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 ドアを開けて外に出れば、少し春らしい陽気が感じられた。三月を目前にして、少しずつ季節が変わり始めているらしい。

 七緒は家の鍵を閉めて、通りへと出る。今日は、先日陵に借りたお金を返しに陽だまりカフェに行く予定だ。

 最初は真っ直ぐに最寄り駅へと行くつもりだったのだが、少し歩いて、やっぱり、と七緒は稲荷の祠がある方へと道を変えた。

 陵にカフェへと連れていかれてからも、七緒は稲荷の祠へと通っていた。心持ちは少し上向きになったが、稲荷のことが気になることに変わりはないのだ。行くのやめるという選択肢は七緒の中に生まれなかった。

 ただ、“出られなくなる”という陵の忠告は少し気になり、祠の裏に行く回数は減らしたし、裏に入った時も長居はしないようにしている。

 七緒は稲荷の祠の前に来ると、静かに手を合わせて祈った。

(無事に稲荷さんの目が覚めますように……管狐さんにもまた会えますように……)

 この祈りにどれ程の力があるのか。七緒は未だに知らないし、何の力もない可能性だってあると理解している。

 それでも、稲荷の無事を願うことはやめられないし、自分の心が続けたいと思う限りは続けようと思っている。

 全部、七緒の心の在り方次第なのだ。

 稲荷が目覚めないことを自身の無力さの所為にして、勝手に落ち込んでいた。他の誰かなら独りでもできるなんてことはなくて、たとえ複数人いたとしてもきっと事態は何も変わらない。

 そんな人数でいいのなら、稲荷はそもそも力を失っていないだろう。

 大勢の人々が稲荷を祀り上げたから稲荷は神になった。その当時は自分達で田畑を耕して食べ物を得るのが当たり前で、でもそんな当たり前は時代と共に変わってしまったのだ。

 必要がなくなったら神様さえ大事にしなくなるというのは、七緒には身勝手に思えてしまう。

 だからといって、もう一度稲荷を祀って下さいと地域住民に頼んでもそれは叶わないだろう。

 そもそも、祀らなくなったのが今いる住人とは限らない。半分くらいいなくなったと稲荷も言っていた。昔からいる住人にしても、祖父母の代の話なら今いる世代の人々の所為でもないだろう。

 色々と訴えたくとも、関係のない人達が大半なのだ。

 それでも、稲荷がいなくなったら寂しい――。七緒はそう感じるから独りでも祈るし、その願いが叶わなくても致し方ないのだと、飲み込むことにした。

「稲荷さん、また来ますね」

 稲荷に届いているか分からないが、七緒は祠に向かってそう声を掛けて、駅へと向かった。

 比較的空いている電車に乗ってカフェへと行けば、いつも通りドアベルの音と渉の「いらっしゃいませ」が迎えてくれた。

「相模さん……」

 前回、渉の前で泣いてしまったことを思い出すといつものように入っていけず、七緒はその場でぺこりと軽く頭を下げた。

「中にどうぞ。カウンターに座る?」

「はい……」

 怖ず怖ずと中に入り、定位置となってきた場所に座る。

「少しは、気持ちの整理がついたのかな? この前よりすっきりした表情してる」

「はい、あの時よりは大分……この前はご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 もう一度、今度は違う意味で頭を下げる。

「最初に巻き込んだのはこっちだから、気にしないで。寧ろ、安易にお守りを渡したりして、僕の方が謝らないといけないくらいだから……本当に、ごめんね」

「そんな……! 謝らないで下さい……! お守りを貰ったことも、稲荷さんと出逢ったことも、私にとってはどれも大切なことで……!」

 七緒が勝手に落ち込んだだけで、出逢ったことさえも否定しなければならないような悪いことなど、何もなかったのだ。

「そんな、悪いことをしたみたいに、言わないで下さい……」

 そうやって渉が謝罪をし、それを受け取ってしまえば、稲荷のことを悪いことにしなければならなくなる。

「相模さんがそう言うなら、謝るのはやめるよ。まぁ、堕ちた稲荷の時は危険に晒しちゃったから、その辺が迂闊だったことについては謝らせてもらうけど」

「えっと、それなら、まぁ……」

 陵がいなければどうなっていたか分からないだけに、七緒もそこだけは頷かざるを得なかった。

「良かった。あのことについては、本当にごめんね」

「いえ、色々と助けてもらったので……」

(車で家まで送ってもらったし……)

