15
気候が春めいて来ても、祠に通う日々は続いていた。出掛ける際に立ち寄ったり、何も用事がない日には掃除をしてみたり。やることは毎回同じだが、しかし、祠の裏にだけは長らく入っていない。
陵に言われたから、というのもあるが、数日間を置いてしまうと、稲荷がどうなったかを知るのが怖いと思うようになった。
まだ眠っているのか、消えたのか、それとも渉が言ったように身体だけを残して死んだか――。
それを確認するのが怖くなって、入れなくなってしまったのだ。
だから、ただただ、祠の前で稲荷が無事に目を覚ますようにと祈って立ち去っている。
いつかは、確認しなければならないと思っているのだが、まだ駄目だった時に受け入れる覚悟が出来ていない。
今日も、手を合わせるだけにしようと思いながら、七緒は家を出た。
祠までの道を歩きながら、随分と温かくなったと、先月のことを思い返す。
あの頃はまだ冬用のコートを着ていなければ寒かったが、今はもう薄手の春コートやニットのカーディガンだけで十分だ。
(稲荷さんの所も、これくらい暖かかったな……)
稲荷の力か、それともオガタマの力か、はたまた両方か。あの暖かさはやはり不思議な力が働いてのことだったのだろう。
これほど凄い力を持っているのに消えてしまうなんて、と思ってしまうが、力の源になる信仰がなければ仕方がない。
信仰とはそれほど難しいことなのだろうかと七緒は考える。
祈年祭で神社に来ていた人々は、占いや神様の力を信じている人達もいたが、ただ行事だからと参加していた人達もいたように思う。
本当に信じている人だけの祈りしか力にならないのであれば、きっととても小さな力にしかならないだろう。だが、オガタマの力は確かだった。あの飾りに宿っていたのは、確かに天照大御神の力だったのだろう。
それに、稲荷の祠の掃除をしていた老婦人も、別に稲荷の力を信じて祈っていた訳ではないと七緒は思う。
ただ、身近にある祠が放置されているのを見かねて手入れをしていただけではないだろうか。
稲荷は、ただそれだけでも嬉しかったと、その身に宿る力を削って老婦人にお礼をしようとしていた。
少なくとも、稲荷が必要とした信仰は、他の宗教のように絶対信じていないと駄目だと言われるような信仰ではない筈だ。
そんな大げさな信仰でなくとも、ちょっとした信じる気持ちや大切にする気持ちがあれば、小さな神様の力になるのではないだろうか。
(でも、そんな気持ちも、今は、持ってる人が少ない……)
稲荷と出逢う前の七緒も含めて――。
寂しい世の中だと思う一方で、風習や仕来りが時代によって変化するのは自然なことだという考えもある。
伝統文化を残そうと努める人々がいる一方で、無関心な人々もいる。残そうと努力している人々だって、きっと自分が知らない範囲のことは、消えそうなものがあることも知らないだろう。そういうものは別の人々が残そうと頑張っているかもしれなくて。
恐らく、世の中はそうやって成り立っているのだ。その中には、取り零されて、消えてしまうものもあって――。
だから七緒は、稲荷を繋ぎ止める為に、可能な限り祈りたいと思った。一人の力では無意味かもしれなくても、周りの人達が何も知らなくても。
落ち込んで、無力を嘆いて、カフェで思いを吐き出して、何度も考えて、漸く気持ちの落し所を見付けられたような気がする。
祠の前に立っても、感情が波立つことはほとんどなかった。
(今日はお供え物用意できなかったから、明日は何か買いに行こう……)
暖かくなると食べ物が傷みやすくなるのが考えものだな、と考えながら、祠の前で手を合わせる。
出来ることならもう一度会いたい。稲荷にも、管狐にも。
そう願いを込めて祈っていると、後ろから「あら」と驚くような女性の声が聞こえた。
前にもそうやって声を掛けられたことを思い返しながら、七緒は振り返る。
後ろにいたのは前回とは別の高齢の女性だった。
(あれ、でも、何か……)
見たことがある気がする、と七緒は思う。
「お稲荷さんにお参りしてくれているの? ありがとうね」
老婦人は嬉しそうに目元を和ませて言う。
「あ、はい……」
「もしかして、お掃除とかもしてくれたのかしら?」
「はい。偶に、ですけど……」
「そうなの、ありがとう」
老婦人はそう言うと、よいしょ、と掛け声を掛けながら、杖をついて祠の前へと進み出る。
手には桃の花と思しき花の切り枝を持っていた。
杖を祠に立てかけ、祠の花瓶を取ろうとしているのを見て、七緒は代わりにと手を伸ばして瓶を取る。
「ありがとうね。瓶も変わっているわね。これもあなたが持って来てくれたのかしら?」
