいだろうか。テイジと呼ばれた男は、ああ、と短く肯定した。

(あ、この人、もしかして……)

 何となく背格好がカフェのキッチンで見掛けた後ろ姿に似ている。

 男は七緒の傍まで来ると、持っていた鞄を七緒に差し出した。

「盗られたものはこれだけか?」

 盗られたこともよく分かっていなかったが、無くなっていたのは鞄だけだから恐らくそうだろう。

「あ、はい……ありがとうございます……」

 鞄を受け取りながら、七緒はそっと反対の手に掴まれているモノに目を向けた。

 犬よりも大きい耳と尻尾――、もしかしなくとも狐だろう。

 リョウはあの黒い影を狐だと言っていたが、あれは最早生き物と思えないような動きをしていた。それよりも、先程見た妙な光景の中にいた白い狐の方に似ている。そういう毛色なのか、あの狐よりも随分と黒ずんではいるが――。

「一応中身を確認しておいた方がいい」

 じっと狐を見詰めていると、リョウからそんな風に言われ、七緒はそれもそうだと鞄を開ける。

 財布、スマホ、ポーチ、教科書、講義のプリント、家の鍵とこの前貰った鈴の付いた御守り――。

 一つずつ確認しながら、そういえばこの御守りが目的だと言われたことを思い出す。

「あの――」

 結局何がどうなっていたのか、七緒に理解できない何かを知っているらしいリョウ達に訊こうと顔を上げたが、続きの言葉は店長に遮られた。

「立てそうなら帰ろうか。家まで送っていくよ」

「あ、家はこの近くなので大丈夫で……そうじゃなくて、一体何が起こってたのか――」

「もちろんちゃんと説明するよ。でも、今は時間も時間だし、寒いから、ね?」

 言われて改めて空気の冷たさを思い出し、七緒は軽く身震いをする。

「君、大学生だよね? 明日は時間ある? もしあるんだったら店まで来てもらえると助かるんだけど……」

「明日は、午前中に試験が一つあるだけなので、その後なら……」

「うん、時間はいつでも大丈夫だよ。お店は定休日だけど、気にせず入って大丈夫だから」

「分かりました……」

 七緒が頷くと、店長は立ち上がって七緒に向かって手を差し出す。

 その手を借りてどうにか立ち上がったが、まだ身体がついていかないのか、軽く立ち眩みがした。

「家は近くみたいだけど、送っていくよ。僕、車で来たから」

「すみません、ありがとうございます……」

 流石にこの状況では断れない、と七緒は素直に店長の申し出を受け入れた。

 車は少し離れた所に停めてたあったようだが、店長が車を回すのにそう時間は掛からなかった。

 後部座席のドアを開けられ、七緒はそこに乗り込む。暖房はついているものの、まだ冷たいシートに軽く身震いしたが、思った以上に身体に負担が掛かっていたらしい。座れたことにほっとしている自分がいるのに気付いた。

(明日の試験、持ち込み可で良かった……)

 高校の頃のように試験勉強をしなくて良いから、今日はゆっくり休もう。

 そんなことを考えていると、外から車の窓をノックされた。

 誰だろうかと見遣ると、眼鏡とマスクを再び身に付けていたリョウが立っていた。

 窓ガラス越しにミニサイズのペットボトルを見せられ、七緒は車の窓を開ける。

「震えてただろ。やる」

 七緒は差し出されるがままに、ホットレモン蜂蜜入りと書かれたペットボトルを受け取った。その温かさがじわりと手に馴染んでいく。

 あぁ、こういうのが欲しかったのだ。

「ありがとうございます……」

 思えばずっとこの人に助けられている気がする。

 もう一度、礼代わりに頭を下げていると、店長から「車、出していいかな?」と声を掛けられる。

 「あ、はい」と七緒は慌てて頷き、車の窓を閉めた。

 自宅への道順を説明しながら、七緒は指先を温めるようにペットボトルを握りなおす。

(今度、何かお礼しないと……)

 まだよく働かない頭でぼんやりとそんなことを考えた。



     ◇



 渉が車で彼女を送って戻ってくるのに十分掛からなかっただろか。何事もなく戻ってきた渉の姿を見て、陵は内心胸を撫で下ろした。

「いやぁ、参ったね。まさか陵君が心配してた通りになるとは……」

 車から降りてきた渉はそうぼやく。

 陵とてこういう予感は当たって欲しくなかったが、嫌な予感がしてしまったのだから仕方ない。

 偶然駅で姿を見掛けて、念の為にと跡を追えばこれだ。彼女と共に異界に引き込まれる前に渉に電話が繋がったのは幸いだった。血筋の所為で色々と視えはするが、対処するだけの力は陵にはない。

 そういう意味では渉も似たようなものなのだが、陵の状況を察して丁司を連れて来てくれたから良かった。

 自分だけではあの場所から出ることはできなかっただろう。

「あいつ、大丈夫でした?」

「家に着いた時には自分で歩けてたから大丈夫だと思う。一応僕の連絡先も渡しておいたから、また何かあったら連絡してくると思うし……」

 “また”という言葉に、陵は丁司が未だ首根っこを掴まえている狐に目を向ける。

 丁司が昏倒させたとはいえ、曲がりなりにも稲荷神だ。完全に無力化できた訳ではないだろう。

「それ、どうするんですか?」

「かなり堕ちてるみたいだけど、彼女の御守りが反応しなかったってことは、一応まだ神なんだろうね……社が無くなった訳でもないから、ここから離す訳には行かないかな……」

「でも、そんなことしたらまたあいつの所に行くんじゃ……」

「葵兄さんに清めてもらうように頼むよ。祟り神になる程の力はないだろうけど、完全に堕ちてしまったらその辺の妖より厄介な存在になるだろうし」

 渉の言葉に、葵が出てくるなら、と陵は安堵した。日向ひむかい家の三兄弟の中で最も能力があるのが次男の葵だ。彼が清めを行うなら、稲荷も正気に戻るだろう。尤も、何故これ程までに堕ちてしまったのか、その原因が分からなければまた繰り返すだろうが。

「丁司さん、その稲荷、すぐに目を覚ましそうですか?」

「いや……元々狐狸の類で稲荷としてもそれ程の力は持っていなかったんだろう。俺の力に気圧されてたくらいだしな……今夜一晩は目覚めまい」

「それなら良かった。陵君、あとはこっちで対処するから、帰っていいよ。色々とありがとう」

「いえ……」

 何かあるかもしれないと分かっていて何もしなければ、寝覚めが悪いから手を出しただけだ。自分はそれ程善人ではない。

 渉が素直な性格をしているだけに、こうして礼を言われることはよくあるが、陵としては些か居心地が悪かった。

「丁司さんはどうします? ここは僕が残るので、先に戻ってもらっても大丈夫ですけど……」

「葵が来るまでここにいよう」

「ありがとうございます」

 渉が一人でここに残ろうとするならば帰る訳にもいかないと思ったが、丁司がついているなら問題ないだろう。

 「なら、俺は帰ります」と陵は渉と丁司に告げる。

「うん、ありがとう、陵君。明日もよろしく」

「はい」

 明日は元々夜の予約が入っていたので出勤日だった。店に行くのは夕方からで良かったが、彼女に事の顛末を説明するならば昼前には店にいるようにした方が良いだろう。

 予定よりも早く家を出るのは少し億劫に思えたが、関わってしまった以上は致し方がない。

 いつも以上に気を遣ったせいか、疲労も感じている。家に帰ったらもうシャワーだけ浴びて寝ようと心に決めながら陵は帰路に就いた。


お読みいただき、ありがとうございます。

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