 その後も事情を説明してもらったり相談に乗ってもらったりと、渉には頼りっぱなしの状態である。

「そうえいば、今日は陵君に借りたお金を返しに来たって感じかな?」

「あ、はい、そうです」

 言いながら、七緒はバッグから財布を取り出す。

「陵君、今日は来ないけど、明日は来るから預かっておくね」

「ありがとうございます」

「ついでに何か食べていく? 今の時間ならまだモーニングも出せるけど……」

 渉の提案に、七緒は「うっ」と言葉を詰まらせる。

「そ、そうしたいのは山々なのですが……」

 用事があったとはいえ、飲食店に来て何も頼まずに帰るというのは何とも居心地が悪い。が、しかし――。

「ちょっと、そろそろ財布の中身も厳しくなってきてまして……」

「バイトとかしてないの?」

「ちょっと前までしてたんですけど、居酒屋で、何度か酔ったお客さんに絡まれて辞めました……」

「ああ……」

 渉は納得がいったという顔付きで頷く。

「何か探そうとは思ってるんですけど、似たようなところは避けたいですし、稲荷さんのこともあったので……」

「なるほどね。昼間は講義があるからやるなら夜が中心だろうけど、そうなると夜開けてる飲食店が多いもんねぇ」

「はい……」

 渉は顎に手を当てて少し考え込んだ後、「じゃあ」と口を開く。

「短期で良かったらの話なんだけど、うちの神社でバイトする?」

「神社で、ですか?」

「もうすぐ春祭りがあるんだけど、いつも手伝いに来てくれてた人が結婚して遠くに引っ越しちゃってね。まぁ、一人くらいいなくてもどうにかなるんだけど、来てくれるならそれに越したことはないかな、と思って」

「設営のお手伝いとかですか?」

「うん、前日午後から設営とか掃除で、当日が色々な雑用かな。あ、春祭りって言っても夏祭りみたいな“お祭り”じゃなくて、祭祀の方ね。巫女さんの格好とかしてもらうことになるけど、そういうのに抵抗がなければどう?」

 七緒はテレビなどで見たことのある神事を思い浮かべる。

 巫女の格好をして神社の行事に参加できるというのは、なかなか貴重な体験ではないだろうか。

「バイト代はいくらだったかなぁ。多分二日併せて二万は貰えたと思う」

 二日といっても、前日は午後からのようだから、実質一日半だ。かなり割が良い。

 稲荷のこともあり、まだ本格的にアルバイトをしようという気持ちになれていなかったが、今ので更に心が傾いた。

「やります」


 渉がその場で神社の方に連絡し、とんとん拍子で短期バイトが決まった。

 祭祀の準備は既に始まっているらしく、そのまま神社の方へと連れて行かれ、よく分からないまま渉の兄嫁だという人に白い巫女服を着せられた。

 案内されるがままに外に出れば、渉が申し訳なさそうな顔で、「急にごめん!」と七緒に向かって手を合わせる。

「前日の設営と当日の手伝いだけでいいかと思ったんだけど……」

 すぐに呼ばれるとは、渉にも予想外だったらしい。

「いえ、特に予定もなかったので……」

「今日の分のバイト代は交渉しておくから」

「ありがとうございます」

 元々割が良いアルバイトだからそこまで気にしなくてもいいのに、と七緒は苦笑する。

 それにしても、いきなりこんな格好をして何をすれば良いのか。疑問に思っていると渉に似た男性が現れ、「失礼」と言って七緒の頭に水を数滴振りかける。

「こっちへ」

 渉の兄だろうか。性格は渉とあまり似ていなさそうだと思いながら付いていくと、祭壇のようなものが設けられている場所へと来ていた。祭壇らしきものの中央では、薪で火が焚かれ、その上に釜が吊るされている。