「はい……前のは、汚れがなかなか取れなかったので……」
「良かったわ。ずっと入院してて来れなかったから、心配していたの」
そう言いながら、老婦人は瓶に切り枝を挿し、バッグから取り出したペットボトルの水を注いだ。
やはり、この人がずっと稲荷の祠を手入れしてくれていた人物なのだ。
(武藤さん、だっけ……)
「入院されてたんですね。もう、大丈夫なんですか……?」
「ええ。こうやって杖はついていないと駄目だけれどね」
脳梗塞だったの、と老婦人は語る。
「去年の秋頃にここのお掃除をしている時に倒れちゃって、命には関わらなかったけど、手と脚に麻痺が出ちゃってねぇ、ずっとリハビリをしていたの」
その時のことを思い出しているのだろうか、老婦人は少し遠くを見詰めている。
「でも、その途中でインフルエンザに罹ってしまってねぇ。治ってからまたリハビリを始めたのだけど、全く立てなくなってて、もう歩けないもと少し諦めてたの」
「そうだったんですね……」
「でも、ある日、主人が苺を持って来てくれてね。私は苺が大好物だから、それで元気出せって」
苺という言葉に七緒が反応していると、老婦人は可笑しそうにくすくすと笑い始める。
「実はね、主人が苺を持ってくる前に、夢を見たの。白い狐さんが籠に苺をたくさん盛って持って来てくれる夢。そんな夢を見たすぐ後だったから、私、思わず主人に、あなたは狐だったの? って訊いてしまって。すごく変な顔をされたわ」
楽しそうに話す老婦人の隣で、七緒は稲荷の思いが届いたのかもしれないと感じ入る。
「でも、好きな物の力って凄いのね。ちっともリハビリが上手く行ってなかったのに、苺を食べてから少しずつ歩けるようになって。昨日、ようやく退院できたの」
「そうなんですね、おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう。まだまだリハビリしなさいって言われてるから、毎日ここに通ってリハビリしなきゃねぇ。そろそろ草抜きもしないといけないし」
そうして地面に視線を落とした老婦人が「あら」と声を上げる。
つられてそちらを見れば、この二か月で良く目にした葉っぱと白い花が見えた。
「苺が生えてるわ。鳥が運んできたのかしら?」
きっと祠の裏で育てていたものがここまで伸びてきたのだろう。そう思ったが、七緒は敢えてそれを口に出さなかった。
七緒は真相を知っているが、脚が悪い老婦人は奥まで入って苺畑の存在を知ることが難しい。
でもきっと、それでいいのだと七緒は思った。
苺を上げたいという稲荷の望みは叶ったし、老婦人もこうしてまた祠に来ることができた。
稲荷の姿を見ることができない老婦人には、“偶然にも苺が生えてきた”でいいのだ。
「引き留めちゃってごめんなさいねぇ。若い人がここのお手入れをしてくれて、嬉しくなってしまったものだから」
「いいえ、私もお話しできて良かったです」
稲荷の育てた苺がちゃんと彼女の元に届いたのだと実感できた。
「また、偶に来てちょうだいね。きっとお稲荷さんも喜ぶから」
「はい」
七緒は微笑って頷く。
特に用事があるわけではなかったが、そろそろ帰ろうと老婦人へ別れを告げ、七緒は踵を返した。
老婦人が退院したことを渉達に伝えようか、等と考えながら数歩、不意に動物の鳴き声が後ろから聞こえたような気がして、七緒は祠を振り返る。
祠のやや後、表の通りを覗くように、白い狐が座っている。
(あ……)
稲荷だ――。
そう気付いた途端に、歓喜と涙が身体の奥から競り上がってくる。
思わず駆け出したい衝動に駆られたが、祠の前には老婦人がいる。
やはり彼女には見えていないのだろう。白い狐の存在に気付くことなく、祠の手入れをしている。
駆け寄りたい気持ちをぐっと堪えながら、七緒は稲荷に向かって小さく手を振った。
目が涙で溢れるのを感じながら、やっぱり渉達に伝えようと、携帯を握り締めて家へと走った。
この前のように突然電話を掛けては迷惑になるからと、七緒は逸る気持ちを抑えながら渉へのメールを打った。
今は営業時間だ。忙しければ返信は店が閉まってからかもしれないと思いながらメールを送る。
しかし七緒の予想とは裏腹に、すぐに返信を告げる電子音が携帯から鳴った。
――良かったね。もし今日の午後暇なら、店に来ない? この前余った苺、ピューレにしてとってるんだけど、それでパンナコッタを作ろうと思うんだ。
「行きます!」
七緒は思わず携帯の画面に向かって返事をする。