「そこにある粥を混ぜて欲しい」

 かゆ、と頭の中で繰り返し、七緒は釜の中を覗き込む。確かに、お粥が入っている。

 これを混ぜればいいのか、と釜に入っていた木杓子を取って粥を掻き混ぜた。

(これ、何の仕事……?)

 粥を混ぜるなんてことは誰でもできることだ。女性が必要だったのかと思ったが、女性なら先程七緒に巫女服を着つけてくれた渉の兄嫁がいる。七緒でなくともいい筈だ。

 色々と疑問は尽きないが、これも神事の一環だからだろうか、周りの空気が張り詰めているような気がしてとても言葉を発せられる状態ではなかった。

 よく分からないまま、七緒はいいと言われるまで粥を混ぜ続けた。

 その日はそれで終わり、数日後、当初聞かされていた内容の通り、祭りの前日午後に境内の掃除や設営の手伝いを行った。

 渉に先日のことを訊ければと思ったが、設営が終わる頃にはカフェも閉店しており、そのまま帰宅するしかなかった。

(ま、明日もあるし、いっか)

 カフェを開いているとはいえ、実家の行事の時は手伝いをしているらしく、臨時休業にするのだと渉が言っていた。明日はどこかのタイミングで会えるだろう。

 そうして翌日、早朝から神社へと向かえば、先日粥を混ぜた時に着せられた巫女服が用意されていた。今日も上下ともに白の巫女服だ。

「巫女さんの服って、両方とも白いんですね。袴は赤いかと思ってました」

 今日も着付けをしてくれている渉の兄嫁――雪乃にそう話し掛ける。

 雪乃はやんわりと微笑んだ。

「赤い袴の時もあるのよ? 今日は祈年祭きねんさいだから、皆精進潔斎を表す白を着るの。神社によっては普通の巫女服だったり、奉納舞をするところはその衣装だったりするみたいだけれど、うちは白ね」

 そう言う雪乃も上下白の巫女服に身を包んでいる。

「へぇ、そうなんですね」

 七緒は相槌を打ちながら、でも、と精進潔斎のイメージを思い浮かべる。

(精進潔斎って、もっとこう、色々大変なことをしないといけないんじゃ……)

 先日もだが、七緒は当然何もしていない。風呂には毎日入っているが、それだけだ。

「あの、私、何も精進潔斎っぽいことしてないのですが……大丈夫でしたか……?」

 雪乃はきょとんと目を丸くした後、くすくすと笑い始める。

「私達はお手伝いだから大丈夫よ。儀式を進める中心の人はちゃんと精進潔斎してるから」

「そ、そうなんですか……良かったです。この前も何もしてないままこの格好をしたので……」

「ああ、あの時は突然言われたのよね。でも、アオイさん――眼鏡を掛けた若い人が水を振りかけてくれたでしょう? あれでちゃんと清められてるから大丈夫よ」

 そう言われて、七緒はあの時のことを思い返す。確かに、そんなことをされていた。

「急に言い出すから、私達も慌てちゃって。神様も本当気まぐれよねぇ」

 雪乃は困ったように微笑いながら言う。

 その言い方だと、神様が自分を指名したかのように聞こえるのだが、と七緒の中で疑問がまた一つ増える。

「はい、髪もできた。今日も一日よろしくね」

「あ、ありがとうございました」

 結局疑問を口にできないまま、七緒は社務所を出て境内の方へと向かった。

 境内には、神社の関係者以外と思われる人々の姿もいくらかあった。中にはスーツ姿の人物もいる。見物客ではなく参列者なのかもしれない。

 七緒は、このアルバイトの話を聞くまで祈年祭というものを知らなかった。

 としごいの祭りとも言われ、その年の豊作を祈るための祭祀だそうだ。

 今日は朝から渉の父や兄が神事を行い、その後直会(なおらい)という行事で参列者に粥が振る舞われるそうだ。七緒は主に裏方で、物を運んだり直会で配る粥を作る手伝いを頼まれている。

 同じくアルバイトで来ている若い女性と一緒に拝殿の脇で待機し、神事が進むのを遠目に眺める。

「あなた、初めての人だっけ?」

 物珍しそうにしていたからだろうか、隣の女性に声を掛けられた。

「はい、初めて来ました」

「山科さん、結婚しちゃったもんね。その代わりか。あ、私、由良っていうの。よろしく」

「相模といいます。よろしくお願いします」

 軽く頭を下げると、由良は七緒を眺めて、ふぅん、と小さく呟く。

「来年以降もよろしくねー」

「あ、はい。来年も機会があれば、よろしくお願いします。由良さんはずっとこのバイトされてるんですか?」

「私の家が、ここと親戚筋でねー。子供の頃からやってる」

「子供の頃から……」

「昔はただ手伝いさせられてお菓子しか貰えなかったんだけど、今はちゃんとバイト代出るから何だかんだで続けちゃってるね。基本、お粥作って配るだけだし」

 由良と二人でそんな話をしていると、参列客の方から、おおっ、と小さなどよめきが挙がった。

 今年は凄い、良い年になる、といった言葉がちらほらと聞かれる。

「何かあったんですか?」

「占いの結果が良かったみたい」

「占い?」

「事前に作ったお粥を数日放置して、カビの生え方で今年の作物の出来を占うの」

「カビって、あのカビですか? お風呂とかにも生える……」

「そう、そのカビ!」

 由良はくつくつと笑いながら言う。

「正直、カビってどうなのよって子供の頃は思ってたけど、ここの粥占い、意外とバカにできないのよねー。あのお粥、あなたが作ったんでしょ? こりゃ来年も絶対呼ばれるねー」

「えっと、作ったというか、混ぜただけなんですけど……」

 本当に、急に呼ばれてほとんど完成している粥を混ぜただけなのだ。カビの生え方が良かったのは気温や湿度の問題ではないだろうか。

 それを言うと、由良は「まぁねー」と同意する。

「科学とかで見ちゃうとそうなんだけどさ、あなたも星座占いとか血液型占いとか見るでしょ? 当たるのは偶然かもしれないけど、ラッキーアイテムとか言われると何となく持ってみようかなっていう気になるじゃない?」