家に誰もいなくて良かった、と苦笑いしながら、“行きます。食べたいです。”と渉にメールを送った。
午後からということは、きっと今から準備して作るのだろう。
午後三時くらいに行くのがちょうど良いだろうかと考えながら、時間を潰し、頃合いを見計らって七緒は家を出た。
良いことがあるとそれだけで見える景色も変わるのだろうか。昨日と変わらない天気なのに、目に映る景色が晴れやかで鮮やかに見える。
暗い気持ちで過ごしていたことさえ、嘘だったかのような気分だ。
軽い足取りでカフェに向かえば、ドアベルもちりんと軽快に鳴った。
「相模さん、いらっしゃい」
笑顔で迎えてくれる渉に、七緒も「こんにちは」と笑顔で返した。
「店長さん、あの――」
稲荷さんが、と言い掛けて、七緒は慌てて店の中を見回す。
テーブル席には数名の客が居り、渉へと目を向けると“しー”と人差し指を口許に当てていた。
「もうすぐ帰られると思うから、また後でね」
カウンター席に座った七緒に、渉は小声で言う。
大声で話せるような話題ではない。七緒は少し決まりが悪くなり、はい、と縮こまった。
そんな七緒の前に、はぁ、という溜め息と共に水の入ったグラスが置かれる。
顔を上げると陵が呆れた雰囲気を醸し出していた。相変わらず分厚い眼鏡とマスクで表情は分かりにくいが、恐らくそうだろう。
すみません、という気持ちを籠めながら軽く頭を下げると、陵はそのまま他の客の対応へと向かう。
「相模さん、飲み物は何にする?」
「えーと、パンナコッタってイタリアのデザートでしたよね? じゃあ、カフェラテでお願いします」
「カフェラテね、了解」
渉はすぐさま準備に取り掛かり、程なくして温かいカフェラテと苺ピューレが添えられたパンナコッタが出てきた。
頂きます! と手を合わせて七緒はスプーンを手に取る。
柔らかいゼリーのような感触を想像していたが、スプーンを入れた感じはムースに近かった。
鮮やかな赤のピューレと一緒に口に運ぶと、驚くほど滑らかな食感の後に、濃厚なクリームのコクと苺の甘さが口に広がる。
「ん~!!」
七緒はスプーンを口に入れたまま思わず唸った。
苺の美味しさもさることながら、パンナコッタの滑らかさと濃厚な味が堪らない。
「何ですか、これ!? いつも食べるパンナコッタと全然違うんですけど……!?」
そう捲し立てれば、渉は声を立てて笑う。
「ゼラチンで固めたものとは全然違うよね。相模さんはどっちが好き?」
「断然こっちです!」
「それは良かった」
「食感が違う理由は分かる気がするんですけど、何で味までこんなに違うんですか?」
「うーん、ゼラチンって水分を含むから、その分味が薄く感じられるんじゃないかな。クラシカルなパンナコッタは卵白を混ぜてオーブンで焼くから、そこでも差が出るんだと思う」
ゼラチンで作る方も最初は生クリームに火を通すが、その後は冷やし固めるので後半は過程が全く違うということだ。
それだけでこんなに違うのか、と七緒は半ば感心する。
「すっごく濃厚だからクリームチーズでも入ってるかと思ったんですけど……」
「チーズ系は何も入ってないよ。クリームチーズはもちろんマスカルポーネとかも」
「それなのにこんなに濃厚になるんですね。苺のピューレと一緒でも、全然味が負けてないですし」
「ああ、市販のだと偶にソースが勝っちゃってるやつもあるね」
渉も食べたことがあるのか、苦笑している。
「この苺って、この前の苺なんですよね……?」
「うん。丁司さんや陵君にもあげたんだけど、傷みそうなやつは全部ピューレにしたよ。本当はすぐにパンナコッタも作ろうと思ってたんだけど、相模さん、落ち込んでたから……」
それで作ったピューレを冷凍していたらしい。
「すみません、待っててもらって……」
「美味しい物って、楽しく食べれるのが一番だからね。まぁ、冷凍保存しても長期は流石に厳しかったから、どうしようか悩んでたんだけど。稲荷が早めに目覚めてくれて、僕としても助かったよ」
もう少し遅かったらこの苺ピューレ付きパンナコッタは食べられなかったかもしれないそうだ。
これは稲荷にも感謝しなければ、と七緒は感じる。
「これ……お持ち帰りとかないですよね……?」
「持ち帰りはちょっと厳しいかな。クッキーとかの焼き菓子ならいいんだけど、生菓子系は別の許可が要るから……食べたいなら、二個食べて帰る?」
自分で食べる分だと思われたらしく、七緒は顔を赤くしながら首を横に振る。
「ち、違います! 稲荷さんに持っていけたらと思いまして……!」
「ああ、稲荷に。そうだね、目覚めたとはいえ、まだ狐の姿みたいだし、ここまで来るのは難しいだろうね……」