「うーん、それを言われると、そうですね……」

「ここの占い信じてる連中からすると、げんは担ぎたくなるのよ」

「なるほど……」

 今年の占い結果が良かったからまた来年も同じ人に頼もう、という気持ちになるのは分かる。

「さ、そろそろ粥作りかな。あそこに奉納してあるお米で作るから、あれが下げられたら調理場に持って行くよ」

「分かりました」

 その後、由良や渉の兄嫁らと一緒に大量の粥を作る作業に移った。普通の鍋では事足りないので大きな鉄の釜で作るのだが、大きい分焦げないように粥を混ぜるのも一苦労だ。

 これを三釜分作るのだ。ある程度人手が必要なのだと、七緒は粥を混ぜながら納得した。

 粥が出来上がると、参列者に声が掛かり、三つの釜の前には長蛇の列ができた。

 近所の人達も来ているのだろう。儀式が始まる前からいた人々の中に、私服の大人や子供姿が加わっている。

 何度も来ている人達は慣れているからだろうか、椀を持参している者も中にはいた。

 一人一人に粥をつぎ、実り多き年となりますように、と声を掛けていく。

 中には人型の稲荷と同じ背丈の幼い子供もおり、「熱いから気を付けてね」と声を掛けると「うん!」と元気よく返事をして走っていった。

 どれくらいそうして粥をつぎ分けたか、参列者の列がなくなる頃には釜の粥もほとんど空になっていた。

「今年は多かったわね~」

 由良が疲れた様子で肩を回す。

「そうなんですか?」

「いつもの二割増しって感じかな? お粥ももうちょっと余るんだけど……」

 余った粥はアルバイトの面々に配られるらしいが、見た限り数人分しかない。

「とりあえず片付けるか」

「はい」

 残った粥を別の容器に移し、火の始末をする。空になった釜を由良と手分けして洗っていると、雪乃が椀に入った粥を二つ持ってやって来た。

「お疲れ様。洗い物が終わったら休憩してね。ちょっと少ないかもしれないけど、これ、お昼ご飯にどうぞ」

「私らが貰っていいんですか?」

「ええ。いつも手伝いに来てもらってるし、相模さんは今年初めてだし」

「じゃあ、遠慮なく」

「ありがとうございます」

 やったね、と由良が七緒に向かってにやりと笑う。

 一応昼ご飯におにぎりは持ってきたのだが、折角貰えるのだからと七緒は有り難く粥を貰った。

 洗い物が片付き、由良と二人、社務所の脇の石段に腰掛けて粥を食べる。由良はすぐに食べ終わり、物足りないと言ってコンビニへと出掛けて行った。

 七緒は一人、おにぎりを食べながら神社の境内を眺める。

 暫く談笑していた参列者も各々帰路に就き、人で賑わっていた境内も閑散としてきている。

 祭りの後の物寂しさのようなものは感じるが、きっと祭祀や行事があればまたあのように人が集まるのだろう。

(稲荷さんの所には、これがないんだ……)

 祭神の力を信じている人がどれくらいいるのかは分からない。昔からの慣習で参列しているだけの者もいるかもしれない。

 だが、たとえ形骸化していたとしてもこのように人が集まるのだ。信仰を失ってしまった稲荷との違いは否応にも分かる。

 やはり自分一人が足掻いたところでどうにかなる問題ではないのだ。

 そう身に染みて感じていると、境内の向こう側から小柄な柴犬がやって来るのが見えた。機嫌が良いのか、ぱたぱたとリズム良く尻尾が揺れている。

 柴犬は七緒の前まで来ると、挨拶と言わんばかりに、わん! と一鳴きした。

 七緒は笑いながら「こんにちは」と返す。

「君もお祭りに来たの? あ、そっか、飼い主さんはこの神社の関係者だったね」

 お祭りのついでに散歩に連れてきたのだろう。

 柴犬は、そうだ! と言うかのようにもう一鳴きした。

 本当に賢い柴犬だ。これだけ賢ければ、リードから放しても飼い主は安心できるのだろう。

 柴犬は何かに反応したのか、ふんふんと鼻を軽く鳴らしながら地面や七緒の周りを嗅ぎ始める。

 おにぎりの匂いが残っていたのだろうかと思いながら見守っていると、柴犬は七緒が持ってきた手提げに行き着いた。

「ああ、それね」

 七緒は手提げから桜餅が入ったパックを取り出す。

「昨日帰る時に通ったお店で安くなってて、四個入りだったけど思わず買っちゃったの。一個は稲荷さんにお供えしてきたんだけど、お昼ご飯の時に食べようと思ってたらお粥を貰っちゃったから入らなくて」

 桜餅が気になるのだろう。柴犬はずっとパックの匂いを嗅いでいる。

「犬って、桜餅食べていいのかな? 飼い主さんに黙ってあげるのは駄目だよね……」

 食べたかったのだろうか。柴犬はしゅんと耳を伏せて悲しげな声を上げる。

「あ、じゃあ、こうする? 飼い主さんの分と二つあげるから、飼い主さんが良いよって言ったら片方貰って?」

 七緒の言葉に、柴犬はぴんと耳を立てると勢いよく返事をした。

「じゃあ、二つあげるね」

 とは言ったものの、柴犬はお遣いで来ている訳ではないのでいつもの籠を持っていない。

 ハンカチがあれば包んで取っ手も作れるかと思ったのだが、生憎そういうことには不向きなハンドタオルしかなかった。

「持って、帰れる……?」

 二つを銜えていくのは難しそうだし、飼い主にもあげるものが柴犬の唾液まみれになるのは良くないだろう。

 どうやったら無事に運べるだろうかと思っていると、柴犬が、ちょっと待ってろ! と言うかのように吠え、一目散に来た方角へと駆けて行った。

 どうしたのかと思いながら待つこと数分、再び同じ方向から現れた柴犬はいつもの籠を口に銜えていた。

 ててて、と小走りに戻ってきて七緒の前に籠を置く。そのままお座りをすると、わん! と元気よく吠えた。

 誇らしげに見える様子に、七緒は思わず声を立てて笑う。

「本当、君は賢いね」

 柴犬の要望通り、籠の中に桜餅を二つ入れる。

「ちゃんと飼い主さんに聞いてから食べるんだよ? ラップもあるからそのまま食べちゃ駄目だからね?」

 心配になって繰り返し言えば、柴犬は心外だと言わんばかりに顔を顰め、わふ、と小さく鳴く。

「君は賢いからそんなことしないか」

 そう苦笑すれば、柴犬は肯定するように一鳴きし、籠を銜えて去っていった。

「またね」

 七緒は柴犬の後ろ姿に向かって小さく手を振る。

 神社の関係者などは、きっと柴犬のお遣いを普段からよく見ているのだろう。誰も気に留めないんだなぁと思いながら見送っていると、後ろから声が掛かった。

「相模さん、ここにいたんだね」

 聞き馴染んだ声に、七緒は後ろを振り返る。

「店長さん」

 渉は私服にエプロンという店にいる時と変わらない格好で、紙コップの載った盆を手にしている。

 今日は祭祀の手伝いをすると言っていなかっただろうか、と七緒は軽く首を傾げた。

「店長さんの方はもう終わったんですか?」

「いや、まだ後片付けが終わってないんだけど、コーヒーが飲みたいから淹れろって言われてね……僕だけ先に着替えてコーヒーを淹れてたんだよ……」

 誰が言ったのかは分からないが、きっと急な要望だったのだろう。渉は少し疲れた顔をしている。

「余ったやつ配ってるんだけど、相模さんもいる?」

「いいんですか?」

「うん。お偉方には全員配ったからね。折角淹れたから、余った分を誰か貰ってくれないかと思ってうろうろしてたんだ」

「じゃあ、頂きます」

 七緒は渉からコーヒーの入った紙コップを受け取る。

 ブラックで飲むことはほとんどないのだが、偶にはいいかもしれないとそのまま口を付けた。

 コーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。苦味はあるが、そのままでも飲めないことはなかった。

「途中、何か困ったこととかなかった?」

「はい、特には」

「良かった。この前は急に手伝いを頼んでごめんね」

「いえ、ただお粥混ぜただけだったので。あれって、占いに使うやつだったんですね」

「うん、そうそう。そういえば何の説明もしてなかったね……」

 まぁ、あの時はそんな暇なかったんだけど、と渉はぼそりと呟く。

「カビで占いをするとか初めて聞きました」

「あー、この辺でやってるところは他にないだろうからね……」

「そうなんですか?」

「お粥を作って混ぜた棒に粥がどれくらいついてるかとか、小豆粥を竹筒に入れてお米の割合がどうだとかの占いをやってるところはあるかもね。昔は神社じゃなくて、集落とか親族間でやってたらしいよ。でも今は、昔みたいに皆で稲を植えたりしないからね」

 人々の生活が変わるのに従ってなくなっていったのだろう。それは稲荷が信仰を失った経緯とよく似ている。

「うちも元々こういう占いはやってなかったらしいんだけど、祈年祭と一緒に占いもして欲しいって希望が昔あったみたい」

「それでカビ占いを?」

「誰が言い出したかまでは分からないんだよねぇ。ただ、カビで占う方法は昔から九州の方でよくされてる占い方みたいで、うちの神社は元を辿ると宮崎だからその辺の繋がりがあるのかなとは思ってる」