来れたら連れて来ていいのだろうか。渉の発言からはそう受け取れる。
「じゃあ、今回だけ特別にってことで。帰る時に一個包むね」
「ありがとうございます!」
ちょっとした思い付きだったのだが、口に出してみてよかった。
そう喜ぶ七緒の耳に呆れた声が届く。
「あんた、まだあそこに出入りする気?」
話が聞こえていたのだろう。どこか声に冷たさがある。
「あっ、いえっ、陵さんに忠告されたので、控えるようにしてます……! でも、稲荷さんの目が覚めたので、一度、ちょっと会いに行こうかな、と……」
「あっそ」
「陵君、そんなに心配ならついて行ったら?」
心配、しているのだろうか。渉はよくそんなことを言うが、七緒にはいつも呆れられているようにしか見えない。
「何で俺が……」
「僕から見ると、稲荷は相模さんにかなり感謝してるだろうから、陵君が心配してるようなことって起こらないと思うんだよね。陵君もその辺は気付いてると思うんだけど、それでも口出しするってことは、心配で仕方ないだけなんじゃないかって」
「俺はただ、考え得る可能性を考慮して言ってるだけであって……!」
反論する中、陵は七緒の方を見て口籠もる。何となくだが、これは呆れじゃなくて心配なんだな、と七緒にも分かった気がした。
「あーもう、好きにすれば」
続く筈の反論を飲み込んだのか、陵は投げやりにそう言って奥のキッチンへと行ってしまった。
「あの、私、一応ちゃんと気を付けるようにしてるので、陵さんにもそう……」
伝えて欲しいと、陵に弁明できない代わりに七緒は渉に言う。
「うん、伝えとく。陵君が心配性すぎるだけだと思うんだけどね」
渉が苦笑していると、陵の代わりなのか、今度は奥から丁司が出てきた。
「俺はいくらか陵に同意するがな」
「丁司さん」
ちらりと丁司がこちらに視線を向け、七緒は「こんにちは」と会釈をする。
「稲荷が目覚めたそうだな」
「はい!」
「鴉共は暫く寄り付かんと思うが、用心はしておけよ」
「は、はい」
そういえば、苺を狙った鴉に襲われたこともあった。苺はまだ実っているだろうから、また何かが狙いに来る可能性もあるということだ。
(陵さんもそれを心配してる……?)
「でも、稲荷は目的の人に苺をあげれたんだから、残りは盗られても特に文句はないんじゃないかな? 眠ってる間にいくらか盗られてそうだし」
少なくとも、七緒が通ってる間は鴉や他の鳥がやって来ることはなかった。そもそも、苺の成長が遅くなっており、熟れていない苺ばかりだったから、鳥も狙わないだろう。
それは兎も角、老婦人のことをまだ言ってなかったと思い出し、七緒は口を開く。
「あ、言いそびれてたんですけど、稲荷さんが苺を渡したかったお婆さん、昨日退院されたみたいで、今日祠の前で会ったんです」
「へぇ、そうなんだ。良かったね」
「お婆さん、白い狐が苺を持ってくる夢を見たそうで、その後旦那さんが本当に苺を持ってきてびっくりしたって言ってました。旦那さんが持ってきた苺が稲荷さんの苺だったんじゃないかって、思ってるんですけど……」
「タイミング的にも多分そうだろうね。夢については、稲荷の念が届いたかな。ずっと祠の手入れをしてたなら、縁は結ばれてただろうし」
(縁……)
よく、御縁がありますようにと賽銭を投げ入れるが、老婦人のように神様を大切にしていると本当にそういった縁が結ばれるのだろうか。
もしそうなら、それは一種の絆のようで、何となく嬉しいと七緒は思う。
「でも、どうやって届けたんですかね? お婆さんの家が分かっても、直接渡すのは難しいでしょうし……」
かといって、家の前に置いておいても、不審に思って手に取らないのではないだろうか。
手紙でも入れた? 等と、稲荷には到底できなさそうなことを思い浮かべていると、丁司が「ああ」と心得ているかのように口を開いた。
「元が狐狸だからな、あの稲荷は」
どういう意味か分からず、首を傾げていると、渉が苦笑しながら付け加える。
「狐は化けるのが得意だから」
凡そ非現実的な言葉に、七緒は暫く頭を悩ませることとなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この話はここで終了となります。
最後までお付き合い下さった皆様、評価やブクマ、リアクション等で応援して下さった方々、本当にありがとうございました。
(いくつか謎の部分が残っていますが、謎は謎のまま取っておいて頂けたらと思います。また続きを書きたくなった時にその辺りに触れられたらなと考えております)