「へぇ、九州で……遠くても、そうやって伝わって残ることもあるんですね……」

 七緒は人のほとんどいなくなった境内に視線を向ける。

「今日、お祭りを見てて、稲荷さんの所とは全然違うんだなって実感しました……神社は大きいし、行事があったら近くの人がいっぱい来てくれるし……」

「相模さん……」

「あ、別にそれをすごく悲観してるとかじゃないですよ? 稲荷さんのことを考えると寂しいし、悲しいんですけど、でも、仕方ないのかなって思えたんです。昔みたいにほとんどの人が農家やってるわけじゃないですし、変わっていくのは多分誰の所為でもないから……」

「うん、そうだね……」

「残したいって思っても、ちゃんと残してくれる人がいないと無くなっていってしまう……」

 また寂しさが胸を満たし、七緒は膝を抱える。

「私、神社なんて初詣とか合格祈願くらいでしか行ったことがなくて……本当に、何も知らなかったんだなぁって……祈年祭のことも知らなかったし、稲荷さんの所みたいに、誰も来なくなった祠があることも、消えてしまいそうな神様がいることも、全然知らなかった……」

「でも、今はこうして知ってくれたし、稲荷が消えないようにって色々してくれてる」

「はい……でも、もう遅かったし、一人じゃどうしようもないし……何で、あのお婆さん以外誰も気に掛けてくれなかったんだろうって、ちょっと責める気持ちもあったりするんですけど、私が――」

 目の奥が次第に熱くなり、七緒は軽く鼻を啜る。

「私も、何も知らない人間の一人で、消していってしまう側の人間だったんだって……」

 同類の七緒には誰一人として責める権利はないのだ。

「無知は罪か……確かに、それが当てはまることもあるかもしれないね。でも、全てのことを知って見ていることなんてできないから、気付いた範囲のことを無視しなければ、それで良いんじゃないかな。少なくとも、僕はそう思うよ」

「はい……」

 七緒は小さく頷く。

 渉が言っていることはよく分かる。七緒は神でも何でもない、普通の頭の普通の大学生だ。

 稲荷とは偶々縁があったから出逢えただけで、オガタマを貰わなければ、あの柴犬を助けなければ、きっと何も知らないまま過ごしていた。

 稲荷が消えてしまってから知ったとしても、罪悪感も何も感じず、「ふぅん」と流していただろう。

 それは薄情なのか、と問われれば、七緒も違うと答える。気付いたのに無視をすることが薄情なのだ。

 では、気付かないことは罪なのか。そうだと言ってしまいたくなるが、一言にそうだとは言えない。

 気付けないことなんてきっと山のようにある。

 知らなければならないことを知ろうとしないことは罪かもしれないが、ならば、それが知らなければならないことだなんて、一体誰が教えてくれるのだろうか。自分で気付かなかければならないのだろうか。

 七緒は、稲荷のことを知ったから、無知は罪だと感じたのだ。偶然に偶然が重なった結果、知ったことだ。

 神様の姿が見えるなんて、普通の人が持ち合わせている能力ではない。

 見ることもできない人々に同じように感じて欲しいなどとは言えない。

 だから、七緒が稲荷に対して薄情にならなければ、それでいいのだ。

「あ、そろそろ休憩終わるみたいだね」

 何処からか呼ぶ声が聞こえてきたらしく、渉がそう言う。

「あと少し、よろしくね」

「はい」

 七緒は温くなったコーヒーをぐっと飲み干し、立ち上がった。

 何も変えられない現実が苦しくても、うじうじばかりしていられない。


お読みいただき、ありがとうございます。

ブクマやリアクションもありがとうございます。

あともう少し、お付き合い頂ければ幸いです。

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